本の虫太郎 "『正法眼蔵』を読む 存在する..." 2026年9月3日

『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか
印象に残ったこと3点 ・すると付き合う他人の数が増えれば、果たすべき役割も増える。「父」「子」「上司」「部下」「友人」「競争相手」......これらを全部一人称に回収し、つじつまが合うように編集していかねばならない。この作業に疲れると、人は役割の集積である自分を「本当の自分ではない」と感じ、役割を果たす主体たる「本当の自分」があるはずだと考える。この考え方が無意味であることは、すでに縷々述べたとおりである。 考えるべきは、「自分」という言葉が他者との関係においてしか意味をなさない、ということである。もっと言えば、「自分」とは他者との関係において形成される個体の行動の型、様式についた名称なのだ。我々は、他者(人も物も含む)との関係において考え、行動した一連の経験を、「私」という首尾一貫した行動様式に構成していくわけである。 「自己をならう」というときの「自己」とは、このように解釈される行動様式としての「自己」なの だ。 ・目の前の出来事に思い悩んだりするのは、その出来事に思い悩むべき「本質」が内在しているからではない。そうではなくて、思い悩むから、事態は思い悩んだように、つまり「このように」現前するのである。いま「このようにある」思い悩むべき事態とは、思い悩む行為から切り離されて、それ自体で存在し、「自己」の思い悩む行為の「対象」になるものではない。そうではなくて、「自己」も「対象」も思い悩むことによって「このように」生成された事態なのだ。なぜなら、思い悩みは行為であり、行為こそ縁起の実質だからである。 ・現代の我々の自己や世界の存在の仕方を強力に拘束しているのは、取引や競争といった行為である。坐禅はまさに、その対極にある行為ー眼が目標を狙い、それを掴もうと手を伸ばし、前傾姿勢で息せき切って走っていくような行動ーとは正反対な行いだ。 つまり、坐禅は身体行為と言語に基づく思考を限りなく停止へと導くテクニックである。停止ではない。停止は睡眠か死かであろう。坐禅は、停止状態に直面する行為である。それは睡眠でも死でもなく、いわば完全に休息することなのだ。「坐禅儀」にいわく、 諸縁を放捨し、万事を休息すべし。 そこには、存在が解体した後の土台が、存在が生成してくる縁起のゼロポイントが現成する。誤解を恐れず言うなら、坐禅は存在を初期化するのである。しかし、物事は初期状態が「真実」であるとは誰にも言えない。物事は全体として評価されるべきなのだ。したがって、坐禅の開く境域を「真理」と名づける根拠は何もない。 しかし、初期状態は重要である。なぜなら、言語において存在する人間は、自らの土台である初期状態を簡単に忘却し、それを思いだす方法を知らないからである。どんな建物でも土台の状態への無頓着は危険だろう。 通常の人間は、「完全な休息」などできない。方法を知らないし、その意味もわからない。だから、休みと称して遊ぶのである。『眼蔵』が坐禅修行を強調するのは、繰り返し思いださない限り、忘れるからである。つねに土台を意識して家を建て、そこに住むことはむずかしい。その困難に対する処方なのである。
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