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無限の上機嫌!
無限の上機嫌!
@joukigen
読書日記
  • 2025年6月25日
    無知
    無知
    〝私たちは一度しか生まれない。まえの人生から得た経験をたずさえてもうひとつの人生をはじめることはけっしてできないだろう。私たちは若さのなんたるかを知ることなく少年時代を去り、結婚の意味を知らずに結婚し、老境に入るときにすら、自分が何に向かって進んでいるのかを知らない。老人はおのれの年齢に無知な子供なのである。(『小説の精神』)〟 〝一九二一年、アーノルド・シェーンベルクは、自分のおかげでドイツ音楽は数百年のあいだ世界の支配者としてとどまるだろうと言明した。その十五年後、彼は永久にドイツを去らねばならなくなる。戦後のアメリカで、栄誉を一身に集めた彼は、栄光が彼の作品を見捨てることはけっしてないと確信していた。彼はイーゴル・ストラヴィンスキーにたいして、あまりにも同時代人のことを考えすぎ、未来の判断をおろそかにしていると非難した。彼は後世をもっとも確かな同盟者と見なしていた。トーマス・マンに宛てた手厳しい手紙のなかで、彼は「二、三百年後」の時代を後ろ盾にし、その時代になってやっと、マンと彼のふたりのうち、どちらがより偉大であるか明白になるだろう! と言った。彼は一九五一年に死んだ。つづく二十年のあいだ、彼の作品は今世紀最高のものとして敬意を表され、彼の弟子だと名乗り上げる、もっとも傑出した若い作曲家に崇拝された。だが、それからはその作品はコンサートホールからも、記憶からも遠ざかってゆく。二十世紀末になって、いま誰がその作品を演奏するというのか? 誰が彼に準拠するというのか?(引用者中略)未来、それは作曲家たちの亡骸が枯葉と、もぎ取られた枝のあいだに漂っていた大河、音の洪水だった。ある日、荒れ狂う波のうえで揺すられたシェーンベルクの死体がストラヴィンスキーの死体にぶつかり、遅すぎた恥ずべき和解をしながら、ふたりとも虚無のほうに(絶対的な喧噪になった音楽という虚無のほうに)旅をつづけていった。〟 〝人間の平均寿命は八十歳である。各人はこの長さを考慮しながらみずからの人生を想像し、組織する。いま私が言ったことは、誰でも知っているけれども、私たちにあたえられた年数が(鼻の長さや眼の色といったような)たんなる量的な所与、外的な性質ではなく、人間の定義そのものの一部になっていることに、ひとはめったに気づかない。あらゆる力を保ったまま、ひとより二倍も長く、ということは、まあ百六十年も生きられる者は、私たちと同じ種族には属さない。彼の人生にあっては、もはや何ひとつ同じではなくなることだろう、愛も、野心も、感情も、郷愁も、何ひとつ。〟 〝エロティックな関係が成人の全人生を満たすことがある。しかしその人生がはるかに長かったとすれば、肉体的な力が衰えるよりずっとまえに、興奮する能力を倦怠が押し殺してしまうのではなかろうか? というのも、一回目、十回目、百回目、千回目あるいは一万回目の性交のあいだには、巨きな違いがあるからだ。そのあとでは反復が滑稽、さらには不可能でないにしろ、型にはまったものになってしまう境界はどこにあるのか? そしてそんな臨界を越えてしまうと、男女の恋愛関係はどうなってしまうのか? 消え去ってしまうのか? それとも逆に、愛し合う者たちは彼らの人生の性的な段階を真の愛の野蛮な先史と見なすことになるのだろうか? そのような質問に答えるのは、未知の惑星の住人たちの心理を想像するのと同じくらい難しい。〟 ここ1年ぐらい考えていたことが詰まっている!
  • 2025年6月13日
    人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-
    「人はみな妄想する」というタイトルは、ふつう精神分析においては、健常者を未発症の神経症者と考えるのに対して、70年代のラカンは、むしろ健常者は未発症の精神病者でもあると考えたので、つまりは、人はみな精神病者=人はみな妄想する、ということだと、読みはじめるとすぐにわかるのだが、「かつてなく明晰」と千葉雅也が推薦文を書いていても、読むのには苦労する。散漫に読んでいると、すぐ単語をわすれるので、いきつもどりつしながら読んでいたら、いつのまにか50時間ぐらい読んでいて、しかし、そうやって苦労して読んでも、どうせ忘れてしまうのだが、ともかく、おもしろかった。
  • 2025年5月31日
    ユービック:スクリーンプレイ
    ユービック:スクリーンプレイ
    〝一九七四年八月下旬に、フィリップ・K・ディックは、ジャン=リュック・ゴダールとも仕事をしたことのあるフランスの映画監督ジャン=ピエール・ゴランからの手紙を受けとった。『ユービック』を映画化したいというのである。ゴランは「あなたの作品の熱心なファンのひとり」と自己紹介し、「わたしがカリフォルニアまで旅してきたのは、じかにお会いして、このプロジェクトの件をご相談したかったからです」と書いていた。ディックの興奮ぶりは想像にかたくない。それから二、三週間後に、ディックとゴランはフラートンにあるディックのアパートメントで会い、ゴランはディックに彼の原作小説にもとづいたシナリオの執筆を依頼した。〟  原作とシナリオ版のあいだで物語に大きなちがいはないが、エンディングだけが異なっている。
  • 2025年4月30日
    目白雑録1
    目白雑録1
    昨日の夜、ふと金井美恵子のエッセイが読みたくなり、まだ読んでいなかった『目白雑録』をさがしてみたところ、本棚のどこにも見つからず(なぜか『目白雑録2』から『目白雑録4』まではあった)、腑におちないが、古本屋で買ってきた。  二〇〇二年四月という日付がついた冒頭のエッセイは、保坂和志らしき作家への悪口からはじまる。その作家が、テレビの深夜番組に出演したさい、共演者の若い女性タレントたちへの受け答えがデレデレしていて見るに堪えないものだった、「名字が一文字違いの」野坂昭如や、作家が尊敬する田中小実昌だったらもっとうまく立ち回ったことだろう、というようなもので、どうでもいいといえばどうでもいいのだが、それよりも、その作家の新作を「日々のなにげない生活の時間に思索の時間が重層して移ろう静かに波立つ空間を描いた、と、私が編集者だったら、それが仕事なので「帯」に書くかもしれないけれども、ほとんど、苛立しい退屈さしか読後感のない小説」と書いていることが気になった。  というのも二〇〇二年といえば『カンバセイション・ピース』の初出年だからだが、いくら金井美恵子でも『カンバセイション・ピース』が「苛立しい退屈さしか読後感がない」とは書かないだろうとおもったのだ。  結論をいえば、ここで指摘されている新作は『明け方の猫』だった。『カンバセイション・ピース』の初出は、二〇〇二年八月だから、まだ発表されていなかった。私は『明け方の猫』のことはすっかりわすれていたが、たしかに退屈だった記憶がある。たぶん最後まで読んでいない。しかし『カンバセイション・ピース』が苛立たしいほど退屈なわけがないのだった。  ところで、いまではすっかりわすれられていることだが、保坂和志は金井美恵子の『タマや』の河出文庫版(一九九九年)で解説を書いている。それを読むと――。
  • 2025年4月21日
    花のある遠景増補新版
    〝一人で机に向かい、過去十五年ほどの間の数回にわたる東アフリカでの生活を振り返ってみると、わたしに見える思い出は他人に話して聴かせるほどのものではないようにも思われる。それはその土地で、ある期間を共に過ごした数人の近隣の友人や、何の変哲もない裏街や、とてつもなく広い空や荒野が見せてくれた平凡な日常の表情ばかりなのである。わたしは、そうした表情のいくつかを思い出の中に見つめながら、それを絵にでも描く気分で思いのままに言葉で写しとってみた。〟 ケニアの草原に吹く乾いた風のような、痛々しく心地よい世界との距離。紀行エッセイのひとつの理想形!
  • 2025年4月17日
    別れのワルツ
    別れのワルツ
    クンデラは『存在の耐えられない軽さ』以降の作品の方が好きかもな、と思っていたら、中盤から物語が加速しはじめ、すごく面白い群像劇になっていた!
  • 2025年4月11日
    石灰工場
    石灰工場
    冒頭から、だれだかわからない人物の名前が次々にあがり、そのなかの一人で石灰工場に住んでいるコンラードという男が、病気の妻を射殺したことが語られる。そこから、かつてコンラードがこんなことを言っていた、という知人の証言が延々とはじまる。二時間ぐらい読んだが、延々とつづいている。  タル・ベーラの映画みたいに荒涼とした世界。  中原昌也がエッセイ集のなかで「読んだほうがいい」といっていたので、読みはじめた。
  • 2025年4月9日
    銭湯
    銭湯
    〝顔もわからない人と待ち合わせるということになれば、自分から声をかける気恥ずかしさを味わわないですむよう、相手よりも先に目的地にたどり着き、身なりの特徴などを伝えて見つけてもらいたい、そう思って二十五分も早く到着するよう段取りをしていたのに、二つ手前の駅を通過したところで「お疲れ様です、改札前にいます、ジャイアンツのユニホームを着ているのでわかると思います」というメールが届いてしまった。〟  という冒頭の一文でぐっと引きこまれる。そこからは、よくわからないまま気づくと読み終わっている。町田康の小説のような感触もあった。
  • 2025年4月7日
    微笑を誘う愛の物語
    微笑を誘う愛の物語
    夜はN書店の読書室へいく。読書室は今週から月木金の三日間になった。月曜日は今夜がはじめてということになった。  ここのところ『ボヴァリー夫人』『緩やかさ』と傑作をたてつづけに読んでしまい、次になにを読もうか悩んでいる。  ミラン・クンデラの初期短編集『微笑を誘う愛の物語』をすこし読んでみる。第二話「永遠の憧れの黄金のリンゴ」はナンパのはなしだ。マルチンという「永遠に女性を追い求める」男が登場する。語り手はその友人ということになる。マルチンはゆく先々で女性を見つけては声をかけ「登録」と「接触」をくりかえりている。 〝というのも、マルチンには家に若い奥さんがおり、さらに悪 いことにその奥さんを愛しており、さらに一層悪いことに彼女を恐れていて、そしてもっともっと悪 いことには彼女を失わないかと心配しているのである〟  マルチンは二か月まえに四〇歳になったところだという。  ウディ・アレンは『アニー・ホール』を撮ったとき四二歳だった。映画では友人とテニスクラブにでかけ、そこでアニーと出会う。これは数年まえの回想だが、設定が四〇前後なことにかわりない。四〇歳とはなんなのか。
  • 2025年4月4日
    緩やかさ
    緩やかさ
     昨日につづき、夜はネイボの読書室にきた。『緩やかさ』は、あまりにおもしろく、三日ほどで読みおわってしまった。  クンデラは、この小説の中で緩やかさに速さを対置させている。速さは忘却とむすびつき、緩やかさは記憶とむすびつく。 〝緩やかさと記憶、速さと忘却のあいだには、ひそかな関係がある。ある男が道を歩いているという、これ以上ないほど平凡な状況を想起してみよう。突然、彼はなにかを思い出そうとするが、思い出せない。そのとき、彼は機械的に足取りを緩める。逆に、経験したばかりの辛い事故を忘れようとする者は、時間的にはまだあまりにも近すぎるものから急いで遠ざかりたいとでもいうように、知らぬ間に歩調を速める。〟 〝私たちの時代は速さの魔力に身を任せているので、いとも簡単に自己を忘却してしまう、と。だが私はその命題を逆にして、こう言いたい。私たちの時代は忘却の願望にとりつかれているのであり、その願望を充たすためにこそ、速さの魔力に身を委ねるのだ、と。〟 〝なぜ、緩やかさの快楽が消えさってしまったのだろうか?〟  物語は、いまはホテルとしてつかわれている、あるフランスの古城を舞台に展開する。そこにあつまった個性的な登場人物たちの群像劇がたのしくて仕方ない。彼らの純粋さ、ばかばかしさ、情けなさが、あまりに人間らしく感じられるのだった。
  • 2025年4月3日
    カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」
    いつのまにか日本中にあふれかえっていたネパール人経営のインド料理レストランとはいったい何なのか? という、カレー移民の謎にせまる面白さは当然として、日本におけるインド料理レストランの歴史、ネパール人の参入、本国をはなれて日本で暮らす移民たちの生活、そもそもの出稼ぎをつくりだす本国ネパールの社会構造など、詳細に調査しており、著者本人が取材先のレストランで預かったビデオレターを持参して、孫を日本に送り出した老夫婦が住むネパールの山奥の村をたずねるエピソードには、おもわず感動した。
  • 2025年4月3日
    緩やかさ
    緩やかさ
    あまりにおもしろい! 〝「あなたはよく、いつか、真面目な言葉が一つとしてないような小説を書きたいと言っていたわね。『きみを喜ばせるための大いなる愚行』とかなんとかといった。そのときがやって来たんじゃないかって、わたし心配なの。だけど、ひとつだけ言っておくわ。気をつけなさいよ、って」 私はさらに深くうなずく。 「あなた、お母さんがよく言っていたことを覚えている?  わたしにはまるで昨日のことのようにきこえるわ。ミランク、悪ふざけをするのはおやめ。だれもおまえのことなんか理解してくれないんだよ。おまえはみんなを傷つけ、そしてみんながおまえを憎むようになるんだよ。あなた覚えている?〟 〝チェコの学者は狼狽した。わずか二分たらずまえに同輩たちが表明してくれた尊敬は、いったいどこに行ってしまったのか?  どうして彼らは笑えるのか、失礼もかえりみずに笑えるのか?  ひとはそんなにも簡単に、讃美から軽蔑に移ることができるのか?  (もちろんだとも、わが友よ、もちろんだとも)それでは、共感はそんなにも脆く、頼りないものなのか?(もちろんだとも、わが友よ、もちろんだとも)〟 〝もしだれかが、わたしの過去を否定したいというなら、ここにわたしの筋肉が、文句のつけられない証拠としてあるのだ!〟 〝前へ進め、無限の尻の穴のなかに!〟
  • 2025年4月2日
    緩やかさ
    緩やかさ
     次になにを読もうか考えていて、ふと半年まえに買ったままになっていた『緩やかさ』のことをおもいだした。冒頭部分から読みはじめた。  おそらく郊外の夜道を車で走る夫婦がいる。バックミラーごしには、二人の乗った車を追い抜こうとランプを点滅させる車が見える。それに気づいた妻が夫に「無謀な運転」について問いかける。夫は、その答えから三〇年まえにつきあいのあった「エロチスムの幹部党員」というような面持ちで、オルガズムについて語ったアメリカ人女性のことを思いだす。 〝オルガスム崇拝は、性生活に投影されたピューリタン的功利主義、無為に反対する効率であり、性交を障害に――愛と世界の唯一真の目的である忘我的な激発に到達すべく、できるだけ速くのりこえなければならない障害に変えてしまう。〟 〝私たちの世界では、無為は無聊に変わってしまったが、これはまったく別のことなのだ。無聊をかこつ者は欲求不満で、退屈し、自分に欠けている動きをたえず求める。〟 〝しかし私に言わせれば、快楽主義のアキレスの踵[弱点]は利己主義ではなく、(ああ、私が間違っていればいいのだが!)その絶望的なまでにユートピア的な性格なのだ。〟 〝最初は楽しげで淫らな戯れとして現れるものが、それと知られないまま、不可避的に生死を賭けた闘争に変ずるのだと。〟 〝なぜ、緩やかさの快楽が消えさってしまったのだろうか?〟 快楽、目的、闘争。
  • 2025年4月1日
    北関東の異界 エスニック国道354号線
     本を読んで、いてもたってもいられず、というわけでもないのだが、今日は国道354号線を車ではしって、伊勢崎までやってきたわけだが、あたりまえのこととして、ふつうの街だ。  市の南にあるハラルショップへバスマティ米を買いにいった。ガード社のアルティメイト――パキスタン産のものの中でも特に長粒でおいしい――は五キロで四五〇〇円。高い! 一〇〇〇円以上値上がりしている。しかし、日本米の高騰は知っているが、どうしてパキスタンの米まで値上がりしているのか。スパイスをいくつか買いこんだ。  ところで、この本でおもしろいのは、北関東へやってきた移民の変遷だった。最初に、パキスタンやイランといった南西アジアから移民がやってくる。それが、入管法の改正を期に九〇年代からペルー、ブラジルといった南米からの日系人におきかわる。リーマンショック以降は東南アジアからの技能実習生の時代になる。  一方で、私がカレーをたべたり食材を買ったりするパキスタン系の店は、八〇年代に中古車輸出業に鞍替えした南西アジア移民のコミュニティの中にある。業者向けの中古車オークション会場が点在し、車を保管する広い土地がある北関東に、そうしたコミュニティがつくられていった。そういう過程もこの本には書かれている。  市の北西にあるブラジルスーパーで、この本の著者である室橋裕和さんと、移民をテーマに活動している映像ディレクターの比呂啓さんによる、北関東移民街ツアーのチラシを見つけた。日付を見るとすでに先週のことだった。私はツイッターなどもあまり見ないので、こういうことにも気づかないのだった。
  • 2025年3月31日
    ギリシャ語の時間
    ギリシャ語の時間
     午後はTさんと打ちあわせ。Tさんの家にくると、いつもリヴィングのテーブルの横にいま読んでいる本が積んである。今日はハン・ガンの小説が数冊あった。  なん年かまえに『ギリシア語の時間』を読書会で読んだ。そのとき読書会のメンバーのひとりが『すべての、白いものたち』はきれいすぎて好きではないといっていたのを私はおもいだした。『ギリシア語の時間』はよい小説だった。  チーズケーキをいただいて休憩をしていると、いま読んでいる本のはなしになった。ハン・ガンのことが話題になり、私はそのことははなさなかった。  Tさんは、ハン・ガンの横においてあった本を手にとった。台湾の画家についての小説だと教えてくれた。ひどい翻訳で読むのに疲れるともいった。
  • 2025年3月31日
    ボヴァリー夫人
    ボヴァリー夫人
    「でも幸福って、いつか見つかるものでしょうか?」  ロドルフの登場によって物語が急転しはじめる第二部八章では、エンマが住むヨンヴィルの街で共進会が開催され、そのドタバタに乗じて、二人のあいびきの場面がえがかれる。ひと気のない村役場の二階の会議室から共進会を見物している二人が交わす情熱的な会話と、舞台にあがった参事官の挨拶が交互に展開する場面は、すごい。 「こんな田舎に住んでいては……」 「何をやっても徒労に終わる」  一方に愚鈍な夫との退屈な田舎暮らしがあって、もう一方に彼女が夢中になる小説のようなロマンスの世界がある。 「ああ、どうしてわたし、結婚なんかしてしまったんだろう?」彼女は、異なる運命の巡り合わせで、ほかの男と出会えなかったかしらと考え、そして、じっさいに起こらなかったそのような出来事があったらどうだったろう、いまとは違うその生活はどのようだったろう、自分の見知らぬその夫はどのようだったろう、とつとめて想像した。もちろん、すべての夫がいまの夫のような男ではないだろう。その夫は美男子で、才気煥発で、気品があり、魅力的だったかもしれず、修道院の寄宿学校の旧友たちが結婚した相手はきっとそうだったろう。お友だちはいまごろどうしているだろう?  都会に住んで、街路の騒音や劇場のざわめきや舞踏会のきらめきに包まれ、心も踊り膨らみ、感覚も花開くような生活を送っているだろう。 クンデラ、ウディ・アレン、フローベール!
  • 2025年3月23日
    唐突ながら
    唐突ながら
    ウディ・アレンの自伝『唐突ながら』は、映画を見ては、ところどころ読んでいる。今夜は一九八八年作の『私の中のもうひとりの私』を見た。原題は「Another Woman」で、いまだったらそのまま『アナザー・ウーマン』になりそうだ。本人はこう語っている。 〝まあそれで、ぼくは自分がチェーホフでないことを証明したあと、イングマール・ベルイマンでもないことの証明に着手した。〟 〝ずいぶん前に、アパートメントの暖房の通気口から話し声がきこえてくるというアイデアを思いついた。最初の構想だと、そこは精神科医のオフィスでぼくが耳にするのは、ある魅力的な女性が心の奥底に秘めた思いや人生に必要なものについて語る声だった。〟 〝ぼくは主役の女性(見事に演じ切ったのは、もちろん、あの大女優ジーナ・ローランズだ)に、満足感のない冷え切った人生を送らせようと考えた。彼女は人生のあらゆることから目を背けている。もはや何もかも不快で恐ろしくて、あまりにも苦痛で向き合うことができないでいた。だが、やがて真実の声が壁の向こうから、通気口を通じてきこえてくる。〟  ジーナ・ローランズの顔がおっかない。ほとんど『ロスト・ハイウェイ』のミステリーマンみたいにひきつっている!
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