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勝村巌
勝村巌
@katsumura
  • 2026年5月24日
    怒りに火をつけろ
    先日の文フリで出会った本。知人の1人出版社であるところのことさら出版からパブリッシングされている一冊。 過去作『この地獄を生きるのだ』に引き続いて読んだ。『この地獄を生きるのだ』の感想もreadsで公開しているので興味があれば読んでみてください。 幼少期に兄から性被害を受けた筆者が、長年にわたり自らを蝕んだ複雑性PTSDを緩和するために受けたEMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)を伴うカウンセリングの体験談となっている。 複雑な経緯を下敷きにした文章なため、本人としてはカウンセリング体験を基にした個人的なエッセイと考えてほしい、とあとがきには記されてあった。 カウンセラーと小林さんのカンバセーションが中心となっており、カウンセリングというものが世の中にあることを知らしめることをはじめとした啓蒙的な側面を持った本である。 ただ、カウンセラーさんはあくまで没個性的に職業者として表されている。 書名に「怒り」が入っているのは素晴らしい。怒りを表す英単語としてはRAGE、ANGER、UPSETなどがあるが、この怒りはどのくらいのニュアンスなのだろうか。 怒りっぽい人(メルギブソンみたいな)がアンガーマネージメントといって、怒りをコントロールするカウンセリングを受ける、という話はたまにある。 しかし、筆者の小林さんは怒りをコントロールできず、周囲に当たり散らす、というようなマインドとは正反対で、むしろ他者からの迫害(意識的にせよ、無意識的にせよ)を自分のせいと考えさせられるような原体験を多く抱えており、必要かつ適切な怒りを他者に向けることができず、かえって自分を傷つけてきてしまった、ということが語られている。 トラウマというものは、きちんと放出されないと、それができなかった自分に対しての自己嫌悪の形を取るのだと、この本は小林さんの体験を通じて教えてくれる。 そこはとてもつらい描写となる。読者によっては精神的緊張が起こる可能性があるため、扉ページにもメンションがあるほどだ。適切な怒りを持って排出されない怒りは自己破壊につながる。 その怒りを獲得する過程がこの本では強いリアリズムを伴って描かれている。これは大変な勇気と覚悟がいることと思う。真実が語られており、真実が語られている本は常に素晴らしい。町田康もそう言って西村賢太を誉めていた。 とはいえ、「怒り」という言葉から予測するような激しさはこの本にはあまりなく、語りは淡々と冷静で、そこはかとないユーモアもある。それがないと生きていけない、ということもあるが、泣き笑いの情緒が感じられるのは小林さんの作風と言えるのではないか。 辛い現実はあるが、そこに立ち向かうのに文化、カルチャーの力を信じている感じがあり、それは素晴らしく共感するところである。 僕はPTSDがポスト・トラウマティック・ストレス・ディスオーダーの略で日本語では心的外傷後ストレス障害と書く、ということは知っている。 強い恐怖や危険の体験が心的外傷となり、不意にフラッシュバックを引き起こしたりして心身に強いストレスを与えて、様々な症状を引き起こすという。 こういうことは僕の母が肺炎に罹患した際に救急車に乗ったものの受け入れの病院が見つからず、苦しい中も神奈川中をたらい回しにされ、その際の強い恐怖体験からパニック障害を患っていたことがあり、その時に色々と調べたことがあったから、少しは知っているという次第。 僕などは平素、元気があればなんでもできる、みたいな顔をして生活しているが、いくつかこれまでの人生で許せないことや一生許さないみたいな誓いのもとに強くいくつかの出来事を心にロックしており、その関係者などに対しては、折に触れ、神社など詣でるたびに、不幸が訪れるように祈りを捧げている。 なぜかそれを許すことや忘れることができない。 神社や寺などにそういった事柄を繰り返し繰り返し想念としてぶつけていく行為、人はそれを呪いと呼ぶようだが、僕は柔らかく祈りと呼ぶようにしている。prayである。 家族には自分のそう言った傾向についてはカミングアウトしているので、私が寺社仏閣にて熱心に長くニレイニハクシュイチレイなどしていると訝しる。 神社などへの祈りは自分に対してのフィードバックもあり得るので、あまりそういう具体的な祈りはやめた方がいいという意見もある。しかし、50を目前にしてもそれを止めることはできない。 オレのことをコケにしたアイツら、そいつらがのうのうと生きているのは、なんか許せない。実際、また会って話したりしたらきっと悪い人たちではないのかもしれないが、マジでなんとして不幸になっていただきたい。 カッコつけて乗ってる高級車などはきっと事故れ、階段から落ちて腰を打つとか、大切にしている高価なパソコンがクラッシュするとか、入稿に間に合わなくて仕事を失うとか、またその周囲にいる人もなるべく不幸になれ、インプラントが失敗して歯茎がガタガタになれ、レーシックに失敗して目がくらめ、ハチに刺されれ、などなど、そういう事が起れと、考えては怒りを更新してきた。 世に地獄絵、というものがある。宗教画の一ジャンルだが、西洋、東洋の分け隔てなく、多くの宗教は地獄を視覚化してきた。 地獄絵はさまざまな宗教で、言葉のわからない人たち、経典の読めない人たちに地獄を視覚的に伝える手段として描かれた絵だが、あらゆる宗教において天国の絵に比べると質、量ともに絶対に地獄絵の方が充実するのだという。これは宗教絵画においてはよく語られる言説だ。 天国はお花畑とか天気がいいとか、裸の男女がアハハとかウフフとか、そのくらいしか描くことがないが、地獄は釜で茹でたり針の山に登らせたり、水を腹が破れるくらい飲ませたり、鬼が金棒で肛門から口までを貫いたりとか、腹減って激痩せとか、大変な想像力でバリエーションも多彩だ。人の不幸の方が想像力が膨らむということなのだろうか。 ロシアの文豪レフ・トルストイも、その代表作『アンナ・カレーニナ』の冒頭で「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」みたいなことを言っている。 不幸や怒りについて、人間は多様な創造性を発揮する。それは霊長類の本能なのかもしれない。だからこそトラウマはループし、増幅して人を蝕むことがあるということなのかもしれない。 とはいえ、個人的には自分の陰なる部分を相対化、内面化するために、また復讐の心から、抱えた怒りはその鮮度と持続を大切にし、薪を焚べつつきたが、この本を読むと、それがいかに大切であったかということが分かった。 アクション映画、特にデンゼルワシントンの『イコライザー』シリーズとか、ジョンウィックとかジェイソンステイサムの『ビーキーパー』とかシュワちゃんの『コマンドー』とか、トムクルーズのジャックリーチャーシリーズ、ボブ・オデンカークの『Mr.ノーバディ』シリーズが好きなんだ。オレの代わりに、オレをコケにしたあいつらを皆殺しにしてくれるから。 どんなトラウマを抱えるかは外的な要因が強く、もちろん自分で選ぶことはできない。だからこそ苦しく、そこには終わりがないとも言える。しかし、そこには適切な向き合い方もあり、手を差し伸べてくれる人もいる。 それを知っていること、そこにコミットしてみること、についての道を開くという意味で本書の存在意義は強いと思う。僕の周りにも人知れず苦しんでいる人がいないとも限らない。何かのきっかけがあったとして、そんな時にこの本を知っているということが福音となるかもしれない。 この本には貧困の話も重くのしかかってきており、それについても触れたいところだが、かなり長くなってきているので、それはまた別の時に書いてみたい。金がないのは辛い。 ドキュメンタリー映画『どうすればよかったのか?』などとも重なる問題意識を抱えた本と思った。 大変素晴らしく、真に本当のことが書いてある、多くの人に読んで、備えてほしい内容です。心のAEDと言いますか。即効性のあるものではないですが、 周りにいる人のサイン、なんらかの傾向や兆候を見逃さず、押し付けがましくない形で手を差し伸べられるような人になれたら、と思う。 自分が健康なだけに、そのようになれるといいなと思いました。
  • 2026年5月10日
    ずっとあった店 BARレモン・ハート編
    新進の1人出版社、ことさら出版が酒と徘徊ライターのスズキナオとタッグを組んで出版した、ススキノの老舗バー店主へのロングインタビュー。 ことさら出版より数年後に発刊予定の『ずっとあった店』の一章として編まれるものの分冊版とのこと。 友田とんがハヤカワ書房から出版したガルシアマルケスの死に触発されて書かれた『100年の孤独を代わりに読む』という奇書がありますが、それは確かnoteでの連載を印刷して、全国の書店に営業して回って、それが出版社の目に留まり、その結果として大手からの出版に結びついたということがあります。 而して、面白いもの、オリジナリティのあるものには顧客がついてくるということなのでしょう。リトルプレスの可能性を考える時、示唆に富む、夢のあるエピソードです。 この『ずっとあった店』シリーズはそのように雑誌などの連載ではなくリトルプレスを積み重ねて一冊の書籍にまとめていく、という流れになっています。そらは僕としてはリトルプレスの正しい在り方のような気がしていて、応援したい気持ちでいっぱいです。 と、外側の話はそれくらいにして、本の内容は札幌ススキノで35年続くBARレモン・ハートの店主本村武さんへのロングインタビュー。 佐賀に生まれて東京を経由して、ススキノに流れ着いた本村さんの約60年間の夜の店での生活を丁寧に聞き取っていく。 ススキノの古いお店の名前が頻出するが、それが分かるという人はどれくらいいるのだろうか。 栄枯盛衰、盛者必衰。そこには時の流れに通底する強い無常感があるけど、今を生きている本村さんの生命感のある言葉に触れると、やはり毎日の生活の繰り返しの中でモチベーションを保ち続けてきたあくなきバイタリティを感じる。 若い頃女好きだったみたいな話もおおらかでいいです。ナンパの話とかも結構豪快で今風ではないけど、そういう昔話は嫌いじゃない。 本村さんはニーチェ的な意味で超人と呼んでももはや差し支えないのでは。 また、独学でカクテルを学びこれを供するスタイルも素晴らしい。カクテルの研究をしているメモの写真なども掲載されていたが、知恵と工夫の人なのであろう。 とにかくスナック屋台おふくろに引き続き、大変な面白さである。早く続きが読みたい。 僕のずっとあった店と言えば、青森県八戸市の市役所前にあったはんかくさい喫茶ぽんである。田中邦衛似の店主が長年営んできた。八戸の小劇場系の演劇のチラシなどがどわーっと貼ってある薄暗い喫茶店だった。 2021年に閉店して今は更地になっている。この前、八戸に帰った時にその跡地を訪れた。コンクリの基礎は残っており、間取りの跡が視認できた。壁がないとこのくらいのサイズだったのか、とその小ささに驚く。 ハムカレーのセットにアイスコーヒーが僕の定番でした。あのコーヒー。また飲みたいな。
  • 2026年5月10日
    ずっとあった店 スナック屋台おふくろ編
    新進の1人出版社、ことさら出版が酒と徘徊ライターのスズキナオとタッグを組んで出版した、ロードサイドの老舗屋台の店主へのロングインタビュー。 ことさら出版より数年後に発刊予定の『ずっとあった店』の一章として編まれるものの分冊版とのこと。 こういうスタイルの出版もありますね。自力連載みたいな。ZINEと出版の間を縫うような、1人出版社のフットワークの軽さを羨ましくも思う。やはり、小冊子でもISBNとって出版することは大切。それがあるから、ここにも感想が書けるわけだし。 2024年11月30日に50年の歴史を閉じた高知県高知市の屋台、スナック屋台おふくろの店主、シヅ子さん(鹿児島生まれ、取材時は84歳)へのロングインタビュー。 市井の人に目を向けて、そこに深く入り込む手法は民俗学的な部分があり、その人ならず土地の記憶とも結びついている。 いわゆる民俗学的な社会文化人類学とも言えるフィールドワークのような内容で大変に興味深かった。 2024年閉店で50年間の歴史があるとすると、始まりは1970年代後半だ。日本の高度経済成長期の流れ、バブル期などを経て、コロナをくぐり抜けた時代の生き証人としてのシヅ子さんの言葉にはさまざまな文脈がやどる。 80年代、90年代のお客で賑わった時代の話には隔世の感があるが、それでも常連客の憩いの場所ではあることだし、地元の人々との交流が挟まれるテキストには温かいものを感じる。 またシヅ子さんは真言宗を信仰している。前世を意識しながら生き、高野山にも足を運んでいるとか、室蘭までお坊さんに会いに行くなど、信仰に対してはキチンと向き合って生活している。 そういうところが常連とのコミュニケーションにも生きているのであろう。 大変に素晴らしいインタビューand記録と思った。類書を上げるのはフェアじゃないかもしれないが、橋本倫史の『ドライブイン探訪』などがお好きな方には特におすすめである。また、民俗学で言うと宮本常一の『忘れられた日本人』などがお好きな方は現代的な失われつつ昭和のフィールドワークとして楽しく読めるに違いない。 サ上とロ吉のWONDER WHEELを聴きながら。
  • 2026年5月8日
    この地獄を生きるのだ
    この2026年のゴールデンウィークの5月4日に私は東京ビッグサイトにいた。文学フリマ42で知人の主催する1人出版社であるところのことさら出版のブースで売り子をしていたのである。 ことさら主催とは20年来の付き合いであって、彼は私が大変に信頼を置いているビジネス上の協働者である。その彼がここ数年、1人出版社に取り組んでいることが判明し、素晴らしいので色々絡みたいと思っていたところ、文フリに出店するというので、ブースでの販売を手伝わさせていただくことにしたのであった。 ことさら出版の出版物のブース。いくつかの興味深い冊子がある中、小林エリコ著『怒りに火をつけろ』という本があった。家族からの性被害に遭った著者がカウンセリングによって「正しい怒り」を取り戻して回復していく内容なのだという。 命令形のタイトルに私は弱い。曰く、本谷有希子の『腑抜けども、哀しみの愛を見せろ』、スーパーバタードッグ『犬に咥えさせろ』、INU『メシ喰うな』、レイモンド・チャンドラー『三つ数えろ』(注:三つ数えろは映画のタイトル、監督はハワードホークス、チャンドラーの『大いなる眠り』が原作となっている)、京極夏彦『死ねばいいのに』、藤子不F二雄『気楽に殺ろうよ』、ディック『流れよ我が涙、と警官は言った』、入江亜紀『北北西に雲と往け』などなど枚挙にいとまもない。 ジャケも怒りに燃えたマリーローランサンみたいで良い。早速これを読もうと思ったが、ことさら主催がまずはちくまの『この地獄を生きるのだ』を、読むべし、その次にこちらを読むとよい、というので、まずは密林でこれを注文。すぐに届いたので読んでみたところ、大変に感銘を受ける内容であった。引き込まれて一昼夜で読んでしまった。 短大卒業後に入った編集社でのブラックな労働から貧困に陥り、心を病んで自殺未遂。その後、デイケアから生活保護を受給することになり、やがてそこから編集の仕事を見つけ社会に復帰していくまでを描くノンフィクションという内容。 ブラックな業態の編集業というのは僕のキャリア初期には重なりますので親近感強し。 デイケアや生活保護の内情が小林さんの見たままに描かれており、非情なリアリズムを感じた。人を助けるようなフリをしつつ、詰まるところ根本的には利他的になりきれない人たちがいた。 僕の母も70代で肺炎にかかった折に病院をたらい回しにされた結果、パニック障害となり、睡眠障害と鬱を抱えて生きている。また、そんな母親は一昨年に転倒の上、脊椎損傷で首の手術を受け、外を出歩く時には補助が必要な要介護生活を送っている。 この本では三障害について触れられていて、それは身体障害、知的障害、精神障害で母のそれは身体障害で、小林さんのは精神障害である。三障害の中では精神障害が最も就労へのハードルは高いとされているらしい。私の母は80も過ぎているので就労ということはないが、年金と家族からの多少の仕送りのみで生活をしている。 なので、母と小林さんの状況を一緒にすることはできないが、それでも私もデイケアの人たちとの複数の面談や役所でのたらい回しなどを経験したことがあり、その際に感じた暖簾に腕押し感や制度というものが、それぞれの状況に個別対応して寄り添うことができないがために生み出す、硬直したカフカ的状況の空気感には既視感を覚えた。ケースワーカーの人の醸し出す何らかの空気感。 私は町田康が好きなんですが、町田康がNHKの文化講演会で2019年に太宰治について語っている回がある。太宰治の自己破壊として4回の自殺未遂のサイクルを述べているというものだ。 町田康によると太宰は自己破壊→道化→キリストとの同化→逆ギレ→自己破壊というサイクルを繰り返し、4度目に自己破壊が成就した、とのこと。それぞれの逆ギレには妻の不貞だの井伏鱒二だの芥川龍之介だの左翼思想だのへのこだわりなどがあるのですが、最終的には太宰は自己破壊を完遂。帰らぬ人と成り果てた。 小林さんは幸なことに死なずにいるので、こうやって続きなどを書けるので、私らはそれを読むことができる。 『この地獄を生きるのだ』では、筆者が自己破壊に手を染めずにおられない、辛い局面が数度描かれているが、それを生き抜き、やがて日常に立ち返り、新たな就職先で編集長が『忍風カムイ外伝』のオープニングを一緒に見てくれたり、最初の就職のお祝いに母がポケモンのピカチュウのハンカチをもらったエピソードを思い出したり、古い友達からの手紙に『キッズリターン』の「バカヤロー、まだはじまっちゃいねえよ」のセリフが書いてあったりだとか、日常の中でフィクションやエンタメの一部分が福音として立ち上がる瞬間を奇跡的に刻み込んでいる。涙が出る美しさだ。 文フリの打ち上げではことさら主催のとり計らいもあり、小林さんと直接話す機会を得た。僕もキャリアの初期にコンビニ売りの水着グラビア誌に携わっていた経験があり、ブラウン管に映ったエロビデオのシーンを撮影したよね、なんていうことでもり上がった後にヒップホップの話となった。 僕はジャパニーズヒップホップではブッダブランドの『人間発電所』のサビの部分を暗唱できる程度の知識しかないが、自宅の近所にMC漢akaGAMIの運営する9sari cafeがあることは、ジャパニーズヒップホップ界隈の方向けのすべらない話として確保している。高田馬場と新宿の間、新大久保の少し北のあたりの街道沿いにそのカフェはある。近くにうまいパン屋もある。 MCバトルなどはあまり知らないが、息子と一緒にそこに行ってD.O.考案の練マッドカクテルを飲んだりしたこともある、という話をすると、そこはなんといってもMC漢の根城ということであるし、ゲトーで危険なのでは、とおっしゃっていたが、普通に通えるよいお店ですよ、と伝えると興味を持っているようでした。 いつかアテンドして差し上げたい。MC漢はいる時といない時があります。早い時間に行くとほぼおらないです。
  • 2026年5月6日
    朝鮮漂流
    朝鮮漂流
    文政年間に琉球の沖永良部島からの帰路に遭難・漂流し朝鮮にたどり着いた薩摩の上納船(薩摩藩への年貢を輸送する船)の辿った数奇な運命を描く。 1819年(文政2年)、この船は任務を終えた代官一行25名を乗せて鹿児島へ向かう途中で嵐に遭い、朝鮮半島へ漂着。当時、薩摩藩は琉球を通じて中国とも交流があったが、朝鮮との公式な窓口を持っていなかったため、この漂流は対馬藩を介した複雑な外交交渉へと発展することになる。 その交渉は船内で1人漢文を能く識る安田義方が担当することとなり、主に筆談でやり取りが重ねられることとなる。 安田の手記となる「朝鮮漂流日記」を原資料として町田康が創作したものだが、そのやり取りが大変に面白い。 実際、展開というようなものは甚だ乏しく、単にカフカ的な安田と朝鮮側のやり取りが続くだけなので、普通の小説とは少し視点を変えて読んだ方が良い作品と感じる。 町田によると笑いを意識して書いた、とのことだが、星新一の『人民は弱し、官吏は強し』やカフカの『城』のように、全く融通の効かない上に上司の上にさらに上司がおり、物事が全く前に進まない官僚的なやり取りがエターナルに継続する、地獄的な状況を安田という薩摩武士の視点で切り取っている。そのカフカ的な状況を客観的に楽しむべきで、展開が乏しいので、退屈、というのは作品の主題を見誤っていると言えるのではないか、と思う。 お話しとしては特に内容があるわけではない、とにかく筆談でのやり取りなため大変にまどろっこしいが、朝鮮側の都合により上陸を禁じられた日本側はその難破船が倍速で崩壊していく中、荷物を捨てたり、水をかき出したりしつつ、しかし、朝鮮側の恩寵に頼るしかないというジレンマを抱えて、遅々として進まない交渉に辛抱強く対応していく。 おそらく原資料としては、やり取りの内容のみが記されているのだろうが、その裏で薩摩武士たる安田が何を考えたかを補筆したのであろう、その辺りが落語的な趣があり、なんというか組織を相手取った交渉ごとには付きものの堂々巡りや、意味の分からない権力を持ったボンクラなどの登場といったエピソードが語られていく。 話としては吉村昭の『漂流』や『大黒屋光太夫』などを想起させるが、原因や結果などを楽しむストーリーの楽しみといった側面は薄く、とにかく状況がどんどん悪くなっていくところに、焦りは深刻にあるが、公的文書として筆談する、というジレンマの裏側にある心持ちを読み取って楽しむ、という本だと思った。 また、筆談の中でなぜか安田が漢詩の才能のある人物という風評が立ち、疲れて頭が朦朧としているのに、なんかこの詩を読んで、返詩を願われたりして、勘弁してくれ、みたくなってるのも大変に趣のあるところと思った。 ストーリーも奇抜だが、どちらかというと語り口の面白さを体感するような小説と思った。 プロジェクトヘイルメアリーでは異星人とあんなにすんなり意思疎通できるようになっていたのに、こちらはどうだ。ホントに人間同士が政治を仲立にすると通じ合うのは難しい、ということがテーマだと思った。 大変に笑ける名作でした。オススメです!
  • 2026年5月2日
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 下
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 下
    SF大作としてライアン・ゴズリング主演のSONY映画で公開されていて大変な話題になっていたので見に行ったら素晴らしかったので、少し前に話題になっていた小説の方にも食指を伸ばしてみた。 オーディブルの音読で聴きました。上下巻で合計24時間以上ありましたが、ロッキーの音声の処理などが和音の合成で音楽的になっており、なかなか手が混んでいるなと思いました。 お話としては恒星間旅行の動機づけとしての宇宙バクテリアの存在が荒唐無稽だがかなり科学的に緻密に表されていて、知的好奇心を揺さぶられた。 また、主人公が当初記憶に障害があり、振り返る形で物語が同時進行していくのは面白いと思った。記憶健忘がどういう時間感覚で忘れたり思い出したりするのか不明だが、ここはなんとなく、近い記憶としてロケットの発射付近から思い出して、だんだんと過去に遡っていくのが理屈のような気がするが、そこは小説なテクニックとして、二つの時系列を同時並行させることでドラマを作っているので、そこは作劇の工夫として細かいことは言わないこととしよう。大変なテクニックだと思った。 現在、日本の教育では高次の資質能力、みたいなキーワードがあり、ブリコラージュ的な考え方に基づき、知識を有効に活用するという知識と判断の結びつきが求められている。 このアンディ・ウィアーの作風として前作の火星の人も同様だったが、本作でも科学的知識を具体的な生に活用するシーンが多く出てくる。 記憶喪失の中、閉ざされたラボの重力を計算するために振り子の原理を活用したり、様々な実験をその場にあるもので進めて現状を把握する様が描かれているが、これはマスターキートンとか冒険野郎マクガイバーとかでも大変に興奮するシナリオでサバイバルものとして大変に成功していると思う。 また、中盤以降はファーストコンタクものの要素やバディものの要素も加わり、異星人ラッキーとの交流や種を超えた友情が感動的に描かれて、お互いの自己犠牲と尊敬のあり方には小説の中のキャラクターとはいえ大変に泣かされた。すごくよかった。 また地球上のヘイルメアリープロジェクトチームの面々も個性派揃いでよかった。ディミトリはロシア的豪傑でグレイスとオタク友達的に科学者的な共感を持っていたようで、なんかよかった。 また、プロジェクトのチーフとして冷淡なリーダーシップを取る、エヴァ・ストラットのキャラも良かった。彼女が終盤に自分は歴史で学位を取った、という話をするシーンは米粒写経の居島一平も泣いた、と言っていたが、僕もだいぶグッと来た。科学者のオプディミズムと人文学者のペシミズムの表裏一体がうまく表されたキャラだった。 冒頭の2+2という問いはドストエフスキーの地下室の手記の公式だし、小型輸送船がジョン、ポール、ジョージ、リンゴのビートルズの命名なのは「アクロスザユニバース」へのオマージュだろう。それ以外にも多彩な文化的、オタク的目配せもあり、大変楽しんだ。 結局、地球は救われるが、実際にどんな地獄が展開されたかには触れず、結果のみが知らされるラストは潔くオプディミズムに満ち溢れていた。 その後、グレイスは幸せに暮らしたとさ、めでたしめでたし、で終わっているのはこれがおとぎ話である、ということのメタファーなのだろう。読後感は爽やかだが、奥にあるのは人間の恐ろしさをイマジネーションしてみる大切さだと思うし、そういうふうに書いているところに小説的な強さ、SFというジャンルについて意識的で素晴らしいと思った。 映画も見たし、音読も聴いた。あとは小説も読もうかな。また、グレイスとロッキーに会いたくなってます。オススメの作品でした。
  • 2026年5月2日
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 上
    プロジェクト・ヘイル・メアリー 上
    下巻に続く。
  • 2026年4月27日
    本なら売るほど 3
    『本なら売るほど』の3巻が出ていた。本好きにはたまらない、本にまつわるハートウォーミングなエピソードが揃っている。 各話完結型のヒューマンドラマなので、3巻くらいになると役者も揃ってきて、複数回登場するキャラが出てくる。 こういう、ある店を中心とした人間ドラマはこの辺りから常連キャラを深掘りしたりする楽しみが出てくる。 長く続いて欲しいシリーズです。おすすめ。
  • 2026年4月26日
    茶の本
    茶の本
    日本の現在の美術を語るときに避けて通れないキーパーソンとして、毀誉褒貶、清濁併せ持った存在として強烈な存在感を放つ男がいる。岡倉覚三、もしくは岡倉天心である。その岡倉天心が1906年にアメリカで出版した本。 冒頭にあるように、新渡戸稲造の『武士道』を「死の術」について述べた本と捉え、それが西洋で受け入れらるている状況に対し、日本における「生の術」として茶の道がある、という切り口で書かれた本。 生と死。日本文化における貴族的な文化とサムライ文化を相対的にバランスをとる形で、『武士道』へのカウンターになるような内容で、美や洗練、調和や秩序というものが日本ではどのように扱われてきたかを記している。という前提で読むと面白い。 岡倉天心は幼少期より漢学と英語をみっちり叩き込まれ、東京大学の第1期生となり、その語学力を見込まれてハーバードから、東大に雇われたお抱え外国人である、アーネストフェノロサの通訳を務めることとなる。 17歳で東大を卒業し、海外を漫遊し、27歳で現藝大の前身となる東京美術学校を立ち上げて、初代校長となっている。その後の岡倉天心の人生は浮き沈みの激しい波乱に満ちたものとなるわけだが、その辺りはここでは触れまい。 そんな彼がその若い50歳での死の7年前に執筆、出版したのがこの本ということになる。 これを英語で書いたとなると大変な語学力と思うが、そういう才能のある人だったのであろう。 この本では全体200ページのうち70ページ強が現代美術家会田誠による解説に割かれており、大変充実した岡倉天心もしくは日本の近代→現代美術論となっているわけだが、その中で会田誠はこの本を「文化度の高い上品なマダムたちに愛される本を作ろう」としてまとめられた文章なのでは、とまとめているが、それは納得である。 言葉が大変に詩的に洗練されており、ロマンチックで愛や平和、静謐さ、上品さ、が生の術として前面に押し出されているように感じる。 今この文章はブライアンイーノとか聴きながら書いているが、なんかそんな感じ。文化的な多様性とかフェミニズムみたいなものに直接触れているわけではないが、そういうフィーリングがある。 そういう優しさや懐深さみたいなものが元々の茶の道の中にもあるということなのだろう。 岡倉天心は明治元年に満4歳で大正2年没なので、まるまるの明治を生きた生粋の明治人である。 黒船来航以来の西洋文化に追いつけ追い越せの時代を生きてきて、日本の美術を通して、それを世界と対等のものと捉え、それが理解されていない、だからなんとかしなければ、という問題意識を内面化し具体的に活動した人間である。 そこに高い文化があるのに単純に知られていないがゆえに蛮族と捉えられている、というジレンマが割とストレートに文章に表されていたりもする。 茶の道は禅の影響を受けており、それは道教の教えということで、中国の古代文明の歴史や成り立ちについても大変に分かりやすく説明があり、分かりやすい。 なんと言っても文章がすっきりと明快で難しい概念を実例や格言などを用いてすっきり届くように書かれているのも素晴らしい。 岡倉天心はある種のカリスマを具現化した人物だったと記録からは読み取れるが、そこにはそういった引用の的確さと頭の回転の速さ、詩的でスピリチュアルなものを聞き手に信じさせる自己演出も含めたパワーがあったからに違いない。 岡倉天心のエピソードで「日本人が外国に行く場合は、英語が完璧ならばやはり和装で望むがいい。しかし、英語に自信がないなら、洋装をまとっていろ」ということを言っていた、というものがある。 僕もアメリカに一年住んでいたのでこの真意は痛いほど分かる。日本人で英語が完璧ならば、それは外国人にとっては畏怖すべきことなので、やはり日本を代表する意味で和装していた方が、よりチヤホヤ度は高まる。 こういう自己演出も内面化しながら海外のセレブや知識人と向こうを張って生きてきた人の含蓄は深い。 本の内容は茶の心を人情、流派、道教と禅、茶室、芸術を愛でる、花、茶人、の6章に分けて論じている。 各章はすっきりまとまっており、冗長なところはなく、簡潔でありながら深いところまで届きながらわかりやすい。 真に優れた本として読後には心地よい達成感すら覚えるだろう。読んだ自分、偉い! 見たく自己肯定感すらたちのぼってくる。 なんか勇気づけられる大変に良い本です。おすすめ!
  • 2026年3月30日
    絵巻物に見る日本庶民生活誌
    木村哲也『宮本常一 民俗学を超えて』を読んで以来、宮本常一にハマっている。 これは宮本常一が日本の古い(中世や近世)絵巻物から庶民の生活が描かれている部分を見つけて、図録的に当時の生活を読み解いていくという内容。 大変素晴らしい内容で、もとは中央公論社刊の「日本絵巻大成」の月報に連載されたものらしい。 宮本常一の師匠に当たる渋沢敬三が昭和15年くらいから始めた研究を引き継いだ形になっている。 宮本常一の広い歴史観と絵巻の描写が相まって、昔の庶民の生活や日本の生活の歴史が分かりやすく解説されている。 例えば建築でいうと寝殿造と書院作りの違いなどが絵巻に描かれた図版と共に説明されるので大変に分かりやすい。 間切の少ない寝殿造は南方の文化で、海を渡ってきた倭人の様式だが日本では冬などは大変に寒かったであろう、そこから寒さを克服するために工夫がはじまったのでは、みたいな話とか、大変興味深い。 そのほかにも蒙古襲来絵巻に見るあぶみ(馬を操るために足をかける馬具。鞍の両側からぶら下がっている)が日本製は靴状だが、蒙古製は丸いとか。これは最近見た下村観山の絵でもそう描いてあったから、そこが見どころだったのだと思う。 ほかにも百鬼夜行絵巻に見る、庶民の道具についての考察。軟質文化と硬質文化の違いなどは工芸的な視点から読解すると面白い。 絵巻大成からの引用と思うが、図版も多く、絵解きの視点を知るという意味でも大変に興味深い。こういう探究の仕方もあるのだな〜、と膝を打つ一冊でした。
  • 2026年3月30日
    絵のある人生
    絵のある人生
    2020年に亡くなった絵本作家、安野光雅が絵画をテーマに、絵を楽しみ、豊かに生きる視点を語った一冊。2003年初版。 「いい絵」とは何か、名画はどのように生まれたのか、画家が何を考えどのように生きたのか、などを著者が自身の画作を経て実感的に感じ取ったことを優しい語り口でわかりやすく記しています。 自身の画作を通して描いているのがすごくいいです。絵の具とはどういうものなのか、とか構図って、ある意味、ウソもつくのに、どういう風に絵に深みを与えるかとか、遠近法ってなんなのかとか、油彩と水彩の違いとか、プロとアマの違いとか、みんながなんとなくぼんやりと考えているけど突き詰めきれない事柄に安野さんなりの視点で答えてくれてます。 絵を志す人はこれを読んでみるのはすごくいいと思います。絵は上手い下手ではない、ということがかなりしっかり書かれています。 素朴派(本の中ではナイーブ派と書かれている)のアンリルソーの素晴らしさを解説しているところなどは白眉です。 そのほかかなり具体的な絵画の技法的な部分もありつつ、佐藤忠良さんとの思い出やゴッホやブリューゲルの興味深い逸話なども織り込まれています。 読みやすくためになる本のお手本みたいな一冊。オススメです。
  • 2026年3月30日
    かんがえる子ども
    2020年に亡くなった安野光雅が2018年の最晩年に著した本。たくさんの絵本を著し、国際アンデルセン賞も受賞している著者による、子どもをいかに育むかの視点についての本。 著者は小学校の教員を経て、教え子に福音館の役員の子がおり、その流れで絵本を書くこととなり、やがて絵本作家となったという経歴の持ち主で、教育的な視点を持った絵本も何冊も作っている。 また昭和30〜40年代には文科省の図画工作の学習指導要領作成協力者として、様々な提言をしたことも知られています。その後、安野光雅は僕のよく知る教科書会社で教科書編集委員という立場で参画するのですが、当時の官僚的な教科書編集社とは、あまり相性は良くなかったらしくその辺りの話は様々なエッセイなどで、割と苦々しく語られていることがあります。 この本を読むと、そんな安野光雅の教育に対するコンセプトは、子どもが自ら考えること。問いを立てて、答えを急がず試行錯誤を繰り返し、言葉だけではなく図や絵などから情報を読み取ることも含めた、かなり現代的なものだったことがわかります。 何よりも語り口がソフトなのが良い。自らの実感的な経験から語られる文体は優しく、しかし、対象に切り込む率直さがあり、嘘がない。 世界中を旅してスケッチしながら、自分が何を受け止めてきたか、ということも例に出し、読書と旅をセットにして、人にとって大切なものとしているのも素晴らしい。 哲学的にはデカルトを愛読していたことも語られます。方法的懐疑の感覚は1926年生まれで徴兵され、本土決戦を覚悟したのちのポツダム宣言受諾を経ての、戦場体験のない兵隊であった安野光雅にとっては当然のものだったと思われます。 とにかく全ての権威を疑い、子どもたちには騙されない知識を育みたいと希求していたのだと思います。 今の日本に必要だったのはこういう思考を持った教育だったのかもしれません。社会が崩壊しつつある今、安野光雅の声を聞くことが大切な気持ちです。 良い本でした。大変おすすめです。
  • 2026年3月23日
    イザベラ・バードの旅 『日本奥地紀行』を読む
    明治初期に日本を紀行したイギリスの旅行家、イザベラバードの『日本奥地紀行』を宮本常一が読み砕いた 連続講座の口述筆記本。 イザベラバードが明治11年に日本にきて、東北から北海道へ渡って3ヶ月ほど旅した記録について、宮本常一が昭和52年の目線で読み解いていく、という内容。 大変に面白い。歴史を学ぶことは社会の変化について意識することとも言えるんじゃないかと常日頃考えているわけですが、明治11年のイザベラバードの視点を昭和52年の宮本常一の目線で解題したものを、昭和51年生まれの私が令和の観点から読み込んでいくというのは、ほとんどタイムトリップ感覚。 原文を読んでも気づけないような細かいところを宮本常一が丁寧に拾ってくれて、解像度が爆上がりするという優れもの。 東北から北海道を旅するイザベラバードの視点が今から(昭和52年当時)見ると、こう見える、という書き方になるんですが、今は当たり前のことが当たり前ではないし、それはもちろんイザベラバードにとっても当たり前ではない。 しかし、その当たり前も西洋と日本の違いと、今と昔の違いでは微妙に異なっている。そういう点を切り口にして読んでいくとすごく面白い。 東北では外国人が珍しいのか、町中の人が見にきたというが、僕が子供の頃の八戸でも外人が来ると同じように見に行ったものだった。もうそういうことはないが、それも今や40年も前の話なんだな。 とにかく宮本常一が文化や時代の翻訳家としてワンクッション入っているので、大変理解しやすい。 宮本常一の記した『忘れられた日本人』を読む、という網野善彦の本もあるそうで、それも読みたくなってくる。オススメです。
  • 2026年3月15日
    キリスト教入門の系譜
    突然ですが、早稲田に住んでます。自転車でちょっと行くと、東京カテドラル聖マリア大聖堂、カトリック関口教会というものがあります。 教会は世界の丹下健三が設計建築したもので、Googleマップなんかでチェックすると真上から見たときに十字架になるように設計されていて、大変にモダニズム的な名建築となっております。 外から見るとガンダーに似てると前から思ってました。ここはパイプオルガンも有名で、毎月第二金曜日にはオルガンメディテーションとして、信者でなくても無料でパイプオルガンの演奏が聴けるため、気がついた時は行って聴いてみてます。 カトリック的な瞑想の時間の体験としては大変に豊かなものです。しかし、僕としては信仰というものを持とうという気持ちはないため、教会というものはなかなか縁遠いものです。 カトリックとプロテスタントの違いもそこまで明確でないですしね。   さて、そんな私のような人間に、近代以降のキリスト教が日本でどのように受け入れられたり、受け入れられなかったりしてきたかを、キリスト教の入門書を書いた人々を紹介しながら考察していくという内容。 無教会主義を展開した内村鑑三をはじめ、大正期に信仰に悩む青年像を描いた江原小弥太、賀川豊彦、占領期のマッカーサーのキリスト教の重用と皇室の英語教師派遣、カトリック知識人としての岩下壮一、戸塚文卿、文学者としてキリスト教に取り組んだ遠藤周作、三浦綾子、曽谷綾子などなど。 プロテスタント、カトリック、それぞれの立場から真剣に信仰とぶつかった人たちの人生が紹介されている。 信仰というのは、心の中に何かしらのわだかまりや悩みなどがあり、そこへの回答や救いを求めて、そこにある種の解を求めてぶつかっていくものだと思うが、これを読むと、キリスト教それ自体が、多くの人にとって中心的な問題となっていっているようで面白い。 マリアの処女懐胎とか、キリストの復活とか、そういう聖書に書いてあることを、言葉通りに捉えるのか、それともある種のメタファーとして捉えるのか、そういうことにみな悩んでおり、自ら受難しているようにも見えるし、それぞれ、聖書をどう読むか、戒律や教会をどう捉えるかについて、悩み、自分なりの答えを見つけ、実現に向けて動いているところが激烈で面白い。 信仰というのは何かの諦念や他力本願なものではなく、もっと突き動かされる何かに向かってぶつかっていくような炎の魂のような気持ちがあるのだなと思った。 そういうエピソードが大変に多く面白く読んだ。また、本筋とは関係ないが、小見出しのつけかたがいちいち攻殻機動隊の中のセリフだったり、アニメの有名な格言だったりして、著者が楽しんで書いてるようなところが感じ取れてよかった。 また、そういった熾烈な住居に燃えた伝道者や入門書が書かれてはいるが、実際には日本のキリスト教人口はだいぶ少ないのだという。 一神教的な概念や、キリスト教的な神の絶対感や、一様な人間世界への無関心な感じ、というのは日本人には共感しにくい、という点を論考していたが、そこは確かにその通りと思った。キリスト教の殉教的な部分はなかなか日本人に共感できないのではないだろうか。 本書では言及はないが、日本では大変に人気のあるゴッホ。彼はオランダ改革派というプロテスタントの家庭に育ち自身も牧師を目指していた過去がある。 ゴッホがアルルに作った黄色い家はある種の教会であり、悲劇的な死などもキリスト教的なものがある気がする。あまり、そこについて触れたものを見たことはないんですが。 後半は現代の宗教との関係性として、実際の信仰ではなく、教養としてキリスト教を捉えることのトレンドだったり、オンライン教会などの普及で教会を介さない信仰の場というものの可能性などが述べられている。 宗教家の激烈な部分や一途な部分と聖書の抱える矛盾との向き合い方、そして現代の信仰がどのような形であり得るのかについて、多彩な視点を与えてくれる一冊でした。
  • 2026年3月8日
    読み書きの日本史
    早稲田に住んでいるので、大隈講堂脇のuni shop & cafe 125によく行く。この前、本でも読もうと入店しコーヒーを頼んでから、カバンの中の本を全て今に忘れてきたことに気づいた。 読み差しの本もあったが、家まで帰る気力はないので、ちょっと電話をするふりをして125の斜向かいにある成文堂早稲田正門店に入って、タイトル買いした本。 リテラシーというのは識字率を表す言葉らしいが現在では、何か物事の基本を知っているかどうかの基準として使われている。 話し言葉と文字というのは言語を構成する二つの大きな要素だが、話し言葉は生得的で社会の中に生きているものは次第に身につけることができる。しかし、文字の読み書きは生得的ではなく、長い修練の果てにようやくそれを会得できる。 その文字の会得、体得というものが日本の歴史の中でどのように成立してきたかを中世から近世、近代、現代の直前くらいまでの歴史の中で整理している本。大変に興味深かった。 日本語の成立は最近になって、言語学のみならず、考古学や遺伝学といった側面より、トランスユーラシア語の一種として、およそ9,000年前の現在中国の西遼河地域に起源を見ることができるそうだ。 農耕とともに朝鮮半島を経由して九州から伝播し日本に入ったと言われている。そんな日本語も話し言葉としては成立していたが、文字は漢字を輸入して日本語にアジャストさせて、そこからひらがなやカタカナを作り上げていく、という過程を経て、明治時代の言文一致運動を経て現在のような形に変化してきたとのこと。 この辺りまででもすでに面白いが、そういう意味では言文一致の前の日本語は、話し言葉と書き言葉に大きな違いがあった、という。つまり文字を覚えても、それをそのまま書くということはできなかったのだという。 鎌倉時代より明治くらいまでの書き言葉の教育は「往来物(おうらいもの)」という手紙文や訴状などのお手本を習うスタイルが一般的だったらしい。 読み書きを教えたのは寺子屋(手習いとも)だったが、そこでの読み書きのゴールは、商売などで必要な書面を自力で執筆できることであり、現在の我々が考えるような国語教育とはかなりかけ離れた物であった。考えてみれば当たり前の話だが。 往来物のテキストは800年の歴史の中で大量に出版されており、その中には一揆の訴状や関ヶ原の戦いのきっかけになったとも言われる直江兼続の徳川批判の手紙なども含まれたものがあったそうだ。幕府がそれを許したのも面白いが、エピソードとともに習う人が興味関心を持ちやすいものが選ばれたのかもしれない。 そ入り1872年に学制が発布され教育が義務化されるとそういった往来物はやがて影を潜め、より近現代的な読み書きの教育が始まってくる、という流れだったが、大変に興味深かった。 近代の学制では福沢諭吉の「学問のすすめ」が啓蒙的な中心を担い、士農工商の撤廃とあいまって、非常に強い平等主義が貫かれていた、ということである。 当時の193万人の子どもが満6歳から8年間学校に通う、ということは、それまでの徒弟的な職業訓練の期間を全て国の義務教育に奪われる、ということと同意であり、かなり壮大な社会変革だと言えるでしょう。 学生が目指した学校数は5万校を超えていたということだから、相当な社会変革です。 義務化されてはいましたが、無償ではなかったことと、運営やカリキュラムにもそれなりにアラがあるなどして、少しずつ修正はされたようですが、学校に入りそれぞれの子供が自分の可能性を広げることができるようになったというのは社会にとっては本当に大きなダイナミックな変化だったと思います。 その後、戦争を挟んで現代の教育に変遷していくわけですが、そう考えると日本語の読み書きというのも、今のような形になったのはせいぜい150年くらいのことなんですよね。 長い人間の歴史の中ではそんなに長いことではない気がします。今、社会はコンピューターによって大きな変化が起きています。読むと書くの間にもスマホなどが入ると大きな変化が現れています。 長い時間をかけて漢字や単語を覚えるよりも音声入力で、難しい漢字も読めれば良いというスタンスになると、公教育の時間配分も大きく変わるでしょう。 そういう過渡期において、歴史的な流れを抑えておくために大変に素晴らしい知見の詰まった本でした。オススメです!
  • 2026年3月8日
    塩の道
    塩の道
    民俗学者、宮本常一の晩年の作。「塩の道」「日本人と食べもの」「暮らしの形と美」の3本の論考を収録している。 生活学者として日本全国をくまなくフィールドワークして回った著者ならではの知見と考え方が満載で、なおかつ大変に分かりやすく読みやすい文体で書かれているのが特徴。 「塩の道」では岩塩の取れない日本における塩を仲立ちとした海の民と山の民の交流が、塩の道として各地に残っているという点に注目して展開されている。日本における塩の精製と運搬の文化が紹介されており、大変興味深かった。 「日本人と食べもの」の章では日本の農耕がどのように成立したかを読み解きながら、稲作とそれ以外の穀物(アワ、ヒエなど)、ジャガイモやサツマイモ、トウモロコシなどの伝来や国内の伝播、定着について述べている。また、日本における戦国や戦さと農民の別れ方(昔は戦さをしたのは武士だけで、農民はそこに巻き込まれなかった、だからこそ戦さ中にも食糧が供給されていた、とか)とか、稲作は朝鮮半島を経由して九州から入ってきたが、北方からソバが入ってきた流れもあり、農耕はむしろ北海道や東北の方が早く定着していたのでは、という話などは大変興味深かった。 「暮らしの形と美」は生活の中の道具のデザインについての賞で工芸教育に直接結びつく話が多いかもと感じた。民俗学の中では民具というものの研究が一つの分野な訳だが、鍬や鋸といった農具や建築道具が押すではなくなく引く形になっている理由などが時代の変遷とともに語られていて面白かった。鋸は押して削る場合は目立てをした刃は外側につくが、引いて削る場合は内側に刃がつく。ヤリガンナと台カンナの話や、畳の成立、軟質文化という考え方など、自分の生活の中に柔らかく溶け込んでいて、残り香を感じることのできる、歴史的な経緯が分かりやすくまとめられていた。 我々がどこからきて、どこへ行くのかというのは、生きる上で大切なテーゼだが、今のような社会の中では足元をしっかりみて生きるためにこういう書物の示す知見を頭に入れておくことは大切だと感じた。 講談社学術文庫で、僕が買ったのは63刷りでしてが、これからも広く長く読まれてほしい本です。オススメ!
  • 2026年3月8日
    塩の道
    塩の道
    民俗学者、宮本常一の晩年の作。「塩の道」「日本人と食べもの」「暮らしの形と美」の3本の論考を収録している。 生活学者として日本全国をくまなくフィールドワークして回った著者ならではの知見と考え方が満載で、なおかつ大変に分かりやすく読みやすい文体で書かれているのが特徴。 「塩の道」では岩塩の取れない日本における塩を仲立ちとした海の民と山の民の交流が、塩の道として各地に残っているという点に注目して展開されている。日本における塩の精製と運搬の文化が紹介されており、大変興味深かった。 「日本人と食べもの」の章では日本の農耕がどのように成立したかを読み解きながら、稲作とそれ以外の穀物(アワ、ヒエなど)、ジャガイモやサツマイモ、トウモロコシなどの伝来や国内の伝播、定着について述べている。また、日本における戦国や戦さと農民の別れ方(昔は戦さをしたのは武士だけで、農民はそこに巻き込まれなかった、だからこそ戦さ中にも食糧が供給されていた、とか)とか、稲作は朝鮮半島を経由して九州から入ってきたが、北方からソバが入ってきた流れもあり、農耕はむしろ北海道や東北の方が早く定着していたのでは、という話などは大変興味深かった。 「暮らしの形と美」は生活の中の道具のデザインについての賞で工芸教育に直接結びつく話が多いかもと感じた。民俗学の中では民具というものの研究が一つの分野な訳だが、鍬や鋸といった農具や建築道具が押すではなくなく引く形になっている理由などが時代の変遷とともに語られていて面白かった。鋸は押して削る場合は目立てをした刃は外側につくが、引いて削る場合は内側に刃がつく。ヤリガンナと台カンナの話や、畳の成立、軟質文化という考え方など、自分の生活の中に柔らかく溶け込んでいて、残り香を感じることのできる、歴史的な経緯が分かりやすくまとめられていた。 我々がどこからきて、どこへ行くのかというのは、生きる上で大切なテーゼだが、今のような社会の中では足元をしっかりみて生きるためにこういう書物の示す知見を頭に入れておくことは大切だと感じた。 講談社学術文庫で、僕が買ったのは63刷りでしてが、これからも広く長く読まれてほしい本です。オススメ!
  • 2026年3月3日
    忘れられた日本人
    民俗学者、宮本常一ならこの一冊という本らしい。岩波新書の木村哲也著『宮本常一 民俗学を超えて』を読んでいたら、道で拾ってしまった一冊。セレンディピティというか、生きているとそういうこともあるものだ。 新書が大変面白かったので、勇んで読んでみたが、これが大変な名著と感じた。 1960年にまとめられた一冊で元々は雑誌『民話』に連載した「年寄たち」という論考をまとめたもの。 宮本常一は旅に生きて、現地の人からの生の声をとことん聞き出した人で、訪れた村々で、その土地の物知りに話を聞くとなるととかく年寄りから話を聞く、ということになったのだろう。 第二次大戦の前後に宮本が実際に訪ねて言って収集した話が中心で、御一新(大政奉還にかかる日本の大きな政治的な転換)や戊辰戦争、西南戦争などにも出かけた人たちの言葉が残されている。 対馬に訪れての村の古文書を借りるという場合の寄り合いでの議論の様子をはじめ、村の中で若い頃に外に飛び出して色々と経験をして村に戻ってその経験を活かして、活躍した人(これを宮本常一は世間師として注目した)、祖父の話、橋の下の盲のコジキの話、女の世間の話など、古い時代の生活が生き生きと語られている。 とにかく人の話を聞くことの面白さというのが詰まっているので、読む本を探している人にはぜひお勧めしたい。 夜這いの話とか、昔の日本人の開放的な性にまつわる話は何かとおおらかで面白い。 盲のコジキが身を持ち崩した独白をまとめた「土佐源氏」などは、そういった人物の色恋の話が美しい思い出という形で述べられており、現代のポリコレでは計り知れない、人の業のようなものを感じさせる名文となっている。これだけでも読む価値はある。 そのほかにも様々な当人しか語り得ない、得難い話の記録と、そこはかとない無常を感じさせる宮本常一の実直なテキストが混ざり合って、なんとも言えない読後感の一冊となっている。 いま、こういう本を読んでおく必要がある気がする。読んでよかった一冊。
  • 2026年3月1日
    宮本常一
    宮本常一
    昭和に活躍した山口県出身の民俗学者、宮本常一について、影響を受けた人々との関連から読み解いていくという新書。 宮本常一に影響を与えた柳田國男から、宮崎駿、スピッツの草野マサムネなどの幅広い人脈で宮本常一との関連を読み解きながら、宮本常一の活動を紹介していくという内容。 1930年台から亡くなる1981年まで日本の各地をフィールドワークし、旅に行きて、現地に赴き現地の生の声を収集しものを考えた人。 ゲンロンの人文ウォッチというYouTubeの配信番組で植田さんという人が紹介していたので、読んでみたら大変に面白かった。 最近は村田らむや丸山ゴンザレスの裏社会系のルポを好きで聴いているが、こういう仕事は見方を変えれば、民俗学的なフィールドワークと言えるな、と感じており、宮本常一との関連で同列に楽しめるということは、そういうものが個人的には元々興味のあるところなのだな、と感じた。 本の中では同じような民俗学者としてフィールドワークのあり方を宮本常一の手法に影響を受けた網野善彦や谷川雁などが挙げられていた。また、本田勝一や司馬遼太郎との関連についても、大変に面白い関係性が著作や日記の全文検索から示されており、興味深かった。 日本の歴史は教科書的に士農工商という分類があるくらい、農業に職業が一元化されるきらいがあるが、非農業系の仕事というものも大量にあったわけで、それはいわく、漁業やそれ以外にも工芸の職人的な仕事であったりしただろう。 例えば漆塗りの工芸には漆を塗布する塗師の手前には漆を採取する人々があったり、木で持って器や箸などを削り出す木地師というような職業もあった。山の民には定住以外の多様性があったはずだ。 炭焼きの職人もあったはずだし。 そういう忘れられた日本というものに目を向けてフィールドワークを重ねていった奇跡が、それに影響を受けた学者たちの言葉や著作などから客観的に述べられていて、宮本常一を今、読むことについての意義を強く感じさせてくれる内容になっていた。 なんて言って宮本常一のことを考えていたら、道に岩波文庫の『忘れられた日本人』が落ちていた。これも何かの縁と思って、一時的に手元において読み始めている。 歴史に残らない人の声を収集する姿勢は編集者としては見習いたいところである。人の話を聞くのはいつでも面白い。
  • 2026年2月1日
    虚言の国 アメリカ・ファンタスティカ
    虚言の国 アメリカ・ファンタスティカ
    アメリカの現代作家ティムオブライエンの約20年ぶりの長編小説。訳者はこれまでも日本で出版されたオブライエン作品を多く訳してきた村上春樹。600ページくらいある大長編だが、楽しく読めた。 『カチアートを追跡して』『本当の戦争の話をしよう』『ニュークリアエイジ』などの1970年代〜90年代に書かれた初期作品はいずれもベトナム戦争をテーマにした社会派な作品として評価が高く、訳書もしっかり出ているので、僕も読んだ。いずれもマジックリアリズム的な幻想的な部分はあるものの、戦争や核の問題に鋭く切り込んだ、大変に強い小説だったように記憶している。 血管か何かの病気があって、思うように執筆できないというようなことがあるらしいが、作家本人が「自分の最後の小説」として20年ぶりに上梓したのが本作品となる。 ストーリーは大変現代的で、最近のポールトーマスアンダーソン監督の『ワンバトルアフターアナザー』とかコーエン兄弟の映画なんかに通じる、現代風刺的な、クライムコメディ感があり、ナウい感じと思った。これまでのベトナムものとはだいぶ違う。映画のノベライズ、もしくはそのまま映画にできるような感じだった。 時は第1期トランプ政権の頃。フェイクニュースのでっちあげの発信者として過ごしていたボイドが、過去の精算もしくは復讐に乗り出すために銀行強盗を行い、そこの女性銀行員を誘拐して、復讐の旅に出るというのが発端。 誘拐した女性銀行員アンジーは熱心なペンテコステ派で、ボイドのファムファタールとなっていく。 その後、アンジーのフィアンセ、ボイドの元妻、そのセレブな親族、強盗された銀行の支配人などが入り乱れて、ガンガン人死などが出つつ、クライムコメディとして話がうねっていく、という流れ。 トランプ政権下のアメリカ、コロナ禍のアメリカがフェイクという切り口でまとめられており、真実や本質というものが全く意味のないものとして扱われていくのが特徴。 主人公のボイド自身がそもそも虚言癖の持ち主であり、それはある種の訂正可能性のような感じでも示されるのだが、さまざまな絶対的な事実が現実の中で捉えようによって変質していく。 虚言は過酷な現実を覆い隠すためのものとして描かれており、それぞれの登場人物はそういう側面である程度感情移入ができるように描かれてもいて、ボイドの虚言には過酷な過去の家族関係や息子の死などが関連しており、そこにある種の救いがある。そこらへんのストーリーの作り方は巧みだと思った。 最終的には血が繋がっている、いないに関わらず家族というものがテーマになっているようにも思った。家族からは逃れられないが、その関係を主体的に構築していくこともできる、ということも示されていると感じた。 父子の関係というのも一つの大きなテーマとなっており、高校生の子供がいる親としては感情移入して読めた。 600ページを超える大長編ですが、人物の動きはコーエン兄弟映画的なドタバタが続く感じで非常に映像的で、現代を移している鏡のような作品と思いました。 オブライエンさんは「これで最後の作品」宣言をされていますが、そんなこと言わず、もっと書いておくれよ、という気持ちになりました。 オススメです!
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