無限の上機嫌! "目白雑録1" 2025年4月5日

目白雑録1
目白雑録1
金井美恵子
昨日の夜、ふと金井美恵子のエッセイが読みたくなり、まだ読んでいなかった『目白雑録』をさがしてみたところ、本棚のどこにも見つからず(なぜか『目白雑録2』から『目白雑録4』まではあった)、腑におちないが、古本屋で買ってきた。  二〇〇二年四月という日付がついた冒頭のエッセイは、保坂和志らしき作家への悪口からはじまる。その作家が、テレビの深夜番組に出演したさい、共演者の若い女性タレントたちへの受け答えがデレデレしていて見るに堪えないものだった、「名字が一文字違いの」野坂昭如や、作家が尊敬する田中小実昌だったらもっとうまく立ち回ったことだろう、というようなもので、どうでもいいといえばどうでもいいのだが、それよりも、その作家の新作を「日々のなにげない生活の時間に思索の時間が重層して移ろう静かに波立つ空間を描いた、と、私が編集者だったら、それが仕事なので「帯」に書くかもしれないけれども、ほとんど、苛立しい退屈さしか読後感のない小説」と書いていることが気になった。  というのも二〇〇二年といえば『カンバセイション・ピース』の初出年だからだが、いくら金井美恵子でも『カンバセイション・ピース』が「苛立しい退屈さしか読後感がない」とは書かないだろうとおもったのだ。  結論をいえば、ここで指摘されている新作は『明け方の猫』だった。『カンバセイション・ピース』の初出は、二〇〇二年八月だから、まだ発表されていなかった。私は『明け方の猫』のことはすっかりわすれていたが、たしかに退屈だった記憶がある。たぶん最後まで読んでいない。しかし『カンバセイション・ピース』が苛立たしいほど退屈なわけがないのだった。  ところで、いまではすっかりわすれられていることだが、保坂和志は金井美恵子の『タマや』の河出文庫版(一九九九年)で解説を書いている。それを読むと――。
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