
K
@weitangshaobing
2025年4月4日
私はイスラム教徒でフェミニスト
ナディア・エル・ブガ,
ヴィクトリア・ゲラン,
中村富美子
読み終わった
【好きなところ引用】
自分を養い育てた二つの文化、二つの社会のどちらかを一方的に断罪したり、逆に無条件に受け入れたりすることなく、いずれにも批判的なまなざしを向けている。一つの文化に自閉していると、異なる者や文化に出会ったときに驚き、反発し、排斥に向かいやすいだろう。多様な文化に馴染み、その社会の現実を知っているからこそ、いずれか一方を絶対化することなく、それぞれの文化を批判的に見つめ、それを乗り越える広い視野を持ちうる。その開かれた精神こそ、本書からくみとれる最も豊かな恵みにちがいない。(役者あとがき)
他者を受けつけない西洋的な言説──宗教は女性を抑圧するものであり、女性の解放の妨げとみなす──があり、もう一方にはイスラムの言説──厳格で本質主義的で、普遍的権利はイスラムにそぐわないとみなす──がある。第三の道は、ムスリムの規範を時代に合わせて読み直しながら、それを普遍的人権に結びつけるものである、と。私も同感だ。フェミニストであってムスリムであることは決して矛盾しない。上等で正当なフェミニズムと、下等で非合法のフェミニズムがあるわけではない。フェミニズムは地域によって都合よく変わるようなものでもない。私が女性の権利を擁護するときは、宗教や服装、性的指向などには一切関係なく、あらゆる女性のために権利を擁護する。
女性たちが神学者の中なかで正当に評価されるのはいつのことだろう。いつか、女性がモスクの長となる日がくるだろうか。私にとっては、それこそ問うべき唯一の問いだ。
敬虔なムスリムの助産師が、どうして中絶にやってくる患者に経口中絶薬を渡せるのか、と。「あなたの信仰と矛盾するんじゃないの?」という質問もひっきりなしに受けている。私の家族は一度もそんな質問をしたことはない。私と同じで、答えははっきりしているからだ。 「その命は私のものではないから」私の仕事は女性たちの選択に寄りそうことだ。どんなときでも私自身の考えを患者に押し付けることはしない。中絶を望む女性が私のところにやってくるとき、その理由がなんであれ、辛くないわけがない。
今、私たちに伝わっているイスラムがいかにサウジアラビアや中東の国々によって変質させられ、反動化しているかも痛感させられた。それは私が読みたいと思う、開かれたイスラムからは遠かった。コーランを字義通りに読んだのでは、日常生活の問題すべてには答えられないと学者たちはすでに八世紀から理解していた。コーランの再解釈がどれほど大変な仕事かはわかっている。それでも私たちなりにやってみたい。父権的で古臭い解釈を脱構築し、神のメッセージの核心を再発見したいのだ。
それは祈りの原理そのものだ。意図の概念はセクシュアリテにも信仰生活にも共通する。与えたり受け取ったり、望みを満たしたり、もてなしたりするのに良いコンディションを作ることが大切で、性行為は思いつきで相手にとびかかるようなものではない。
私はスカーフを被らされているのではなく、自分の意思で被っているのだ。たしかにサウジアラビアの女性たちは被らされている。それは命令であって、男たちは女性が頭を覆わないで外出するのを許さない。私は違う。自分の意志で選択したことだ。私にとってスカーフは信仰の道具の一つで、いつでも脱ぐことはできる。私がスカーフを被るのは、他者の視線から自分を守るためではない。もっぱら自分自身のため、神と直に接するためだ。
フェミニストでありながら、「隷属する女」の象徴であるスカーフを被るなんてありえない、と。その論理の危うさを指摘しよう。人をそのようにレッテル張りして枠に押し込めるのは、使い古された抑圧者の論理でしかない。なぜ、抑圧者が上から目線で説く「自由な女性」のイメージに合わせなければならないのだろう。ハイヒール、赤い口紅、脚線美を露わにするドレス。それは私が考える自由とは違う。それも自由の一つの表現かもしれないが、もっとずっと多様であっていいはず。今、私のなかで女性性と信仰はうまく折り合っている。それもまた自由を感じるということではないだろうか。スカーフはサラート〔断食月の特別な礼拝〕や日々の礼拝の最中に私と神とを結びつけてくれる装い。それを一日中、そして毎日身に着けることで、私はいつでも神とともにあると感じられる。だからと言ってスカーフを被るのが嫌だったり、被る必要を感じない女性がいても、私より不信心だなどとは思わない。現にスカーフを被っていなくても、敬虔で深い精神性をもった女性をたくさん知っている。フェミニストたちには、主人と奴隷に関するヘーゲルの弁証法を学び直してほしい。もし主人が奴隷の仕事に依存するならば、奴隷の奴隷ということだ。そして、もし奴隷が働くことで自由を獲得していくなら、私はこの奴隷でありたいと思う。そうやって支配の関係をひっくり返し、平等を獲得するのだ。