中根龍一郎 "永遠よりも少し短い日常" 2025年4月4日

永遠よりも少し短い日常
町中華の話をしていた。町中華から平和園を連想した。平和園から荻原裕幸を連想した。荻原裕幸から市川春子を連想していく途中にこの歌集があって、少し開くと、以前には読み落としていた好きな歌をいくつか見つけた。 短詩はその短さのためにすれ違うように過ぎていき、いつすれ違うかによって、印象がずいぶん変わる(でも短詩に限らず、本はみんなそんなものなのかもしれない。すれ違うための労力に大小異同があるだけで)。 少し前にXで王寺賢太が、実朝の歌は所詮は東国武士の公家文化摂取によるもので、一部の秀歌はまぐれあたりのようなものだというのが現在の一般的な了解というのを聞いてシュンとした、と言っていた。私もけっこうシュンとした。じっさい金槐和歌集にピンとくるものとこないもの、けっこう差はあるのだけど、歌集はわりとそういうところもあるから、そういうものだと思っていた。 穂村弘が『シンジケート』を編むときに、つまらないものを入れてしまうことを恐れるより秀歌を落としてしまうかもしれないことを恐れよ、というアドバイスを得たという話を読んで、なるほどと思った覚えがある。 すべての詩にうなずける詩集や歌集はあまりない。だから読み返すのが面白い。またそのために、手放すのがむずかしい。 荻原裕幸を読んだので、市川春子を読み直すところまでたどりつかなかった。有限性。
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