
勝村巌
@katsumura
- 2026年9月27日
読み終わった本書はアメリカの哲学者リチャード・ローティ(1931–2007)の思考を、SNS時代の分断やポピュリズムといった現代的課題の真ん中へと接続し直す試みとして刺激的な一冊だった。 ローティの歩んだキャリアは異色である。15歳でシカゴ大学へ飛び級入学した神童であった彼は、イェール大学で博士号を取得後、名門プリンストン大学の教授として当時のアメリカ哲学界の主流であった分析哲学の最前線に立った。 しかし1979年、主著『哲学と自然の鏡』を発表したことで状況は一変する。「世界をありのままに映し出す鏡」としての従来の哲学観を根底から解体し、学会の主流派から猛烈な反発を受けた彼は、実質的にアカデミズムの中心から追放(干される)に近い形となった。 哲学的命題と言える、真理を追求する姿勢そのものに会議を挟んだというのだから、相当に批判的態度だったのだと思う。 のちにバージニア大学の人文学教授、次いでスタンフォード大学の比較文学教授へと籍を移し、伝統的な「哲学」の枠組みそのものを踏み出して独自の領域を切り拓いていった。 この「脱・分析哲学」の足場となったのが、アメリカ独自の哲学伝統であるプラグマティズム(実用主義)であったとのこと。 プラグマティズムはアメリカの近現代の哲学動向としては重要な考え方でローティよりもひと世代前の哲学者だが、ジョン・デューイの教育哲学などにも結びつく考え方である。 プラグマティズムは経験主義とも言われており、そこでは、知識や概念というものは、世界に存在する客観的な「絶対的真理」を写し取ったものではなく、「人間が環境の中で生き抜くための実用的な道具(ツール)」に過ぎない。 ローティはこの考え方を徹底的に推し進め、世界に絶対的な正しさの基盤など最初から存在しないという「偶然性(contingency)」を出発点とした。 絶対の心理とかではなく、その場に至る組み合わせに対応することで人生が続いていく。それはいつも出たとこ勝負の関係性が全て、というような考え方である。つまり、経験主義なのである。 ローティはその考え方を推し進め、私的な「個人の自己創造(プライベート)」と公的な「他者との連帯(パブリック)」を論理的に一本化して統合しようとせず、「私的/公的の領域を明確に切り離す」という極めてプラグマティックな処方箋を提示したのである。 読み進めながら私が深く考えさせられたのは、この「私的な領域と公的な領域の分離」という思考の枠組みが持つ、現代におけるきわめて切実な実用性である。 実際、自分などは普段、1人の時はとても他人には言えないようなことを永遠と考え続けている。 現代は、デジタルテクノロジーやAIの浸透によって「自分の本当の思い(本音)」と「公的な監視」の境界線が急速に解体されつつある時代だ。 例えば、AIチャットボットに対してふとした好奇心や歪んだ欲望から殺人の計画や不謹慎な相談をしたとする。 現在の技術環境や社会規範においては、そうしたAIとのやり取りのログがプラットフォーム側で検知・解析され、場合によっては警察や外部組織に通報・共有されるような社会が、すでに現実のものとして目前に迫っている。 実際、殺人事件が起こった後に、その計画をAIに相談していたことがログからわかり、そのAIの会社が訴えられたこともあり、最近ではそういう起こっていない事件でもAIの通報により事前の逮捕がなされた例も存在する。これは完全に「マイノリティリポート」の世界だ。 検索履歴や生成AIとの対話記録に至るまで、あらゆる思考のログがセンシングされる空間において、人間が真に何を考えているかという内面の領域までもが公的な規範や監視の網の目へとなし崩しに晒される危険がある。 私自身、人間として心の中で渦巻いているあらゆる思考や、どろどろとした本当の本音を、そのまま他人に明かすことなど到底不可能だ。 どれほど他者と親密であろうとも、あるいは社会的にどれほど良識ある振る舞いを心がけていようとも、人間の内面には公の場には決して出せない偏頗な考えや残酷な妄想が必ず潜んでいる。 気がつくと心の中の死ね死ね団や死ね死ねブルースが首をもたげてくるのだ。 このように「本当の思考」と「社会的な振る舞い」の乖離に怯えざるを得ない時代において、ローティの哲学は極めて強力な「内面の防衛線」を提供してくれる。 私的に何を考え、どれほど歪んだ想像を巡らせていようと、それは個人の自己創造の領分(純粋にプライベートなもの)であり、公の場に引っ張り出して絶対的な正しさを証明する必要もなければ、他者に露出・弁明する必要もない。 重要なのは、公的な場に躍り出た際に「他者に対して残酷な振る舞いをしない」という最低限の約束(パブリックな連帯)を守れるか否か、ただそれだけである。 内面の本音と公的な振る舞いをロジカルに切り離すことで、私たちは「内面の真に自由な思考」を守りつつ、社会においては良識ある市民として他者と不必要な衝突を避けて共存することが可能になる。 こういう哲学の考え方があるのか、と思った。自己同一性というのが、豊かな生活に直結するものだとうっかり考えていたけど、そうではないのか。自己が分裂していてもそれはそれ、これはこれ、というように棲み分けをしっかりできれば、そちらの方がむしろ社会生活はうまくいくのか、と光が見えた気がした。 ローティは、のちの著書『偶然性・アイロニー・連帯』(1989年)において、自らの価値観を絶対視せず常に疑いを持つ「アイロニスト」でありながら、公的には他者への残酷さを避ける「リベラル」であり続けるという「リベラル・アイロニスト」の生き方を提唱した。 さらに興味深いこととして、彼が1998年に発表した政治評論『国を形づくること(Achieving Our Country)』で残した驚きの予言的洞察がある。 同書の中でローティは、アメリカの左派(アカデミズムやリベラル層)が文化的なアイデンティティ・ポリティクス(セクシュアリティや人種などの権利運動)に過度倾斜し、労働者階級の直面する経済的格差や生活の困窮を軽視し続けることへ強い警鐘を鳴らした。 このまま格差が放置されれば、見捨てられたと感じた労働者層の不満と怒りが爆発し、やがて彼らの欲望を代弁する「強いポピュリスト(強権的な政治指導者)」を自ら選び出すだろう、と予測したのである。 この記述は、2010年代半ばにドナルド・トランプが台頭し大統領に選出された政治状況を、20年も前に見事と言える精度で言い当てた「予言」として、近年世界中で大きな再評価を受けることとなった。 分析哲学の象徴的な座を捨て、社会や政治の実践(プラグマティズム)へと目を向け続けたローティだからこそ到達できた視座であったと言える。 「自分の本音や価値観が絶対的に正しいわけではない」というアイロニカルで冷めた自覚を持ちながらも、公の場においては「他者を不当に傷つけず、会話を中断しない」という実践を粘り強く守り続けること。それが本心かどうかはこの差異関係ない。 関係性とコンテクストの問題なのだ。どんな観念を抱えていようが、振る舞いで隠して生きること、それはアイロニカルに可能なのだ、そう言われると救われる気もする。 SNSなどで「自分の正しさ(私的な本音)」を公的な正義として振りかざし、他者を敵に回して攻撃し合う過熱した現代社会において、ローティが提示した「私的/公的の切断」というロジックは、不当に内面を曝露されずに正気を保ち、バラバラな者同士がしなやかに共に生きていくための極めて強力で実践的な思考の作法なのではないかと感じた。 そういう考え方を教えてくれる面白い一冊でした。 - 2026年9月27日
演劇入門平田オリザ読み終わった「演劇入門」平田オリザ著 をよんで。 息子の玄さんは今、高2。中学校の時から演劇部で、結構良い感じでハマってます。親の贔屓目としても、実生活における落ち込みとは反比例して舞台の上では大半な輝きを見せることがあり、部長とかやってがんばっててハナマル。 さて、高校になると総合的な探求の時間というのがあって、一年をかけて課題発見をして、それに対して総合的なリサーチをするという授業がある。 玄さんは僕の息子なので、なんとなく表現についての問題意識が共通で、そこでは表現におけるモダニズム→ポストモダンへの変遷の中で起こったと言われる大きな物語の終焉が、親子間の対話として持たれることが多い。 彼としては総合的な探求では、それをテーマに考えていきたいというのです。 その参考図書として、調べているうちにこの本が出てきた。平田オリザはポストモダンを標榜しているわけではないが、彼の提唱する現代口語演劇、静かな演劇、などのコンセプトは多分にポストモダン的なように見える。 新書で読みやすそうだし、とっかかりの参考文献としては読みやすそうなので購入。 玄さんは演劇の公演などあり、忙しいため、気になって、僕の方が先に実際に読んでみたところ大変に面白く、演劇を通して現代の表現全般について深い洞察を得られた。 およそ表現というものをファインアート的でもデザイン的なものでも実践しておられる方はすべからく読むべし、などと言いたいくらい良かった。 「演劇を通じて人を見る」とはどういうことか、を述べた本である、と前書きにあるが、ここには、現代の日本における、という注がつくと思った。 この本では日本で西洋的な近代以降の価値観による演劇を立ち上げるためには何を考えると良いか、を具体例を挙げて構造的に分かりやすくブレイクダウンしてる。 我々は明治以降の西洋化、近代化を経て今のような社会を築いている。その中で人間同士の関係を新たに捉える足掛かりとして演劇は大変有効である、という強い信念に基づいて論じられていて、これは大変に頭脳明晰だ。 平田オリザという強力な実践者による、経験を通した意見の表明となっていて、時には極論的にも響くが、ある視点からするとそれは強い説得力があり、誠実な内容と感じている。 こうやって劇作家として俳優を説得して強い意志で持って作品を作ってきた人なんでしょう。そういう執筆の態度も良かった。 さて、この本で述べられていることは説明を聞くといちいち尤もだ、とうなづける内容ばかりだが、最初は驚かされるものも多い。 まず冒頭付近で驚かされたのは、演劇を作り始める時にテーマを持つ必要はない、というメッセージ。最初から、なんについて書こうか、などと考えてはいけない、というわけだ。これは結構刺激的。 テーマではなく、対話の生まれやすい状況設定が第一である、とのこと。 平田オリザによると演劇の脚本とも言える戯曲は台詞のみで書かれるもの。つまり、人のお喋りのみで表現が成立させる必要があり、そこでは下手をすると、過分に説明的になったり、大変な違和感が生じる可能性がある。 それを避けるためには、まず、会話と対話を明確に区別しなければいけない、としている。 その区分は大雑把にいうと、会話はある程度お互いの文脈を共有しているもの同士のおしゃべりで、対話は知らないもの同士による情報交換である、とのこと。 会話ではお互いの文脈を共有しているので、そこは省略されるため、会話だけが続くいても、観客には舞台の状況設定が見えない、というのだ。 例としては家庭の中の会話をいくら重ねても、親子でも、親の職業の情報を今更、話すことはないし、息子が何年生か、などということはお互いのしゃべくりからは見えてこない。 そこに他者、例えば遠くに住んでいるおじいちゃんが入ってくると、セリフは社会性を帯び対話となってくる。おじいちゃんなら「最近の仕事はどうだ」とか「お前は一体何年生になったのか?」などと尋ねることが自然で、状況が見えるようになる。 小説では、説明のための地の文があるので、それはキャラクターの設定として地の文で説明可能。ただを戯曲には説明のための地の文はない。設定などをいち早く観客に察知してもらうためには会話と対話はしっかりと区分しなくてはいけないというのである。 演劇を見る上で、このことは大変に参考になる。 なんか説明台詞っぽいなぁ、というような時は会話的な関係性なのに改めて対話的内容を口にしているとそう見えてくるのだ。 ここで、平田オリザは西洋というのは多くの国が他国と隣接しており、征服したり征服されたりしてきたので、言語自体がより対話的である、と自論を述べる。 つまり西洋の演劇はもともと対話的な言語により表されてきたものなのだ、という。 翻って日本語は長い国風文化や鎖国などを経た大変に内向的でお互いの文脈を察することに長けた言語である。主語ですら省略できるというのはそういうことなのかも。 現代の演劇は新劇つまり西洋からの輸入された文化が日本においてガラパゴス化したものなので、もともと対話が苦手な言葉で対話的なスタイルをとらざるを得ず、それが一つのジレンマとなっている、という問題意識なようだ。 これは大変に面白い。不自然な対話的な会話を誤魔化すために、大きな物語(つまりテーマ)などを劇的に組み込んできた歴史、というのがあるのだろうか。 劇的なドラマ、政治的社会的テーマ、名台詞などは、平田オリザにとっては少し大袈裟で紛らわしいものに感じられているようだ。それが、平田オリザの標榜する静かな演劇、というものに結びついているようだ。 さて、ここで考えたいことは、テーマは後回しにしている、ということである。平田オリザはテーマがあってはならない、ということは言っておらず、最初は劇が展開させやすい状況設定をしっかり作り込め、と言っている点である。 これは会話と対話に意識的になると、状況設定をしっかりしないと、一方は会話のみで主語の省略された情報のない台詞のみとなり、他方では対話ばかりとなり、会話が生まれない情報交換ばかりの会議みたいな舞台となってしまう。 そのためにはセミパブリックなスペースで状況を設定すべし、となる。お葬式の待合室とか、大学の研究室、みたいなところが平田オリザの過去の戯曲の舞台となっている。 舞台を設定して、そこに登場する会話や対話が発生できそうな登場人物が配置されると、その状況で起こりうる、しかし、ある程度観客の興味をそそるエピソードを持ち込むことができたら、おおまかな人の出入りのプロットを立て、脚本を書き始めよう、という。 そして、そこで初めてテーマについてぼんやり考えると良い、というのである。そこでも、決め込んで書くのではない。書きながら考える、という態度が大切だ、ともいう。 ここがいい! と思った。なるほど。テーマは書きながら考えるで良いのか。状況が設定されたら、そこにはすでに劇作家の主観が反映されているのだから、自分を信じてドラマを作っていくと、対話や会話の中に自分の問題意識が入り込んでいく、ということか。 大きなテーマや、あらかじめのゴールを設定して、そこに向かっていくのではなく、自己の主体性を反映させることで、自分なりのテーマは生まれてくる、という考え方は大きな物語の終焉ともつながるテーマである。 物語と自分の関係性というものを突き詰めていく、という表現方法は僕が村上春樹なんかを読んでいて、感じていることに近い。 他方、平野啓一郎などはゴールが見えてからそこに向かって書いていく、と言っていた。彼はモダニズムの三島由紀夫や大江健三郎らに強い影響を受け、ポストモダンを超越することを目指しているので、また異なる表現の方法論を持っているのだろう。 つまりは、物語と自分との関係性を構築することが戯曲の成立と重なる、というのである。 そして、次はここに役者の存在が入ってくる。戯曲のセリフは役者が喋るものなので、その役者の文脈がそこでセリフとマッチングが取れるかどうかが、舞台におけるリアルを表現できるかに関わってくるというのだ。 平田オリザはそこにコンテクスト(文脈)という言葉を用いているが、つまり、劇作家の作ったセリフがその役者のコンテクストに沿っている、もしくは広いコンテクストを持っている役者であれば、そのコンテクストの中に収まるというのが大切だ、ということである。 これは演技の上手い下手に関わる面白い視点で大変に興味深かった。またコンテクストの差異というのはつまるところ関係性のことなのだと思う。 夫婦喧嘩を例に取って説明していたが、それがすごく分かりやすかった。ちゃぶ台がテーブルか判然としない四つ足の机について、これをちゃぶ台と捉える夫とテーブルと捉える妻の間ではコンテクストが共有されていないので、諍いが起きるというのだ。 わかる〜。そんなんばっかです。 また、現役の女子高生と舞台を作った時に「これからマクドナルドに行く」というセリフがどうしても自然に響かなかった。なぜかというと彼女たちはマクドナルドをマクドナルドと言わないのだ、セリフをマックに変えるとコンテクストが共有できたのだ、という。彼女らはプロではないので、コンテクストを広げる技能や訓練を積んでいないため、そういうことが起こったのだとか。 このコンテクストを広く共有できる役者は戯曲と自分の距離を縮めていける役者なのだろう。 そういや玄さんも、この前の公演で1人の人間の若い頃と老人になってたかをちゃんと演じ分けていたけど、それはコンテクストを意識的に使い分けてたからなのかも。演劇の見方も広がった。 劇作家はこのようにして、役者と自分とのコンテクストの差を実感しながら世界の見方を広げていく。自分のコンテクストにこだわる場合もあれば、コンテクストの違いを受け入れ変えていくこともあるだろう。 そして、次なる段階として、戯曲と役者が一体となったコンテクストを観客と共有するという事象が生じるというのだ。 これはつまり作品と観客との対話であり、お互いがそういうリテラシーを持って作劇や、観劇をすることで、新たな価値観が社会に溢れていく、ということにつながるだろう、と平田オリザは語っている。 つまりはあらゆる他者や自分自身との対話をコンテクストから捉え直し、関係性を構築する能力を養うことができる、それが演劇というアートフォームの持つ社会性であり、個人の豊かな生活に帰するところとなる、ということなのだろうか。 アートの存在意義などを常日頃考えているが、関係性、コンテクスト、文脈というのはそこに大変に具体的な意義づけをしてくれる言葉だった。 演劇だけではなく、表現に携わる多くの人に読んでほしい一冊です。 - 2026年9月21日
驚異の隠し部屋 世界各地の内緒の部屋・秘密の抜け道・迷宮・秘宝ステファン・バックマン,ナショナル・ジオグラフィック,エイプリル・ジュヌビエーブ・トゥーホルキー,片山美佳子読み終わった昔から廃墟や秘密の抜け道といった「秘匿された空間」に対して人一倍強い好奇心を抱いてきた。 裏山を探検したり、近所の沼に行ったり、洞窟を発見してはそこまで行ったりしていた。昭和50年代には、日本のあちこちに防空壕跡などもまだ残っていた気がする。そんなものを見に自転車で遥か遠くまでよく行ったものだ。 大学時代、県道沿いの廃業したパチンコ屋に足を踏み入れたり、つくばセンター付近にあった廃ディスコへゲームセンター奥の扉から侵入したりして、都市的な探検に勤しんでいた。 あの頃、そういう遊びばかりしてよく捕まらなかったと思う。おおらかな時代だったのだろう。 廃ディスコには大量のレアなレコードが置きっぱなしになっているという話だったが、実際にはレコードはもう持ち去られていた。しかし、静まり返ったガラス張りのダンスフロアに立った時のあの独特な浮遊感は今でも忘れられない。 また、筑波大学は学生運動のバリケード封鎖やジグザグデモなどに対処するために校舎などが設計されている、ということだった。 そして地下には4kmにもなる地下通路があるというまことしやかな噂があった。そこに入ったことがバレると除籍になるという都市伝説などもあり。そこの入り口がどこにあるかは突き止めてあった。 そのように、日常の裏側に潜む非日常の空間構造には常に胸を躍らせてきた。 この本は、そうした個人的な探検欲やフェティシズムを満たすにとどまらず、世界各地に存在する多種多様な「隠し部屋」「地下迷宮」「密室」の背景を、入念な文献調査と取材によって歴史的・文化的に紐解いた実に刺激的な一冊である。 全17章からなり、それぞれで実際に存在した建築物を紹介している。アウトサイダーアート的な貴族による地下迷宮とか、地下迷宮とか、カタコンベとか、ベルサイユ宮殿の迷路とか、マリーアントワネットの隠し部屋とかである。 全17章の中で、特に惹きつけられた3つの章について掘り下げてみたい。 1. 第3章:消失した「琥珀の間」とナチスによる美術品略奪 第3章で取り上げられる「琥珀の間」は、18世紀にプロイセンからロシアのピョートル大帝へ贈られ、エカテリーナ宮殿を彩った世界8番目の奇跡と称される壁面全体が琥珀で覆われた豪華絢爛な部屋である。 この部屋は第二次世界大戦中の1941年、ナチス・ドイツの侵攻によって解体・略奪され、ケーニヒスベルクへ持ち去られたのちに戦乱の中で消息を絶った。 この「ナチスによる国宝級美術品の略奪と消失」というテーマは、映画『ミケランジェロ・プロジェクト(原題:The Monuments Men)』で描かれた歴史的史実と強力に重なり合う。マット・デイモンやジョージクルーニー、ジョングッドマンなどが出演している佳作だ。 ナチスが欧州各地から略奪し、塩鉱や城の地下深くに秘匿した膨大な美術品群。実体が消失したことで、世界中の鉱山や地下壕に「琥珀の間が眠っているのではないか」という集団的幻想が立ち上がり、消失した空間そのものが壮大な神話的ミステリーへと変容していったプロセスは極めて興味深い。 2. 第12章:禁酒法時代のもぐり酒場(スピークイージー)と文化人たちの影 1920年代のアメリカ・禁酒法時代に誕生した隠し酒場「スピークイージー(Speakeasy)」を扱った第12章も味わい深い。 「Speak easy(穏やかに話せ)」という名称自体、酒を飲んでいることが外部に漏れないよう「お静かに」と囁き合ったことに由来するが、ハリウッド映画の犯罪劇やフィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』に描かれたような、法を潜り抜けて快楽と刺激を追求する人々の情熱が凝縮された空間である。 当時、フラッパー(モダンガール)たちが集ったこの密室空間には、アーネスト・ヘミングウェイをはじめとするロスト・ジェネレーションの作家たちも出入りしていた。 ヘミングウェイといえば、スペイン内戦や第二次世界大戦をともに取材した写真家ロバート・キャパとの深い交流が知られている。キャパの経歴を辿ってみても、パリやロンドン、ニューヨークの酒場で時代の熱気と狂気に身を置いた軌跡があり、こうした「もぐり酒場」的な暗がり空間の空気感を共有していたであろうことは容易に想像がつく。禁酒法時代というのはギャングやマフィアが幅を利かせていた時代で映画にも多く描かれているので、改めてその辺りの世界観への知見が深まった。 ニューヨークの21クラブなどはヒッチコックの「裏窓」にもチラリと登場するが、発祥は禁酒法時代だったのか、とか、そういう発見もあった。 もぐり酒場は床屋の奥とかラウンダリーの奥なんかに入り口があり、入る時には合言葉が必要だったなど、あり。どんな合言葉だったのか気になる。 3. 第13章:大英博物館の「秘密の陳列室(Secret Museum)」と隔離された美 第13章で紹介される大英博物館の「秘密の陳列室(Secret Museum)」は、ヴィクトリア朝の厳格な倫理観のもと、古代ギリシャ・ローマやオリエントの「エロティックすぎる(性的な)」彫像や絵画、春画などを一般の目から隔離するために作られた非公開の部屋とのこと。 権力や社会規範が「どの表現を公に見せ、どの表現を秘密の部屋へ押し込めるか」という価値基準の歴史を生々しく物語っている。 なお、こうした「隔離された部屋」と並んで関心を惹くのが美術館における「贋作」の扱いである。大英博物館でも過去に「The Art of Imitation(模倣の芸術)」といった贋作やレプリカを集めた特別展示が行われてきたが、偽物(フェイク)を一堂に集めてその鑑賞価値を問い直すアプローチは、真品を飾る展示室の裏側にある「もうひとつの隠された空間」として、美術の価値基準そのものを揺さぶる面白さがある。 ■ 多彩な「隠された空間」のバリエーション 本書にはこの他にも、人間の多様な意図によって生み出された「隠し部屋」の事例が豊富に収められている。 * メアリー女王のミニチュア・ハウス(第7章) 英国王室のために作られた、精巧極まりないミニチュアの館。その小さな壁の裏側や家具の引き出し内部にまで仕込まれた隠しカラクリの数々は、人間の所有欲と細部への執着を象徴している。 * 冷戦下の核シェルターや地下政府施設(第15章) 核戦争の脅威に備え、山の岩盤をくり抜いて作られた極秘の地下都市。国家の生存をかけて作られた圧倒的なスケールの「物理的隠蔽空間」である。 この本ではバラエティに富んだ秘密の建築を紹介している。個人レベルの冒険心(廃墟や地下通路への潜入体験)から、国家的・歴史的スケールでの「空間の秘匿」に至るまで、本書は「なぜ人間は空間を隠そうとし、また隠された場所に惹きつけられるのか」ということへの回答を指し示している。 それはつまるところ脅威的な何かに向けての好奇心ということに尽きるのだと思う。 謎があればそれを解きたいと思う。好奇心は猫を殺すという諺もあるが、人間は謎を前にすると、解かずにはいられない生き物なのでしょう。そういう知的好奇心への情動をエピステミック・ドライブとか理性の形而上学的宿命とかいうそうです。 アルチンボルドに野菜人間の絵を描かせたルドルフ2世は博物学的興味から世界中の芸術や科学、錬金術や奇妙な収集品を集めた驚異の部屋/ヴンダーカンマーを作らせていたと言います。 これがいわゆる博物館や美術館の走り、という考え方もあり、人には知的好奇心に基づく知りたい気持ち、集めたい欲というのがあらかじめインストールされているんでしょうね。 そういうもののうち、歴史的な経緯によって、数奇な運命を辿ったものがいくつか集められている本でした。 アンコールワットについて少し言及がありますが、アジアのものについては言及がなかったので、中国とかモンゴルとかにも敦煌とか莫高窟とか兵馬俑とかもあるんで、もっと色々読んでみたいと思いました。 ゴシップ的なところも多分にありますが、歴史の闇に埋もれたワンダーがまだまだ近くに隠れているような、そんなワクワクした気持ちにさせてくれる良書でした。 - 2026年8月30日
歌よみに与ふる書正岡子規,永井祐読み終わった俳句を詠む後輩から勧められたのが、始まり。俳句や短歌について興味があり、その表現上の差異なんかを聞いていたところ、「そういえば子規が短歌勢をクソミソにケナす奇書があるんすよ(大意)」みたいなことを言われて興味を持った。 正岡子規は早死にしてるので、そのテキストはすでにパブリックドメインなのではないかと思い青空文庫にあたってみた。するとあったので、ダウンロードしたデータを縦書きに組版して文庫サイズで出力し、読んでみたところ激烈に面白くてすっかりハマってしまった。 それほど長いテキストでもないが、漢語調の部分などあり、最初は読みにくかったけど、赤線などを引きながら数回通しで読んだら体に入ってくるようになった。 これまで自分の中で正岡子規といえば、「夏目漱石の傍らにいた親友」「病気して妹とかに好き放題言ってる人」「野球の様々な言葉を日本語に訳した人」という印象が強かったのだが、このテキストに触れたことで、明治の表現論のど真ん中にいた偉い人みたいな感じにイメージがガラリと変わった。 良いきっかけを作ってくれた後輩には感謝しかない。 そうして原文の魅力に引き込まれていたところ、左右社から永井裕氏の現代語訳で綺麗にまとめられた書籍が出ていることを知り、思考を整理するつもりで手に取ってみた。 この左右社本をベースに、子規の思考について感じたことを書いてみたい。 まず、青空文庫で最初に触れた子規の原文は、「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」に代表される強烈な漢語調の言い切りが印象的だった。 最初は少し戸惑ったものの、語尾の文体構造(〜に有之候、〜に候)さえ掴んでメモしておけば、驚くほどスラスラと読めるようになる。 西村賢太氏の小説に見られるような擬似明治調のグルーヴ感が好きなこともあり、これも慣れるとリズムに乗って読めるのが実に気持ち良い。 声に出してみるとなんか、かしこまってへりくだっているのに、言ってることは強烈みたいなバランスが慇懃無礼で好きな感じなのだ。 そのため、後から読んだ左右社の現代語訳は、丁寧で分かりやすい反面、原文の持っていた尖った鋭さが少しマイルドになっていて「ちょっと物足りないかな?」と感じる部分もあった。 しかし、この左右社本の本領はそこではない。メインの『歌よみに与ふる書』だけでなく、その発表後に書かれた『あきまろに答ふ』『人々に答ふ』の現代語訳、さらには永井氏による丁寧な感想・解説、そして巻末には青空文庫でも親しんだ「原文」までしっかりと収録されている。 この「現代語訳・解説・原文」が揃った三層構造のまとめ方は非常に贅沢で、もちろん全て青空文庫に収録されてはいるものの、自力では辿り着けなかったと思う。 子規の議論の全体像を立体的に掴むうえでとても読み応えがあった。 さて、前置きが大変に長くなってしまったが、本書の歴史的背景を述べる。『歌よみに与ふる書』は、明治31(1898)年に新聞『日本』で連載された短歌革新論である。 当時の子規は結核による脊椎カリエスを悪化させ、病床から動けない極限状態(病牀六尺)にあった。 「呆れ返つた無趣味の歌」「歌よみの如く馬鹿なのんきなものはまたと無之候」といったように、よくないものを徹底的にコケにする歯に衣着せぬ物言いにはスカッとする歯切れの良さがあるが、これは単なる悪態ではないようにも思える。 自らの命の限界を悟っていたからこそ、思考停止した当時の歌壇や旧態依然とした伝統礼賛に対して、病床から命がけで叩きつけた心からの言葉だったのかもしれない。 もしくはどうせ死ぬのなら、空気とか読んでも仕方ないな、というやけっぱちな感じか。とにかく、ウソのない言葉であることは間違いない。だからこそ心に響く。 そんな言葉尻の激しさばかりが注目されがちな本論だが、しっかり読み込んでいくと、非常に筋の通ったロジカルな表現論になっていることに気づかされる。 以下、自分が感じた切り口を3点のべる。 1. 技巧へのダメ出し(「それってあなたの感想ですよね」感) 短歌のような短い定型詩において、小賢しいテクニックで気の利いたことを書こうとしたり、実際には見ていない情景を「こう書くと綺麗だろう」という浅はかな思い込みで詠んだりすると、途端に興醒めなものになる。 子規は「昔から残っているから良いものだ」というような思考停止を許さない。伝説的な古い歌で、一定の評価のある作品に対しても、主観的がすぎたり、そんな状況ありえないのに、そうなったら綺麗ですよね、みたいな感じを感じ取ると、「それってあなたの感想(主観)ですよね(ぬるいっすよ)」みたいな感じで、ダメ出しして切り捨てていく。 このぼかさずに白黒をハッキリつける姿勢が、読んでいて実に気持ちが良い。 2. 「客観(写生)」こそが主観を伝えるという発見 特にハッとさせられたのは、主観と客観に関する考察だ。歌というものは、人が何かを美しく感じたときに詠むものであるからには、すべからく主観的なものである。だからこそ、テキスト上でわざわざ主観的になる必要はない。むしろありのままを客観的に写生した表現の方が、結果として良い歌になる、というロジックである。 主観を表現したいときにこそ徹底的に客観に徹する、というこの考え方は、映像的でもある。そこにある情景に趣を代弁してもらう、という感じかな。 色々な有り様があり得るけれども、最近、これも青空文庫で読んだ、坂口安吾や高村光太郎の思想にも通じるものがあって深く納得させられた。 3. 自然な日本人性と新しい言葉への開放 子規は「自分が美と思ったことを、なるべく分かりやすく表現するのが本来の主眼だ」と言う。 日本人なら自然と日本的なものは溢れ出るのだから、本居宣長のようにことさらに「大和心」を主張するのはナンセンスだと切り捨てる。 『人々に答ふ』の最後で宣長の有名な歌を真っ向から否定してみせるあたりも実に小気味が良い。 日本的ってなんなのか、というのは明治の偉い人たちが皆ぶち当たった問題だ。 子規のそのために新しい言葉もどんどん使っていこうという柔軟でストレートな姿勢にも大いに共感できた。 曖昧な言い回しを排除し、「何が良い表現で、何がダメなのか」を具体的に提示する子規のアプローチは、すごく勉強になる。著者の永井裕もその判断の断定的な力強さとスピード感を評価していた。 「昔の名作だから良い」と鵜呑みにするのではなく、 「本当に自分の感性で観察して、その構造を捉えているか」 「主観的な説明に逃げず、客観的な事実(写生)としてどう表現するか」という視点を与えてくれるテキストとして、この子規の論考は今なお強い説得力を持っている。 青空文庫で原文のスピード感を味わうのも良し、左右社のまとめ本で全体の文脈や解説を含めてじっくり深掘りするのも良し。 正岡子規のネアカさとバイタリティがビシビシ感じ取れる名著と言って過言ではない。表現に関わるすべての人に、ぜひ一度手に取ってみてほしい一冊である。 - 2026年8月26日
現代広告の読み方佐野山寛太読み終わった最近、いろいろ面白いトピックを共有してくれる後輩がいて、勧めてくれるものがすべからく面白いので、これまではあまり通ってなかったところのものを読んだり見たり聴いたりする機会が増えた。 新しい知見を、これまでの自分の中のものと接続させると、いろいろと腑に落ちることが多くて面白い。 本書は2000年に書かれた当時の広告についての評論である。メディア論が紙の広告(新聞とかポスター)やテレビCMを中心にまわっていた頃の話で、これには隔世の感があった。 3部構成となっていて、第一部は、当時の消費行動として重要視されていた「満足仮説」をはじめ、「AIDMA(認知・関心・欲求・記憶・行動)」に代表される今となってはやや伝統的なマーケティング法則や消費者心理の機序を整理。企業がいかにして消費者の潜在的欲望を喚起し、購買行動へ誘導するかという構造的仕掛けをロジカルに解説している。 この辺りも今のようなインターネットのSNSの氾濫からくるアテンションエコノミーやエコーチェンバーなどの蛸壺的状況からすると大変に牧歌的に感じる。メディアや情報の麻薬的な感覚が個人から少し遠い時代の物語、という印象。 第二部は当時の先進的な広告表現の事例を挙げている。僕としては懐かしいものが並んでいた。 ベネトンが同性愛や人種問題を企業広告でセンセーショナルに描いたり、ルイヴィトンのハイファッションの広告戦略、ナイキの広告、マックやインテルの広告、佐藤雅彦のCM、カルロスゴーンの日産の広告などである。 この辺りはいわゆる広告宣伝の転換期、もしくは飽和期と言える段階な気がする。消費社会が極まって、ネットやSNSが出現する直前なので、プロダクトとしての商品は行き着くところまで到達して煮詰まっているため、単に消費を促す商品説明ではなく、エコロジーや企業コンセプトで商品を選んでもらおう、というようなエモーショナルな内容の広告が生まれた頃の話である。 いわゆるイメージ戦略みたいなものの黎明期というか、揺籃期みたいな感じと言えば良いのか。広告としては単に売らんかなではなく、人間の本質に迫る、より本質的な話をしているのだが、逆にそれだと具体性を欠いてしまうため、本末転倒になっていったような感じを受ける。 昨年、横浜美術館で大きな展覧会をやっていた佐藤雅彦がポリンキーとかモルツとかの宣伝で天下を取った頃の話。この辺りは横浜美術館でがっつり展示してあったが、あまりにも右脳的、洗脳的すぎて辟易した記憶がある。こういうものをありがたがっていた頃があったんですね。 またのちに業務上の横領の疑いをかけられるカルロスゴーンが日産復活の立役者として、割と手放しでヒーロー視されているのも隔世の感あり。でもあの頃の世間はそういう感じだった。 明治時代のお抱え外国人ではないが、ゴーンみたいな黒船的なリーダー像がもてはやされるきらいはつねにある。フィリップトルシエがサッカーの日本代表監督をやってたのも1998〜2002までだし、千葉ロッテの監督をバレンタインが務めたのもこの頃だ。 これらの事例を改めて見てみると、広告宣伝というものがあらゆるアイデアを取り込んで、しかし、強く消費的に物事のサイクルを回しているような感じを受けた。流行ったものが真似されてくると、それがすでに終わってるみたいな、血を吐きながら続けるマラソンみたいな。 ゆく川の水は絶えずしてしかし元の水にあらず、ではあるが、ことほど左様に歴史は繰り返す。ルネサンスの後にマニエリスムの時代が来るみたいなゆりかごもしくはシーソーのような振れ幅を感じた。 第3部ではメディアメッセージの読み方として、インターネットが本格普及する前夜、テレビや雑誌を中心とするマスメディアの情報が氾濫していた当時のメディア空間を切り取り、受け手がどのようにメッセージを解読すべきかを論じている。 第一部のところでも書いたが、2000年のというのはホントに広告宣伝の分水嶺だったのかもな、と思った。日本ではWindows95発売と阪神淡路の震災とオウムによる地下鉄サリン事件、そしてエヴァンゲリオンの放送開始が1995に起こってはいるが、911はまだだし311もまだまだ先の話となる。 その後、ゼロ年代、テン年代以降、スマホが当たり前となり、情報の受領と発信が等価となり、SNSの普及による、サブスク、ネットいじめや承認欲求の増大(僕もこんなの書いてるだけあって自覚症状ある)、エコーチェンバー、デマ、誤情報、ネトウヨ、人間関係の希薄化、マチアプなどメディアのイシューはだいぶ個人に近づいてきている。 大きな違いはネットにより発信がカスタマーの手元に届いたことだろう。 サブスクとSNSの普及によりマスコミというようなものの立ち位置は本当に真の意味で不可逆に転換したのだな、と強く感じた。 ポストモダンとして大きな物語が喪失したのは1990以降と言われている。価値観の多様化が、マスを結びつけていた大きな共通の価値観というものを解体した、というのがその理屈だと思うが、スマホとSNSの普及がそれを急激かつ強烈に後押ししたのであろう。 そういう意味ではこの本はマスコミが最後の大きな物語を提示できるかどうかの瀬戸際にあった頃の実例を挙げているのかもしれない。 結局その後、日本は失われた20年→30年へと突入していく長い低迷期を迎える。新自由主義的な自己責任論と格差の拡大と定着、極端な個人主義などが蔓延り、止まらない少子化、政治不信など、なかなか出口の見えないところまで来ている。 というようなことをつらつらと考えた。現状の認識が深まった。 この本を読んでいる我々は今、この本の書かれた当時から見て未来人であるわけだが、この本が書かれた頃に生きていた過去の自分に今のような未来が見えていたわけではない。 同様に我々も数十年後の人々から見ると過去人になってしまうのだ。ノーランのTENET的な世界観。 そういうパースペクティブで後ろを振り返るのには大変良い本でありました。興味のある人は読んでみてください。面白いですよ。 - 2026年8月19日
東京漫才全史神保喜利彦読み終わった前々からナイツの漫才が好きで、そこから派生してYouTubeの『塙会長の自由時間』をよく見ている。 ナイツ塙の漫才協会の年配の師匠方いじり――師匠である内海桂子をはじめ、コンビ内の確執で話題を呼んだおぼん・こぼんらベテラン漫才師たちのエピソード――は、愛のあるもので聴いてて嫌な感じはしない。私にとって東京の演芸文化への入口となっていた。 そのチャンネルにゲストとして出演していたのが、本作の著者である神保喜利彦氏であった。國學院大出身の若い研究者である。 漫才協会の複雑な歴史や系譜を淀みなく、かつ圧倒的な知識量で語る姿に「これほどまでに東京漫才の歴史を深く穿ち、知り尽くしている人物がいるのか」と強い衝撃を受け、これは間違いない、と確信して本書を手に取った。 一方で、伝統芸能としての「萬歳」に対しては、2025年3月に惜しまれつつ放送を終えたNHKラジオ『ニッポン時空旅』の特集などで関心を寄せていた背景もある。 同番組におけるヨーロッパ企画の永野宗典と本田力のテンポの良い掛け合い自体、どこか現代の「しゃべくり漫才」に通じる間合いや批評性を感じさせるものであり、私の中で「古典的な萬歳」と「現代の漫才」が緩やかにつながる下地ができていたことも、本書に惹かれた理由の一つである。 本書は、近現代の東京漫才の歴史を詳細に辿る稀な内容だ。 近世における門付け芸(祝福芸)としての「三河万歳」などの伝統的な掛け合いや形態が、安来節の幕間で演じられる軽演劇などを経て、いかにして現代的な「しゃべくり漫才」へと脱皮・発展していったかという成立過程を緻密にたどる大作である。現代のテレビを中心とした現代的な漫才までを事細かに調べて書いてある。 戦前・戦後を通じた代表的な漫才師たちの系譜、所属する演芸団体の変遷、そしてコンクールの設立と役割に至るまで、極めて膨大な一次資料と証言に基づいた解説が展開される。 林家染団治、大和屋三姉妹、荒川清丸、東喜代駒、エンタツ・アチャコなど伝説的な芸人の詳しい紹介がある。 また、亭号にまつわる師匠や弟子関係の調査も徹底していて、この師匠はこの人の弟子なのでこういう名前なのか、などということも大変に分かりやすくなっている。 漫才の歴史を通じて様々な今日的な課題にまつわる言及があるのも良い。夫婦漫才というものの扱いにおける、男性と女性の地位のあり方では、大体において、女性が男性をしばく感じになっていたり、女道楽という女性が中心となった演芸のあり方についての言及もある。 特に印象深かったのは、太平洋戦争下の暗い時代における漫才師たちのあり方である。 厳しい言論統制と検閲の中で、彼らがどのように官憲の横暴と戦い、あるいは宥めすかして舞台に立ち続けたかが詳細に記録されている。 漫才師の本質は、あくまで時代の流行を敏感に捉える「人気商売」である。興行を打てなければ日々の生活すら成り立たないという切実な現実の中で、生き残るために戦争協力的なネタや国威高揚を煽る演目をかけざるを得なかった陰の歴史も隠さずに描かれている。 終戦記念日を迎える8月に読む本として、演芸という大衆文化がいかに戦争という巨大な波に飲み込まれ、抗い、また加担させられていったかという記録は、思いがけず重厚な歴史の教訓として胸に迫るものであった。 また戦後の男性が少なかった時代には女道楽が大いに盛り上がったという話は美術界における1950〜60年代の女性にスポットを当てたアンチ・アクション展ともおなじ目線と感じた。 戦後の復興期における演芸ブーム、昭和末期の爆発的な「MANZAIブーム」、そしてその後に訪れた「東京漫才」の相対的な沈降と、近年の新世代漫才師たちによる見事な再興に至るまで、数多くの漫才師たちのプロフィールと足跡が丹念に立ち上げられていく。 本書の特筆すべき点は、個々の実際の漫才ネタ(台本)そのものはほとんど引用・掲載されないという構成上の割り切りにある。 「ゲロゲーロ」みたいな一発ネタへの言及はあるが、それはその言葉だけを見るだけで笑えるものとは違う。 ネタの面白さを紙面で提示するのではなく、「それぞれの漫才師がいかなる時代背景の中で、いかにして生き、舞台に立ち続けたか」という人間ドキュメント・生存の記録に徹している点に、著者独自の明確な姿勢が伺える。 実際のネタを排し、芸人の生き様と構造の変遷を淡々と積み重ねていくスタイルでありながら、不思議と読み進めるうちに画面の奥から「東京の漫才」が持つ特有の粋、意地、そして切なさを含んだ「心」のようなものがじんわりと滲み出てくる。非常に味わい深い読書体験であった。 美術や言葉の文化教育においても、表面的な「成果物(作品・ネタ)」だけを鑑賞するのではなく、それを生み出した時代の制約、表現者の生活、社会構造との格闘という「プロセスと文脈(コンテクスト)」を理解することの重要性を改めて痛感する。 筆者にとっては戦前〜昭和中期(MANZAIブームの前まで)の東京の漫才こそが一番しっくり来る表現であり、社会の変遷と共に、大阪と東京の漫才にも差がなくなった今の漫才にはそれほど興味を持てない、とも言っている。 人物の来歴に焦点を当てて書いているため、中盤以降は人気のあったコンビのそれぞれの死に際などについての言及が増える。 その辺りは客観的な文体でありながら、栄枯盛衰を使い分けた緻密なテキストならでは無常感を感じた。 時代に翻弄されながらも、舞台の上で人々を笑わせることに執着し続けた名もなき芸人たちの積層こそが、今日の東京の演芸文化を支えている。大衆文化の歴史を記録・伝承する上での最高峰の成果として、深く感銘を受ける一冊だった。また、漫才においては大阪の歴史は紹介されていないし、近い演芸ではコントにはコントの歴史がありそうで、そういう本も探して読んでみたくなった。 激烈におすすめの本でありました。 - 2026年8月16日
メソポタミアのボート三人男高野秀行読み終わった新刊が出れば迷わず購入する作家の一人であるノンフィクション作家・高野秀行の最新作。これから長々と感想文を書きますが、こんなもの読まなくても、とにかくめっちゃ面白くて良い本なので、迷わずレジにGOでございます。 本作は、前作『イラク水滸伝』の広大な世界観や探訪記に連なる、メソポタミア湿地帯(アフワール)を巡る一連の旅の連作・姉妹編とも言える一冊である。 早稲田大学探検部出身である高野のモットーは一貫して以下のようなもの。 「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをやり、誰も書かないことを書く」。いいですね。オリジナリティしか生まれてこないモットーだ。他人と同じことをしていても未来は輝かない。 さて、本作でもその精神は遺憾なく発揮されており、チグリス・ユーフラテス川という人類文明の発祥地を「ボートで下る」という、他の人がおよそ取り組まないアプローチによって、従来の歴史書や国際情勢の記述からは決して見えてこない現地の生の姿を捉え直している。 高野の探検の真骨頂は、その破天荒な旅の裏にあるきわめて緻密な事前準備にある。彼は渡航前、渡航先の現地人をまず日本国内で探し出し、彼らから直接言葉を習うプロセスの中で濃密な信頼関係を築き、現地で最も信頼できるキーパーソン(協力者)を紹介してもらう、という独自の手法をとる。 この丁寧なネットワーク構築こそが、危険の伴うフィールドワークを成功させる要となっている。 また、タイトルにある「3人男」の中心を成す高野と、同行者である山田高司の存在が観察の深度をさらに引き上げている。3人目は現地のガイドとなるが、川下りをするのは主に高野と山田の2人。 高野 秀行は国内での事前準備から現場での当事者との生活・言語習得までを徹底するフィールドワークのスペシャリスト。山田 高司は高野より一回り年長のベテラン探検家。「世界で一番川を下った男」と評されるリバーガイド/リバーカヤッカー。極限状態での川下りの知見と、卓越した地理的・地学的な直感を持って同行する。 2026年に刊行された本書だが、現地を訪れたのは2018年頃。行き先はトルコで、中東・メソポタミア地域は張り詰めた政治情勢だった。当時はシリア内戦の混迷やIS(イスラム国)衰退直後の動盪期であり、国家の支配権が極めて複雑に入り組んでいた。 そうした情勢下で際立つのが、「トルコ語」と「クルド語」の使い分けを巡る現場のリアリティである。 公的な検問所やトルコ当局の監視下ではトルコ語が必須となる一方、現地クルド人の集落や信頼関係を深める場面では事前準備で培ったクルド語が威力を発揮する。 しかし、言葉の使い分けは常に円滑に機能するわけではない。相手の政治的立場や所属(トルコ政府寄りか、反体制派のPKK寄りか)を見誤って不適切な言語を選択すれば、一転して猜疑心を買うリスクと背中合わせになる。 この辺りは今回は高野は使い分けの選択に失敗し、あまり言葉をコミュニケーションに役立てることができなかったというところが強調される。一方、ノンバーバルな絵心という武器を持った山田隊長は似顔絵を描くことで人気者になるという描写があり、人間はどこまでいっても視覚的な生き物なのだなと感じた。 言語が単なるコミュニケーションツールを超えて「政治的立場を表明する踏み絵」となる緊張感が、旅の足取りと見事にリンクして描かれている。 探検の重厚な描写の合間に挿入される「食」の記述も本書の大きな魅力である。特に印象的なのが、トルコやクルドのめちゃうまい伝統肉料理カブルガ(Kaburga)を巡る描写だ。 カブルガとは、羊のアバラ骨(スペアリブ)の間にスパイスやナッツで味付けしたライスを詰め込み、じっくりと時間をかけて焼き・蒸し上げる伝統的なロースト料理である。 骨からホロホロと解ける肉の旨味とエキスを吸ったご飯の絶妙な調和はめちゃうまい、の一言に尽きるという。そして、その圧倒的な美味が画面から匂い立つように描かれている。さらに、高野が帰国後に日本のクルド料理屋でこのカブルガを再現してもらうエピソードも大変美味しそうで、食を通じて異文化を身体的に受容する高野のスタンスが存分に表現されていた。 グルメライターとしてもシチュエーションから準備できる、高野の面目躍如と言える部分で、ホントに食べたくなった。 また、本書の臨場感を著しく高めているのが、要所に挿入されている山田隊長による手描きのスケッチである。 リバーカヤッカーならではの卓越した観察眼で捉えられた川の地形、水流の構造、現地の船や道具の細部が克明に描かれており、まさにフィールドワークの息遣いがそのまま紙面に立ち現れている。 このテキストと観察スケッチが見事な調和を見せる様は、かつて文化人類学者・山口昌男がフィールドノートや著作で見せたテキストとイラストスケッチの幸福なマッチングを強く彷彿とさせ、視覚的・造形的にもきわめて魅力的な誌面構成となっている。 さらに、本書において特に感銘を受けたのが、「川下りを通じて地域を見ることは、世界を『下から見上げる』ことになり、景観や社会構造の見え方が劇的に変わる」という視点、そして山田の地学的なマクロ視点(流路をプレートテクトニクス的に捉える)と、高野の「見立て」の技術の融合である。 高野はこれまでもイラクの大湿地帯アフワールを水滸伝的と見立てたり、室町時代の応仁の乱などを室町ハードボイルドと見立てたり(これは編集者の仕事かな?)している。その他にも食材に関する様々な面白い見立てもあり、それが高野文体の魅力とも感じている。 この本では高野は現地を、荒川と利根川によってつくられた江戸」の地形に見立て、「江戸ポタミア」として捉え直す。異国の難解な構造を身近な知見へ「見立てる」ことで、読者自身の実感として体感させる文章の構築力は実に見事である。 目次を追うだけでも、誰もやらない川下りを敢行したからこそ見えてくる多様な文化の差異や、現地の人々の逞しい営みが生き生きと活写されていることが伝わる。 しかし物語のラスト、コロナ禍が明けた後に数年ぶりに訪れた現地で、高野はグローバルな合理化と「文明」の波に直面する。ほんの少し前に存在していた固有の暮らしや文化が押し除けられていく現実を目にし、文化の諸行無常を感じさせる終わり方は、切なくも深く心を揺さぶられた。 本作は、単なる冒険記にとどまらず、「言語の政治的使い分け」「身近な対象への見立て」、そして「観察スケッチ(ビジュアル)と文筆(テキスト)による立体的な記録手法」という、他者や異文化を深く理解し表現・伝達するための最高峰のプロセスを示してくれている。 僕の主戦場である美術教育においても、対象にアプローチする際の手順や、スケッチによる観察と文章記述を組み合わせた学び(山口昌男的な知の構築)として、極めて多くの示唆を与えてくれる一冊であった。 長々と書きましたが、真面目なところは置いといて、なんか大の大人が大真面目に変なことにトライしてる微笑ましくも含蓄のある一冊です。 やはり冒険は夏の風物詩。夏のうちに読まれることをお勧めします! が、いつ読んでも面白いでしょう。 - 2026年8月9日
民藝のみかたヒューゴー・ムンスターバーグ,古屋真弓,朝倉圭一,柳宗悦,田栗美奈子,鞍田崇読み終わったドイツ出身のアメリカの美術史家ヒューゴ・ムンスターバーグが1957年にアメリカで刊行したFolk Arts of Japanの初の邦訳本とのこと。 民藝は民衆の工藝の略語で、ヨーロッパにおけるモリスのアーツアンドクラフツ運動などに連動する、工業化や機械化がもたらす非人間性に対抗するためのデザインや美学の民主化運動ともいえるようなもの。 民藝というのはものを指す言葉だが、その後に運動、とつくと、柳宗悦が主導したそういう人文的なコンセプトを指す言葉となる。 産業革命の機械化や工業化に反するこういった運動は19世紀の終わりくらいから、世界中で同時代的に発生していたようだ。ドイツ工作連盟とかね。 序文には柳宗悦自身が言葉を寄せており、柳を中心とした民藝運動の理念が、当時どのように海外へ伝えられ、受容されていたかを示す貴重な資料となっている。 解説は哲学者で民藝研究者の鞍田崇氏が務めており、当時の時代背景と現代における民藝の視点を分かりやすく整理している。この解説も民藝の精神を見事に言語化しており一読の価値がある。 ■ 構成と「民藝」の分類 本書の良さは、「日常の品々に見出される美」という感覚的になりがちな民藝の概念を、具体的なカテゴリーに分類して整然と伝えてくれる点にある。 民藝のみならず、伝統的な工芸を素材や技法で分ける際のオーソドックスな王道的区分となっていて、参考になった。 1. 工芸品の分類 全国の民藝品を、素材や技法に基づいて以下の7つに整理して紹介している。 陶器 / 編組(竹・草など) / 漆器 / 木器 / 金属器 / 玩具 / 織物 2. 絵画表現と空間表現 実用工芸にとどまらず、絵画や建築空間へと視野を広げている。 大津絵に見られる素朴な絵画表現。 泰山荘(三鷹・ICU敷地内)に代表される、日本家屋の「空間表現」としての民藝。 3. 民藝の四天王 民藝運動を牽引した主要な作家4人についても章を割いて論じている。 濱田庄司(陶芸) 河井寛次郎(陶芸) 芹沢銈介(染色) 棟方志功(版画) ■ 民藝的選定 特に興味深かったのは「陶器」の章での産地の扱いである。 本書では、生活民藝の産地として小鹿田(おんた)や小石原(こいしわら)が詳しく取り上げられ、瀬戸や丹波立杭なども紹介されている。 一方で、日本六古窯のうち信楽、常滑、備前といった産地はほとんど触れられていない。これは著者の見落としというより、鑑賞用の高級陶芸と区別し、あくまで「暮らしのなかで使われる用と美」をすくい取ろうとした柳宗悦らの選定軸(民藝のフィルター)が反映された結果と言え、非常に分かりやすい。 その他にも結構、「これが一番いい」とか「最近は工業化されててダメ」みたいな主観的な判断が即物的に入ってくるのは面白い。あんまり人の意見とか聞き入れず、自分はこう思っとります! みたいな感じが強めで、実際に付き合ったらめんどくさい人なんだろな、と思った。 ■ 総括 日常品に宿る美という日本独特の概念を、これほど具体的かつ分かりやすく整理した本は貴重である。 最後の解説では柳が民藝品に求めていたのは「親しみやすさ」インティマシーであった、というような言説があり、実際の柳の言葉も添えられているが、朝鮮の光化門の保護に尽力した話などと合わせて読み解くと趣深い。 手仕事の品々や日常の道具が急速に失われつつある現代において、日本の工芸や民藝の文化をこれから先の時代へ正しく継承していくために、何がその本質であり魅力なのかを冷静に捉え直す好著だと感じた。 - 2026年8月8日
昭和歳時記吉村昭読み終わった『破獄』『羆嵐』『大黒屋光太夫』『陸奥爆沈』『戦艦武蔵』などの硬派なノンフィクションやルポルタージュで知られる、 吉村昭が、自らの子供時代から青年期にかけて過ごした戦前・戦後の昭和の暮らしや街の風景を綴ったエッセイ集。 吉村昭は昭和2年生まれ。大正天皇が12月25日に崩御したため昭和元年はわずか6日しかなく、実質的に「昭和の始まり」とともに生を受けた著者が、自らの名にある「昭」の文字を背負いながら、時代の記憶を一つひとつ手繰り寄せるように記している。 まさか吉村昭の昭が昭和の賞とは知らなかった。もしやと思って小沢昭一も調べたが、彼も昭和4年生まれ。昭一の昭もことによると昭和からとられてるなこりゃ。 さて、2025年に文庫化された本作には、「昭和の下町」12編と「昭和歳時記」9編の計21編が収められている。 この2つのパートを通して昭和初期の風俗や生活の移り変わりが立体的に伝わってくる点にある。 前半の「昭和の下町」では、長火鉢や物干し台、火の見櫓、夏の夜の蚊帳といった身近な道具の消滅や街の変遷が具体的に追われており、著者の育った東京・日暮里や谷根千あたりの温かな風情と当時の暮らしぶりが生き生きと描かれている。 一方、後半の「昭和歳時記」では、四季折々の行事や季節の風物に焦点を当て、時の流れの中で人々の暮らしがどのように営まれていたかが丁寧に掬い上げられている。 こうした昔の暮らしを振り返るエッセイは、ともすれば「昔は良かった、それに比べて今は……」といった安易なノスタルジーや懐古趣味に走りやすい。 しかし、本書の記述は極めて客観的で冷静だ。昔の暮らしにあった温もりを描く一方で、寒さや不便さ、衛生面での苦労など、当時の暮らしなりの大変さや厳しさがあったことも隠さずに淡々と記されている。この偏りのないフラットな視点は、数々の厳しい取材を重ねて傑作ルポルタージュを世に送り出してきた著者ならではの真骨頂と言える。 大袈裟な懐古にとらわれず、下町のそこはかとない生活感や人々の息遣いを淡々と記録した内容は、昔の生活を知る上でも味わい深い名著であった。 火鉢の説明なども大変に具体的でわかりやすく、ボンヤリとしたイメージしかない現代の人間にも、しっかり伝わるものになっているところに著者の筆力を感じる。火の見櫓とか蚊帳とか物干し台などについても同様。生きたテキストという感じがした。 毎日コンピュータやスマートフォンにばかり時間を奪われ、手元の画面の中にばかり意識が向いてしまいがちな現代人にこそ、本書をお勧めしたい。季節の移ろいや道具の手触り、人の気配といった身近な現実の感覚を静かに思い出させてくれる、普遍的な手触りを持った一冊である。 - 2026年8月7日
炒飯狙撃手張國立,玉田誠読み終わったここ数年で私の読書を占めてきたのは、純文学や社会学、民俗学といった人文書の領域であった。 人間という存在の深層や社会構造を掘り下げるテキストに向き合うことが多く、エンターテインメントやミステリーといったいわゆる通俗小説に対しては、少し距離を置いてきたというのが正直なところである。 その読書習慣にひとつの転機をもたらしたのは、東野圭吾氏の訃報であった。現代社会の欲望や病理を膨大な物語へと昇華させ、時代の空気を活写し続けた小説家としての東野圭吾。とはいえ、それほど興味があったわけではないが、その報に接した際、私の中に「自分は現代の娯楽小説が持つ社会的な熱量や批評性を見過ごしてきたのではないか」という静かな自省が生じたのだった。 それに加えて古い知人とたまたま東野圭吾の話になり、一度読んでみたら? と推薦を受けたというのもきっかけとなった。 それを機に少しずつミステリーや娯楽作にも手を伸ばすようになり、そうした中で出くわしたのが、台湾発のクライムアクション『炒飯狙撃手』である。 ノンフィクション作家の高野秀行氏が、とあるYouTube番組のなかでたまたま目についた本作の魅力を語っていた姿が強く印象に残り、高田馬場の芳林堂で買い求めたというわけだ。 本作の骨格は、台湾の政財界、軍部、警察組織、そして裏社会の利害が複雑に交錯する暗殺劇である。端的にいうと暗殺者と定年間近の老刑事による追いつ追われつのハードボイルドクライムアクション小説となる。 疾走感あふれる展開で読者を惹きつけるが、個人的に惹きつけられたのは作品の奥底に描かれた台湾社会の構造的なリアリティであった。 国家機構や警察組織の腐敗といった暗部の描写もさることながら、その裏側で社会を真に動かしているのは、血縁や地縁、あるいは「昔の貸し借り」といった極めて濃密な「人的ネットワーク」の存在である。近代的な法制度や組織の文脈とは別の次元で、こうした強固な人間関係の網目が深く張り巡らされ、力学として機能している。台湾という土地の人間模様のあり方や、裏社会の「生態系」とも言える生々しい手触りが非常に立体的に描き出されており、強い興味を覚えざるを得なかった。 こうした泥臭くも熱量の高い男たちのドラマを追いかけていると、かつて自分自身が没頭した読書体験が鮮やかによみがえってくる。かつて貪るように読んだ船戸与一らの冒険小説やハードボイルドの世界だ。「そうか、自分はもともと、こういう血の通った冒険譚や男たちの生き様に惹かれる人間だったのだ」と、長らく伏せられていた記憶の蓋が開くような感覚を覚えたのである。 また、キャラクター造形においてとりわけ異彩を放っていたのが、主人公の一人である凄腕の狙撃手が「炒飯作りの名人」という属性を与えられている点だ。これは実にオリジナリティに富んだ巧みな設定である。 暗殺という極限の静寂の中に身を置く冷徹なスナイパーが、日々黙々と中華鍋を煽り、米粒を踊らせる。なぜかは分からないのだが、この日常的な営みが、殺し屋という虚構性の高い存在に確かな生活の匂いと「人間味」を与えている。冷徹な職人技と、生活者としての温かい血の通い。その対比が絶妙なリアリティを生んでおり、非常に興味深く観察させてもらった。 作品全体を支配する空気感には、私が好む映画作品——『イコライザー』や『ジャック・リーチャー』、あるいは『ミスター・ノーバディ』といった一連の「正体を隠匿したプロフェッショナルによる制裁劇」に通じるものがあった。過剰な説明を排し、圧倒的なスキルと己の美学に基づいて悪を穿つ爽快感。そしてその背後に漂う、どこかほろ苦い孤高の哀愁。現代アクションの極上のエッセンスが、台湾という独特の風土の上に見事に再構築されている。 難解な人文書や資料と対峙する時間とはまた異なる、物語の構造的強度とその熱量に純粋に圧倒される体験。エンターテインメントという表現形式が秘めるポテンシャルの高さを、改めてまざまざと見せつけられた読書体験であった。こういうのやっぱり好きだったんだなと再確認しました。 - 2026年8月6日
読み終わった東浩紀は人によって毀誉褒貶が激しく、好き嫌いの分かれる言論人だと思う。僕は好きな方で、東浩紀については突発配信をはじめとする長時間の1人語りを数年前からかなり観てきたし、ここ数年の著作も一通り読んできた。 ゲンロンという会社を立ち上げ、経営者という立場を抱えながら、どこまでも正直に自らの思想と現実を語り続ける彼の姿には常に敬意を抱いているが、最近の東浩紀を取り巻く状況を見ていると、非常に味わい深いものがある。 かつて「あいちトリエンナーレ2019」を巡って見解の相違が深まり長らく隔たりがあった津田大介氏との和解。あるいは菊池成孔氏や斎藤幸平氏といった論客たちとの対談。さらには久田将義氏や吉田豪氏といったアウトロー・サブカルチャーの深みに足を踏み入れる人々との独特な信頼関係。 論壇やアカデミズムの枠にとどまらず、多角的な人間関係と議論の場を広げ続ける現在の東浩紀は、僕から見ると彼自身のキャリアにおいて何回目かのピークを迎えているのではないかと感じる。 そうした「いまの東浩紀」のドライブ感に触れている中で、ふと彼の原点とも言える名著『動物化するポストモダン』を読み返してみたくなった。 初版が2001年というので本書が出版されてからすでに四半世紀以上が経過している。しかし、いま改めて読み返してみると、この本が提示した問いは古びるどころか、むしろ現代のコンテンツ社会やネット環境を切り取る上で驚くほどアクチュアルな切れ味を保っていると改めて感じて、面白く感じた。 本書の中核をなすのは、ポストモダン社会における「大きな物語の捏造(あるいは喪失)」と、それに伴う「データベース消費」の分析である。 東は、かつての近代的な主体のあり方が崩壊したあとに現れた日本のオタクカルチャーを精密に解剖した。かつてのオタクたちは、作品の後ろにある巨大な世界観や思想(大きな物語)を夢見ていた。 オタクにも世代があり、第一世代、第二世代、第三世代くらいを10年ごとに区分してその変遷を語っているところは1976年生まれの第二世代オタクのはしくれたる自分には、味わい深いものがあった。 オタクたちが抱えていた大きな物語が虚構であることが、人文的にポストモダン的に解体されていって、オタクたちの消費行動は「キャラクター要素」や「設定」といった情報断片の蓄積――すなわちデータベースの消費へとシフトする。 ここで非常に興味深いのは、オタク文化に特有のスノビズム(気取り・形式的こだわり)やシニシズム(冷笑主義)が、このデータベース消費や社会の「二層化」と表裏一体になっている点だ。 世界観や思想といった「本物」を信じられないシニカルな態度を抱えながら、オタクたちはデータベースから抽出された記号(「萌え要素」など)に即物的に反応し、欲求を満たしていく。深い思想や人間関係の葛藤を必要とせず、記号的刺激によって欲望を処理するこのプロセスを、東は「動物化」と呼んだ。 この「情報データベースの層」と「その表面に現れる即物的な消費の層」という二層化の指摘は、現代のSNS、Short動画、TikTok、さらには生成AI時代におけるアルゴリズム主導のコンテンツ消費の構造とかなり同じ物に感じられる。 2000年代初頭の美少女ゲームやアニメを対象にして書かれたこの分析が、いまや社会全体の情報消費のデフォルトになっている事実にすごい先見の明を感じる。 今回読み返して特にハッとさせられたのは、ゲームの持つ「マルチエンディング性」や「リセット可能性」に関する東の先見性だ。 当時の美少女ゲーム(ビジュアルノベル)は、選択肢によって物語が分岐し、プレイヤーは何度も周回(リセット)を繰り返しながら、世界線の全体像(データベース)を把握していく構造を持っていた。東はこの「並行する複数の世界が存在し、一つの絶対的な結末が存在しない構造」を、ポストモダン時代の重要な形式として捉えていた。 この分析は、昨今のハリウッド映画大作で空前のトレンドとなっている「マルチバース(多元宇宙)解釈」の源流そのものと言ってもおかしくない。 マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)や『スパイダーマン:スパイダーバース』、あるいはアカデミー賞を受賞した『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』のように、現在の世界的なエンターテインメントの頂点にある作品群は、すべて「分岐する世界線」「あり得たかもしれない別の結末」「並行存在する複数の自分」を前提にして構築されている。 かつて日本のマイナーなオタクゲームに見られた「マルチエンディング的思考」や「データベース的環境」が、いまやハリウッドの超大作を通じて世界的なポピュラーカルチャーの基盤となった。東浩紀は、20年以上も前にこの文化の構造的変化をある意味、先取りし、言語化していたのだと感じた。 また、本書の中で繰り広げられる21世紀ごく初頭の同時代の論客たち――斎藤環、大澤真幸、大塚英志らへの批評的言及も、いま読み返しても非常にスリリングで面白かった。 大塚英志の「物語消費」論を継承しつつも、それをアップデートして「データベース消費」へと昇華させる議論の鋭さ。斎藤環の「文脈(文脈依存性)」やオタクの精神分析的アプローチに対する、批評的かつ明快な整理。大澤真幸の社会学的な「第三者の審判」の不在をめぐる議論と、ポストモダン的な「動物化」の接続。 ある場合は協調し、ときには批判的に対立しながら、独自の理論を打ち立てていく若き日の東浩紀のドライブ感は、いま読んでも色あせていない。 彼らの議論を同時に知ることで、当時の思想的熱量だけでなく、現代の評論・批評の基本骨格がどこで作られたのかを再確認することができる。 配信などで見せる現在の東浩紀の言葉には、長年の経営や言論活動を通じて磨かれた深いリアリズムと人間味が宿っている。そうした「いまの東浩紀」が持つ圧倒的な魅力の根底には、本書『動物化するポストモダン』で見せたような、社会の構造変化をいち早く見抜く卓越した洞察力と時代に対する誠実さが脈々と流れている。 現代のSNS社会に疲れを感じている人や、なぜこれほどまでに世界中でマルチバース作品や短尺動画が溢れているのかを知りたい人にこそ、本書をお勧めしたい。 単なる「オタク論」を超えて、私たちが生きるこの複雑な現代社会を読み解くための最強の処方箋として、いま一度多くの人に手にとってほしい一冊である。 - 2026年8月5日
卒業東野圭吾読み終わった最近亡くなった東野圭吾。読んだことがなかったので、知り合いにおすすめを聞いたら、これを推薦されたので読んでみた。 どうやらこの小説の主役の加賀恭一郎というのが東野圭吾の作品群の中では大きなシリーズになっているらしかった。 昔に阿部寛主演の「新参者」というテレビドラマを見通したことがあったが、それも加賀恭一郎シリーズだったらしい。 加賀恭一郎は殺人科の刑事という設定だったと思うが、この小説はその前史にあたる内容で大学生活の仲間内の中で殺人事件が起こり、それを大学生が解き明かしていくという、青春ミステリーになっている。 昭和61年の小説なので今の感覚からすると大学生の意識がかなり異なっていることが感じられる。なんというか大学生の就職などに関する意識が、今よりも決定的に描かれている気がする。 ミステリーとしては密室殺人とカードトリックによる毒殺の2つの殺人が絡み合う形になっていて、そのトリックを解き明かす部分がミステリーなのだが、フーダニット(誰が)とハウダニット(どのように)の2点はともかくホワイダニット(なぜ)という動機部分に焦点が当てられていて、そこがドラマツルギーとなっており、青春ミステリーの魅力となっていると感じた。 謎解きの部分は本格なのだが、モラトリアムを経て社会に出ていく直前の若者の心理的な不安を恋愛や就職などと絡めてみずみずしく描いている点が読ませる内容だった。 東野圭吾作品は人間ドラマがしっかり描かれているので、ドラマ化しやすいんだろうな。 あまりミステリーは読まないタチなので、最初は少し抵抗感があったが、後半は読むのやめられなくなった。面白かったので、夏休みに他の本も読んでみようと思った。古本で探すかな。いっぱいありそう。 - 2026年8月1日
空ばかり見ていた吉田篤弘読み終わったクラフト・エヴィング商會名義で本の装丁の仕事もする吉田篤弘による12篇の連作短編集。 人称や世界観は格編によって異なるがホクトなるパントマイムの技能を持つ流しの床屋にまつわる話が集められている。 全体の雰囲気としては、明確な起承転結のない、静謐な日常や余白を大事にした登場人物の心の動きに焦点を当てた話が続きます。 全12篇の連作短編ですが、それぞれの世界観も日本の商店街が舞台の場合もあれば、時代や土地柄が特定のイメージから離れた幻想的な世界に迷い込むこともあり、かなり自由で多様性のある雰囲気を楽しむことができます。 主人公はホクトにまつわる誰かの場合もあれば、中心人物であるホクトの視点で描かれる場合もあります。ホクトが現れる場合もあるし、不条理にゴドー的な存在として、ホクトの不在が主題となる場合もあります。 そういう意味ではかなり多様性のある世界観を楽しむことが言えます。マジックリアリズム的ですし、イタロカルヴィーノ、堀江敏幸、諸星大二郎などを想起させるリリシズムに溢れています。 劇的な展開はないですが、心の動きが情景と関連しあって美しく共鳴するような場面が多く描かれているのが魅力。 「空ばかり見ていた」というタイトルと呼応して、星空や青空、水平線、曇り空など空にまつわる情景が登場人物の淡い感情と混ざり合って感情を揺さぶるような場面を作るのが大変巧みでした。 脚本家の三宅隆太がいうところの「窓辺系」の小説の特徴がかなりはっきり出ていると思いますが、こういうものを好きな人は一定数いると思います。 劇的なドラマではなく、繊細な心の動きが描かれた作品が好きな方は読んでみてください。 - 2026年8月1日
読み終わった第二次大戦中に陸軍参謀本部の管轄となる東方社に外注されて制作された対外宣伝(つまりプロパガンダ)誌、FRONTの制作にまつわるドキュメントというかルポルタージュというか当事者によるオーラルヒストリー。 日本で編集に携わる人間で、編集の歴史に興味があるならば必読の書と言える。めっちゃ面白い。 まず第二次大戦の前後及び戦争中のデザインレイアウトの考え方の一側面が描かれているのが面白い。図版も多くてレイアウトに関する具体的な記述も多い。 『FRONT』は日本における最初期のグラフ誌です。グラフ誌というのはテキストだけで構成されている書籍とは違って写真をうまく使って視覚的に流れを作ってコンセプトを伝えるタイプの冊子を指します。 1920頃にドイツで生まれたフォトルポルタージュの手法は名取洋之助などを経由して日本に輸入され、写真印刷の発達とともに、グラフ誌的な視覚優位の紙面レイアウトが広まっていった。 プロパガンダにおいては、写真などの視覚が大きな効果があることが、さまざまな世界中の戦争関連の報道から明らかになり、特にソ連の『USSR in Construction』、ナチス・ドイツの『シグナル』などが先行のプロパガンダ誌としては有名。 そういった経緯で、大東亜共栄圏などを掲げて国際的に孤立しつつあった日本では、自国の正当性を対外的に視覚で訴えていくことに意義を感じた政治に出版人が擦り寄っていった。そこには出版の進化の側面や商売っけもあったと思うが、やがて、陸軍参謀本部の管轄で東方社を設立し、対外宣伝のプロパガンダ誌『FRONT』は創刊に至った。 写真部門では木村伊兵衛、美術部門には原弘を擁し、陸軍の後ろ盾にして、陸軍や海軍の装備や活躍を対外的に喧伝する内容だった。また満州建国などが特集された号もある。 著者の多川精一は高校卒業後、原弘にスカウトされ東方社に入社し、戦中戦後は東方社に勤務し対外宣伝誌の制作に携わり、戦後は別冊太陽の創刊に携わるなどグラフ誌の黎明期から昭和中期の雑誌文化の文化的屋台骨をレイアウトで支えた人物。 そのため、書体の話や、版型の話、戦時中の物資困窮時代にどのような紙を使って印刷したこととか、戦中の入稿に関する話など、今のような電子的情報化社会では想像できないような、古の伝説的な逸話がてんこ盛りで大変に興味深い。 また東方社自体が戦局の悪化に伴い、陸軍参謀本部の管轄からだんだんと格下げされていったり、理事が代替わりしていく様子なども当事者の目線で描かれているのが、歴史的にも面白い。 真珠湾攻撃で華々しくぶち上げた開戦の狼煙もやがてミッドウェー海戦、ガダルカナルの戦いなどのターニングポイントを経て、敗戦色が濃くなっていく。 その下がれに沿って、東方社の勢いや『FRONT』の内容などが、物質的にも変化していく経緯が描かれており、そこも面白い。 やがて本土への空襲が始まり、本社ビルの被弾など、社員の疎開などなど、いよいよ悲惨な戦局を迎えていくわけだが、その辺りも当事者の実感のこもった言説が続く。 広島、長崎への原爆投下とポツダム宣言受諾、無条件降伏を経て、戦後の焼け跡の中で日本の出版人や写真家がどのように暮らしていたのかなども記されている。 『FRONT』は本来は10号まで製作されたが第10号は空襲で焼けてしまって実際には発行されなかったという。また11号としては『戦争美術号』が企画されていたという。 これなどはもし完成していたら一級の資料となっていたことだろう。しかし、歴史にIFはない。 戦中から戦後までの間に戦争体制に沿う形で運営されたイチ出版社の攻防史としては一級の資料だと思う。 原弘、木村伊兵衛、名取洋之助などデザインや写真の世界では伝説的な人物の生きていた時代の雰囲気を感じることのできる大変に素晴らしい内容でした。戦争と出版という切り口でも大変に深い問題提起をしつつ、かっこいい紙面、レイアウトとは何かという、永遠のテーマについても鋭い示唆を与えてくれる。 図版も多いし具体的で分かりやすいし。真にオススメの一冊です。 - 2026年7月26日
夏帆村上春樹読み終わった村上春樹の最新刊を読みました。大変興味深い内容で一気に2周してしまいました。面白かったです。 テキストは加飾を削ぎ落とし、読みやすく、物語としては寓話性の高い、筆致としてはジュブナイル的とも読める表現になっていると感じました。 主人公が女性の絵本作家という点もこの作品の文体には影響しているのではないかと思います。村上春樹さくひんにはジュブナイルや絵本的なものとして、『羊男のクリスマス』や『不思議な図書館』、訳書ですが『空飛び猫』などもあります。これも村上春樹のある一側面として、これまであったものと感じます。 僕は今50歳ですが、高2の夏(1993年)に初めて村上春樹を読んで以来、継続して読んできました。いくつかの長編は数度読み返してますし、短編集も期間をおいて読み直ししたり、エッセイなども割と網羅的に読んでる方です。 『夏帆』は村上春樹のビブリオグラフィーからすると、今の村上春樹のキャリアの中で大変多様な側面を持った作品と感じています。 前作の『壁』からして、自身の『世界と終わりとハードボイルドワンダーランド』の「世界と終わり」の方のやり残しを大幅加筆の上、落とし前をつけたというような側面がある作品です。 続く長編としての『夏帆』もそういういわゆる大江健三郎がいうところのレイトワークス的な側面が明確に現れているなぁ、思いました。 まず、オビには「初の女性主人公の長編」と書いてあり、そこに注目が集まってもいますし、「村上春樹の描く女性主人公なんて!(全然共感できないに違いない)」みたいなことを言ってる人もいるみたいですが、短編集にはいくつもの女性視点の作品があります。 僕が特に好きなのは『東京奇譚集」における「ハナレイベイ」や「品川猿」で、この2作品が『夏帆』の執筆の前段にあることはだいぶ意味を持っていると思います。 『夏帆』が、レイトワーク的な側面を持っているというのは、こういった様々な短編集に記された表現的なモチーフを紡ぎあげて構成されていると明確に示されている部分にあると感じます。 以下、多少のネタバレが含まれますので未読の方はご自身の選択でお読みください。 まず、主人公の夏帆と母親との間の関係性は「品川猿」における主人公が名前を盗む猿から、主人公の人生の中にある悪きことの顕現として示される母や姉から愛されていないという事実と関連があります。 「品川猿」では主人公は「嫉妬の感情」がないというキャラとして表されています。『夏帆』では夏帆はこれが嫉妬の感情か? とその感情に自覚的になる場面があります。そういう意味では、「品川猿」では状況に戸惑わされているだけの受動的なキャラクターだったのが、主体的に自分の感情に自覚的になれる分精神的に成長したキャラクターとして描かれていると思います。 「品川猿」では、女性主人公はホンダのディーラーに勤めていて、自身のセールス的才覚は人並み以上のものがあると信じながらも、責任のない立場に甘んじているガラスの天井的な女性的オブセッションを抱えています。 しかし、夏帆は絵本作家としての自己を保ち、社会と接点をもちながら自立した女性として描かれています。そういう意味では、「品川猿」のカウンセラー坂木哲子まではいきませんが、個人事業主として引きこもり的で、学校が嫌いだったとかもあるにせよ、だいぶ作家本人に近いような印象を受けます。 そのほかにも、ありくいの親子が突然生活に介入してくるところなどは『神の子どもたちはみな踊る』の「かえるくん、東京を救う」と近いモチーフです。羊男やジョニーウォーカー、騎士団長や顔長などに連なる村上春樹におけるマジックリアリズム/非現実を象徴するような、かえるくんですが、これは非常に人気の高いキャラクターであると、村上春樹もどこかのインタビューで語ってましたから、今回の作品のジュブナイル的な要素として、それを意図的に配置しているのではないかと思います。 ジャガーやシロアリの女王なども、『ねじまき鳥』の綿谷ノボルやロシアの皮剥ぎボリスなどの象徴に近いような気もしますし、シロアリの女王は『女のいない男たち』の「木野」に出てくる蛇に象徴される、DVを受けている女性にかなり近い感じを受けます。 それ以外にも、ありくいの親子から荷物の運搬を頼まれるモチーフは『神の子どもたちはみな踊る』の中の「UFOが釧路に降りる」にあるモチーフですし、シロアリの女王を倒す刃物の柄が腎臓の形をしているのは『東京奇譚集』の「日々移動する腎臓の形をした石」からの流用でしょう。 そのほかには象の卵を盗むのは「パン屋再襲撃」や「象の消滅」などにあるようなモチーフですし、シロアリの女王をつくときに「今がそのときだ」みたいな木霊が響きますが、これは『騎士団長殺し』で顔ながを顕現させるために騎士団長を指した場面でも使われたセリフに近い。 また、風の声を聞く、というような村上春樹作品で繰り返し使われる表現も出てきます。 このように過去の短編に散りばめられた様々なイメージが練り上げられて『夏帆』の中には入り込んでいます。 かなり長くなってしまいました。主人公が作家ということもあり、村上春樹の創作論的な読み解きもできるとは思いますが、そこはまた別の機会に譲るとして、いろいろな過去の短編の積み残しをレイトワークスとして落とし前をつけつつ、より広い読者層に届くような文体で書かれているのも特徴と言えるでしょう。 連作短編的な読み方もできますし、お話の膨らまし方も村上春樹的で僕は大変に堪能しました。短編集との関連を読み解きながら見ていくという意味では、これから村上春樹を読み始める人にとっては、ここを入り口にすると、いろんなモチーフと逆算的に出会っていくことにもなるので、そういう読書体験もなかなかよいのでは、と思ったりもしました。 皆さんも過去の短編集と合わせて、ぜひ読んでみてください。 - 2026年7月6日
アニメーション美術の世界(334)ステファン・リーケレス,明貫紘子読み終わった大変に力の入った一冊。アニメーション好きの方にはぜひ読んでもらいたいオススメの冊子です。 アニメーションの背景美術に特化した内容で、商業アニメーションの黎明期から最近の作品まで、日本のアニメの背景を手掛けている人たちをかなり突っ込んで言及しています。 アニメーションについて語る際の多くはりんたろうとか宮崎駿とか高畑勲とか出崎統とか押井守とか大友克洋とか庵野秀明とか今敏とか湯浅政明とか細田守とか新海誠とかの監督が前面に押し出されることが多いわけですが、この冊子ではそういった監督が共同制作者として選んだ美術監督の方々をフィーチャーしています。 この冊子ではアニメ監督は冒頭にりんたろうと四宮義俊が対談として大きくフィーチャーされている以外では安彦良和や新海誠が小さい囲みの中で紹介されているくらいで、基本的には背景美術の当事者の言葉が生で記されている。 監督が作品を語る時は作品を通して表現したいことのコンセプトや主題などがメインとなり、いわゆる観念的な話題が展開されることが多いですが、この冊子では、それぞれの背景美術の人たちが具体的にどうやってスキルを身につけたとか、画材は何を使っているとか、背景美術として大量の絵を描くためにどうしたか、というような唯物的な視点が語られていて、具体的なので、とてもわかりやすい。 冊子としては草森秀一、馬島亮子、小倉宏昌、大野広司、木村慎二、林孝輔、日野香緒里、久保友孝のインタビューとそれぞれの作家についての論考に加えて、小林七郎、椋尾篁、山本二三、男鹿和雄といった巨匠たちの記事もある。 背景美術の人たちは自身の作家性や個性を保ちつつも、職人として求められたビジュアルを視覚化するために手を動かす。この冊子ではそういった背景美術の話が作品横断的に出てくるので、アニメーション監督を中心にした紹介をしているときには見えてこない、時代時代における世代的なアニメーション作品の連続性が見られるのが素晴らしい。 この作品とこの作品の美術は同じ人がやっていたのか〜、などという繋がりがわかるのはこういう作りの本ならではと感じた。 僕は1976年生まれなので、オタク第二世代に属しているといわれる年代です。『アリオン』『ラピュタ』『ヴイナス戦記』『トトロ』『火垂るの墓』『AKIRA』『魔女の宅急便』『パトレイバー』などが毎年のように劇場で見れた世代です。すごい時代だったと思う。 この前の世代にはうる星やつらとかあって、この後の世代には攻殻機動隊とエヴァンゲリオンとかがくるわけです。 今から見るとこの1980年代後半というのはCGなどはほとんどなく、手描きのセルアニメの全盛期と言ってもいいのかもしれません。それこそ命を削って描いていたと言っても過言ではないような。 そういったところで、この冊子ではもはや神代の時代とも思われる手描きオンリーの時代の話から、より最近の背景美術の話になるので、デジタルによる作画、コンピューターの導入などについても詳しく述べられています。 細田守などは大変意識的にやっている、手描きとCGのそれぞれの特性が等価で語られているのが現代的な視点と思いました。 新海誠がゲーム業界からアニメに入ってきて、彼のビジョンを具体化するためにそれまでのアニメーション業界の人間ではなく、美大卒の人間が集められて、コンピューターによる背景描画のノウハウが極まっていった、というような話は大変に興味深かった。 美大卒のそういう人たちには日本画の方がより多く入っている印象で、そこは、なるほど、と思った。 各有名美大の卒展などを定点観測的に見に行っているが、今となっては油の人達はより現代的なアプローチで現代美術的なインスタレーションなどにかまけており、具象的な絵を描いているのはやはり圧倒的に日本画の方々というのが、僕の感覚で、そう考えると日本画の方がアニメに多く入ってきているのは肌感として納得できる。傾向の話ではあるのだけれど。 また、背景美術で功を成した人たちの言葉として「美大で絵画を学んだが、このままでは作家にはなれないと感じて〜」みたいなことを言っている人が複数いたのも面白いと思った。 やはり大学で美術を学ぶということは作家を目指すという観念が強いのだろうか。作家になるというのは一つの生存戦略だが、描写技術と比例しないのが、難しいところと思う。価値観が多様になりすぎていて、現代美術の世界のスキームはまた別のベクトルにある気がする。現代ではより社会学的な興味が大切なのかも。 そういう意味において、作家性ではなく、平面表現の技術を身につけた人たちの受け皿としてアニメーションがあるというのは、昨今の美術大学にアニメやゲームなどのコースが増えていることとも連動しているように思われる。 アニメーションはとにかく大きな共同作業だし、資本や当たった時のマネーの動きも大きい。特に最近の商業アニメーションの国内作品の興行収入を考えても、産業規模はものすごいことになってるし。そして、そういう複合的なスケールの作品がアート的でないとは必ずしもいえない。商業的でもアート的な表現は両立できると僕は信じるし、そういう作品もすでに存在する。 多様な社会の包摂と作品の持つスケールを考えるときに、かつての西洋絵画の世界よろしくギルドや工房のような美術のスタジオが多くあるのは、芸術とはなんなのかを考える上で、示唆に富む。 また、後半には日本のアニメーションにおける背景美術の歴史を辿る発展の系譜の論考もあり、これはこういう論考を読むのは初めてなので大変に勉強になった。 アニメーションの抱える文脈は広大だ。単に絵が動くという技術的なところ、つまり錯覚の作り方を始め、産業として考えた時の手塚治虫の功罪とか、あらゆる天才的アニメ監督のそれぞれのあり方とか、アートアニメーションの話とか、手描きかデジタルかとか、世代によって見てきたものが異なることとか。 また国内のアニメだけでなく、海外のアニメにも深い文脈がある。デズニーとかフライシャー兄弟とか、フルデジタルアニメのピクサーとか、スパイダーバースとか、なかなか一筋縄ではいかないリテラシーだ。 とはいえ、そういうリテラシーを理解していなくても、アニメには単純に見てわかる、という強さがある。本来は静止している一枚の絵が動く、というアニメーションはあらゆる角度から人の心を打つ表現だ。 それはやはり手描きであろうがデジタルであろうが、人間が工夫して創造しているものだからなのではないかと思う。 動いたり喋ったりすることで、キャラに命が吹き込まれるということが語られがちなアニメだが、そのキャラが生き生きと動くためには、説得力のある、実在感のある世界が必要で、それは背景美術が担う部分で、それらはスタティックな一枚の絵として動かずにそこにあるが、その存在感が認知に与える影響は無視できない。 そこのあり方を読み取れるとアニメを見る時の視点がより深まることは確実で、この本はそのヒントとなる切り口を大量に示してくれる。 それぞれのアニメ作品の持つ世界観をあくまで視覚的に表現するために様々な工夫を凝らしている人たちがいる、ということがヒシヒシと伝わってくる一冊でした。 - 2026年6月7日
大阪環状線 降りて歩いて飲んでみるスズキナオ読み終わった不動産情報サイト、ライフルホームズの街情報メディア、ライフリストで約2年間にわたり連載された街歩きルポをまとめたもの。 僕のこのreadsではスズキナオさんの著作として「ずっとあった店」(ことさら出版)シリーズを2冊紹介したことがある。興味のある方はそちらをご参照ください。街やお店の魅力を紹介するのが得意な書き手です。 「その街に部屋を借りて住みたくなるような生の魅力を伝える」を目的にして大阪環状線の19の駅を毎回ふらっと訪れて気の向くままに散策して、良さそうな酒場に入ってほろ酔いで終わるというスタイル。 大阪環状線全駅制覇で19章。大阪の人情や風情が詰まった良書でありました。 その街の良さやふらりと入ったお店を楽しく味わうスズキナオさんの人柄が偲ばれる暖かいテキストで、読みやすく、楽しい本だった。大阪に行こうと思っている人には強くお勧めです。 町名の由来や駅を中心にしてどのように街が構成されているのかとか、周辺地域のアクセスなどについても具体的に語られていて、臨場感がある。説明も端的で分かりやすく調子も良い。 様々な料理の描写も的確でお腹の空く本でもある。紹介されているあらゆるお店に足を運んでみたくなった。 本人も環状線付近で暮らしたり働いたりしてきた経験があるようで、そういう体験に基づいた記述があるのもよい。リアリティがあると思った。 また、新今宮ではイマジネーションピカスペースというカメラマンのやっている写真集とシーシャを楽しむお店が紹介されており、後藤護さんとのYouTubeで写真集を紹介していた、ルーツが知れて、著者を追いかけているとこういう答え合わせもあって面白く感じた。 ネットの記事の書籍化ということで、ネットよりの本文レイアウトになっているのも読みやすさに繋がっていると感じた。 具体的には1行は約40字程度、インデンツ(文頭の1文字下げ)がなく、段落の間に1行分のスペースがある、という構成。 web記事では、段落は1行スペースで区切ることが多いので、行頭に1文字下げを入れなくても、文章の塊がわかりやすい。それを縦書きでも踏襲していて、内容とのマッチングが良いと思った。 何か観念的な比喩表現などがなく、目に見えたものを歯切れ良くテキストにしていくにはこの方が口語的で良いのかもしれない。 ちなみに僕は仕事で良く新今宮と天王寺の間あたりに宿泊するし、仕事では緑橋やあびこ町、高槻などによく行くので、その周辺の環状線の駅ごとの個性が分かって、大阪の面白さに触れられた気がする。 確かに大阪に住むのもありだな、と思わされた。またこの本は著者のスズキナオさんが一時期勤めていた西九条駅から徒歩で行ける此花地区のシカク出版で購入した。 その時に店主の竹重さんともお話しすることができたし、シカクの歴史を書いた自費出版の「シカクはこうしてこうなった」全5巻も読んだので、スズキナオさんはそこにも登場していた。そういう意味でも親近感を持てる内容だった。 友部正人のように大阪に行くのもありかな。 - 2026年5月24日
怒りに火をつけろ小林エリコ読み終わった先日の文フリで出会った本。知人の1人出版社であるところのことさら出版からパブリッシングされている一冊。 過去作『この地獄を生きるのだ』に引き続いて読んだ。『この地獄を生きるのだ』の感想もreadsで公開しているので興味があれば読んでみてください。 幼少期に兄から性被害を受けた筆者が、長年にわたり自らを蝕んだ複雑性PTSDを緩和するために受けたEMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)を伴うカウンセリングの体験談となっている。 複雑な経緯を下敷きにした文章なため、本人としてはカウンセリング体験を基にした個人的なエッセイと考えてほしい、とあとがきには記されてあった。 カウンセラーと小林さんのカンバセーションが中心となっており、カウンセリングというものが世の中にあることを知らしめることをはじめとした啓蒙的な側面を持った本である。 ただ、カウンセラーさんはあくまで没個性的に職業者として表されている。 書名に「怒り」が入っているのは素晴らしい。怒りを表す英単語としてはRAGE、ANGER、UPSETなどがあるが、この怒りはどのくらいのニュアンスなのだろうか。 怒りっぽい人(メルギブソンみたいな)がアンガーマネージメントといって、怒りをコントロールするカウンセリングを受ける、という話はたまにある。 しかし、筆者の小林さんは怒りをコントロールできず、周囲に当たり散らす、というようなマインドとは正反対で、むしろ他者からの迫害(意識的にせよ、無意識的にせよ)を自分のせいと考えさせられるような原体験を多く抱えており、必要かつ適切な怒りを他者に向けることができず、かえって自分を傷つけてきてしまった、ということが語られている。 トラウマというものは、きちんと放出されないと、それができなかった自分に対しての自己嫌悪の形を取るのだと、この本は小林さんの体験を通じて教えてくれる。 そこはとてもつらい描写となる。読者によっては精神的緊張が起こる可能性があるため、扉ページにもメンションがあるほどだ。適切な怒りを持って排出されない怒りは自己破壊につながる。 その怒りを獲得する過程がこの本では強いリアリズムを伴って描かれている。これは大変な勇気と覚悟がいることと思う。真実が語られており、真実が語られている本は常に素晴らしい。町田康もそう言って西村賢太を誉めていた。 とはいえ、「怒り」という言葉から予測するような激しさはこの本にはあまりなく、語りは淡々と冷静で、そこはかとないユーモアもある。それがないと生きていけない、ということもあるが、泣き笑いの情緒が感じられるのは小林さんの作風と言えるのではないか。 辛い現実はあるが、そこに立ち向かうのに文化、カルチャーの力を信じている感じがあり、それは素晴らしく共感するところである。 僕はPTSDがポスト・トラウマティック・ストレス・ディスオーダーの略で日本語では心的外傷後ストレス障害と書く、ということは知っている。 強い恐怖や危険の体験が心的外傷となり、不意にフラッシュバックを引き起こしたりして心身に強いストレスを与えて、様々な症状を引き起こすという。 こういうことは僕の母が肺炎に罹患した際に救急車に乗ったものの受け入れの病院が見つからず、苦しい中も神奈川中をたらい回しにされ、その際の強い恐怖体験からパニック障害を患っていたことがあり、その時に色々と調べたことがあったから、少しは知っているという次第。 僕などは平素、元気があればなんでもできる、みたいな顔をして生活しているが、いくつかこれまでの人生で許せないことや一生許さないみたいな誓いのもとに強くいくつかの出来事を心にロックしており、その関係者などに対しては、折に触れ、神社など詣でるたびに、不幸が訪れるように祈りを捧げている。 なぜかそれを許すことや忘れることができない。 神社や寺などにそういった事柄を繰り返し繰り返し想念としてぶつけていく行為、人はそれを呪いと呼ぶようだが、僕は柔らかく祈りと呼ぶようにしている。prayである。 家族には自分のそう言った傾向についてはカミングアウトしているので、私が寺社仏閣にて熱心に長くニレイニハクシュイチレイなどしていると訝しる。 神社などへの祈りは自分に対してのフィードバックもあり得るので、あまりそういう具体的な祈りはやめた方がいいという意見もある。しかし、50を目前にしてもそれを止めることはできない。 オレのことをコケにしたアイツら、そいつらがのうのうと生きているのは、なんか許せない。実際、また会って話したりしたらきっと悪い人たちではないのかもしれないが、マジでなんとして不幸になっていただきたい。 カッコつけて乗ってる高級車などはきっと事故れ、階段から落ちて腰を打つとか、大切にしている高価なパソコンがクラッシュするとか、入稿に間に合わなくて仕事を失うとか、またその周囲にいる人もなるべく不幸になれ、インプラントが失敗して歯茎がガタガタになれ、レーシックに失敗して目がくらめ、ハチに刺されれ、などなど、そういう事が起れと、考えては怒りを更新してきた。 世に地獄絵、というものがある。宗教画の一ジャンルだが、西洋、東洋の分け隔てなく、多くの宗教は地獄を視覚化してきた。 地獄絵はさまざまな宗教で、言葉のわからない人たち、経典の読めない人たちに地獄を視覚的に伝える手段として描かれた絵だが、あらゆる宗教において天国の絵に比べると質、量ともに絶対に地獄絵の方が充実するのだという。これは宗教絵画においてはよく語られる言説だ。 天国はお花畑とか天気がいいとか、裸の男女がアハハとかウフフとか、そのくらいしか描くことがないが、地獄は釜で茹でたり針の山に登らせたり、水を腹が破れるくらい飲ませたり、鬼が金棒で肛門から口までを貫いたりとか、腹減って激痩せとか、大変な想像力でバリエーションも多彩だ。人の不幸の方が想像力が膨らむということなのだろうか。 ロシアの文豪レフ・トルストイも、その代表作『アンナ・カレーニナ』の冒頭で「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」みたいなことを言っている。 不幸や怒りについて、人間は多様な創造性を発揮する。それは霊長類の本能なのかもしれない。だからこそトラウマはループし、増幅して人を蝕むことがあるということなのかもしれない。 とはいえ、個人的には自分の陰なる部分を相対化、内面化するために、また復讐の心から、抱えた怒りはその鮮度と持続を大切にし、薪を焚べつつきたが、この本を読むと、それがいかに大切であったかということが分かった。 アクション映画、特にデンゼルワシントンの『イコライザー』シリーズとか、ジョンウィックとかジェイソンステイサムの『ビーキーパー』とかシュワちゃんの『コマンドー』とか、トムクルーズのジャックリーチャーシリーズ、ボブ・オデンカークの『Mr.ノーバディ』シリーズが好きなんだ。オレの代わりに、オレをコケにしたあいつらを皆殺しにしてくれるから。 どんなトラウマを抱えるかは外的な要因が強く、もちろん自分で選ぶことはできない。だからこそ苦しく、そこには終わりがないとも言える。しかし、そこには適切な向き合い方もあり、手を差し伸べてくれる人もいる。 それを知っていること、そこにコミットしてみること、についての道を開くという意味で本書の存在意義は強いと思う。僕の周りにも人知れず苦しんでいる人がいないとも限らない。何かのきっかけがあったとして、そんな時にこの本を知っているということが福音となるかもしれない。 この本には貧困の話も重くのしかかってきており、それについても触れたいところだが、かなり長くなってきているので、それはまた別の時に書いてみたい。金がないのは辛い。 ドキュメンタリー映画『どうすればよかったのか?』などとも重なる問題意識を抱えた本と思った。 大変素晴らしく、真に本当のことが書いてある、多くの人に読んで、備えてほしい内容です。心のAEDと言いますか。即効性のあるものではないですが、 周りにいる人のサイン、なんらかの傾向や兆候を見逃さず、押し付けがましくない形で手を差し伸べられるような人になれたら、と思う。 自分が健康なだけに、そのようになれるといいなと思いました。 - 2026年5月10日
ずっとあった店 BARレモン・ハート編スズキナオ読み終わった新進の1人出版社、ことさら出版が酒と徘徊ライターのスズキナオとタッグを組んで出版した、ススキノの老舗バー店主へのロングインタビュー。 ことさら出版より数年後に発刊予定の『ずっとあった店』の一章として編まれるものの分冊版とのこと。 友田とんがハヤカワ書房から出版したガルシアマルケスの死に触発されて書かれた『100年の孤独を代わりに読む』という奇書がありますが、それは確かnoteでの連載を印刷して、全国の書店に営業して回って、それが出版社の目に留まり、その結果として大手からの出版に結びついたということがあります。 而して、面白いもの、オリジナリティのあるものには顧客がついてくるということなのでしょう。リトルプレスの可能性を考える時、示唆に富む、夢のあるエピソードです。 この『ずっとあった店』シリーズはそのように雑誌などの連載ではなくリトルプレスを積み重ねて一冊の書籍にまとめていく、という流れになっています。そらは僕としてはリトルプレスの正しい在り方のような気がしていて、応援したい気持ちでいっぱいです。 と、外側の話はそれくらいにして、本の内容は札幌ススキノで35年続くBARレモン・ハートの店主本村武さんへのロングインタビュー。 佐賀に生まれて東京を経由して、ススキノに流れ着いた本村さんの約60年間の夜の店での生活を丁寧に聞き取っていく。 ススキノの古いお店の名前が頻出するが、それが分かるという人はどれくらいいるのだろうか。 栄枯盛衰、盛者必衰。そこには時の流れに通底する強い無常感があるけど、今を生きている本村さんの生命感のある言葉に触れると、やはり毎日の生活の繰り返しの中でモチベーションを保ち続けてきたあくなきバイタリティを感じる。 若い頃女好きだったみたいな話もおおらかでいいです。ナンパの話とかも結構豪快で今風ではないけど、そういう昔話は嫌いじゃない。 本村さんはニーチェ的な意味で超人と呼んでももはや差し支えないのでは。 また、独学でカクテルを学びこれを供するスタイルも素晴らしい。カクテルの研究をしているメモの写真なども掲載されていたが、知恵と工夫の人なのであろう。 とにかくスナック屋台おふくろに引き続き、大変な面白さである。早く続きが読みたい。 僕のずっとあった店と言えば、青森県八戸市の市役所前にあったはんかくさい喫茶ぽんである。田中邦衛似の店主が長年営んできた。八戸の小劇場系の演劇のチラシなどがどわーっと貼ってある薄暗い喫茶店だった。 2021年に閉店して今は更地になっている。この前、八戸に帰った時にその跡地を訪れた。コンクリの基礎は残っており、間取りの跡が視認できた。壁がないとこのくらいのサイズだったのか、とその小ささに驚く。 ハムカレーのセットにアイスコーヒーが僕の定番でした。あのコーヒー。また飲みたいな。 - 2026年5月10日
ずっとあった店 スナック屋台おふくろ編スズキナオ読み終わった新進の1人出版社、ことさら出版が酒と徘徊ライターのスズキナオとタッグを組んで出版した、ロードサイドの老舗屋台の店主へのロングインタビュー。 ことさら出版より数年後に発刊予定の『ずっとあった店』の一章として編まれるものの分冊版とのこと。 こういうスタイルの出版もありますね。自力連載みたいな。ZINEと出版の間を縫うような、1人出版社のフットワークの軽さを羨ましくも思う。やはり、小冊子でもISBNとって出版することは大切。それがあるから、ここにも感想が書けるわけだし。 2024年11月30日に50年の歴史を閉じた高知県高知市の屋台、スナック屋台おふくろの店主、シヅ子さん(鹿児島生まれ、取材時は84歳)へのロングインタビュー。 市井の人に目を向けて、そこに深く入り込む手法は民俗学的な部分があり、その人ならず土地の記憶とも結びついている。 いわゆる民俗学的な社会文化人類学とも言えるフィールドワークのような内容で大変に興味深かった。 2024年閉店で50年間の歴史があるとすると、始まりは1970年代後半だ。日本の高度経済成長期の流れ、バブル期などを経て、コロナをくぐり抜けた時代の生き証人としてのシヅ子さんの言葉にはさまざまな文脈がやどる。 80年代、90年代のお客で賑わった時代の話には隔世の感があるが、それでも常連客の憩いの場所ではあることだし、地元の人々との交流が挟まれるテキストには温かいものを感じる。 またシヅ子さんは真言宗を信仰している。前世を意識しながら生き、高野山にも足を運んでいるとか、室蘭までお坊さんに会いに行くなど、信仰に対してはキチンと向き合って生活している。 そういうところが常連とのコミュニケーションにも生きているのであろう。 大変に素晴らしいインタビューand記録と思った。類書を上げるのはフェアじゃないかもしれないが、橋本倫史の『ドライブイン探訪』などがお好きな方には特におすすめである。また、民俗学で言うと宮本常一の『忘れられた日本人』などがお好きな方は現代的な失われつつ昭和のフィールドワークとして楽しく読めるに違いない。 サ上とロ吉のWONDER WHEELを聴きながら。
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