
綾鷹
@ayataka
2026年7月10日

グロテスク
桐野夏生
悪魔的な美貌とカリスマ性を持つ少女・ユリコと、その姉である「わたし」、そしてエリート校で孤立する途中入学組の和恵。残酷さが混ざり合う女性階級社会の中で、彼女たちは激しい憎悪と嫉妬を抱えて生きる。やがて大人になったユリコと和恵は売春婦となり、2人とも惨殺死体となって発見される。
桐野夏生さんの小説を読むのは3作目だが、どの小説も実際に起きた事件を元にしている、社会の闇と女性の苦しみを描いている点が共通しているのかな。
グロテスクは東電OL殺人事件という、昼間は大手企業の管理職として働き、夜間は路上で売春をしていた女性が殺害された事件を元にしているよう。
外見至上主義、努力信仰、能力主義という世間の価値観に苦しめられる女性たち。
2003年に発行された本だけど、20年以上経った今も同じ苦しみが継続しているように思える。
特に和恵視点のパートで出てくる次の2つのセリフは、和恵の切実さが苦しすぎる。。
世間で常に評価されていなければ自分を認められない苦しさが伝わってくる。
▶︎勝ちたい。勝ちたい。勝ちたい。
一番になりたい。尊敬されたい。
誰からも一目置かれる存在になりたい。
凄い社員だ、佐藤さんを入れてよかった、と言われたい。
▶︎誰か声をかけて。あたしを誘ってください。お願いだから、あたしに優しい言葉をかけてください。
綺麗だって言って、可愛いって言って。
お茶でも飲まないかって囁いて。
今度、二人きりで会いませんかって誘って。
自分自身が他人の目を気にしてしまう性格だから、とても考えさせられる小説だった。
・わたしの父は、日本ではマイノリティですから、権力はありましたが世間とは言えません。祖父は弱いアウトローで、わたしの言いなりです。強いて言えば母親が世間代表だったかもしれませんが、母親の影響力は弱く、父にさえ勝てなかった。だから、和恵の父親のように世間というものの厳しさやくだらなさを強固な価値基準として表す人間を見るのは、それはそれで感動ではあったのです。なぜなら、和恵の父親は世間の価値などさほど信じていないのです。でも、生き抜く武器として意識的に持っているのだとわたしに匂わせていたからです。Q女子の内部事情なんて、和恵の父親はきっと気にも留めていないでしょう。和恵の父親が武器に使っているのは、外から見たイメージ、つまりは世間の見方そのものなのですから。それが当の和恵にとってどれほど残酷か、ということもこの父親にとっては意にも介さないことだったと思います。身勝手で強い奴。そのくらいはまだ高校生のわたしにもじんじんと伝わるのでした。
でも、和恵や和恵の母親や妹は、父親の思惑や武器など一生気付かないで済むでしょう。それを感じ得たことだけが、わたしには和恵に対する優越感として残ったのです。わたしやミツルが磨く悪意を、この人はもっと滑りのいいもの、もっとわかりやすいものに変えて、家族を守っている。家族を守ることは自分を守ること。その意味でわたしは、和恵に強い父親がいることが羨ましく思えてなりませんでした。父親の強い意志に染まった者は、その価値基準が正しいと思って生きていけるからです。今、気付きましたが、それはもしかすると、マインドコントロールと言われるものに近かったのではないでしょうか。頑張る信仰に冒された和恵は、父親にマインドコントロールされていたのです。
・母は私を憎んでいた。私という、自分に似ても似つかない子供を産んだことに戸惑い、整理できないままに生きている。それは私が成長してからの方が強くなった。そして、スイスに引っ越したことで決定的になった。家族の中で母だけが東洋人だからだ。従って、母の思いは西洋人に近い私より日本に置いてきた姉の方に向かったのだ。母は始終こう言って気にかけていた。
「あの子が心配だわ。私に捨てられたと思っているんじゃないかしら」
姉は捨てられていない。私こそが母に捨てられた子供だった。誰にも似ていなくて、存在自体を疎まれた子供。私を求めるのは男たちだけだ。男に欲されることによって、初めて存在する意味を持てた私。だから、私は永遠に男を欲する。宿題よりも何よりも、先にするのは男との逢い引き。それは男たちが私が今ここに生きていることを証明してくれるからだ。
・「放っておけないよ。だって、きみの魂がれる。そんなことをしてはいけない」
「魂は売春なんかでは汚れません」
バイシュンという言葉を聞いて、木島は怒りで声を震わせた。
「気付かないだけだ。汚れる。あなたの魂は汚れている」
じゃ、先生が家庭教師をして二時間で五万円貰って、そのお金でハワイに家族旅行するのとどう違うのですか。それは恥じゃないのですか。先生の家族は汚れない?」
木島は唖然として私の顔を見つめた。どうして私がそんなことまで知っているのか、想像も付かなかったのだろう。
「それは確かに恥だが、魂は汚れないよ」
「なぜですか」
「だって、労働の報酬だからだろう。私は労働するために努力している。でも、身を売ることはしてはいけないことだよ。あなたが女性だということはあなたが選んで努力したことじゃない。たまたま、あなたは美しい女性に生まれついただけだろう。そのことを利用して生きるのは魂が汚れる」
「利用しているわけじゃない。先生のバイトと同じです」
「同じじゃないよ。だって、きみの仕事は、きみを好きな人間を根底から傷付けることだよ。誰もきみを愛さなくなるし、きみも愛せなくなる」新しい考えだった。私の体は私のもので、誰のものでもないはずだ。私を愛そうとする人間は、私の体まで支配しなくては気が済まないのだろうか。愛がそんなに不自由なものなら、私は一生知らなくてもいい。
「私は愛なんて要らないのです」
「よくもそんな傲慢なことが言えるね。きみはどういう人間なんだ」
木島は苛立った様子で指に付いたチョークの粉を見た。眉間に深い皺が寄り、撫で付けた髪がひと筋額にかかっている。驚いたことに、木島は私の肉体が欲しいのではなく、私という人間の心の中身を知りたいらしい。私の心。決して意志を外部に出さない私の心を知りたいと願う人間は初めてだった。
「ねえ、先生。先生は私を買わないの」木島は答えずにしばらく黙っていた。やがて顔を上げてきっぱり言った。
「要らない。私は教育者で、きみは教え子だから」では、勉強のできない私をこの学校に入れてくれた理由は。私は尋ねようとして、はっとした。木島は私の内面に興味があっただけでなく、欲しかったのだ。
玩具の人形のような私の内面。誰も関心を抱かないものを求める人間がいる。カールでもなく、ジョンソンでもない、キジマの父親が私を好きだということが、私の心を一瞬連れさせた。私は感動したのだった。が、感動はしても欲情はしない。欲情しなければ、私は存在しない。存在しない私は何か、その先を見据える必要などなかった。私はいつも誰かに欲せられているからだ。
「先生、私を買わないのなら、私も先生を要らない」
・そして、佐藤和恵さんのことも僕は気にかかっています。佐藤さんがQ女子高内で苛められていたという事実。僕は、その原因も平田百合子さんの入学にあるのではないかという因果を考えざるを得ません。佐藤さんが平田さんに憧れ、一緒にいる僕の息子に焦がれ、結果、平田さんのお姉さんに辛く当たられたという話も耳に入らないではありませんでしたが、僕は見て見ぬ振りをしました。佐藤さんにとって、せっかく努力して入ったQ女子高の生活は、さぞや過酷なものだったことでしょう。それでも、個体間の競争なのだからやむなし、と僕は手をこまねいていたのです。
努力は、個体密度の高まりによる発育、形態及び生理の変化とは関係がありません。むしろ、無駄なことです。なぜなら、変化は個体が勝手に遂げるのですから。その無駄なことを僕ら教師が、いや教育そのものが佐藤さんに強要したばかりに、佐藤さんは大学でも、会社でも、頑張り続け、とうとう壊れた結果、やっとのことで形態の変化を起こしたのです。でも、その変化は男の欲望に合わせる、という残酷なものでした。
自立と自尊心の理念とは正反対に向かう変化を生じさせたのは、僕の気紛れからかもしれない。僕にはそう思えてならないのです。もし平田さんが入学しなかったら、佐藤さんは拒食症に陥ったりせずに学校生活を送られたかもしれません。
・実は、僕は学校で真実を教えてこなかっただけでなく、別の「錨」を心に埋め込んでしまったのではないかと心配でならないのです。それは他人よりも優れる、という絶対的な価値観でした。それが本当の意味でのマインドコントロールなのかもしれないと僕は恐れるのです。なぜなら、努力をしても報われない生徒は、「錨」の存在に一生苦しめられるからなのです。佐藤和恵さんがそうではありませんでしたか。あるいは、平田さんのお姉さんが。彼女たちは、凡庸ではありませんでしたが、学業ではミツル君には敵いませんでした。
そして、僕らが埋め込んだ「錨」さえも破壊するものの前にあっては、さらに無力だったと思えてならないのです。それは、努力をもってしてもどうにもならない生まれついての「美」というものの存在なのです。
ミツル君は、獄中からくれた手紙に、かつて僕に好意を抱いていたと告白をしてくれましたよね。僕は嬉しく感じつつも驚きました。実は、僕は高校生のミッル君を教えながら、美しい平田百合子さんに心を奪われかかっていました。彼女が誰よりも美しく、眺めているだけで幸福感を与えてくれたからです。このことは、他人よりも優れなければいけないという「錨」を無力に、いやまったくの無意味にしてしまうのではないでしょうか。それゆえに、人は生まれついての「美」を躍起になって否定して、「錨」を強化しようとする。つまり、努力をするのです。だから、平田百合子さんは存在するだけで憎まれ、学園から追放されてしまった気がしてなりません。そして、「美」を辱め、弾き出した方も「錨」を解くことができずに、海底深くに「錨」を沈めたまま、洋上で大波に翻弄されているだけなのではないでしょうか。
・「忘れたわ。そのくらい、つまらない話ではあるの。でも、本当につまらないかっていえば、そうでもない。あたしたちは下から来ることが最上級であるかのように、Q学園では学ばされた。高等部よりは中等部、中等部よりは初等部。初等部ならば、兄弟姉妹や親や親戚もそうでなくてはいけない。生え抜き。それが最高の位だったからよ。本当に馬鹿馬鹿しいことね。でも、笑えないね。むしろ、怖いことよ。あたしたちが暮らすこの日本を支配している価値観なのだから。なぜなら、あたしは似たような宗教に入ってしまったわ。出家して修行をすればステージアップして、ヒエラルキ上の位が上がって行くの。だけど、あたしや夫が一生懸命修行しても、幹部中の幹部にはなれなかった。教祖の側に行くことも叶わなかった。だって、教祖とその取り巻きがその宗教の『生え抜き』なんだもの。本物のエリートなんだもの。ね、これって何かに似てない?あたしは獄中でそのことを考えていた。あたしの人生が間違ったと思ったのは、あたしが中等部からQ学園に入って、一生懸命「生え抜き』に近付こう、としていたのではないかってことね。あなたもあたしも同じ。和恵さんも同じ。皆で虚しいことに心を囚われていたのよ。他人からどう見られるかってこと。あたしもあなたも和恵さんも、マインドコントロールされていたのかもしれないわね。その意味で言えば、誰よりも一番自由だったのは、ユリコさんよ。あの人は違う星から来たのではないかと思うほど、解放されていたし、自由なのようだった。だから、日本でははみ出さざるを得なかった。あの人が男の人にあれだけもてたのは、美貌だけではないかもしれない。男の人がユリコさんの本質を本能的に見抜いたせいかもしれないわね。あの木島先生だって惹かれたくらいなのよ。あなたがユリコさんに劣等感を抱いて止まなかったのは、ユリコさんの美しさだけではなく、あの人の自由さが、あなたにはどうしても得られないものだったせいかもしれない。でも、あなたはまだ遅くない。あたしは罪を犯したから、これからは懺悔の余生だけど、あなたはまだ遅くないのよ。お願いだから、これを読んであげて」
・わたしは、生き抜くために自分の悪意を磨いてきました。しかし、他人の悪意には脂弱なのです。わたしの悪意は、出来の悪い天然羅よろしく、分厚い小麦粉の衣のようなものでしかなかったのでしょうか。ミツルの悪意という濃いつゆの中で次第に溶けだして、種をぶよぶよと覆うだけの代物でしかなかったのでしょうか。だとしたら、天麩羅の種は何なのでしょう。
わたしは急に自分に自信がなくなったのです。わたしにしては珍しいことでした。こんな時、おじいちゃんがいてくれたら慰めてもらえるのに、とわたしは初めて、孤独な身の上を悲しく思ったのでした。わたしを取り巻く世界が意地悪だからこそ、わたしはさらに意地悪を磨き、傷付けられる前に傷付けて相手をへこませてやろうと努力してきたというのに。わたしは弱っているのでしょうか。
・赤坂見附駅で、運よく座る。隣の男が読んでいる書類を覗いた。「プラント」の四文字。同業か。業界何番目のどの会社だろう。男はあたしの視線を感じて、書類の端を折ってい見られないようにした。あたしも会社では、机の上に書類で高い壁を作って周りを囲い、誰にも覗かせない。そして、耳栓をして仕事に没頭する。目の前は白い書類の山。横も山。崩さないように積み上げていったら、あたしの頭より高くなった。さらに高くして、天井まで届かせたいと思う。天井には蛍光灯が埋まっていて、あたしの顔色を青く冴えなくする。だから、いつも赤い口紅を塗っていなくてはいけない。口紅とバランスを取るために、アイシャドウも青く。そうなると目と口だけが目立つから、眉も濃く描かなくてはバランスが取れない。どんどんエスカレートするバランス感覚。バランスを取るのは難しい。
でも、バランスを取らないと、この国では生きていけない。男に対する憧れと嫌悪。会社に対する忠誠と裏切り。あたしの中のプライドとマッド。泥のことだ。
泥がなければプライドが輝かないし、プライドがなければ泥の中で足元を掬われる。両方あってこそ、あたしという人間が生きていける。
・勝ちたい。勝ちたい。勝ちたい。
一番になりたい。尊敬されたい。
誰からも一目置かれる存在になりたい。
凄い社員だ、佐藤さんを入れてよかった、と言われたい。
・「確かに友達はうちの会社の名前を出すと羨ましそうな顔をするわ。よく入れたわねって。建設は好景気だし、うちの会社は業界ナンバーワンで海外でも有名たしね。お給料だって高い。仕事もその気になれば凄いことやらせてもらえると思う。だけど、あたしは虚しいのよ。あたしたちに担わされているものって重過ぎるんだもの。男以上に働いて、女の仕事もして、両方に気を遣ってくたびれて。だけど男にはなれないのよ、一生。何か変じゃない、これって。だって、あたしは男になんかなりたくないの。ただ仕事したかっただけなのに、このままじゃ擦り切れちゃうよ」
・「ほんとに実力だけなのかな」
その言葉に、あたしは悔し涙を浮かべた。
「だったら、確かめてくださいよ。コネだ、コネだ、なんて言われたくないです」
「いや、そういう意味じゃないんだ」先輩は、まあまあとあたしを抑える仕種をした。「俺だって、コネ入社なんだよ。伯父がこの会社にいたんだよ。もう定年退職したけどね。コネと言われようと何と言われようと、俺はそのことでずいぶん守られているところもある。無論、コネ入社だと敵視する奴もいるし、伯父の敵対関係がそのまま持ち越されたり損もあるさ。でも、周囲はどうせ敵ばっかなんだから、どんな味方でも、味方を作って損はない。日本の会社とはそういうものだ」
「そんなの変ですよ」
「あんたは男の世界を知らなさ過ぎるよ」
・誰か声をかけて。あたしを誘ってください。お願いだから、あたしに優しい言葉をかけてください。
綺麗だって言って、可愛いって言って。
お茶でも飲まないかって囁いて。
今度、二人きりで会いませんかって誘って。
・若い頃の思い出は碌なものがない。あたしは首を振って早く忘れ去ろうとした。バスルームの鏡に映るあたしの顔を見つめていたら、ついこんな嫌な出来事を考えていた。あたしは三十七歳。若さも残り、ダイエットしているから体も細くて七号オッケーだけれど、あと三年で四十歳になる。それが怖くてならない。四十歳の女って完全なババアだ。ババアに商品価値はない。絶対ない。三十歳になる時もババアになるようで怖かったが、四十歳の比ではないし、まだ未来に対する希望があった。希望というのは、例えば、抜擢されて出世するのではないかとか、誰か素敵な男と出会うのではないか、という類の笑っちゃうもの。今はどちらも綺麗さっぱりない。
年齢の節目の時が、いつもあたしを変にして滅茶苦茶に壊すことはわかっている。あたしがこんな商売を始めたのだって、三十歳になった年だった。経験がないことに焦っていた。だから、初めての男は、処女だと言ったら興味本位で付いてきた客。思い出したくもない。あたしはたぶん、五十歳になることはないかもしれない。四十歳になれるかどうかも怪しい。だって、ババアになるくらいなら死んだ方がましだと思うから。
そうだ、死んでもいいよ、ババアになってしまうのなら。意味ないもの。
・「こんなこと聞いたら失礼かもしれないけど、あなたは立派な会社に勤めているのに、どうしてこういう仕事しているのかなあ」
「どうしてかしら」あたしはビールを叩った。「会社じゃ、誰もあたしに注意を払わないから」思わず本音を洩らしたことに気付き、あたしはあっと声を出す。「荒野の七人」は、誰一人として成功しなかった。あたしが異様に肩に力を入れて仕事をしていたのは三十歳までだった。二十九になった途端、研究機関への出向を命じられた。ライバルの山本は五年間いただけでさっさと結婚退職し、同期の女の中で残っているのは四人だけだった。一人は広報、もう一人は総務、残り二人は工学部出身だったから建築部で図面引きだ。あたしは三十三歳でやっと調査室に戻れたけれど、誰もがぱっとしない。同期の男たちには差を付けられ、組織の中枢には絶対入れず、女子アシスタントたちからも煙たがられる存在。後から入社してきた四大卒の女の子の方が伸びやかに仕事をしている。
要するに、会社でのあたしは勝ち組から負け組に移行したのだ。なぜなら、もう若くないし、女だから。あたしたちは上手に歳を取れない。キャリアなんて積めない。
「何か嫌になったのね。復讐してやりたくなったというか」
「復讐?誰に」新井が天井を見上げた。「そういう気持ちは誰にでもあるけど、復讐なんかしたって自分が傷付くだけでしょう。淡々とやるしかないんじゃな
い」
そんなことはない。あたしは復讐してやる。会社の面子を潰し、母親の見栄を嘲笑し、妹の名誉を汚し、あたし自身を損ねてやるのだ。女として生まれてきた自分を。女としてうまく生きられないあたしを。あたしの頂点はQ女子高に入った時だけだった。あとは潤落の一途。あたしは自分が身を売っていることの芯にようやく行き当たった気がして声を出して笑った。
「新井さん。こういう話もっとしたいから、また会ってよ。一万五千円でいいからさ。ここでビール飲みながら語り合いましょうよ。あたし、経済問題なら詳しいのよ。今度から缶ビールとつまみを買ってくるわ」あたしが真顔で懇願すると、新井の目に初めて情欲らしき影がうっすらと浮かんでくるのがわかった。男って何もの? こいつらにしてやられているのだ、とあたしは虚しさを噛み殺した。
・「そうかしら。ねえ、あんたは何でそんなに醜くなったの」
あたしの厭味にユリコは顔色も変えなかった。
「さあね。運命でしょう。あたしは周りが騒ぐほど、自分の容貌に関心はないし、今は気が楽だわ。これが本当の自分なのよ。衰退することっていいわ。男の本質が見えてきて、同時にあたしがどうしてこの世の中に生きているのかもわかってくる。ねえ、客が若い娼婦を買いたがるのって、肉体の魅力じゃないのよ。若いということは未来があるから、男たちは若い娼婦が
・持っている時間を買うんだと思うわ。あたしたちは違う。だから、普通の男たちは憂鬱になるのよ。さっきの客もあたしと寝た後、寂しそうだった。男ってきっと弱いのよ。女が醜かったり、歳を取っていて暗かったりすることにたえられないのよ。あたしたちが男の持つ弱さを露わにする。だけど、あたしたち怪物を好きな男は衰弱とか衰退とか、醜悪を好んでいる。あたしたちをもっと堕落させて、ぼろぼろにして最後は殺すの」
・「あたしだって傷付きやすいし、悩んでいるわよ」木島は疑り深そうに唇の両端を下げた。
「そうかな。あなたは風邪も引きそうにないよ。アドレナリンがいっぱい出ている感じで空恐ろしいよ。そうやって流しているのが楽しいんだろう。あなたは会社の仕事なんか馬鹿にしているんだ」
「当たり前じゃない。だって、あたしが世界を牛耳れるのはあれだけなんだもの。会社なんか、あたしのことを最初っから舐めてる。あたしは会社に入った時に張り切ってたわよ。だけど、世の中って仕事ができることと可愛いことって違う価値なのよ。てことは、仕事ができたって、女として可愛くないのだったら負けってことなのよ。あたしは負けたくないの」
・「あたしも空っぽだわ」
そう言ってから、あたしははっとして自分を抱き締めた。あたしは空っぽ、どうしよう。いつの間にか空っぽになってしまった。あたしを覆っているのは、Q大卒でG建設社員という衣だけ。中身は何もない。でも、中身って何。気が付いたら、あたしは朝刊の上にコーヒーを引っ繰り返していた。テーブルの上の布巾で拭いたが、新聞は見事に茶色に染まった。
・「恋人同士みたいね」
あたしは浮き浮きしてチャンに言った。チャンと一緒だと、G建設の社員だの、論文が新聞の賞を取っただの、調査室副室長だ、なんて言わなくて済むのはなぜだろう。あたしは、そんなことを客に言いたかったのかしら。いいえ、言わないと馬鹿にされるような気がしたからだわ。女としてイマイチというコンプレックスが、あたしに見栄を張らせる。てことは、あたしは男に品定めされたがっていたのね。認められたかったのね。一目置かれたかったのね。でも、これが素のあたし。あたしは本当は可愛い女。
「あなた、一人で何をぶつぶつ言ってるの」チャンがあたしの顔を見た。大きな目が不思議そうにすぼめられる。
「今のは心の中で言っていたのに、聞こえた?」あたしはびっくりして聞き返したが、チャンは禿げかけた頭を振った。
「頭、大丈夫ですか」
・ユリコは、その手記の中で娼婦についてこう記していました。皆様、すでにお忘れと思いますので、少々長くなりますが引用いたします。
『娼婦になりたいと思ったことのある女は、大勢いるはずだ。自分に商品価値があるのなら、せめて高いうちに売って金を儲けたいと考える者。性なんて何の意味もないのだということを、自分の肉体で確かめたい者。自分なんかちっぽけでつまらない存在だと卑下するあまり、男の役に立つことで自己を確認したいと思う者。荒々しい自己破壊衝動に駆られる者。あるいは、人助けの精神。その理由は女の数だけ存在するのだろうが、私はどれでもなかった』と。ユリコは、自分が根っから淫らな女だったから娼婦になったのだ、と続けたのでした。