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勝村巌
勝村巌
@katsumura
  • 2026年8月19日
    東京漫才全史
    東京漫才全史
    前々からナイツの漫才が好きで、そこから派生してYouTubeの『塙会長の自由時間』をよく見ている。 ナイツ塙の漫才協会の年配の師匠方いじり――師匠である内海桂子をはじめ、コンビ内の確執で話題を呼んだおぼん・こぼんらベテラン漫才師たちのエピソード――は、愛のあるもので聴いてて嫌な感じはしない。私にとって東京の演芸文化への入口となっていた。 そのチャンネルにゲストとして出演していたのが、本作の著者である神保喜利彦氏であった。國學院大出身の若い研究者である。 漫才協会の複雑な歴史や系譜を淀みなく、かつ圧倒的な知識量で語る姿に「これほどまでに東京漫才の歴史を深く穿ち、知り尽くしている人物がいるのか」と強い衝撃を受け、これは間違いない、と確信して本書を手に取った。 一方で、伝統芸能としての「萬歳」に対しては、2025年3月に惜しまれつつ放送を終えたNHKラジオ『ニッポン時空旅』の特集などで関心を寄せていた背景もある。 同番組におけるヨーロッパ企画の永野宗典と本田力のテンポの良い掛け合い自体、どこか現代の「しゃべくり漫才」に通じる間合いや批評性を感じさせるものであり、私の中で「古典的な萬歳」と「現代の漫才」が緩やかにつながる下地ができていたことも、本書に惹かれた理由の一つである。 本書は、近現代の東京漫才の歴史を詳細に辿る稀な内容だ。 近世における門付け芸(祝福芸)としての「三河万歳」などの伝統的な掛け合いや形態が、安来節の幕間で演じられる軽演劇などを経て、いかにして現代的な「しゃべくり漫才」へと脱皮・発展していったかという成立過程を緻密にたどる大作である。現代のテレビを中心とした現代的な漫才までを事細かに調べて書いてある。 戦前・戦後を通じた代表的な漫才師たちの系譜、所属する演芸団体の変遷、そしてコンクールの設立と役割に至るまで、極めて膨大な一次資料と証言に基づいた解説が展開される。 林家染団治、大和屋三姉妹、荒川清丸、東喜代駒、エンタツ・アチャコなど伝説的な芸人の詳しい紹介がある。 また、亭号にまつわる師匠や弟子関係の調査も徹底していて、この師匠はこの人の弟子なのでこういう名前なのか、などということも大変に分かりやすくなっている。 漫才の歴史を通じて様々な今日的な課題にまつわる言及があるのも良い。夫婦漫才というものの扱いにおける、男性と女性の地位のあり方では、大体において、女性が男性をしばく感じになっていたり、女道楽という女性が中心となった演芸のあり方についての言及もある。 特に印象深かったのは、太平洋戦争下の暗い時代における漫才師たちのあり方である。 厳しい言論統制と検閲の中で、彼らがどのように官憲の横暴と戦い、あるいは宥めすかして舞台に立ち続けたかが詳細に記録されている。 漫才師の本質は、あくまで時代の流行を敏感に捉える「人気商売」である。興行を打てなければ日々の生活すら成り立たないという切実な現実の中で、生き残るために戦争協力的なネタや国威高揚を煽る演目をかけざるを得なかった陰の歴史も隠さずに描かれている。 終戦記念日を迎える8月に読む本として、演芸という大衆文化がいかに戦争という巨大な波に飲み込まれ、抗い、また加担させられていったかという記録は、思いがけず重厚な歴史の教訓として胸に迫るものであった。 また戦後の男性が少なかった時代には女道楽が大いに盛り上がったという話は美術界における1950〜60年代の女性にスポットを当てたアンチ・アクション展ともおなじ目線と感じた。 戦後の復興期における演芸ブーム、昭和末期の爆発的な「MANZAIブーム」、そしてその後に訪れた「東京漫才」の相対的な沈降と、近年の新世代漫才師たちによる見事な再興に至るまで、数多くの漫才師たちのプロフィールと足跡が丹念に立ち上げられていく。 本書の特筆すべき点は、個々の実際の漫才ネタ(台本)そのものはほとんど引用・掲載されないという構成上の割り切りにある。 「ゲロゲーロ」みたいな一発ネタへの言及はあるが、それはその言葉だけを見るだけで笑えるものとは違う。 ネタの面白さを紙面で提示するのではなく、「それぞれの漫才師がいかなる時代背景の中で、いかにして生き、舞台に立ち続けたか」という人間ドキュメント・生存の記録に徹している点に、著者独自の明確な姿勢が伺える。 実際のネタを排し、芸人の生き様と構造の変遷を淡々と積み重ねていくスタイルでありながら、不思議と読み進めるうちに画面の奥から「東京の漫才」が持つ特有の粋、意地、そして切なさを含んだ「心」のようなものがじんわりと滲み出てくる。非常に味わい深い読書体験であった。 美術や言葉の文化教育においても、表面的な「成果物(作品・ネタ)」だけを鑑賞するのではなく、それを生み出した時代の制約、表現者の生活、社会構造との格闘という「プロセスと文脈(コンテクスト)」を理解することの重要性を改めて痛感する。 筆者にとっては戦前〜昭和中期(MANZAIブームの前まで)の東京の漫才こそが一番しっくり来る表現であり、社会の変遷と共に、大阪と東京の漫才にも差がなくなった今の漫才にはそれほど興味を持てない、とも言っている。 人物の来歴に焦点を当てて書いているため、中盤以降は人気のあったコンビのそれぞれの死に際などについての言及が増える。 その辺りは客観的な文体でありながら、栄枯盛衰を使い分けた緻密なテキストならでは無常感を感じた。 時代に翻弄されながらも、舞台の上で人々を笑わせることに執着し続けた名もなき芸人たちの積層こそが、今日の東京の演芸文化を支えている。大衆文化の歴史を記録・伝承する上での最高峰の成果として、深く感銘を受ける一冊だった。また、漫才においては大阪の歴史は紹介されていないし、近い演芸ではコントにはコントの歴史がありそうで、そういう本も探して読んでみたくなった。 激烈におすすめの本でありました。
  • 2026年8月16日
    メソポタミアのボート三人男
    新刊が出れば迷わず購入する作家の一人であるノンフィクション作家・高野秀行の最新作。これから長々と感想文を書きますが、こんなもの読まなくても、とにかくめっちゃ面白くて良い本なので、迷わずレジにGOでございます。 本作は、前作『イラク水滸伝』の広大な世界観や探訪記に連なる、メソポタミア湿地帯(アフワール)を巡る一連の旅の連作・姉妹編とも言える一冊である。 早稲田大学探検部出身である高野のモットーは一貫して以下のようなもの。 「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをやり、誰も書かないことを書く」。いいですね。オリジナリティしか生まれてこないモットーだ。他人と同じことをしていても未来は輝かない。 さて、本作でもその精神は遺憾なく発揮されており、チグリス・ユーフラテス川という人類文明の発祥地を「ボートで下る」という、他の人がおよそ取り組まないアプローチによって、従来の歴史書や国際情勢の記述からは決して見えてこない現地の生の姿を捉え直している。 高野の探検の真骨頂は、その破天荒な旅の裏にあるきわめて緻密な事前準備にある。彼は渡航前、渡航先の現地人をまず日本国内で探し出し、彼らから直接言葉を習うプロセスの中で濃密な信頼関係を築き、現地で最も信頼できるキーパーソン(協力者)を紹介してもらう、という独自の手法をとる。 この丁寧なネットワーク構築こそが、危険の伴うフィールドワークを成功させる要となっている。 また、タイトルにある「3人男」の中心を成す高野と、同行者である山田高司の存在が観察の深度をさらに引き上げている。3人目は現地のガイドとなるが、川下りをするのは主に高野と山田の2人。 高野 秀行は国内での事前準備から現場での当事者との生活・言語習得までを徹底するフィールドワークのスペシャリスト。山田 高司は高野より一回り年長のベテラン探検家。「世界で一番川を下った男」と評されるリバーガイド/リバーカヤッカー。極限状態での川下りの知見と、卓越した地理的・地学的な直感を持って同行する。 2026年に刊行された本書だが、現地を訪れたのは2018年頃。行き先はトルコで、中東・メソポタミア地域は張り詰めた政治情勢だった。当時はシリア内戦の混迷やIS(イスラム国)衰退直後の動盪期であり、国家の支配権が極めて複雑に入り組んでいた。 そうした情勢下で際立つのが、「トルコ語」と「クルド語」の使い分けを巡る現場のリアリティである。 公的な検問所やトルコ当局の監視下ではトルコ語が必須となる一方、現地クルド人の集落や信頼関係を深める場面では事前準備で培ったクルド語が威力を発揮する。 しかし、言葉の使い分けは常に円滑に機能するわけではない。相手の政治的立場や所属(トルコ政府寄りか、反体制派のPKK寄りか)を見誤って不適切な言語を選択すれば、一転して猜疑心を買うリスクと背中合わせになる。 この辺りは今回は高野は使い分けの選択に失敗し、あまり言葉をコミュニケーションに役立てることができなかったというところが強調される。一方、ノンバーバルな絵心という武器を持った山田隊長は似顔絵を描くことで人気者になるという描写があり、人間はどこまでいっても視覚的な生き物なのだなと感じた。 言語が単なるコミュニケーションツールを超えて「政治的立場を表明する踏み絵」となる緊張感が、旅の足取りと見事にリンクして描かれている。 探検の重厚な描写の合間に挿入される「食」の記述も本書の大きな魅力である。特に印象的なのが、トルコやクルドのめちゃうまい伝統肉料理カブルガ(Kaburga)を巡る描写だ。 カブルガとは、羊のアバラ骨(スペアリブ)の間にスパイスやナッツで味付けしたライスを詰め込み、じっくりと時間をかけて焼き・蒸し上げる伝統的なロースト料理である。 骨からホロホロと解ける肉の旨味とエキスを吸ったご飯の絶妙な調和はめちゃうまい、の一言に尽きるという。そして、その圧倒的な美味が画面から匂い立つように描かれている。さらに、高野が帰国後に日本のクルド料理屋でこのカブルガを再現してもらうエピソードも大変美味しそうで、食を通じて異文化を身体的に受容する高野のスタンスが存分に表現されていた。 グルメライターとしてもシチュエーションから準備できる、高野の面目躍如と言える部分で、ホントに食べたくなった。 また、本書の臨場感を著しく高めているのが、要所に挿入されている山田隊長による手描きのスケッチである。 リバーカヤッカーならではの卓越した観察眼で捉えられた川の地形、水流の構造、現地の船や道具の細部が克明に描かれており、まさにフィールドワークの息遣いがそのまま紙面に立ち現れている。 このテキストと観察スケッチが見事な調和を見せる様は、かつて文化人類学者・山口昌男がフィールドノートや著作で見せたテキストとイラストスケッチの幸福なマッチングを強く彷彿とさせ、視覚的・造形的にもきわめて魅力的な誌面構成となっている。 さらに、本書において特に感銘を受けたのが、「川下りを通じて地域を見ることは、世界を『下から見上げる』ことになり、景観や社会構造の見え方が劇的に変わる」という視点、そして山田の地学的なマクロ視点(流路をプレートテクトニクス的に捉える)と、高野の「見立て」の技術の融合である。 高野はこれまでもイラクの大湿地帯アフワールを水滸伝的と見立てたり、室町時代の応仁の乱などを室町ハードボイルドと見立てたり(これは編集者の仕事かな?)している。その他にも食材に関する様々な面白い見立てもあり、それが高野文体の魅力とも感じている。 この本では高野は現地を、荒川と利根川によってつくられた江戸」の地形に見立て、「江戸ポタミア」として捉え直す。異国の難解な構造を身近な知見へ「見立てる」ことで、読者自身の実感として体感させる文章の構築力は実に見事である。 目次を追うだけでも、誰もやらない川下りを敢行したからこそ見えてくる多様な文化の差異や、現地の人々の逞しい営みが生き生きと活写されていることが伝わる。 しかし物語のラスト、コロナ禍が明けた後に数年ぶりに訪れた現地で、高野はグローバルな合理化と「文明」の波に直面する。ほんの少し前に存在していた固有の暮らしや文化が押し除けられていく現実を目にし、文化の諸行無常を感じさせる終わり方は、切なくも深く心を揺さぶられた。 本作は、単なる冒険記にとどまらず、「言語の政治的使い分け」「身近な対象への見立て」、そして「観察スケッチ(ビジュアル)と文筆(テキスト)による立体的な記録手法」という、他者や異文化を深く理解し表現・伝達するための最高峰のプロセスを示してくれている。 僕の主戦場である美術教育においても、対象にアプローチする際の手順や、スケッチによる観察と文章記述を組み合わせた学び(山口昌男的な知の構築)として、極めて多くの示唆を与えてくれる一冊であった。 長々と書きましたが、真面目なところは置いといて、なんか大の大人が大真面目に変なことにトライしてる微笑ましくも含蓄のある一冊です。 やはり冒険は夏の風物詩。夏のうちに読まれることをお勧めします! が、いつ読んでも面白いでしょう。
  • 2026年8月9日
    民藝のみかた
    民藝のみかた
    ドイツ出身のアメリカの美術史家ヒューゴ・ムンスターバーグが1957年にアメリカで刊行したFolk Arts of Japanの初の邦訳本とのこと。 民藝は民衆の工藝の略語で、ヨーロッパにおけるモリスのアーツアンドクラフツ運動などに連動する、工業化や機械化がもたらす非人間性に対抗するためのデザインや美学の民主化運動ともいえるようなもの。 民藝というのはものを指す言葉だが、その後に運動、とつくと、柳宗悦が主導したそういう人文的なコンセプトを指す言葉となる。 産業革命の機械化や工業化に反するこういった運動は19世紀の終わりくらいから、世界中で同時代的に発生していたようだ。ドイツ工作連盟とかね。 序文には柳宗悦自身が言葉を寄せており、柳を中心とした民藝運動の理念が、当時どのように海外へ伝えられ、受容されていたかを示す貴重な資料となっている。 解説は哲学者で民藝研究者の鞍田崇氏が務めており、当時の時代背景と現代における民藝の視点を分かりやすく整理している。この解説も民藝の精神を見事に言語化しており一読の価値がある。 ■ 構成と「民藝」の分類 本書の良さは、「日常の品々に見出される美」という感覚的になりがちな民藝の概念を、具体的なカテゴリーに分類して整然と伝えてくれる点にある。 民藝のみならず、伝統的な工芸を素材や技法で分ける際のオーソドックスな王道的区分となっていて、参考になった。 1. 工芸品の分類 全国の民藝品を、素材や技法に基づいて以下の7つに整理して紹介している。 陶器 / 編組(竹・草など) / 漆器 / 木器 / 金属器 / 玩具 / 織物 2. 絵画表現と空間表現 実用工芸にとどまらず、絵画や建築空間へと視野を広げている。 大津絵に見られる素朴な絵画表現。 泰山荘(三鷹・ICU敷地内)に代表される、日本家屋の「空間表現」としての民藝。 3. 民藝の四天王 民藝運動を牽引した主要な作家4人についても章を割いて論じている。 濱田庄司(陶芸) 河井寛次郎(陶芸) 芹沢銈介(染色) 棟方志功(版画) ■ 民藝的選定 特に興味深かったのは「陶器」の章での産地の扱いである。 本書では、生活民藝の産地として小鹿田(おんた)や小石原(こいしわら)が詳しく取り上げられ、瀬戸や丹波立杭なども紹介されている。 一方で、日本六古窯のうち信楽、常滑、備前といった産地はほとんど触れられていない。これは著者の見落としというより、鑑賞用の高級陶芸と区別し、あくまで「暮らしのなかで使われる用と美」をすくい取ろうとした柳宗悦らの選定軸(民藝のフィルター)が反映された結果と言え、非常に分かりやすい。 その他にも結構、「これが一番いい」とか「最近は工業化されててダメ」みたいな主観的な判断が即物的に入ってくるのは面白い。あんまり人の意見とか聞き入れず、自分はこう思っとります! みたいな感じが強めで、実際に付き合ったらめんどくさい人なんだろな、と思った。 ■ 総括 日常品に宿る美という日本独特の概念を、これほど具体的かつ分かりやすく整理した本は貴重である。 最後の解説では柳が民藝品に求めていたのは「親しみやすさ」インティマシーであった、というような言説があり、実際の柳の言葉も添えられているが、朝鮮の光化門の保護に尽力した話などと合わせて読み解くと趣深い。 手仕事の品々や日常の道具が急速に失われつつある現代において、日本の工芸や民藝の文化をこれから先の時代へ正しく継承していくために、何がその本質であり魅力なのかを冷静に捉え直す好著だと感じた。
  • 2026年8月8日
    昭和歳時記
    『破獄』『羆嵐』『大黒屋光太夫』『陸奥爆沈』『戦艦武蔵』などの硬派なノンフィクションやルポルタージュで知られる、 吉村昭が、自らの子供時代から青年期にかけて過ごした戦前・戦後の昭和の暮らしや街の風景を綴ったエッセイ集。 吉村昭は昭和2年生まれ。大正天皇が12月25日に崩御したため昭和元年はわずか6日しかなく、実質的に「昭和の始まり」とともに生を受けた著者が、自らの名にある「昭」の文字を背負いながら、時代の記憶を一つひとつ手繰り寄せるように記している。 まさか吉村昭の昭が昭和の賞とは知らなかった。もしやと思って小沢昭一も調べたが、彼も昭和4年生まれ。昭一の昭もことによると昭和からとられてるなこりゃ。 さて、2025年に文庫化された本作には、「昭和の下町」12編と「昭和歳時記」9編の計21編が収められている。 この2つのパートを通して昭和初期の風俗や生活の移り変わりが立体的に伝わってくる点にある。 前半の「昭和の下町」では、長火鉢や物干し台、火の見櫓、夏の夜の蚊帳といった身近な道具の消滅や街の変遷が具体的に追われており、著者の育った東京・日暮里や谷根千あたりの温かな風情と当時の暮らしぶりが生き生きと描かれている。 一方、後半の「昭和歳時記」では、四季折々の行事や季節の風物に焦点を当て、時の流れの中で人々の暮らしがどのように営まれていたかが丁寧に掬い上げられている。 こうした昔の暮らしを振り返るエッセイは、ともすれば「昔は良かった、それに比べて今は……」といった安易なノスタルジーや懐古趣味に走りやすい。 しかし、本書の記述は極めて客観的で冷静だ。昔の暮らしにあった温もりを描く一方で、寒さや不便さ、衛生面での苦労など、当時の暮らしなりの大変さや厳しさがあったことも隠さずに淡々と記されている。この偏りのないフラットな視点は、数々の厳しい取材を重ねて傑作ルポルタージュを世に送り出してきた著者ならではの真骨頂と言える。 大袈裟な懐古にとらわれず、下町のそこはかとない生活感や人々の息遣いを淡々と記録した内容は、昔の生活を知る上でも味わい深い名著であった。 火鉢の説明なども大変に具体的でわかりやすく、ボンヤリとしたイメージしかない現代の人間にも、しっかり伝わるものになっているところに著者の筆力を感じる。火の見櫓とか蚊帳とか物干し台などについても同様。生きたテキストという感じがした。 毎日コンピュータやスマートフォンにばかり時間を奪われ、手元の画面の中にばかり意識が向いてしまいがちな現代人にこそ、本書をお勧めしたい。季節の移ろいや道具の手触り、人の気配といった身近な現実の感覚を静かに思い出させてくれる、普遍的な手触りを持った一冊である。
  • 2026年8月7日
    炒飯狙撃手
    炒飯狙撃手
    ここ数年で私の読書を占めてきたのは、純文学や社会学、民俗学といった人文書の領域であった。 人間という存在の深層や社会構造を掘り下げるテキストに向き合うことが多く、エンターテインメントやミステリーといったいわゆる通俗小説に対しては、少し距離を置いてきたというのが正直なところである。 その読書習慣にひとつの転機をもたらしたのは、東野圭吾氏の訃報であった。現代社会の欲望や病理を膨大な物語へと昇華させ、時代の空気を活写し続けた小説家としての東野圭吾。とはいえ、それほど興味があったわけではないが、その報に接した際、私の中に「自分は現代の娯楽小説が持つ社会的な熱量や批評性を見過ごしてきたのではないか」という静かな自省が生じたのだった。 それに加えて古い知人とたまたま東野圭吾の話になり、一度読んでみたら? と推薦を受けたというのもきっかけとなった。 それを機に少しずつミステリーや娯楽作にも手を伸ばすようになり、そうした中で出くわしたのが、台湾発のクライムアクション『炒飯狙撃手』である。 ノンフィクション作家の高野秀行氏が、とあるYouTube番組のなかでたまたま目についた本作の魅力を語っていた姿が強く印象に残り、高田馬場の芳林堂で買い求めたというわけだ。 本作の骨格は、台湾の政財界、軍部、警察組織、そして裏社会の利害が複雑に交錯する暗殺劇である。端的にいうと暗殺者と定年間近の老刑事による追いつ追われつのハードボイルドクライムアクション小説となる。 疾走感あふれる展開で読者を惹きつけるが、個人的に惹きつけられたのは作品の奥底に描かれた台湾社会の構造的なリアリティであった。 国家機構や警察組織の腐敗といった暗部の描写もさることながら、その裏側で社会を真に動かしているのは、血縁や地縁、あるいは「昔の貸し借り」といった極めて濃密な「人的ネットワーク」の存在である。近代的な法制度や組織の文脈とは別の次元で、こうした強固な人間関係の網目が深く張り巡らされ、力学として機能している。台湾という土地の人間模様のあり方や、裏社会の「生態系」とも言える生々しい手触りが非常に立体的に描き出されており、強い興味を覚えざるを得なかった。 こうした泥臭くも熱量の高い男たちのドラマを追いかけていると、かつて自分自身が没頭した読書体験が鮮やかによみがえってくる。かつて貪るように読んだ船戸与一らの冒険小説やハードボイルドの世界だ。「そうか、自分はもともと、こういう血の通った冒険譚や男たちの生き様に惹かれる人間だったのだ」と、長らく伏せられていた記憶の蓋が開くような感覚を覚えたのである。 また、キャラクター造形においてとりわけ異彩を放っていたのが、主人公の一人である凄腕の狙撃手が「炒飯作りの名人」という属性を与えられている点だ。これは実にオリジナリティに富んだ巧みな設定である。 暗殺という極限の静寂の中に身を置く冷徹なスナイパーが、日々黙々と中華鍋を煽り、米粒を踊らせる。なぜかは分からないのだが、この日常的な営みが、殺し屋という虚構性の高い存在に確かな生活の匂いと「人間味」を与えている。冷徹な職人技と、生活者としての温かい血の通い。その対比が絶妙なリアリティを生んでおり、非常に興味深く観察させてもらった。 作品全体を支配する空気感には、私が好む映画作品——『イコライザー』や『ジャック・リーチャー』、あるいは『ミスター・ノーバディ』といった一連の「正体を隠匿したプロフェッショナルによる制裁劇」に通じるものがあった。過剰な説明を排し、圧倒的なスキルと己の美学に基づいて悪を穿つ爽快感。そしてその背後に漂う、どこかほろ苦い孤高の哀愁。現代アクションの極上のエッセンスが、台湾という独特の風土の上に見事に再構築されている。 難解な人文書や資料と対峙する時間とはまた異なる、物語の構造的強度とその熱量に純粋に圧倒される体験。エンターテインメントという表現形式が秘めるポテンシャルの高さを、改めてまざまざと見せつけられた読書体験であった。こういうのやっぱり好きだったんだなと再確認しました。
  • 2026年8月6日
    動物化するポストモダン オタクから見た日本社会
    東浩紀は人によって毀誉褒貶が激しく、好き嫌いの分かれる言論人だと思う。僕は好きな方で、東浩紀については突発配信をはじめとする長時間の1人語りを数年前からかなり観てきたし、ここ数年の著作も一通り読んできた。  ゲンロンという会社を立ち上げ、経営者という立場を抱えながら、どこまでも正直に自らの思想と現実を語り続ける彼の姿には常に敬意を抱いているが、最近の東浩紀を取り巻く状況を見ていると、非常に味わい深いものがある。 かつて「あいちトリエンナーレ2019」を巡って見解の相違が深まり長らく隔たりがあった津田大介氏との和解。あるいは菊池成孔氏や斎藤幸平氏といった論客たちとの対談。さらには久田将義氏や吉田豪氏といったアウトロー・サブカルチャーの深みに足を踏み入れる人々との独特な信頼関係。 論壇やアカデミズムの枠にとどまらず、多角的な人間関係と議論の場を広げ続ける現在の東浩紀は、僕から見ると彼自身のキャリアにおいて何回目かのピークを迎えているのではないかと感じる。 そうした「いまの東浩紀」のドライブ感に触れている中で、ふと彼の原点とも言える名著『動物化するポストモダン』を読み返してみたくなった。 初版が2001年というので本書が出版されてからすでに四半世紀以上が経過している。しかし、いま改めて読み返してみると、この本が提示した問いは古びるどころか、むしろ現代のコンテンツ社会やネット環境を切り取る上で驚くほどアクチュアルな切れ味を保っていると改めて感じて、面白く感じた。 本書の中核をなすのは、ポストモダン社会における「大きな物語の捏造(あるいは喪失)」と、それに伴う「データベース消費」の分析である。 東は、かつての近代的な主体のあり方が崩壊したあとに現れた日本のオタクカルチャーを精密に解剖した。かつてのオタクたちは、作品の後ろにある巨大な世界観や思想(大きな物語)を夢見ていた。 オタクにも世代があり、第一世代、第二世代、第三世代くらいを10年ごとに区分してその変遷を語っているところは1976年生まれの第二世代オタクのはしくれたる自分には、味わい深いものがあった。 オタクたちが抱えていた大きな物語が虚構であることが、人文的にポストモダン的に解体されていって、オタクたちの消費行動は「キャラクター要素」や「設定」といった情報断片の蓄積――すなわちデータベースの消費へとシフトする。 ここで非常に興味深いのは、オタク文化に特有のスノビズム(気取り・形式的こだわり)やシニシズム(冷笑主義)が、このデータベース消費や社会の「二層化」と表裏一体になっている点だ。 世界観や思想といった「本物」を信じられないシニカルな態度を抱えながら、オタクたちはデータベースから抽出された記号(「萌え要素」など)に即物的に反応し、欲求を満たしていく。深い思想や人間関係の葛藤を必要とせず、記号的刺激によって欲望を処理するこのプロセスを、東は「動物化」と呼んだ。 この「情報データベースの層」と「その表面に現れる即物的な消費の層」という二層化の指摘は、現代のSNS、Short動画、TikTok、さらには生成AI時代におけるアルゴリズム主導のコンテンツ消費の構造とかなり同じ物に感じられる。 2000年代初頭の美少女ゲームやアニメを対象にして書かれたこの分析が、いまや社会全体の情報消費のデフォルトになっている事実にすごい先見の明を感じる。 今回読み返して特にハッとさせられたのは、ゲームの持つ「マルチエンディング性」や「リセット可能性」に関する東の先見性だ。 当時の美少女ゲーム(ビジュアルノベル)は、選択肢によって物語が分岐し、プレイヤーは何度も周回(リセット)を繰り返しながら、世界線の全体像(データベース)を把握していく構造を持っていた。東はこの「並行する複数の世界が存在し、一つの絶対的な結末が存在しない構造」を、ポストモダン時代の重要な形式として捉えていた。 この分析は、昨今のハリウッド映画大作で空前のトレンドとなっている「マルチバース(多元宇宙)解釈」の源流そのものと言ってもおかしくない。 マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)や『スパイダーマン:スパイダーバース』、あるいはアカデミー賞を受賞した『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』のように、現在の世界的なエンターテインメントの頂点にある作品群は、すべて「分岐する世界線」「あり得たかもしれない別の結末」「並行存在する複数の自分」を前提にして構築されている。 かつて日本のマイナーなオタクゲームに見られた「マルチエンディング的思考」や「データベース的環境」が、いまやハリウッドの超大作を通じて世界的なポピュラーカルチャーの基盤となった。東浩紀は、20年以上も前にこの文化の構造的変化をある意味、先取りし、言語化していたのだと感じた。 また、本書の中で繰り広げられる21世紀ごく初頭の同時代の論客たち――斎藤環、大澤真幸、大塚英志らへの批評的言及も、いま読み返しても非常にスリリングで面白かった。 大塚英志の「物語消費」論を継承しつつも、それをアップデートして「データベース消費」へと昇華させる議論の鋭さ。斎藤環の「文脈(文脈依存性)」やオタクの精神分析的アプローチに対する、批評的かつ明快な整理。大澤真幸の社会学的な「第三者の審判」の不在をめぐる議論と、ポストモダン的な「動物化」の接続。 ある場合は協調し、ときには批判的に対立しながら、独自の理論を打ち立てていく若き日の東浩紀のドライブ感は、いま読んでも色あせていない。 彼らの議論を同時に知ることで、当時の思想的熱量だけでなく、現代の評論・批評の基本骨格がどこで作られたのかを再確認することができる。 配信などで見せる現在の東浩紀の言葉には、長年の経営や言論活動を通じて磨かれた深いリアリズムと人間味が宿っている。そうした「いまの東浩紀」が持つ圧倒的な魅力の根底には、本書『動物化するポストモダン』で見せたような、社会の構造変化をいち早く見抜く卓越した洞察力と時代に対する誠実さが脈々と流れている。 現代のSNS社会に疲れを感じている人や、なぜこれほどまでに世界中でマルチバース作品や短尺動画が溢れているのかを知りたい人にこそ、本書をお勧めしたい。 単なる「オタク論」を超えて、私たちが生きるこの複雑な現代社会を読み解くための最強の処方箋として、いま一度多くの人に手にとってほしい一冊である。
  • 2026年8月5日
    卒業
    卒業
    最近亡くなった東野圭吾。読んだことがなかったので、知り合いにおすすめを聞いたら、これを推薦されたので読んでみた。 どうやらこの小説の主役の加賀恭一郎というのが東野圭吾の作品群の中では大きなシリーズになっているらしかった。 昔に阿部寛主演の「新参者」というテレビドラマを見通したことがあったが、それも加賀恭一郎シリーズだったらしい。 加賀恭一郎は殺人科の刑事という設定だったと思うが、この小説はその前史にあたる内容で大学生活の仲間内の中で殺人事件が起こり、それを大学生が解き明かしていくという、青春ミステリーになっている。 昭和61年の小説なので今の感覚からすると大学生の意識がかなり異なっていることが感じられる。なんというか大学生の就職などに関する意識が、今よりも決定的に描かれている気がする。 ミステリーとしては密室殺人とカードトリックによる毒殺の2つの殺人が絡み合う形になっていて、そのトリックを解き明かす部分がミステリーなのだが、フーダニット(誰が)とハウダニット(どのように)の2点はともかくホワイダニット(なぜ)という動機部分に焦点が当てられていて、そこがドラマツルギーとなっており、青春ミステリーの魅力となっていると感じた。 謎解きの部分は本格なのだが、モラトリアムを経て社会に出ていく直前の若者の心理的な不安を恋愛や就職などと絡めてみずみずしく描いている点が読ませる内容だった。 東野圭吾作品は人間ドラマがしっかり描かれているので、ドラマ化しやすいんだろうな。 あまりミステリーは読まないタチなので、最初は少し抵抗感があったが、後半は読むのやめられなくなった。面白かったので、夏休みに他の本も読んでみようと思った。古本で探すかな。いっぱいありそう。
  • 2026年8月1日
    空ばかり見ていた
    クラフト・エヴィング商會名義で本の装丁の仕事もする吉田篤弘による12篇の連作短編集。 人称や世界観は格編によって異なるがホクトなるパントマイムの技能を持つ流しの床屋にまつわる話が集められている。 全体の雰囲気としては、明確な起承転結のない、静謐な日常や余白を大事にした登場人物の心の動きに焦点を当てた話が続きます。 全12篇の連作短編ですが、それぞれの世界観も日本の商店街が舞台の場合もあれば、時代や土地柄が特定のイメージから離れた幻想的な世界に迷い込むこともあり、かなり自由で多様性のある雰囲気を楽しむことができます。 主人公はホクトにまつわる誰かの場合もあれば、中心人物であるホクトの視点で描かれる場合もあります。ホクトが現れる場合もあるし、不条理にゴドー的な存在として、ホクトの不在が主題となる場合もあります。 そういう意味ではかなり多様性のある世界観を楽しむことが言えます。マジックリアリズム的ですし、イタロカルヴィーノ、堀江敏幸、諸星大二郎などを想起させるリリシズムに溢れています。 劇的な展開はないですが、心の動きが情景と関連しあって美しく共鳴するような場面が多く描かれているのが魅力。 「空ばかり見ていた」というタイトルと呼応して、星空や青空、水平線、曇り空など空にまつわる情景が登場人物の淡い感情と混ざり合って感情を揺さぶるような場面を作るのが大変巧みでした。 脚本家の三宅隆太がいうところの「窓辺系」の小説の特徴がかなりはっきり出ていると思いますが、こういうものを好きな人は一定数いると思います。 劇的なドラマではなく、繊細な心の動きが描かれた作品が好きな方は読んでみてください。
  • 2026年8月1日
    戦争のグラフィズム: 回想のFRONT
    第二次大戦中に陸軍参謀本部の管轄となる東方社に外注されて制作された対外宣伝(つまりプロパガンダ)誌、FRONTの制作にまつわるドキュメントというかルポルタージュというか当事者によるオーラルヒストリー。 日本で編集に携わる人間で、編集の歴史に興味があるならば必読の書と言える。めっちゃ面白い。 まず第二次大戦の前後及び戦争中のデザインレイアウトの考え方の一側面が描かれているのが面白い。図版も多くてレイアウトに関する具体的な記述も多い。 『FRONT』は日本における最初期のグラフ誌です。グラフ誌というのはテキストだけで構成されている書籍とは違って写真をうまく使って視覚的に流れを作ってコンセプトを伝えるタイプの冊子を指します。 1920頃にドイツで生まれたフォトルポルタージュの手法は名取洋之助などを経由して日本に輸入され、写真印刷の発達とともに、グラフ誌的な視覚優位の紙面レイアウトが広まっていった。 プロパガンダにおいては、写真などの視覚が大きな効果があることが、さまざまな世界中の戦争関連の報道から明らかになり、特にソ連の『USSR in Construction』、ナチス・ドイツの『シグナル』などが先行のプロパガンダ誌としては有名。 そういった経緯で、大東亜共栄圏などを掲げて国際的に孤立しつつあった日本では、自国の正当性を対外的に視覚で訴えていくことに意義を感じた政治に出版人が擦り寄っていった。そこには出版の進化の側面や商売っけもあったと思うが、やがて、陸軍参謀本部の管轄で東方社を設立し、対外宣伝のプロパガンダ誌『FRONT』は創刊に至った。 写真部門では木村伊兵衛、美術部門には原弘を擁し、陸軍の後ろ盾にして、陸軍や海軍の装備や活躍を対外的に喧伝する内容だった。また満州建国などが特集された号もある。 著者の多川精一は高校卒業後、原弘にスカウトされ東方社に入社し、戦中戦後は東方社に勤務し対外宣伝誌の制作に携わり、戦後は別冊太陽の創刊に携わるなどグラフ誌の黎明期から昭和中期の雑誌文化の文化的屋台骨をレイアウトで支えた人物。 そのため、書体の話や、版型の話、戦時中の物資困窮時代にどのような紙を使って印刷したこととか、戦中の入稿に関する話など、今のような電子的情報化社会では想像できないような、古の伝説的な逸話がてんこ盛りで大変に興味深い。 また東方社自体が戦局の悪化に伴い、陸軍参謀本部の管轄からだんだんと格下げされていったり、理事が代替わりしていく様子なども当事者の目線で描かれているのが、歴史的にも面白い。 真珠湾攻撃で華々しくぶち上げた開戦の狼煙もやがてミッドウェー海戦、ガダルカナルの戦いなどのターニングポイントを経て、敗戦色が濃くなっていく。 その下がれに沿って、東方社の勢いや『FRONT』の内容などが、物質的にも変化していく経緯が描かれており、そこも面白い。 やがて本土への空襲が始まり、本社ビルの被弾など、社員の疎開などなど、いよいよ悲惨な戦局を迎えていくわけだが、その辺りも当事者の実感のこもった言説が続く。 広島、長崎への原爆投下とポツダム宣言受諾、無条件降伏を経て、戦後の焼け跡の中で日本の出版人や写真家がどのように暮らしていたのかなども記されている。 『FRONT』は本来は10号まで製作されたが第10号は空襲で焼けてしまって実際には発行されなかったという。また11号としては『戦争美術号』が企画されていたという。 これなどはもし完成していたら一級の資料となっていたことだろう。しかし、歴史にIFはない。 戦中から戦後までの間に戦争体制に沿う形で運営されたイチ出版社の攻防史としては一級の資料だと思う。 原弘、木村伊兵衛、名取洋之助などデザインや写真の世界では伝説的な人物の生きていた時代の雰囲気を感じることのできる大変に素晴らしい内容でした。戦争と出版という切り口でも大変に深い問題提起をしつつ、かっこいい紙面、レイアウトとは何かという、永遠のテーマについても鋭い示唆を与えてくれる。 図版も多いし具体的で分かりやすいし。真にオススメの一冊です。
  • 2026年7月26日
    夏帆
    夏帆
    村上春樹の最新刊を読みました。大変興味深い内容で一気に2周してしまいました。面白かったです。 テキストは加飾を削ぎ落とし、読みやすく、物語としては寓話性の高い、筆致としてはジュブナイル的とも読める表現になっていると感じました。 主人公が女性の絵本作家という点もこの作品の文体には影響しているのではないかと思います。村上春樹さくひんにはジュブナイルや絵本的なものとして、『羊男のクリスマス』や『不思議な図書館』、訳書ですが『空飛び猫』などもあります。これも村上春樹のある一側面として、これまであったものと感じます。 僕は今50歳ですが、高2の夏(1993年)に初めて村上春樹を読んで以来、継続して読んできました。いくつかの長編は数度読み返してますし、短編集も期間をおいて読み直ししたり、エッセイなども割と網羅的に読んでる方です。 『夏帆』は村上春樹のビブリオグラフィーからすると、今の村上春樹のキャリアの中で大変多様な側面を持った作品と感じています。 前作の『壁』からして、自身の『世界と終わりとハードボイルドワンダーランド』の「世界と終わり」の方のやり残しを大幅加筆の上、落とし前をつけたというような側面がある作品です。 続く長編としての『夏帆』もそういういわゆる大江健三郎がいうところのレイトワークス的な側面が明確に現れているなぁ、思いました。 まず、オビには「初の女性主人公の長編」と書いてあり、そこに注目が集まってもいますし、「村上春樹の描く女性主人公なんて!(全然共感できないに違いない)」みたいなことを言ってる人もいるみたいですが、短編集にはいくつもの女性視点の作品があります。 僕が特に好きなのは『東京奇譚集」における「ハナレイベイ」や「品川猿」で、この2作品が『夏帆』の執筆の前段にあることはだいぶ意味を持っていると思います。 『夏帆』が、レイトワーク的な側面を持っているというのは、こういった様々な短編集に記された表現的なモチーフを紡ぎあげて構成されていると明確に示されている部分にあると感じます。 以下、多少のネタバレが含まれますので未読の方はご自身の選択でお読みください。 まず、主人公の夏帆と母親との間の関係性は「品川猿」における主人公が名前を盗む猿から、主人公の人生の中にある悪きことの顕現として示される母や姉から愛されていないという事実と関連があります。 「品川猿」では主人公は「嫉妬の感情」がないというキャラとして表されています。『夏帆』では夏帆はこれが嫉妬の感情か? とその感情に自覚的になる場面があります。そういう意味では、「品川猿」では状況に戸惑わされているだけの受動的なキャラクターだったのが、主体的に自分の感情に自覚的になれる分精神的に成長したキャラクターとして描かれていると思います。 「品川猿」では、女性主人公はホンダのディーラーに勤めていて、自身のセールス的才覚は人並み以上のものがあると信じながらも、責任のない立場に甘んじているガラスの天井的な女性的オブセッションを抱えています。 しかし、夏帆は絵本作家としての自己を保ち、社会と接点をもちながら自立した女性として描かれています。そういう意味では、「品川猿」のカウンセラー坂木哲子まではいきませんが、個人事業主として引きこもり的で、学校が嫌いだったとかもあるにせよ、だいぶ作家本人に近いような印象を受けます。 そのほかにも、ありくいの親子が突然生活に介入してくるところなどは『神の子どもたちはみな踊る』の「かえるくん、東京を救う」と近いモチーフです。羊男やジョニーウォーカー、騎士団長や顔長などに連なる村上春樹におけるマジックリアリズム/非現実を象徴するような、かえるくんですが、これは非常に人気の高いキャラクターであると、村上春樹もどこかのインタビューで語ってましたから、今回の作品のジュブナイル的な要素として、それを意図的に配置しているのではないかと思います。 ジャガーやシロアリの女王なども、『ねじまき鳥』の綿谷ノボルやロシアの皮剥ぎボリスなどの象徴に近いような気もしますし、シロアリの女王は『女のいない男たち』の「木野」に出てくる蛇に象徴される、DVを受けている女性にかなり近い感じを受けます。 それ以外にも、ありくいの親子から荷物の運搬を頼まれるモチーフは『神の子どもたちはみな踊る』の中の「UFOが釧路に降りる」にあるモチーフですし、シロアリの女王を倒す刃物の柄が腎臓の形をしているのは『東京奇譚集』の「日々移動する腎臓の形をした石」からの流用でしょう。 そのほかには象の卵を盗むのは「パン屋再襲撃」や「象の消滅」などにあるようなモチーフですし、シロアリの女王をつくときに「今がそのときだ」みたいな木霊が響きますが、これは『騎士団長殺し』で顔ながを顕現させるために騎士団長を指した場面でも使われたセリフに近い。 また、風の声を聞く、というような村上春樹作品で繰り返し使われる表現も出てきます。 このように過去の短編に散りばめられた様々なイメージが練り上げられて『夏帆』の中には入り込んでいます。 かなり長くなってしまいました。主人公が作家ということもあり、村上春樹の創作論的な読み解きもできるとは思いますが、そこはまた別の機会に譲るとして、いろいろな過去の短編の積み残しをレイトワークスとして落とし前をつけつつ、より広い読者層に届くような文体で書かれているのも特徴と言えるでしょう。 連作短編的な読み方もできますし、お話の膨らまし方も村上春樹的で僕は大変に堪能しました。短編集との関連を読み解きながら見ていくという意味では、これから村上春樹を読み始める人にとっては、ここを入り口にすると、いろんなモチーフと逆算的に出会っていくことにもなるので、そういう読書体験もなかなかよいのでは、と思ったりもしました。 皆さんも過去の短編集と合わせて、ぜひ読んでみてください。
  • 2026年7月6日
    アニメーション美術の世界(334)
    アニメーション美術の世界(334)
    大変に力の入った一冊。アニメーション好きの方にはぜひ読んでもらいたいオススメの冊子です。 アニメーションの背景美術に特化した内容で、商業アニメーションの黎明期から最近の作品まで、日本のアニメの背景を手掛けている人たちをかなり突っ込んで言及しています。 アニメーションについて語る際の多くはりんたろうとか宮崎駿とか高畑勲とか出崎統とか押井守とか大友克洋とか庵野秀明とか今敏とか湯浅政明とか細田守とか新海誠とかの監督が前面に押し出されることが多いわけですが、この冊子ではそういった監督が共同制作者として選んだ美術監督の方々をフィーチャーしています。 この冊子ではアニメ監督は冒頭にりんたろうと四宮義俊が対談として大きくフィーチャーされている以外では安彦良和や新海誠が小さい囲みの中で紹介されているくらいで、基本的には背景美術の当事者の言葉が生で記されている。 監督が作品を語る時は作品を通して表現したいことのコンセプトや主題などがメインとなり、いわゆる観念的な話題が展開されることが多いですが、この冊子では、それぞれの背景美術の人たちが具体的にどうやってスキルを身につけたとか、画材は何を使っているとか、背景美術として大量の絵を描くためにどうしたか、というような唯物的な視点が語られていて、具体的なので、とてもわかりやすい。 冊子としては草森秀一、馬島亮子、小倉宏昌、大野広司、木村慎二、林孝輔、日野香緒里、久保友孝のインタビューとそれぞれの作家についての論考に加えて、小林七郎、椋尾篁、山本二三、男鹿和雄といった巨匠たちの記事もある。 背景美術の人たちは自身の作家性や個性を保ちつつも、職人として求められたビジュアルを視覚化するために手を動かす。この冊子ではそういった背景美術の話が作品横断的に出てくるので、アニメーション監督を中心にした紹介をしているときには見えてこない、時代時代における世代的なアニメーション作品の連続性が見られるのが素晴らしい。 この作品とこの作品の美術は同じ人がやっていたのか〜、などという繋がりがわかるのはこういう作りの本ならではと感じた。 僕は1976年生まれなので、オタク第二世代に属しているといわれる年代です。『アリオン』『ラピュタ』『ヴイナス戦記』『トトロ』『火垂るの墓』『AKIRA』『魔女の宅急便』『パトレイバー』などが毎年のように劇場で見れた世代です。すごい時代だったと思う。 この前の世代にはうる星やつらとかあって、この後の世代には攻殻機動隊とエヴァンゲリオンとかがくるわけです。 今から見るとこの1980年代後半というのはCGなどはほとんどなく、手描きのセルアニメの全盛期と言ってもいいのかもしれません。それこそ命を削って描いていたと言っても過言ではないような。 そういったところで、この冊子ではもはや神代の時代とも思われる手描きオンリーの時代の話から、より最近の背景美術の話になるので、デジタルによる作画、コンピューターの導入などについても詳しく述べられています。 細田守などは大変意識的にやっている、手描きとCGのそれぞれの特性が等価で語られているのが現代的な視点と思いました。 新海誠がゲーム業界からアニメに入ってきて、彼のビジョンを具体化するためにそれまでのアニメーション業界の人間ではなく、美大卒の人間が集められて、コンピューターによる背景描画のノウハウが極まっていった、というような話は大変に興味深かった。 美大卒のそういう人たちには日本画の方がより多く入っている印象で、そこは、なるほど、と思った。 各有名美大の卒展などを定点観測的に見に行っているが、今となっては油の人達はより現代的なアプローチで現代美術的なインスタレーションなどにかまけており、具象的な絵を描いているのはやはり圧倒的に日本画の方々というのが、僕の感覚で、そう考えると日本画の方がアニメに多く入ってきているのは肌感として納得できる。傾向の話ではあるのだけれど。 また、背景美術で功を成した人たちの言葉として「美大で絵画を学んだが、このままでは作家にはなれないと感じて〜」みたいなことを言っている人が複数いたのも面白いと思った。 やはり大学で美術を学ぶということは作家を目指すという観念が強いのだろうか。作家になるというのは一つの生存戦略だが、描写技術と比例しないのが、難しいところと思う。価値観が多様になりすぎていて、現代美術の世界のスキームはまた別のベクトルにある気がする。現代ではより社会学的な興味が大切なのかも。 そういう意味において、作家性ではなく、平面表現の技術を身につけた人たちの受け皿としてアニメーションがあるというのは、昨今の美術大学にアニメやゲームなどのコースが増えていることとも連動しているように思われる。 アニメーションはとにかく大きな共同作業だし、資本や当たった時のマネーの動きも大きい。特に最近の商業アニメーションの国内作品の興行収入を考えても、産業規模はものすごいことになってるし。そして、そういう複合的なスケールの作品がアート的でないとは必ずしもいえない。商業的でもアート的な表現は両立できると僕は信じるし、そういう作品もすでに存在する。 多様な社会の包摂と作品の持つスケールを考えるときに、かつての西洋絵画の世界よろしくギルドや工房のような美術のスタジオが多くあるのは、芸術とはなんなのかを考える上で、示唆に富む。 また、後半には日本のアニメーションにおける背景美術の歴史を辿る発展の系譜の論考もあり、これはこういう論考を読むのは初めてなので大変に勉強になった。 アニメーションの抱える文脈は広大だ。単に絵が動くという技術的なところ、つまり錯覚の作り方を始め、産業として考えた時の手塚治虫の功罪とか、あらゆる天才的アニメ監督のそれぞれのあり方とか、アートアニメーションの話とか、手描きかデジタルかとか、世代によって見てきたものが異なることとか。 また国内のアニメだけでなく、海外のアニメにも深い文脈がある。デズニーとかフライシャー兄弟とか、フルデジタルアニメのピクサーとか、スパイダーバースとか、なかなか一筋縄ではいかないリテラシーだ。 とはいえ、そういうリテラシーを理解していなくても、アニメには単純に見てわかる、という強さがある。本来は静止している一枚の絵が動く、というアニメーションはあらゆる角度から人の心を打つ表現だ。 それはやはり手描きであろうがデジタルであろうが、人間が工夫して創造しているものだからなのではないかと思う。 動いたり喋ったりすることで、キャラに命が吹き込まれるということが語られがちなアニメだが、そのキャラが生き生きと動くためには、説得力のある、実在感のある世界が必要で、それは背景美術が担う部分で、それらはスタティックな一枚の絵として動かずにそこにあるが、その存在感が認知に与える影響は無視できない。 そこのあり方を読み取れるとアニメを見る時の視点がより深まることは確実で、この本はそのヒントとなる切り口を大量に示してくれる。 それぞれのアニメ作品の持つ世界観をあくまで視覚的に表現するために様々な工夫を凝らしている人たちがいる、ということがヒシヒシと伝わってくる一冊でした。
  • 2026年6月7日
    大阪環状線 降りて歩いて飲んでみる
    不動産情報サイト、ライフルホームズの街情報メディア、ライフリストで約2年間にわたり連載された街歩きルポをまとめたもの。 僕のこのreadsではスズキナオさんの著作として「ずっとあった店」(ことさら出版)シリーズを2冊紹介したことがある。興味のある方はそちらをご参照ください。街やお店の魅力を紹介するのが得意な書き手です。 「その街に部屋を借りて住みたくなるような生の魅力を伝える」を目的にして大阪環状線の19の駅を毎回ふらっと訪れて気の向くままに散策して、良さそうな酒場に入ってほろ酔いで終わるというスタイル。 大阪環状線全駅制覇で19章。大阪の人情や風情が詰まった良書でありました。 その街の良さやふらりと入ったお店を楽しく味わうスズキナオさんの人柄が偲ばれる暖かいテキストで、読みやすく、楽しい本だった。大阪に行こうと思っている人には強くお勧めです。 町名の由来や駅を中心にしてどのように街が構成されているのかとか、周辺地域のアクセスなどについても具体的に語られていて、臨場感がある。説明も端的で分かりやすく調子も良い。 様々な料理の描写も的確でお腹の空く本でもある。紹介されているあらゆるお店に足を運んでみたくなった。 本人も環状線付近で暮らしたり働いたりしてきた経験があるようで、そういう体験に基づいた記述があるのもよい。リアリティがあると思った。 また、新今宮ではイマジネーションピカスペースというカメラマンのやっている写真集とシーシャを楽しむお店が紹介されており、後藤護さんとのYouTubeで写真集を紹介していた、ルーツが知れて、著者を追いかけているとこういう答え合わせもあって面白く感じた。 ネットの記事の書籍化ということで、ネットよりの本文レイアウトになっているのも読みやすさに繋がっていると感じた。 具体的には1行は約40字程度、インデンツ(文頭の1文字下げ)がなく、段落の間に1行分のスペースがある、という構成。 web記事では、段落は1行スペースで区切ることが多いので、行頭に1文字下げを入れなくても、文章の塊がわかりやすい。それを縦書きでも踏襲していて、内容とのマッチングが良いと思った。 何か観念的な比喩表現などがなく、目に見えたものを歯切れ良くテキストにしていくにはこの方が口語的で良いのかもしれない。 ちなみに僕は仕事で良く新今宮と天王寺の間あたりに宿泊するし、仕事では緑橋やあびこ町、高槻などによく行くので、その周辺の環状線の駅ごとの個性が分かって、大阪の面白さに触れられた気がする。 確かに大阪に住むのもありだな、と思わされた。またこの本は著者のスズキナオさんが一時期勤めていた西九条駅から徒歩で行ける此花地区のシカク出版で購入した。 その時に店主の竹重さんともお話しすることができたし、シカクの歴史を書いた自費出版の「シカクはこうしてこうなった」全5巻も読んだので、スズキナオさんはそこにも登場していた。そういう意味でも親近感を持てる内容だった。 友部正人のように大阪に行くのもありかな。
  • 2026年5月24日
    怒りに火をつけろ
    先日の文フリで出会った本。知人の1人出版社であるところのことさら出版からパブリッシングされている一冊。 過去作『この地獄を生きるのだ』に引き続いて読んだ。『この地獄を生きるのだ』の感想もreadsで公開しているので興味があれば読んでみてください。 幼少期に兄から性被害を受けた筆者が、長年にわたり自らを蝕んだ複雑性PTSDを緩和するために受けたEMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)を伴うカウンセリングの体験談となっている。 複雑な経緯を下敷きにした文章なため、本人としてはカウンセリング体験を基にした個人的なエッセイと考えてほしい、とあとがきには記されてあった。 カウンセラーと小林さんのカンバセーションが中心となっており、カウンセリングというものが世の中にあることを知らしめることをはじめとした啓蒙的な側面を持った本である。 ただ、カウンセラーさんはあくまで没個性的に職業者として表されている。 書名に「怒り」が入っているのは素晴らしい。怒りを表す英単語としてはRAGE、ANGER、UPSETなどがあるが、この怒りはどのくらいのニュアンスなのだろうか。 怒りっぽい人(メルギブソンみたいな)がアンガーマネージメントといって、怒りをコントロールするカウンセリングを受ける、という話はたまにある。 しかし、筆者の小林さんは怒りをコントロールできず、周囲に当たり散らす、というようなマインドとは正反対で、むしろ他者からの迫害(意識的にせよ、無意識的にせよ)を自分のせいと考えさせられるような原体験を多く抱えており、必要かつ適切な怒りを他者に向けることができず、かえって自分を傷つけてきてしまった、ということが語られている。 トラウマというものは、きちんと放出されないと、それができなかった自分に対しての自己嫌悪の形を取るのだと、この本は小林さんの体験を通じて教えてくれる。 そこはとてもつらい描写となる。読者によっては精神的緊張が起こる可能性があるため、扉ページにもメンションがあるほどだ。適切な怒りを持って排出されない怒りは自己破壊につながる。 その怒りを獲得する過程がこの本では強いリアリズムを伴って描かれている。これは大変な勇気と覚悟がいることと思う。真実が語られており、真実が語られている本は常に素晴らしい。町田康もそう言って西村賢太を誉めていた。 とはいえ、「怒り」という言葉から予測するような激しさはこの本にはあまりなく、語りは淡々と冷静で、そこはかとないユーモアもある。それがないと生きていけない、ということもあるが、泣き笑いの情緒が感じられるのは小林さんの作風と言えるのではないか。 辛い現実はあるが、そこに立ち向かうのに文化、カルチャーの力を信じている感じがあり、それは素晴らしく共感するところである。 僕はPTSDがポスト・トラウマティック・ストレス・ディスオーダーの略で日本語では心的外傷後ストレス障害と書く、ということは知っている。 強い恐怖や危険の体験が心的外傷となり、不意にフラッシュバックを引き起こしたりして心身に強いストレスを与えて、様々な症状を引き起こすという。 こういうことは僕の母が肺炎に罹患した際に救急車に乗ったものの受け入れの病院が見つからず、苦しい中も神奈川中をたらい回しにされ、その際の強い恐怖体験からパニック障害を患っていたことがあり、その時に色々と調べたことがあったから、少しは知っているという次第。 僕などは平素、元気があればなんでもできる、みたいな顔をして生活しているが、いくつかこれまでの人生で許せないことや一生許さないみたいな誓いのもとに強くいくつかの出来事を心にロックしており、その関係者などに対しては、折に触れ、神社など詣でるたびに、不幸が訪れるように祈りを捧げている。 なぜかそれを許すことや忘れることができない。 神社や寺などにそういった事柄を繰り返し繰り返し想念としてぶつけていく行為、人はそれを呪いと呼ぶようだが、僕は柔らかく祈りと呼ぶようにしている。prayである。 家族には自分のそう言った傾向についてはカミングアウトしているので、私が寺社仏閣にて熱心に長くニレイニハクシュイチレイなどしていると訝しる。 神社などへの祈りは自分に対してのフィードバックもあり得るので、あまりそういう具体的な祈りはやめた方がいいという意見もある。しかし、50を目前にしてもそれを止めることはできない。 オレのことをコケにしたアイツら、そいつらがのうのうと生きているのは、なんか許せない。実際、また会って話したりしたらきっと悪い人たちではないのかもしれないが、マジでなんとして不幸になっていただきたい。 カッコつけて乗ってる高級車などはきっと事故れ、階段から落ちて腰を打つとか、大切にしている高価なパソコンがクラッシュするとか、入稿に間に合わなくて仕事を失うとか、またその周囲にいる人もなるべく不幸になれ、インプラントが失敗して歯茎がガタガタになれ、レーシックに失敗して目がくらめ、ハチに刺されれ、などなど、そういう事が起れと、考えては怒りを更新してきた。 世に地獄絵、というものがある。宗教画の一ジャンルだが、西洋、東洋の分け隔てなく、多くの宗教は地獄を視覚化してきた。 地獄絵はさまざまな宗教で、言葉のわからない人たち、経典の読めない人たちに地獄を視覚的に伝える手段として描かれた絵だが、あらゆる宗教において天国の絵に比べると質、量ともに絶対に地獄絵の方が充実するのだという。これは宗教絵画においてはよく語られる言説だ。 天国はお花畑とか天気がいいとか、裸の男女がアハハとかウフフとか、そのくらいしか描くことがないが、地獄は釜で茹でたり針の山に登らせたり、水を腹が破れるくらい飲ませたり、鬼が金棒で肛門から口までを貫いたりとか、腹減って激痩せとか、大変な想像力でバリエーションも多彩だ。人の不幸の方が想像力が膨らむということなのだろうか。 ロシアの文豪レフ・トルストイも、その代表作『アンナ・カレーニナ』の冒頭で「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」みたいなことを言っている。 不幸や怒りについて、人間は多様な創造性を発揮する。それは霊長類の本能なのかもしれない。だからこそトラウマはループし、増幅して人を蝕むことがあるということなのかもしれない。 とはいえ、個人的には自分の陰なる部分を相対化、内面化するために、また復讐の心から、抱えた怒りはその鮮度と持続を大切にし、薪を焚べつつきたが、この本を読むと、それがいかに大切であったかということが分かった。 アクション映画、特にデンゼルワシントンの『イコライザー』シリーズとか、ジョンウィックとかジェイソンステイサムの『ビーキーパー』とかシュワちゃんの『コマンドー』とか、トムクルーズのジャックリーチャーシリーズ、ボブ・オデンカークの『Mr.ノーバディ』シリーズが好きなんだ。オレの代わりに、オレをコケにしたあいつらを皆殺しにしてくれるから。 どんなトラウマを抱えるかは外的な要因が強く、もちろん自分で選ぶことはできない。だからこそ苦しく、そこには終わりがないとも言える。しかし、そこには適切な向き合い方もあり、手を差し伸べてくれる人もいる。 それを知っていること、そこにコミットしてみること、についての道を開くという意味で本書の存在意義は強いと思う。僕の周りにも人知れず苦しんでいる人がいないとも限らない。何かのきっかけがあったとして、そんな時にこの本を知っているということが福音となるかもしれない。 この本には貧困の話も重くのしかかってきており、それについても触れたいところだが、かなり長くなってきているので、それはまた別の時に書いてみたい。金がないのは辛い。 ドキュメンタリー映画『どうすればよかったのか?』などとも重なる問題意識を抱えた本と思った。 大変素晴らしく、真に本当のことが書いてある、多くの人に読んで、備えてほしい内容です。心のAEDと言いますか。即効性のあるものではないですが、 周りにいる人のサイン、なんらかの傾向や兆候を見逃さず、押し付けがましくない形で手を差し伸べられるような人になれたら、と思う。 自分が健康なだけに、そのようになれるといいなと思いました。
  • 2026年5月10日
    ずっとあった店 BARレモン・ハート編
    新進の1人出版社、ことさら出版が酒と徘徊ライターのスズキナオとタッグを組んで出版した、ススキノの老舗バー店主へのロングインタビュー。 ことさら出版より数年後に発刊予定の『ずっとあった店』の一章として編まれるものの分冊版とのこと。 友田とんがハヤカワ書房から出版したガルシアマルケスの死に触発されて書かれた『100年の孤独を代わりに読む』という奇書がありますが、それは確かnoteでの連載を印刷して、全国の書店に営業して回って、それが出版社の目に留まり、その結果として大手からの出版に結びついたということがあります。 而して、面白いもの、オリジナリティのあるものには顧客がついてくるということなのでしょう。リトルプレスの可能性を考える時、示唆に富む、夢のあるエピソードです。 この『ずっとあった店』シリーズはそのように雑誌などの連載ではなくリトルプレスを積み重ねて一冊の書籍にまとめていく、という流れになっています。そらは僕としてはリトルプレスの正しい在り方のような気がしていて、応援したい気持ちでいっぱいです。 と、外側の話はそれくらいにして、本の内容は札幌ススキノで35年続くBARレモン・ハートの店主本村武さんへのロングインタビュー。 佐賀に生まれて東京を経由して、ススキノに流れ着いた本村さんの約60年間の夜の店での生活を丁寧に聞き取っていく。 ススキノの古いお店の名前が頻出するが、それが分かるという人はどれくらいいるのだろうか。 栄枯盛衰、盛者必衰。そこには時の流れに通底する強い無常感があるけど、今を生きている本村さんの生命感のある言葉に触れると、やはり毎日の生活の繰り返しの中でモチベーションを保ち続けてきたあくなきバイタリティを感じる。 若い頃女好きだったみたいな話もおおらかでいいです。ナンパの話とかも結構豪快で今風ではないけど、そういう昔話は嫌いじゃない。 本村さんはニーチェ的な意味で超人と呼んでももはや差し支えないのでは。 また、独学でカクテルを学びこれを供するスタイルも素晴らしい。カクテルの研究をしているメモの写真なども掲載されていたが、知恵と工夫の人なのであろう。 とにかくスナック屋台おふくろに引き続き、大変な面白さである。早く続きが読みたい。 僕のずっとあった店と言えば、青森県八戸市の市役所前にあったはんかくさい喫茶ぽんである。田中邦衛似の店主が長年営んできた。八戸の小劇場系の演劇のチラシなどがどわーっと貼ってある薄暗い喫茶店だった。 2021年に閉店して今は更地になっている。この前、八戸に帰った時にその跡地を訪れた。コンクリの基礎は残っており、間取りの跡が視認できた。壁がないとこのくらいのサイズだったのか、とその小ささに驚く。 ハムカレーのセットにアイスコーヒーが僕の定番でした。あのコーヒー。また飲みたいな。
  • 2026年5月10日
    ずっとあった店 スナック屋台おふくろ編
    新進の1人出版社、ことさら出版が酒と徘徊ライターのスズキナオとタッグを組んで出版した、ロードサイドの老舗屋台の店主へのロングインタビュー。 ことさら出版より数年後に発刊予定の『ずっとあった店』の一章として編まれるものの分冊版とのこと。 こういうスタイルの出版もありますね。自力連載みたいな。ZINEと出版の間を縫うような、1人出版社のフットワークの軽さを羨ましくも思う。やはり、小冊子でもISBNとって出版することは大切。それがあるから、ここにも感想が書けるわけだし。 2024年11月30日に50年の歴史を閉じた高知県高知市の屋台、スナック屋台おふくろの店主、シヅ子さん(鹿児島生まれ、取材時は84歳)へのロングインタビュー。 市井の人に目を向けて、そこに深く入り込む手法は民俗学的な部分があり、その人ならず土地の記憶とも結びついている。 いわゆる民俗学的な社会文化人類学とも言えるフィールドワークのような内容で大変に興味深かった。 2024年閉店で50年間の歴史があるとすると、始まりは1970年代後半だ。日本の高度経済成長期の流れ、バブル期などを経て、コロナをくぐり抜けた時代の生き証人としてのシヅ子さんの言葉にはさまざまな文脈がやどる。 80年代、90年代のお客で賑わった時代の話には隔世の感があるが、それでも常連客の憩いの場所ではあることだし、地元の人々との交流が挟まれるテキストには温かいものを感じる。 またシヅ子さんは真言宗を信仰している。前世を意識しながら生き、高野山にも足を運んでいるとか、室蘭までお坊さんに会いに行くなど、信仰に対してはキチンと向き合って生活している。 そういうところが常連とのコミュニケーションにも生きているのであろう。 大変に素晴らしいインタビューand記録と思った。類書を上げるのはフェアじゃないかもしれないが、橋本倫史の『ドライブイン探訪』などがお好きな方には特におすすめである。また、民俗学で言うと宮本常一の『忘れられた日本人』などがお好きな方は現代的な失われつつ昭和のフィールドワークとして楽しく読めるに違いない。 サ上とロ吉のWONDER WHEELを聴きながら。
  • 2026年5月8日
    この地獄を生きるのだ
    この2026年のゴールデンウィークの5月4日に私は東京ビッグサイトにいた。文学フリマ42で知人の主催する1人出版社であるところのことさら出版のブースで売り子をしていたのである。 ことさら主催とは20年来の付き合いであって、彼は私が大変に信頼を置いているビジネス上の協働者である。その彼がここ数年、1人出版社に取り組んでいることが判明し、素晴らしいので色々絡みたいと思っていたところ、文フリに出店するというので、ブースでの販売を手伝わさせていただくことにしたのであった。 ことさら出版の出版物のブース。いくつかの興味深い冊子がある中、小林エリコ著『怒りに火をつけろ』という本があった。家族からの性被害に遭った著者がカウンセリングによって「正しい怒り」を取り戻して回復していく内容なのだという。 命令形のタイトルに私は弱い。曰く、本谷有希子の『腑抜けども、哀しみの愛を見せろ』、スーパーバタードッグ『犬に咥えさせろ』、INU『メシ喰うな』、レイモンド・チャンドラー『三つ数えろ』(注:三つ数えろは映画のタイトル、監督はハワードホークス、チャンドラーの『大いなる眠り』が原作となっている)、京極夏彦『死ねばいいのに』、藤子不F二雄『気楽に殺ろうよ』、ディック『流れよ我が涙、と警官は言った』、入江亜紀『北北西に雲と往け』などなど枚挙にいとまもない。 ジャケも怒りに燃えたマリーローランサンみたいで良い。早速これを読もうと思ったが、ことさら主催がまずはちくまの『この地獄を生きるのだ』を、読むべし、その次にこちらを読むとよい、というので、まずは密林でこれを注文。すぐに届いたので読んでみたところ、大変に感銘を受ける内容であった。引き込まれて一昼夜で読んでしまった。 短大卒業後に入った編集社でのブラックな労働から貧困に陥り、心を病んで自殺未遂。その後、デイケアから生活保護を受給することになり、やがてそこから編集の仕事を見つけ社会に復帰していくまでを描くノンフィクションという内容。 ブラックな業態の編集業というのは僕のキャリア初期には重なりますので親近感強し。 デイケアや生活保護の内情が小林さんの見たままに描かれており、非情なリアリズムを感じた。人を助けるようなフリをしつつ、詰まるところ根本的には利他的になりきれない人たちがいた。 僕の母も70代で肺炎にかかった折に病院をたらい回しにされた結果、パニック障害となり、睡眠障害と鬱を抱えて生きている。また、そんな母親は一昨年に転倒の上、脊椎損傷で首の手術を受け、外を出歩く時には補助が必要な要介護生活を送っている。 この本では三障害について触れられていて、それは身体障害、知的障害、精神障害で母のそれは身体障害で、小林さんのは精神障害である。三障害の中では精神障害が最も就労へのハードルは高いとされているらしい。私の母は80も過ぎているので就労ということはないが、年金と家族からの多少の仕送りのみで生活をしている。 なので、母と小林さんの状況を一緒にすることはできないが、それでも私もデイケアの人たちとの複数の面談や役所でのたらい回しなどを経験したことがあり、その際に感じた暖簾に腕押し感や制度というものが、それぞれの状況に個別対応して寄り添うことができないがために生み出す、硬直したカフカ的状況の空気感には既視感を覚えた。ケースワーカーの人の醸し出す何らかの空気感。 私は町田康が好きなんですが、町田康がNHKの文化講演会で2019年に太宰治について語っている回がある。太宰治の自己破壊として4回の自殺未遂のサイクルを述べているというものだ。 町田康によると太宰は自己破壊→道化→キリストとの同化→逆ギレ→自己破壊というサイクルを繰り返し、4度目に自己破壊が成就した、とのこと。それぞれの逆ギレには妻の不貞だの井伏鱒二だの芥川龍之介だの左翼思想だのへのこだわりなどがあるのですが、最終的には太宰は自己破壊を完遂。帰らぬ人と成り果てた。 小林さんは幸なことに死なずにいるので、こうやって続きなどを書けるので、私らはそれを読むことができる。 『この地獄を生きるのだ』では、筆者が自己破壊に手を染めずにおられない、辛い局面が数度描かれているが、それを生き抜き、やがて日常に立ち返り、新たな就職先で編集長が『忍風カムイ外伝』のオープニングを一緒に見てくれたり、最初の就職のお祝いに母がポケモンのピカチュウのハンカチをもらったエピソードを思い出したり、古い友達からの手紙に『キッズリターン』の「バカヤロー、まだはじまっちゃいねえよ」のセリフが書いてあったりだとか、日常の中でフィクションやエンタメの一部分が福音として立ち上がる瞬間を奇跡的に刻み込んでいる。涙が出る美しさだ。 文フリの打ち上げではことさら主催のとり計らいもあり、小林さんと直接話す機会を得た。僕もキャリアの初期にコンビニ売りの水着グラビア誌に携わっていた経験があり、ブラウン管に映ったエロビデオのシーンを撮影したよね、なんていうことでもり上がった後にヒップホップの話となった。 僕はジャパニーズヒップホップではブッダブランドの『人間発電所』のサビの部分を暗唱できる程度の知識しかないが、自宅の近所にMC漢akaGAMIの運営する9sari cafeがあることは、ジャパニーズヒップホップ界隈の方向けのすべらない話として確保している。高田馬場と新宿の間、新大久保の少し北のあたりの街道沿いにそのカフェはある。近くにうまいパン屋もある。 MCバトルなどはあまり知らないが、息子と一緒にそこに行ってD.O.考案の練マッドカクテルを飲んだりしたこともある、という話をすると、そこはなんといってもMC漢の根城ということであるし、ゲトーで危険なのでは、とおっしゃっていたが、普通に通えるよいお店ですよ、と伝えると興味を持っているようでした。 いつかアテンドして差し上げたい。MC漢はいる時といない時があります。早い時間に行くとほぼおらないです。
  • 2026年5月6日
    朝鮮漂流
    朝鮮漂流
    文政年間に琉球の沖永良部島からの帰路に遭難・漂流し朝鮮にたどり着いた薩摩の上納船(薩摩藩への年貢を輸送する船)の辿った数奇な運命を描く。 1819年(文政2年)、この船は任務を終えた代官一行25名を乗せて鹿児島へ向かう途中で嵐に遭い、朝鮮半島へ漂着。当時、薩摩藩は琉球を通じて中国とも交流があったが、朝鮮との公式な窓口を持っていなかったため、この漂流は対馬藩を介した複雑な外交交渉へと発展することになる。 その交渉は船内で1人漢文を能く識る安田義方が担当することとなり、主に筆談でやり取りが重ねられることとなる。 安田の手記となる「朝鮮漂流日記」を原資料として町田康が創作したものだが、そのやり取りが大変に面白い。 実際、展開というようなものは甚だ乏しく、単にカフカ的な安田と朝鮮側のやり取りが続くだけなので、普通の小説とは少し視点を変えて読んだ方が良い作品と感じる。 町田によると笑いを意識して書いた、とのことだが、星新一の『人民は弱し、官吏は強し』やカフカの『城』のように、全く融通の効かない上に上司の上にさらに上司がおり、物事が全く前に進まない官僚的なやり取りがエターナルに継続する、地獄的な状況を安田という薩摩武士の視点で切り取っている。そのカフカ的な状況を客観的に楽しむべきで、展開が乏しいので、退屈、というのは作品の主題を見誤っていると言えるのではないか、と思う。 お話しとしては特に内容があるわけではない、とにかく筆談でのやり取りなため大変にまどろっこしいが、朝鮮側の都合により上陸を禁じられた日本側はその難破船が倍速で崩壊していく中、荷物を捨てたり、水をかき出したりしつつ、しかし、朝鮮側の恩寵に頼るしかないというジレンマを抱えて、遅々として進まない交渉に辛抱強く対応していく。 おそらく原資料としては、やり取りの内容のみが記されているのだろうが、その裏で薩摩武士たる安田が何を考えたかを補筆したのであろう、その辺りが落語的な趣があり、なんというか組織を相手取った交渉ごとには付きものの堂々巡りや、意味の分からない権力を持ったボンクラなどの登場といったエピソードが語られていく。 話としては吉村昭の『漂流』や『大黒屋光太夫』などを想起させるが、原因や結果などを楽しむストーリーの楽しみといった側面は薄く、とにかく状況がどんどん悪くなっていくところに、焦りは深刻にあるが、公的文書として筆談する、というジレンマの裏側にある心持ちを読み取って楽しむ、という本だと思った。 また、筆談の中でなぜか安田が漢詩の才能のある人物という風評が立ち、疲れて頭が朦朧としているのに、なんかこの詩を読んで、返詩を願われたりして、勘弁してくれ、みたくなってるのも大変に趣のあるところと思った。 ストーリーも奇抜だが、どちらかというと語り口の面白さを体感するような小説と思った。 プロジェクトヘイルメアリーでは異星人とあんなにすんなり意思疎通できるようになっていたのに、こちらはどうだ。ホントに人間同士が政治を仲立にすると通じ合うのは難しい、ということがテーマだと思った。 大変に笑ける名作でした。オススメです!
  • 2026年5月2日
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 下
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 下
    SF大作としてライアン・ゴズリング主演のSONY映画で公開されていて大変な話題になっていたので見に行ったら素晴らしかったので、少し前に話題になっていた小説の方にも食指を伸ばしてみた。 オーディブルの音読で聴きました。上下巻で合計24時間以上ありましたが、ロッキーの音声の処理などが和音の合成で音楽的になっており、なかなか手が混んでいるなと思いました。 お話としては恒星間旅行の動機づけとしての宇宙バクテリアの存在が荒唐無稽だがかなり科学的に緻密に表されていて、知的好奇心を揺さぶられた。 また、主人公が当初記憶に障害があり、振り返る形で物語が同時進行していくのは面白いと思った。記憶健忘がどういう時間感覚で忘れたり思い出したりするのか不明だが、ここはなんとなく、近い記憶としてロケットの発射付近から思い出して、だんだんと過去に遡っていくのが理屈のような気がするが、そこは小説なテクニックとして、二つの時系列を同時並行させることでドラマを作っているので、そこは作劇の工夫として細かいことは言わないこととしよう。大変なテクニックだと思った。 現在、日本の教育では高次の資質能力、みたいなキーワードがあり、ブリコラージュ的な考え方に基づき、知識を有効に活用するという知識と判断の結びつきが求められている。 このアンディ・ウィアーの作風として前作の火星の人も同様だったが、本作でも科学的知識を具体的な生に活用するシーンが多く出てくる。 記憶喪失の中、閉ざされたラボの重力を計算するために振り子の原理を活用したり、様々な実験をその場にあるもので進めて現状を把握する様が描かれているが、これはマスターキートンとか冒険野郎マクガイバーとかでも大変に興奮するシナリオでサバイバルものとして大変に成功していると思う。 また、中盤以降はファーストコンタクものの要素やバディものの要素も加わり、異星人ラッキーとの交流や種を超えた友情が感動的に描かれて、お互いの自己犠牲と尊敬のあり方には小説の中のキャラクターとはいえ大変に泣かされた。すごくよかった。 また地球上のヘイルメアリープロジェクトチームの面々も個性派揃いでよかった。ディミトリはロシア的豪傑でグレイスとオタク友達的に科学者的な共感を持っていたようで、なんかよかった。 また、プロジェクトのチーフとして冷淡なリーダーシップを取る、エヴァ・ストラットのキャラも良かった。彼女が終盤に自分は歴史で学位を取った、という話をするシーンは米粒写経の居島一平も泣いた、と言っていたが、僕もだいぶグッと来た。科学者のオプディミズムと人文学者のペシミズムの表裏一体がうまく表されたキャラだった。 冒頭の2+2という問いはドストエフスキーの地下室の手記の公式だし、小型輸送船がジョン、ポール、ジョージ、リンゴのビートルズの命名なのは「アクロスザユニバース」へのオマージュだろう。それ以外にも多彩な文化的、オタク的目配せもあり、大変楽しんだ。 結局、地球は救われるが、実際にどんな地獄が展開されたかには触れず、結果のみが知らされるラストは潔くオプディミズムに満ち溢れていた。 その後、グレイスは幸せに暮らしたとさ、めでたしめでたし、で終わっているのはこれがおとぎ話である、ということのメタファーなのだろう。読後感は爽やかだが、奥にあるのは人間の恐ろしさをイマジネーションしてみる大切さだと思うし、そういうふうに書いているところに小説的な強さ、SFというジャンルについて意識的で素晴らしいと思った。 映画も見たし、音読も聴いた。あとは小説も読もうかな。また、グレイスとロッキーに会いたくなってます。オススメの作品でした。
  • 2026年5月2日
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 上
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 上
    下巻に続く。
  • 2026年4月27日
    本なら売るほど 3
    『本なら売るほど』の3巻が出ていた。本好きにはたまらない、本にまつわるハートウォーミングなエピソードが揃っている。 各話完結型のヒューマンドラマなので、3巻くらいになると役者も揃ってきて、複数回登場するキャラが出てくる。 こういう、ある店を中心とした人間ドラマはこの辺りから常連キャラを深掘りしたりする楽しみが出てくる。 長く続いて欲しいシリーズです。おすすめ。
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