masaya "走ることについて語るときに僕..." 2026年9月7日

masaya
@masaya
2026年9月7日
走ることについて語るときに僕の語ること
今のところは僕はまだ、音楽とコンピュータをからめたくはない。友情や仕事とセックスをからめないのと同じように。 一人きりになりたいという思いは、常に変わらず僕の中に存在した。だから一日に一時間ばかり走り、そこに自分だけの沈黙の時間を確保することは、僕の精神衛生にとって重要な意味を持つ作業になった。少なくとも走っているあいだは誰とも話さなくてもいいし、誰の話を聞かなくてもいい。ただまわりの風景を眺め、自分自身を見つめていればいいのだ。それはなにものにも換えがたい貴重なひとときだった。 自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分でフィジカルに認識する。 僕はそれほど頭の良い人間ではないため、生身の身体を通してしか、手に触ることのできる材料を通してしか、物事を明確に認識することのできない人間である。何をするにせよ、一旦目に見えるかたちに換えて、それで初めて納得できる。 僕はたとえどんなことであれ、何かをするからには、全面的にコミットしていないと落ち着かない性格である。 自分のやりたくないことを、自分のやりたくないときにやらされることに、昔から我慢できない。そのかわり自分がやりたいことを、自分がやりたいときに、自分がやりたいようにやらせてもらえたら、人並み以上に一生懸命やる。 太陽がのぼるころに目覚め、暗くなったらなるべく早く寝てしまおう、と決めた。それが我々の考える自然な生活だった。まっとうな人間の暮らしだった。 我々は、七年間にわたる「開かれた」生活から、「閉じられた」生活へと大きく舵を切ったわけだ。そのような「開かれた」生活が、僕の人生のある時点にある期間存在したのは、善きことであったと思う。今にして思えば、そこから多くの大事なものごとを学んだ。 その時期は僕にとっての、人生の総合的な教育期間みたいなものであり、僕にとっての真の学校だった。しかしそんな生活をいつまでも続けるわけにはいかない。学校というのは入って、何かを身につけ、そして出ていくところなのだ。 みんなにいい顔はできない」、平ったく言えばそういうことになる。 店を経営しているときも、だいたい同じような方針でやっていた。店にはたくさんの客がやってくる。その十人に一人が「なかなか良い店だな。気に入った。また来よう」と思ってくれればそれでいい。十人のうちの一人がリピーターになってくれれば、経営は成り立っていく。逆に言えば、十人のうちの九人に気に入ってもらえなくても、べつにかまわないわけだ。そう考えると気が楽になる。しかしその「一人」には確実に、とことん気に入ってもらう必要がある。そしてそのためには経営者は、明確な姿勢と哲学のようなものを旗じおしとして掲げ、それを辛抱強く、風雨に耐えて維持していかなくてはならない。 それが店の経営から身をもって学んだことだった。 僕がこうして二十年以上走り続けていられるのは、結局は走ることが性に合っていたからだろう。少なくとも「それほど苦痛ではなかった」からだ。人間というのは、好きなことは自然に続けられるし、好きではないことは続けられないようにできている。 学校で僕らが学ぶもっとも重要なことは、「もっとも重要なことは学校では学べない」という真理である。 身体というのはきわめて実務的なシステムなのだ。時間をかけて断続的に、具体的に苦痛を与えることによって、身体は初めてそのメッセージを認識し理解する。その結果、与えられた運動量を進んで(とは言えないかもしれないが)受容するようになる。そのあとで我々は、運動量の上限を少しずつ上げていく。少しずつ、少しずつ。身体がパンクしない程度に。 そう、ある種のプロセスは何をもってしても変更を受け付けない、僕はそう思う。そしてそのプロセスとどうしても共存しなくてはならないとしたら、僕らにできるのは、執拗な反復によって自分を変更させ(あるいは歪ませ)、そのプロセスを自らの人格の一部として取り込んでいくことだけだ。 人には生まれつきの「総合的傾向」のようなものがあって、本人がそれを好んだとしても好まなかったとしても、そこから逃れることは不可能ではないかということくらいだ。傾向はある程度まで調整できる。しかしそれを根本がら変更することはできない。人はそれをネイチャーと呼ぶ。 たくさんの水を日常的に目にするのは、人間にとって大事な意味を持つ行為なのかもしれない。まあ「人間にとって」というのはいささかオーバーかもしれないが。 明日が何を運んでくるのか、それは明日になってみないとわからないのだ。 そういうおっかない目に一度でもあえば、人はそこから身にしみて何かを学ぶことになる。ものごとの基本を着実に身につけるには、多くの場合フィジカルな痛みが必要とされる。 しかし現実の人生にあっては、ものごとはそう都合よくは運ばない。我々が人生のあるポイントで、必要に迫られて明快な結論のようなものを求めるとき、我々の家のドアをとんとんとノックするのはおおかたの場合、悪い知らせを手にした配達人である。「いつも」とまでは言わないけれど、経験的に言って、それが薄暗い報告である場合の方が、そうではない場合よりもはるかに多い。配達人は帽子にちょっと手をやり、なんだか申しわけなさそうな顔をしているが、彼が手渡してくれる報告の内容が、それで少しでも改善されることはない。しかしそれは配達人のせいではないのだ。配達人を責めるわけにはいかない。 彼の襟首をつかんで揺さぶるわけにはいかない。気の毒な配達人は、ただ上から与えられた仕事を律義にこなしているだけなのだ。彼にその仕事を与えているのは、そう、おなじみのリアリティーである。 そんなわけで我々には、プランBというものが必要になってくる。 苦しいからこそ、その苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ、自分が生きているというたしかな実感を、少なくともその一端を、僕らはその過程に見いだすことができるのだ。生きることのクオリティーは、成績や数字や順位といった固定的なものにではなく、行為そのものの中に流動的に内包されているのだという認識に(うまくいけばということだが)たどり着くこともできる。 効能があろうがなかろうが、かっこよかろうがみっともなかろうが、結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。 たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。 ビジネス・アズ・ユージュアル 通常通り ネイチャー 性格
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved