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勝村巌
勝村巌
@katsumura
  • 2026年3月30日
    絵巻物に見る日本庶民生活誌
    木村哲也『宮本常一 民俗学を超えて』を読んで以来、宮本常一にハマっている。 これは宮本常一が日本の古い(中世や近世)絵巻物から庶民の生活が描かれている部分を見つけて、図録的に当時の生活を読み解いていくという内容。 大変素晴らしい内容で、もとは中央公論社刊の「日本絵巻大成」の月報に連載されたものらしい。 宮本常一の師匠に当たる渋沢敬三が昭和15年くらいから始めた研究を引き継いだ形になっている。 宮本常一の広い歴史観と絵巻の描写が相まって、昔の庶民の生活や日本の生活の歴史が分かりやすく解説されている。 例えば建築でいうと寝殿造と書院作りの違いなどが絵巻に描かれた図版と共に説明されるので大変に分かりやすい。 間切の少ない寝殿造は南方の文化で、海を渡ってきた倭人の様式だが日本では冬などは大変に寒かったであろう、そこから寒さを克服するために工夫がはじまったのでは、みたいな話とか、大変興味深い。 そのほかにも蒙古襲来絵巻に見るあぶみ(馬を操るために足をかける馬具。鞍の両側からぶら下がっている)が日本製は靴状だが、蒙古製は丸いとか。これは最近見た下村観山の絵でもそう描いてあったから、そこが見どころだったのだと思う。 ほかにも百鬼夜行絵巻に見る、庶民の道具についての考察。軟質文化と硬質文化の違いなどは工芸的な視点から読解すると面白い。 絵巻大成からの引用と思うが、図版も多く、絵解きの視点を知るという意味でも大変に興味深い。こういう探究の仕方もあるのだな〜、と膝を打つ一冊でした。
  • 2026年3月30日
    絵のある人生
    絵のある人生
    2020年に亡くなった絵本作家、安野光雅が絵画をテーマに、絵を楽しみ、豊かに生きる視点を語った一冊。2003年初版。 「いい絵」とは何か、名画はどのように生まれたのか、画家が何を考えどのように生きたのか、などを著者が自身の画作を経て実感的に感じ取ったことを優しい語り口でわかりやすく記しています。 自身の画作を通して描いているのがすごくいいです。絵の具とはどういうものなのか、とか構図って、ある意味、ウソもつくのに、どういう風に絵に深みを与えるかとか、遠近法ってなんなのかとか、油彩と水彩の違いとか、プロとアマの違いとか、みんながなんとなくぼんやりと考えているけど突き詰めきれない事柄に安野さんなりの視点で答えてくれてます。 絵を志す人はこれを読んでみるのはすごくいいと思います。絵は上手い下手ではない、ということがかなりしっかり書かれています。 素朴派(本の中ではナイーブ派と書かれている)のアンリルソーの素晴らしさを解説しているところなどは白眉です。 そのほかかなり具体的な絵画の技法的な部分もありつつ、佐藤忠良さんとの思い出やゴッホやブリューゲルの興味深い逸話なども織り込まれています。 読みやすくためになる本のお手本みたいな一冊。オススメです。
  • 2026年3月30日
    かんがえる子ども
    2020年に亡くなった安野光雅が2018年の最晩年に著した本。たくさんの絵本を著し、国際アンデルセン賞も受賞している著者による、子どもをいかに育むかの視点についての本。 著者は小学校の教員を経て、教え子に福音館の役員の子がおり、その流れで絵本を書くこととなり、やがて絵本作家となったという経歴の持ち主で、教育的な視点を持った絵本も何冊も作っている。 また昭和30〜40年代には文科省の図画工作の学習指導要領作成協力者として、様々な提言をしたことも知られています。その後、安野光雅は僕のよく知る教科書会社で教科書編集委員という立場で参画するのですが、当時の官僚的な教科書編集社とは、あまり相性は良くなかったらしくその辺りの話は様々なエッセイなどで、割と苦々しく語られていることがあります。 この本を読むと、そんな安野光雅の教育に対するコンセプトは、子どもが自ら考えること。問いを立てて、答えを急がず試行錯誤を繰り返し、言葉だけではなく図や絵などから情報を読み取ることも含めた、かなり現代的なものだったことがわかります。 何よりも語り口がソフトなのが良い。自らの実感的な経験から語られる文体は優しく、しかし、対象に切り込む率直さがあり、嘘がない。 世界中を旅してスケッチしながら、自分が何を受け止めてきたか、ということも例に出し、読書と旅をセットにして、人にとって大切なものとしているのも素晴らしい。 哲学的にはデカルトを愛読していたことも語られます。方法的懐疑の感覚は1926年生まれで徴兵され、本土決戦を覚悟したのちのポツダム宣言受諾を経ての、戦場体験のない兵隊であった安野光雅にとっては当然のものだったと思われます。 とにかく全ての権威を疑い、子どもたちには騙されない知識を育みたいと希求していたのだと思います。 今の日本に必要だったのはこういう思考を持った教育だったのかもしれません。社会が崩壊しつつある今、安野光雅の声を聞くことが大切な気持ちです。 良い本でした。大変おすすめです。
  • 2026年3月23日
    イザベラ・バードの旅 『日本奥地紀行』を読む
    明治初期に日本を紀行したイギリスの旅行家、イザベラバードの『日本奥地紀行』を宮本常一が読み砕いた 連続講座の口述筆記本。 イザベラバードが明治11年に日本にきて、東北から北海道へ渡って3ヶ月ほど旅した記録について、宮本常一が昭和52年の目線で読み解いていく、という内容。 大変に面白い。歴史を学ぶことは社会の変化について意識することとも言えるんじゃないかと常日頃考えているわけですが、明治11年のイザベラバードの視点を昭和52年の宮本常一の目線で解題したものを、昭和51年生まれの私が令和の観点から読み込んでいくというのは、ほとんどタイムトリップ感覚。 原文を読んでも気づけないような細かいところを宮本常一が丁寧に拾ってくれて、解像度が爆上がりするという優れもの。 東北から北海道を旅するイザベラバードの視点が今から(昭和52年当時)見ると、こう見える、という書き方になるんですが、今は当たり前のことが当たり前ではないし、それはもちろんイザベラバードにとっても当たり前ではない。 しかし、その当たり前も西洋と日本の違いと、今と昔の違いでは微妙に異なっている。そういう点を切り口にして読んでいくとすごく面白い。 東北では外国人が珍しいのか、町中の人が見にきたというが、僕が子供の頃の八戸でも外人が来ると同じように見に行ったものだった。もうそういうことはないが、それも今や40年も前の話なんだな。 とにかく宮本常一が文化や時代の翻訳家としてワンクッション入っているので、大変理解しやすい。 宮本常一の記した『忘れられた日本人』を読む、という網野善彦の本もあるそうで、それも読みたくなってくる。オススメです。
  • 2026年3月15日
    キリスト教入門の系譜
    突然ですが、早稲田に住んでます。自転車でちょっと行くと、東京カテドラル聖マリア大聖堂、カトリック関口教会というものがあります。 教会は世界の丹下健三が設計建築したもので、Googleマップなんかでチェックすると真上から見たときに十字架になるように設計されていて、大変にモダニズム的な名建築となっております。 外から見るとガンダーに似てると前から思ってました。ここはパイプオルガンも有名で、毎月第二金曜日にはオルガンメディテーションとして、信者でなくても無料でパイプオルガンの演奏が聴けるため、気がついた時は行って聴いてみてます。 カトリック的な瞑想の時間の体験としては大変に豊かなものです。しかし、僕としては信仰というものを持とうという気持ちはないため、教会というものはなかなか縁遠いものです。 カトリックとプロテスタントの違いもそこまで明確でないですしね。   さて、そんな私のような人間に、近代以降のキリスト教が日本でどのように受け入れられたり、受け入れられなかったりしてきたかを、キリスト教の入門書を書いた人々を紹介しながら考察していくという内容。 無教会主義を展開した内村鑑三をはじめ、大正期に信仰に悩む青年像を描いた江原小弥太、賀川豊彦、占領期のマッカーサーのキリスト教の重用と皇室の英語教師派遣、カトリック知識人としての岩下壮一、戸塚文卿、文学者としてキリスト教に取り組んだ遠藤周作、三浦綾子、曽谷綾子などなど。 プロテスタント、カトリック、それぞれの立場から真剣に信仰とぶつかった人たちの人生が紹介されている。 信仰というのは、心の中に何かしらのわだかまりや悩みなどがあり、そこへの回答や救いを求めて、そこにある種の解を求めてぶつかっていくものだと思うが、これを読むと、キリスト教それ自体が、多くの人にとって中心的な問題となっていっているようで面白い。 マリアの処女懐胎とか、キリストの復活とか、そういう聖書に書いてあることを、言葉通りに捉えるのか、それともある種のメタファーとして捉えるのか、そういうことにみな悩んでおり、自ら受難しているようにも見えるし、それぞれ、聖書をどう読むか、戒律や教会をどう捉えるかについて、悩み、自分なりの答えを見つけ、実現に向けて動いているところが激烈で面白い。 信仰というのは何かの諦念や他力本願なものではなく、もっと突き動かされる何かに向かってぶつかっていくような炎の魂のような気持ちがあるのだなと思った。 そういうエピソードが大変に多く面白く読んだ。また、本筋とは関係ないが、小見出しのつけかたがいちいち攻殻機動隊の中のセリフだったり、アニメの有名な格言だったりして、著者が楽しんで書いてるようなところが感じ取れてよかった。 また、そういった熾烈な住居に燃えた伝道者や入門書が書かれてはいるが、実際には日本のキリスト教人口はだいぶ少ないのだという。 一神教的な概念や、キリスト教的な神の絶対感や、一様な人間世界への無関心な感じ、というのは日本人には共感しにくい、という点を論考していたが、そこは確かにその通りと思った。キリスト教の殉教的な部分はなかなか日本人に共感できないのではないだろうか。 本書では言及はないが、日本では大変に人気のあるゴッホ。彼はオランダ改革派というプロテスタントの家庭に育ち自身も牧師を目指していた過去がある。 ゴッホがアルルに作った黄色い家はある種の教会であり、悲劇的な死などもキリスト教的なものがある気がする。あまり、そこについて触れたものを見たことはないんですが。 後半は現代の宗教との関係性として、実際の信仰ではなく、教養としてキリスト教を捉えることのトレンドだったり、オンライン教会などの普及で教会を介さない信仰の場というものの可能性などが述べられている。 宗教家の激烈な部分や一途な部分と聖書の抱える矛盾との向き合い方、そして現代の信仰がどのような形であり得るのかについて、多彩な視点を与えてくれる一冊でした。
  • 2026年3月8日
    読み書きの日本史
    早稲田に住んでいるので、大隈講堂脇のuni shop & cafe 125によく行く。この前、本でも読もうと入店しコーヒーを頼んでから、カバンの中の本を全て今に忘れてきたことに気づいた。 読み差しの本もあったが、家まで帰る気力はないので、ちょっと電話をするふりをして125の斜向かいにある成文堂早稲田正門店に入って、タイトル買いした本。 リテラシーというのは識字率を表す言葉らしいが現在では、何か物事の基本を知っているかどうかの基準として使われている。 話し言葉と文字というのは言語を構成する二つの大きな要素だが、話し言葉は生得的で社会の中に生きているものは次第に身につけることができる。しかし、文字の読み書きは生得的ではなく、長い修練の果てにようやくそれを会得できる。 その文字の会得、体得というものが日本の歴史の中でどのように成立してきたかを中世から近世、近代、現代の直前くらいまでの歴史の中で整理している本。大変に興味深かった。 日本語の成立は最近になって、言語学のみならず、考古学や遺伝学といった側面より、トランスユーラシア語の一種として、およそ9,000年前の現在中国の西遼河地域に起源を見ることができるそうだ。 農耕とともに朝鮮半島を経由して九州から伝播し日本に入ったと言われている。そんな日本語も話し言葉としては成立していたが、文字は漢字を輸入して日本語にアジャストさせて、そこからひらがなやカタカナを作り上げていく、という過程を経て、明治時代の言文一致運動を経て現在のような形に変化してきたとのこと。 この辺りまででもすでに面白いが、そういう意味では言文一致の前の日本語は、話し言葉と書き言葉に大きな違いがあった、という。つまり文字を覚えても、それをそのまま書くということはできなかったのだという。 鎌倉時代より明治くらいまでの書き言葉の教育は「往来物(おうらいもの)」という手紙文や訴状などのお手本を習うスタイルが一般的だったらしい。 読み書きを教えたのは寺子屋(手習いとも)だったが、そこでの読み書きのゴールは、商売などで必要な書面を自力で執筆できることであり、現在の我々が考えるような国語教育とはかなりかけ離れた物であった。考えてみれば当たり前の話だが。 往来物のテキストは800年の歴史の中で大量に出版されており、その中には一揆の訴状や関ヶ原の戦いのきっかけになったとも言われる直江兼続の徳川批判の手紙なども含まれたものがあったそうだ。幕府がそれを許したのも面白いが、エピソードとともに習う人が興味関心を持ちやすいものが選ばれたのかもしれない。 そ入り1872年に学制が発布され教育が義務化されるとそういった往来物はやがて影を潜め、より近現代的な読み書きの教育が始まってくる、という流れだったが、大変に興味深かった。 近代の学制では福沢諭吉の「学問のすすめ」が啓蒙的な中心を担い、士農工商の撤廃とあいまって、非常に強い平等主義が貫かれていた、ということである。 当時の193万人の子どもが満6歳から8年間学校に通う、ということは、それまでの徒弟的な職業訓練の期間を全て国の義務教育に奪われる、ということと同意であり、かなり壮大な社会変革だと言えるでしょう。 学生が目指した学校数は5万校を超えていたということだから、相当な社会変革です。 義務化されてはいましたが、無償ではなかったことと、運営やカリキュラムにもそれなりにアラがあるなどして、少しずつ修正はされたようですが、学校に入りそれぞれの子供が自分の可能性を広げることができるようになったというのは社会にとっては本当に大きなダイナミックな変化だったと思います。 その後、戦争を挟んで現代の教育に変遷していくわけですが、そう考えると日本語の読み書きというのも、今のような形になったのはせいぜい150年くらいのことなんですよね。 長い人間の歴史の中ではそんなに長いことではない気がします。今、社会はコンピューターによって大きな変化が起きています。読むと書くの間にもスマホなどが入ると大きな変化が現れています。 長い時間をかけて漢字や単語を覚えるよりも音声入力で、難しい漢字も読めれば良いというスタンスになると、公教育の時間配分も大きく変わるでしょう。 そういう過渡期において、歴史的な流れを抑えておくために大変に素晴らしい知見の詰まった本でした。オススメです!
  • 2026年3月8日
    塩の道
    塩の道
    民俗学者、宮本常一の晩年の作。「塩の道」「日本人と食べもの」「暮らしの形と美」の3本の論考を収録している。 生活学者として日本全国をくまなくフィールドワークして回った著者ならではの知見と考え方が満載で、なおかつ大変に分かりやすく読みやすい文体で書かれているのが特徴。 「塩の道」では岩塩の取れない日本における塩を仲立ちとした海の民と山の民の交流が、塩の道として各地に残っているという点に注目して展開されている。日本における塩の精製と運搬の文化が紹介されており、大変興味深かった。 「日本人と食べもの」の章では日本の農耕がどのように成立したかを読み解きながら、稲作とそれ以外の穀物(アワ、ヒエなど)、ジャガイモやサツマイモ、トウモロコシなどの伝来や国内の伝播、定着について述べている。また、日本における戦国や戦さと農民の別れ方(昔は戦さをしたのは武士だけで、農民はそこに巻き込まれなかった、だからこそ戦さ中にも食糧が供給されていた、とか)とか、稲作は朝鮮半島を経由して九州から入ってきたが、北方からソバが入ってきた流れもあり、農耕はむしろ北海道や東北の方が早く定着していたのでは、という話などは大変興味深かった。 「暮らしの形と美」は生活の中の道具のデザインについての賞で工芸教育に直接結びつく話が多いかもと感じた。民俗学の中では民具というものの研究が一つの分野な訳だが、鍬や鋸といった農具や建築道具が押すではなくなく引く形になっている理由などが時代の変遷とともに語られていて面白かった。鋸は押して削る場合は目立てをした刃は外側につくが、引いて削る場合は内側に刃がつく。ヤリガンナと台カンナの話や、畳の成立、軟質文化という考え方など、自分の生活の中に柔らかく溶け込んでいて、残り香を感じることのできる、歴史的な経緯が分かりやすくまとめられていた。 我々がどこからきて、どこへ行くのかというのは、生きる上で大切なテーゼだが、今のような社会の中では足元をしっかりみて生きるためにこういう書物の示す知見を頭に入れておくことは大切だと感じた。 講談社学術文庫で、僕が買ったのは63刷りでしてが、これからも広く長く読まれてほしい本です。オススメ!
  • 2026年3月8日
    塩の道
    塩の道
    民俗学者、宮本常一の晩年の作。「塩の道」「日本人と食べもの」「暮らしの形と美」の3本の論考を収録している。 生活学者として日本全国をくまなくフィールドワークして回った著者ならではの知見と考え方が満載で、なおかつ大変に分かりやすく読みやすい文体で書かれているのが特徴。 「塩の道」では岩塩の取れない日本における塩を仲立ちとした海の民と山の民の交流が、塩の道として各地に残っているという点に注目して展開されている。日本における塩の精製と運搬の文化が紹介されており、大変興味深かった。 「日本人と食べもの」の章では日本の農耕がどのように成立したかを読み解きながら、稲作とそれ以外の穀物(アワ、ヒエなど)、ジャガイモやサツマイモ、トウモロコシなどの伝来や国内の伝播、定着について述べている。また、日本における戦国や戦さと農民の別れ方(昔は戦さをしたのは武士だけで、農民はそこに巻き込まれなかった、だからこそ戦さ中にも食糧が供給されていた、とか)とか、稲作は朝鮮半島を経由して九州から入ってきたが、北方からソバが入ってきた流れもあり、農耕はむしろ北海道や東北の方が早く定着していたのでは、という話などは大変興味深かった。 「暮らしの形と美」は生活の中の道具のデザインについての賞で工芸教育に直接結びつく話が多いかもと感じた。民俗学の中では民具というものの研究が一つの分野な訳だが、鍬や鋸といった農具や建築道具が押すではなくなく引く形になっている理由などが時代の変遷とともに語られていて面白かった。鋸は押して削る場合は目立てをした刃は外側につくが、引いて削る場合は内側に刃がつく。ヤリガンナと台カンナの話や、畳の成立、軟質文化という考え方など、自分の生活の中に柔らかく溶け込んでいて、残り香を感じることのできる、歴史的な経緯が分かりやすくまとめられていた。 我々がどこからきて、どこへ行くのかというのは、生きる上で大切なテーゼだが、今のような社会の中では足元をしっかりみて生きるためにこういう書物の示す知見を頭に入れておくことは大切だと感じた。 講談社学術文庫で、僕が買ったのは63刷りでしてが、これからも広く長く読まれてほしい本です。オススメ!
  • 2026年3月3日
    忘れられた日本人
    民俗学者、宮本常一ならこの一冊という本らしい。岩波新書の木村哲也著『宮本常一 民俗学を超えて』を読んでいたら、道で拾ってしまった一冊。セレンディピティというか、生きているとそういうこともあるものだ。 新書が大変面白かったので、勇んで読んでみたが、これが大変な名著と感じた。 1960年にまとめられた一冊で元々は雑誌『民話』に連載した「年寄たち」という論考をまとめたもの。 宮本常一は旅に生きて、現地の人からの生の声をとことん聞き出した人で、訪れた村々で、その土地の物知りに話を聞くとなるととかく年寄りから話を聞く、ということになったのだろう。 第二次大戦の前後に宮本が実際に訪ねて言って収集した話が中心で、御一新(大政奉還にかかる日本の大きな政治的な転換)や戊辰戦争、西南戦争などにも出かけた人たちの言葉が残されている。 対馬に訪れての村の古文書を借りるという場合の寄り合いでの議論の様子をはじめ、村の中で若い頃に外に飛び出して色々と経験をして村に戻ってその経験を活かして、活躍した人(これを宮本常一は世間師として注目した)、祖父の話、橋の下の盲のコジキの話、女の世間の話など、古い時代の生活が生き生きと語られている。 とにかく人の話を聞くことの面白さというのが詰まっているので、読む本を探している人にはぜひお勧めしたい。 夜這いの話とか、昔の日本人の開放的な性にまつわる話は何かとおおらかで面白い。 盲のコジキが身を持ち崩した独白をまとめた「土佐源氏」などは、そういった人物の色恋の話が美しい思い出という形で述べられており、現代のポリコレでは計り知れない、人の業のようなものを感じさせる名文となっている。これだけでも読む価値はある。 そのほかにも様々な当人しか語り得ない、得難い話の記録と、そこはかとない無常を感じさせる宮本常一の実直なテキストが混ざり合って、なんとも言えない読後感の一冊となっている。 いま、こういう本を読んでおく必要がある気がする。読んでよかった一冊。
  • 2026年3月1日
    宮本常一
    宮本常一
    昭和に活躍した山口県出身の民俗学者、宮本常一について、影響を受けた人々との関連から読み解いていくという新書。 宮本常一に影響を与えた柳田國男から、宮崎駿、スピッツの草野マサムネなどの幅広い人脈で宮本常一との関連を読み解きながら、宮本常一の活動を紹介していくという内容。 1930年台から亡くなる1981年まで日本の各地をフィールドワークし、旅に行きて、現地に赴き現地の生の声を収集しものを考えた人。 ゲンロンの人文ウォッチというYouTubeの配信番組で植田さんという人が紹介していたので、読んでみたら大変に面白かった。 最近は村田らむや丸山ゴンザレスの裏社会系のルポを好きで聴いているが、こういう仕事は見方を変えれば、民俗学的なフィールドワークと言えるな、と感じており、宮本常一との関連で同列に楽しめるということは、そういうものが個人的には元々興味のあるところなのだな、と感じた。 本の中では同じような民俗学者としてフィールドワークのあり方を宮本常一の手法に影響を受けた網野善彦や谷川雁などが挙げられていた。また、本田勝一や司馬遼太郎との関連についても、大変に面白い関係性が著作や日記の全文検索から示されており、興味深かった。 日本の歴史は教科書的に士農工商という分類があるくらい、農業に職業が一元化されるきらいがあるが、非農業系の仕事というものも大量にあったわけで、それはいわく、漁業やそれ以外にも工芸の職人的な仕事であったりしただろう。 例えば漆塗りの工芸には漆を塗布する塗師の手前には漆を採取する人々があったり、木で持って器や箸などを削り出す木地師というような職業もあった。山の民には定住以外の多様性があったはずだ。 炭焼きの職人もあったはずだし。 そういう忘れられた日本というものに目を向けてフィールドワークを重ねていった奇跡が、それに影響を受けた学者たちの言葉や著作などから客観的に述べられていて、宮本常一を今、読むことについての意義を強く感じさせてくれる内容になっていた。 なんて言って宮本常一のことを考えていたら、道に岩波文庫の『忘れられた日本人』が落ちていた。これも何かの縁と思って、一時的に手元において読み始めている。 歴史に残らない人の声を収集する姿勢は編集者としては見習いたいところである。人の話を聞くのはいつでも面白い。
  • 2026年2月1日
    虚言の国 アメリカ・ファンタスティカ
    虚言の国 アメリカ・ファンタスティカ
    アメリカの現代作家ティムオブライエンの約20年ぶりの長編小説。訳者はこれまでも日本で出版されたオブライエン作品を多く訳してきた村上春樹。600ページくらいある大長編だが、楽しく読めた。 『カチアートを追跡して』『本当の戦争の話をしよう』『ニュークリアエイジ』などの1970年代〜90年代に書かれた初期作品はいずれもベトナム戦争をテーマにした社会派な作品として評価が高く、訳書もしっかり出ているので、僕も読んだ。いずれもマジックリアリズム的な幻想的な部分はあるものの、戦争や核の問題に鋭く切り込んだ、大変に強い小説だったように記憶している。 血管か何かの病気があって、思うように執筆できないというようなことがあるらしいが、作家本人が「自分の最後の小説」として20年ぶりに上梓したのが本作品となる。 ストーリーは大変現代的で、最近のポールトーマスアンダーソン監督の『ワンバトルアフターアナザー』とかコーエン兄弟の映画なんかに通じる、現代風刺的な、クライムコメディ感があり、ナウい感じと思った。これまでのベトナムものとはだいぶ違う。映画のノベライズ、もしくはそのまま映画にできるような感じだった。 時は第1期トランプ政権の頃。フェイクニュースのでっちあげの発信者として過ごしていたボイドが、過去の精算もしくは復讐に乗り出すために銀行強盗を行い、そこの女性銀行員を誘拐して、復讐の旅に出るというのが発端。 誘拐した女性銀行員アンジーは熱心なペンテコステ派で、ボイドのファムファタールとなっていく。 その後、アンジーのフィアンセ、ボイドの元妻、そのセレブな親族、強盗された銀行の支配人などが入り乱れて、ガンガン人死などが出つつ、クライムコメディとして話がうねっていく、という流れ。 トランプ政権下のアメリカ、コロナ禍のアメリカがフェイクという切り口でまとめられており、真実や本質というものが全く意味のないものとして扱われていくのが特徴。 主人公のボイド自身がそもそも虚言癖の持ち主であり、それはある種の訂正可能性のような感じでも示されるのだが、さまざまな絶対的な事実が現実の中で捉えようによって変質していく。 虚言は過酷な現実を覆い隠すためのものとして描かれており、それぞれの登場人物はそういう側面である程度感情移入ができるように描かれてもいて、ボイドの虚言には過酷な過去の家族関係や息子の死などが関連しており、そこにある種の救いがある。そこらへんのストーリーの作り方は巧みだと思った。 最終的には血が繋がっている、いないに関わらず家族というものがテーマになっているようにも思った。家族からは逃れられないが、その関係を主体的に構築していくこともできる、ということも示されていると感じた。 父子の関係というのも一つの大きなテーマとなっており、高校生の子供がいる親としては感情移入して読めた。 600ページを超える大長編ですが、人物の動きはコーエン兄弟映画的なドタバタが続く感じで非常に映像的で、現代を移している鏡のような作品と思いました。 オブライエンさんは「これで最後の作品」宣言をされていますが、そんなこと言わず、もっと書いておくれよ、という気持ちになりました。 オススメです!
  • 2026年1月17日
    カップ焼きそばの謎 (ハヤカワ新書)
    正月に親子で本屋行ったら玄が読みたいと持ってきたので購入。面白かったというので、僕も読んでみた。筆者は『ソース焼きそばの謎』『あんかけ焼きそばの謎』といった焼きそば関連の前書が2冊もあるという焼きそばのエキスパートで、三部作の完結編がこの『カップ焼きそばの謎』だという。 もちろん、この本から読んでも全然OKで、カップ焼きそばの知られざる秘密がこれでもかと列挙され、目からウロコが那智の滝のようにこぼれ落ちた。 本の内容としては即席麺としてのカップ焼きそばの誕生から、現在までの約50年の歴史を各社の代表的カップ麺の特徴と経営や販売方針を経済誌などの情報を丹念に調べて、大変に上手く分類して流れを作っている内容だった。 マーケティングや経営についての良書として読んだ。 元祖カップ焼きそばのエビスカップ焼きそば、東日本の雄ペヤングソース焼きそば、妥当カップヌードルを狙う日清の日清焼きそばUFO、大盛りで市場を席巻したスーパーカップ大盛りイカ焼きそば、袋麺の王者が放ったヒット作、サッポロ一番おたふくソース焼きそば、からしマヨネーズを発明した明星一平ちゃんの店の焼きそば、オープン価格帯の頂点に立つマルちゃんごつ盛りソース焼きそばなど、の誰もがコンビニやスーパーなどでみたことや食べたことのある商品の開発から、味や容器などのコンセプト、販売戦略などを細かく分類して紹介している。 即席麺には袋麺とカップ麺があり、その販売数はカップ麺が6割を占め、そのカップ麺の中でもシェアトップは実は焼きそば味なのだという。 確かに自分もあの独特のソース味が無性に食べたくなることがある。昔、知り合いだった人でカップ麺の味だけで銘柄を当てられるという人がいて、すごい才能だと思ったものだが、この本を読んだ今となっては、各種カップ焼きそばの個性は明白になったので、僕だって少し食べ比べればそれはできそうなものだ。 とはいえ、1974年に初めて市場に出たカップ焼きそばなので、2024年には発売50周年を迎えている。その間に生まれては消えたり、まだ生き残っている味について、綿密なリサーチがなされているのはたいへんに読み応えがある。 マルカのペヤングは異物混入などで危機的状況もあったが、基本の味はほとんど買えずに、基本は東日本だけで変わらぬ味を守っている、とか、カップヌードルで全国シェアの強い大企業日清の焼きそばUFOはこまめに味を変えたり、パッケージを変えたり、大規模なCMを打ったりしてシェア一位をまもっているということ、またからしマヨネーズで一世を風靡した明星は現在は日清の子会社になっていること。 同様に大盛りで知られるエースコックも実はサッポロ一番ブランドで知られるサンヨー食品の子会社となっている。 食品会社の同系列商品ブランドの子会社かは業界ではカニバリズム(共食い)とも言われて嫌悪されることが多いようだが、これらの業務提携はお互いのブランドを尊重する良い関係を維持する友好的な買収になっていることも多い。 この辺りの情報も業界誌のインタビュー記事などをよく拾っており感心する。 結果、カップ焼きそば戦国史というようなたいへんにエキサイティングな流れを楽しむことができた。経営とかに興味ある人は読んでみるといいと思います。 また、この本の中で述べられている話ですが、カップ焼きそばは焼いてないのに焼きそばと言っていいのか? という点についてですが、筆者は言い切って良い、というスタンス。 調理において焼くというのは直火で焼くことであり、直火の焼き魚とか焼き鳥は焼きだが、鉄板で熱を通すのは通常は炒めである、と。 そうなると元々の焼きそばも本来は炒めそばなので、そう考えると細かいことは気にしなくて良い、という考え方、という見地らしい。 確かにそういうものかもしれないが、カップ焼きそばには独特のカップ焼きそば味というものが明確に存在しているとは確信をもっていえる僕でした。
  • 2026年1月5日
    戦争の美術史
    戦争の美術史
    古今東西の戦争を主題にした絵画作品を紹介している本。絵画というものが写真とは異なり、主題性に則って画家の意図を持って描かれるという観点から戦争画は単なる記録ではなく多様な観点を内包可能な記憶でもある、という切り口で読み解かれており、大変に興味深い視点を得ることができた。 2023年に神戸大学の文学部で行われた「戦争と美術」という通年の講義を圧縮してまとめたものとのこと。 古くはメソポタミアやシュメール、エジプトなどの壁画からローマ時代、ビザンツ帝国などにおける戦争描写から、ルネサンス期の表現などを経て近世の戦争表現なども大量の図版とともに代表的な作品が紹介されている。 日本においては蒙古襲来絵詞をはじめ、戦国時代および江戸時代の錦絵の主題としての戦争が紹介され、日清日露を経て第一次大戦を皮切りにした作戦記録画としての戦争の記録が紹介される。 近代以降は世界的な二度の大戦において各国が従軍画家を現地に派遣していた事実が紹介されて驚いた。驚いたが。それはそうだよなとも思った。写真の発明以前ではやはり記録は絵画が主流なわけなので。 イギリス、イタリア、フランス、ドイツ、アメリカなどでは、それぞれの時代によって未来派とか印象派とかそういうイズムがあるわけですが、さまざまなアーティストがイズムに基づいて様式的に戦争をとらえたりしているのも興味深い。 また、イタリアの未来派などは従軍した中心人物が根こそぎ戦死したりして運動が下火になったりしているというのも興味深い。 第二次大戦における作戦記録画における画家の心理についてかなり突っ込んだ分析をしているのが白眉で、特に藤田嗣治の筆の走りについては、人間の極限という画題にぶつかり、軍からの依頼もあったとは思うが、自己の画力と合わせて、どこまで描けるかを限界まで探求した画家の業として捉えており、ここは文体も熱くなっていて読み応えがあった。 東近美の常設展の戦争画のコーナーがしっかりと整備されてきたのはここ数年のことだという。僕は東近美に行くたびに見ているが、やはり藤田嗣治の戦争画には圧倒される。東京にお住まいの方はぜひ見に行かれたし。 黒田清輝なども従軍はしておりスケッチなどは描いていたが油絵のタブローにはしていない。この辺り、日本の戦局を政治家として冷静に見ていたのかもしれず、何か手記などはないのか気になる。 戦後の戦争美術については世界各地に残る戦没慰霊碑や戦争記念碑をはじめ丸木夫妻の原爆絵画やリヒターのビルケナウやキーファーの作品などについて触れられている。 ベトナム戦争のアメリカ国内の表現なども含めて戦争の負の記憶をいかに継承していくかというところに、戦争美術は公的な性格が強く、過去をどのように記憶して忘却するかは共同体が決める、として、戦争美術が集団的記憶を形成する、と述べている。 これは大変に興味深かった。 戦争の記憶は写真や映画、文学などにも表されているが、それらも含めて、どのような記憶や忘却を自分らが背負っていくべきか、考えていかないといけないと思った。 大変良い本でした。
  • 2026年1月4日
    平和と愚かさ
    ゲンロンのサイン回配信でサイン本を購入。2025年の年末から2026年の年始にかけて読んだ。2026年の1冊目としては年初から濃厚な読書体験ができた。 東浩紀は数年前から突発配信などの長時間の1人語りをかなり聴いてきた。会社経営者という立場を鑑みるとかなり正直な本当のことを語る、好きな語り手の1人だが、著作も大変によく、古いものから最近のものまである程度は読んでいるが、どれも素晴らしい。 この本は戦争が止まず、SNSでは分断が止まない、この世界で平和とは一体、何なのか、どのような状態を平和と考えるとよいのか、ということを、東浩紀が実際に訪れた世界中の都市への紀行文と哲学的思索がつづれおりに重なっている、という構成になっている。 ほぼ500ページという大著で著者も哲学者ということで難解な言葉の羅列かと思いきや、そんなことはなく、難しい概念を紀行文と合わせて、とても分かりやすく平易な文章で書いてあり、非常に読み口が軽いのも特徴。大切なことが書かれているので広い読者に届いてほしいと感じる。 さて、言いたいことを言いすぎて友と敵を、明確に分断しがちなこんなポイズンな世の中で東浩紀が訴えるのは、平和というのは、政治について考えないでよい範囲がより広く担保されている状況のこと、なのではないか、ということである。 例えばパンダを見て、これは中国による外交政策の一環なのだ、と感じたり、スタバを楽しんでいる人を見てあんたはイスラエル支持者よね、とレッテルを貼ったりする行為からは分断こそ生まれるが平和からは遠ざかる、という考え方である。 政治的に考えない、というのは愚かさに通じる、という言説があるが、哲学的に考えないことを考える、ということに挑戦していて、そこは大変にエキサイティングに感じる。 紀行文としてはサラエヴォ、ウクライナ、チェルノブイリ、中国、広島、どこかのリゾート地などを訪問して、そこの戦争や人災の負の記録と向き合って、その表象を探り、記録と記憶について思索を深めている。 逍遥、というのとは少し違うが、移動して見知らぬ土地へ赴き、そこで気づいたことをきっかけに論を展開しており、これはわかりやすい。 負の記録としては現地の博物館などに訪れて虐殺や戦争などについての表現の仕方をとらえている。 記録と記憶、というのは起きた事実をどう捉えるか、という点で重要な観点となる。 記録的な側面は、その記録は事実だが例えば博物館などに展示される場合、その表現は博物館側の意図により大幅な訂正可能性を持つ。例えばコップの中に水が半分あるとして、これをあと半分しかない、と表現するか、まだ半分も残っている、と表現するかによって、観衆の捉え方はコントロールできる。文脈を持たない人たちにとってはそこに批評性を持ち込むのはなかなか難しい。 また、博物館の展示はコンセプトによって訂正可能性があり、その表現は流動的となる。 記憶についていうと、人間の寿命は短いため、当事者というのは世代を同じくするため同じような時期にパタっといなくなってしまう。日本においても戦時中の記憶を保っている人々はほぼいなくなってしまっている。この流動性は人間という種の限界と言ってもいいのかもしれない。 つまり、世界中に残る負の出来事を次世代に残していくということは常に訂正可能な事象として曖昧な形で継承されていく、というわけだ。 それに対して、複雑な記録と記憶をどのように繋いでいくか、というところに東浩紀が注目したのが、文学における方法とインスタレーション的な展示による方法となる。 文学については村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』と大江健三郎の『治療塔』『治療塔惑星』の2篇を例に挙げて語っていてとても興味深かった。 『ねじまき鳥クロニクル』は学生の頃から大変好きな作品で繰り返し読んできた。人間が抱えている暴力についての物語と捉えているのだが、物語の中に唐突に第二次大戦中の1939年のノモンハン事件に関連する特殊作戦の展開が描かている。 現代を生きる主人公は様々な偶然に導かれて、その記憶の蓋を開けて、深い井戸に潜ることにその記憶と直結していく、という流れがある。 これは失われた記憶というものをキーに、ある種の戦争加害と我々は無関係ではない、ということを小説的な手法で表現している構成だ。 マジックリアリズム的にも読めるこの構成をかなりシリアスに忘却への具体的アプローチにしているのが、この小説のすごいところなのだろう。またその視点を忘れずに読み込んでみよう。 『ねじまき鳥クロニクル』では、主人公はいろいろと考えて行動を起こすが基本的には意図しないところで意図が達成されたり、徒手空拳に待っていると向こうから答えがやってくるというような状況設定が多い。現実に翻弄される、ということと忘却された事実に導かれている、というところが裏で結びついているようで、そこを読み解くとまた見え方が変わってくる気がする。 村上春樹では2000年刊行の『神の子どもたちはみな踊る』の中に「かえるくん、東京を救う」という短編があって、これは村上春樹さんによると、なぜか大変に人気のある短編なのだそうですが、ここでも近いテーマが別のアプローチで描かれている気がしている。 東京の地下にいる巨大なミミズである「なめくじら」が大地震を起こそうとしている。それをかえるくんと主人公の片桐が片桐の夢の中で協力して退けるという話なのですが、夢というのは記憶であって事実ではない。しかし、それは現実に対しても確かに効力を持ち得る、というようなテーマというか、こちらは大変に前向きで勇気や責任について直接的に書いている、気持ちの良い話(ラストは少しダークですが)なので、興味のある方はぜひご一読あれ。 また大江健三郎の作品でも広島や原水爆をテーマにしたSFが近いような記録や記憶を元にそういった負の遺産をどのように人間が消化(昇華?)していくのかを扱った作品がある。 大江健三郎と村上春樹の村上初期の作品に対する大江健三郎の拒否反応を知っていると、その後の村上春樹の小説家としてのキャリアを見てきた自分としてはこの2人がこのようにある意味、並列に扱われているのを見るのは嬉しいことだ。 AIなどの発展により、逆に人間の持つ小説や文学などの人文学的な価値は高まるだろうと東浩紀は書いているが、これらの小説に触れてきた自分としては、それは確かにそうだ、その通りだ、と思う。 また、記録や記憶にとって博物館の展示、特にノンバーバルなインスタレーション的な展示がものごとの持つ複雑な多様性を表すために効果的だ、という指摘があり、そこは大変に共感した。 例えばワシントンにある国立アフリカ系アメリカ人歴史文化博物館では、アメリカの憲法に人間の平等の一文を書いた3代大統領のジェファーソンの像があり、彼は独立宣言の父などと称されつつも、自身は600人にものぼる大量の奴隷所有者で、あまつさえ当時、自身の奴隷だった女性との間に複数の子を設け、その子供も奴隷として扱ったということが歴史的事実として広く認識されているそうだ。 かなり矛盾を孕んだ人物像だが、それをこの歴史文化博物館ではそのジェファーソンの背後に600個のレンガの壁をたて、そこに奴隷の名を記すことで表現しているのだという。 言葉でジェファーソンの矛盾を説明すると恣意的になる。そこで、本人の像とレンガの壁、そして記名による個人の顕現により、様々な両義性を表しているのだろう。 戦争についての美術としてはゲルハルトリヒターの『ビルケナウ』やミハ・ウルマンの『空の図書館』など、優れたものがあるが、単に激烈な表現をするだけでなく、ノンバーバルなだけに形や色で表現することの可能性について言及されているのは様々な博物館や美術館を歩いた東浩紀ならではの視点と感じた。 またウクライナの現代美術家ジャンナ・カディロワについての言及があった。ジャンナは愛国に基づき、自身の作品の売り上げをウクライナに寄付して戦争協力している、ということが展示内で明言されており、そこについて東浩紀は否定的だった。 アートの持つ価値が平和に結びつくことを知っているからこその違和感だと思う。強いメッセージだった。 かなり長くなってしまった。この『平和と愚かさ』にはこのような人文学やアートが思考を政治から解放する装置として機能するということが力強く述べられていると思う。 僕は自分の興味の赴くところで、上記の部分について感想を書いたが、それ以外にも、サラエヴォ包囲、731部隊、チェルノブイリ原発事故などについても詳細な歴史と哲学的な思索が述べられており、そちらも現代を捉えるのに大変参考になる論説となっている。 大変な名著と思います。みなさん、ぜひご一読ください。
  • 2025年12月20日
    ブラック・カルチャー
    奴隷貿易や奴隷制を起点に環大西洋的な視座から、黒人の文化を音楽、文学、アートなどを横断的に捉えて読み解く内容。大変素晴らしい内容でした。 今年の初めに読んだ後藤護さんの『黒人音楽史』にも深く接続する内容でこれまで自分が見知ってきたさまざまな黒人に関連する点在する物事がシュパシュパとつながる感覚があり面白かった。 高校時代にジミヘンドリックスにハマり、大学時代はJB、スティービーワンダー、マイルスなどを聴き、それに関する評論なども読んできた。公民権運動やヒップホップの歴史などの良書もあるのでそういうものにも触れてきたわけだが、そういう知識に背骨が通ったような感覚を持った。 菊地成孔と大谷能生がどこかのラジオかドミューンかで後藤さんの『黒人音楽史』について語っていたので、それを読み、そこから中村さんのことを知り本屋で見かけて読んだわけだが、本の持つ引力やセレンディピティを感じる体験となった。 内容としては前半の6章は奴隷貿易に端を発するブラックディアスポラについて丁寧に歴史を読み解いていく。 文字を知ることが「奴隷には向かなくなる」ものとして禁止されていたため、黒人にとって口伝や口承が文化そのものとなり、そこから歌や踊りが文化としてかけがえのないものとして立ち上がっていった、というのはなるほど、と思った。 音楽について、黒人霊歌、ブルース、ジャズの成立と発展はニューオリンズからミシシッピ川遡ってシカゴへ至る流れとして大体の経緯は知っていたが、黒人奴隷からの聞き書きによる奴隷体験記をトーキングブックと呼ぶ、ということは初耳だった。それこスティービーワンダーのアルバムに『トーキングブック』というものがある。 黒人文学についてはサミュエルディレイニーを数冊読んだくらいなので、例えば黒人奴隷の年代期としてテレビドラマにもなっているアレックスヘイリーの『ルーツ』などはやがて読まねばならない作品と感じた。 またアフロフューチャリズムやアフロセントリシティなどの言及にも興味深いものが多かった。 黒人ファンクのジャケなどに時たまエジプト的な衣装が施されていることがある。アースウィンドアンドファイヤーの『太陽神』とか、アフリカバンバータの諸作品とかですが、僕はこれは単なる賑やかしというか、エジプトって面白いよね〜みたいなノリでやってたんだと感じてましたが、実は1970年代にセネガルの研究者がエジプトは黒人国家だったとする論文を発表していたのです。 公民権運動などの中でブラックアズナンバーワン的な黒人意識高揚の観点から急進的な活動家などに指示されたこの学説はアフロフューチャリズム(こっちは未来志向)などと共に過去においてもブラックはすごいんだ、という主張の拠り所となっていったらしい。このアフリカ黒人起源説はDNA鑑定的には否定されているようですが、黒人の心を掴んで離さないコンセプトとなっているらしいのです。 だからファンクの人たちって時たまエジプトっぽい衣装を着てるんだ。日本だとスペクトラムとか米米クラブとかってなんかそういう感じだけど、そこら辺の思想のなさが能天気で良いな、と思います。 そのほか黒人文化を模倣する形で取り入れる白人貧困層をホワイトニグロと呼び、非当事者として差別する流れや映画ブラックパンサーについての解釈なども大変面白かった。 また、日本の研究者は黒人奴隷問題については完全な非当事者なため、文章に大変気を遣っているところが感じ取られて気品もあり、素晴らしいなと思う反面、デリケートな問題をしっかりと正面から扱う勇気にも感動した。 広く読まれてほしい一冊です。
  • 2025年12月6日
    四百字のデッサン新装版
    2023年に102歳で没した画家、野見山暁治さんの1976年に出版されたエッセイ。東京美術学校の話や藤田嗣治の話、坂本繁二郎、和田英作、駒井哲郎、義弟田中小実昌など、もはや伝説上の人物との交流などが生き生きと描かれている。 戦時中に東京美術学校に入学し、卒業後、徴兵されるもの病で帰国、なんとなく生き抜いてきてしまった、というような感情を踏まえた回顧もあり、淡々としているが時たま、ある種の燻りを感じさせる瞬間もあり、文章は非常に上手い。 たくさんの死に向き合ってきたこともあり、人間観察が鋭く、妥協やウソのない文章になっている。 先日、『東京美術学校物語』を読んだばかりだったので、和田英作や自由美術の話も大変興味深かった。『東京美術学校物語』では単に記録されているだけだった人物が、生きた人間として回顧されていて、立体的な人間として立ち上がってきて、読書のセレンディピティを感じた。 淡々とした中に味わい深いギャグとかも入っていて、クセのある面白い方だったのであろうな、と感じた。エッセイはたくさん出ているようなので、もう少し読んでみたい。
  • 2025年12月3日
    クラバート改訂
    クラバート改訂
    ドイツの児童文学者、オスフリートプロイスラーによるファンタジー長編。かなり真っ当なジュブナイル。 プロイスラーと言えば『大泥棒ホッツェンプロッツ』3部作が殊に有名だが、他の作品も日本語に訳されているものは大変素晴らしい。 この前、水戸芸術館に磯崎新展見に行ったら、ホッツェンプロッツシリーズと一緒にこの『クラバート』が売っていたので、思わず買ってしまった。 いかがわしく何やら謎めいた魔法使いの親方のもとで粉挽き職人として働きながら魔法使いの修行をする12人の青年たち。 しかし、その12人は毎年大晦日に1人ずつ謎の死を迎える慣わしになっていた。ひょんな偶然から親方に弟子入りすることになったクラバートは、仲間の職人たちと奇妙な魔法使いの弟子生活を送りながら、仲間の死の謎に迫っていくという話。 ホッツェンプロッツのようなギャグはなく、正統的なファンタジージュブナイルという趣き。ドイツの深い森や雪深い冬、魔法の持つ神秘性が格調高く描かれている。 ザクソン選帝侯みたいな肩書とか、シュバルツコルムみたいな森の呼び名、そのほかも地名とかもドイツ的で大変魅力的だ。 ドイツの粉挽職人の生活と魔術的な人間関係や謎解きの面白さなど、派手さはないがしみじみと良いファンタジー感に触れることができる。 『千と千尋の神隠し』の元ネタの一つということはよく言われているが、魔法使いの弟子が皆、鳥になるシーンなどは『君たちはどう生きるか』にもイメージの一部が引き継がれているようにも感じた。ジブリ好きの人は是非一読を勧めたい。 ホッツェンプロッツは幼い玄にせがまれて何度も読み聞かせしたけど、青年になった彼とまたプロイスラーについて一緒に話し合えるのは素敵な体験だと感じている。
  • 2025年11月29日
    芸術論
    芸術論
    現代美術アーティスト、宮島達男の21世紀に入ってからのさまざまな論考を集めたものに、Twitter(現X)でのポストや書き下ろしを加えた本。 芸術家として、また東北芸術工科大学における教育者としての宮島達男の言葉が綴られている。 美術教育についてその必要性や意義をかなり前向きに実践的に語ってくれている。 作品には仏教的な世界観が取り入れられているが、現世においてはかなり実践的で具体的なコンセプトを持って望んでいることがわかり、大変興味深かった。 とても人間的な文章で共感しました。
  • 2025年11月29日
    東京美術学校物語
    明治から昭和にかけての美術界の動向が東京藝術大学の前身である、東京美術学校の歴史を中心に語られる本。 1876〜83までの工部美学校に続いて1889〜1949までの東京美術大学のたどった歴史をコンパクトにまとめている。 日本の美術の歴史を国粋主義的な日本がの流れ(岡倉天心やフェノロサ→横山大観などの日本画的傾向)と海外留学経験のある国際主義的な流れ(黒田清輝などによる洋画的傾向)の対立で読み解く流れは、それぞれの作家を明治〜昭和初期の作家についてそれぞれ調べるにおいて、なんとなく知ってはいたが、東京美術学校における人事の流れなどを読み解くと非常にわかりやすく、面白かった。 国際社会において、海外に対峙する日本の独自性を日本的なアイデンティティの形成として目指した岡倉天心的な考え方と、海外の文化を取り入れて折衷しつつ認めさせる黒田などの思想が対立するのは必然な気がするが、黒田の代表作と言える『知情感』のコンセプト作成に岡倉が関与していたのではないか、という見立ては非常に面白かったし、その背景が金箔による絶対空間であるがため、ヨーロッパでは下書きとみなされてしまったかもしれない、という点などは大変面白かった。 当時の万博などへの出品目録のデータなどもあり、そこから読み取れるもの色々とあり、大変面白かった。 それ以外でも、資料から読み取れる各プレーヤー(歴史的人物)の思惑などの、感情的側面が想定と共に記されているのも面白かった。 浅井忠なんかの日記を基にした、万博の日本展示への絶望的な否定感だとか、官展や文展、そのほかの在野団体の感情のもつれなど、歴史というのは人間の感情に結びつくと途端に下世話な面白さを帯びるな、と感じた。 岡倉天心など、心意気は良いんだが、下半身がだらしないとことか、いくらいいこと言っていても、それでいろんな物事が振り出しに戻ったりして、いかがなものかとも思うし、横山大観なんかの戦時中の国粋的な感覚からの戦意高揚に向けての舵取りなど、なかなかシビアなものがあった。 とはいえ、そういう点を画業と合わせて肯定的に捉える文章の説得力もあり、そういう見方もあるのか、と思った。 とにかく団体やイデオロギーなどの衝突や小賢しい政治的な思惑で人を失脚させたりとか、そういう話も多く、こういう人間関係は昔から変わらないのね、とも感じた。 作品ばかり知っていたさまざまな明治以降の伝説的作家の割と赤裸々な感情的思惑や失敗や成功なども記されており、大変面白かったです。
  • 2025年11月24日
    「日本文化論」はどう創られてきたか 戦時下のモンタージュ
    大塚英志の新刊。新書だが470ページとかある大部。とはいえ、内容は非常にエキサイティングで大変面白く、結構時間を忘れて読んだ。 1930年代にエイゼンシュテインが自身の映画技術であるモンタージュ論を日本の伝統表現と結び付けた評論がキネ旬により日本に紹介されたことをきっかけにこ、日本的🟰モンタージュという概念が市井にも広がった。 モンタージュは映像表現におけるカットと時系列のカットアップによる演出方法だが、それはロシア構成主義などによる平面のグラフモンタージュとも関連していく。 1937年のウィーン万博には日本も出展しており、これは日本国としては公式初参加の万博だが、そこには金のシャチホコなどと一緒に、観光日本と称された、高さ2.35m、長さ18mに及ぶ写真壁画が展示されていたという。 これは大仏や芸者などをあしらったフォトモンタージュ作品だったが、そういうものが展示された経緯や、その後、戦時下にプロパガンダとして国策で作られたグラフ誌「front』などの成立やピープルツリーを細かく紹介し、戦時下のプロパガンダとグラフモンタージュなどがどのように成立していったかを解説している。 そもそも、僕は美術教科書の編集の仕事をしているわけですが、自分の問題意識として、この美術教科書のレイアウトの形式ってどこからきたのか、意識したことはなかったのですが、なんかそれを想像させてくれるような資料的側面が強く、大変に惹きつけられました。 戦中のプロパガンダ誌には原弘とか名取洋之助とか木村伊兵衛、土門拳なんかも絡んでいるわけですが、それ以前には日本にはいわゆる雑誌などはなかったわけで、この辺りが今の雑誌レイアウトに与えた影響は大きく、そのあたりの人たちは戦後も出版や写真の世界で生き残っていくわけなので、もしかしたら美術教科書の源流はここかもしれないな、などと考えさせられた。 社内にある古い教科書の関係者にこういう人らが入っているかどうかを少しリサーチしてみようかと思う。 それ以外にも柳田國男とか手塚治虫とかの話もあって、大変に勉強になりました。面白い本なので、オススメです。
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