chika "姥棄て考 老いの場所をさがし..." 2026年9月27日

chika
chika
@koitoya
2026年9月27日
姥棄て考 老いの場所をさがして (岩波新書 新赤版 2126)
民俗学者の赤坂憲雄が、姥捨山など、主に日本の伝承や文学作品に描かれてきた棄老伝承を手がかりに、家族・共同体・国家について考えていく。『遠野物語』、『楢山節考』はもちろん、少し意外なところでは映画『ミッドサマー』や『私を離さないで』など、幅広い作品を取り上げている。 棄老伝承が「いまは昔」の物語として語られることが常であり、それ自体が実際にそういう行いがあったことの証明にはならないが、そこにこそ贖罪の痕跡が見られるのではないか、と赤坂は述べ、以下のようにつなげる。 「しかし、わたし自身はこの世界において、老人の遺棄や緩慢な死にまつわる棄者のフォークロア、また、全員一致の暴力として生け贄を殺すお祭り騒ぎなどの供犠のフォークロアは、いまもなお「現在の事実」であり、「目前の出来事」だと感じている。」(p30) 姥捨山といえば、深沢七郎の『楢山節考』が私も真っ先に出てくる。それについて書かれた箇所も興味深い。 「『楢山節考』以後に発表された作品としては、山本昌代の「デンデラ野」や村田喜代子の『蕨野行」、さらに佐藤友哉の『デンデラ』などがあるが、興味深いのは、それらが「楢山節考」の影は曳かずに、真っすぐに「遠野物語』のデンデラ野伝承を承けて書かれた小説であることだ。『楢山節考』はある完成された現代の姥棄て譚であり、いわば余白がなく、付け入る隙がない。それにたいして、遠野のデンデラ野伝承はそもそも断片の寄せ集めであり、まさに余白だらけで、勝手な解釈をいくらだって許容する不純なテクストなのである。おそらく、だからこそ、現代の作家たちは好んでデンデラ野伝承を素材にしながら、それぞれの棄老伝承を紡ぎ続けているのではないか。」(p106) また、三島由紀夫の引用も面白い。 「そういえば、「遠野物語」には、無数の死がそっけなく語られている。民俗学はその発祥からして屍臭の漂う学問であった。死と共同体をぬきにして、伝承を語ることはできない。このことは、近代現代文学の本質的孤立に深い衝撃を与えるのである。 (「『読売新聞』一九七〇年六月十二日) 三島はここで、『遠野物語』を文学として読むという立場を表明しながら、しかも、いや、だからこそ、それがこの国の近現代文学の「本質的孤立」に深い衝撃を与えることを、あえて言い添えずにはいられなかった。死と共同体を抜きにして、伝承を語ることはできず、屍臭を漂わせた民俗学の誕生もありえなかった。ならば、無数の死をそつけなく語る「遠野物語」は、近代という時間に属しながら、近代以前の伝承世界に半身を浸していることにおいて、近現代文学の抱えこんだラディカルな孤立からは逃れている、ということか。」(p108 「姥捨考」赤坂憲雄) デンデラ野が集落のすぐ裏手にある、というのは驚いた。やはり『楢山節考』などの影響で、遠く山を上がっていき、そこまで行ったら戻って来られないような場所というイメージがあった。 「村落近くの棄老の地が、『楢山節考』では山の奥深くの秘境的な場所へ、つまり山中他界へと移されている。村に近接していた現世的な他界が、人々の生の現場からかぎりなく遠ざけられる。そこにいたる道筋もまた、禁忌と秘密のヴェールに分厚く覆われている。その遠隔化と秘儀化の度合いにしたがって、物語化は深められ、また物語としての強度は増していったにちがいない。村落からデンデラ野を経てダンノハナへいたる、生→老→死のゆるやかに移ろいゆく循環的な習俗の時間が、『楢山節考』では、楢山まいりという生から老=死へと一気に昇りつめる劇的な道行きへと圧縮されている。そこに、習俗や伝承のなかには、また「遠野物語」には見られなかった、『楢山節考』において固有に紡がれた物語の位相、それゆえ物語への意志がきわやかに覗けているといっていい。』(p138『姥棄て考』赤坂憲雄) また、この後に現代の小説をいろいろ紹介しているのだが、さまざまなデンデラ野があり、それらの小説も読みたくなった。 ここから現代の話へと移っていく。 「野本寛一が「近代文学とフォークロア」のなかで、こう述べていたことを想い起こしておくのもいい。すなわち、「もはや、養老院の比喩表現として「山」を用い、親を老人ホームに送ってかえりみない核家族世代を批判し、福祉行政の遅れを指摘したり概嘆したりしているだけでは済まされない。ここには、わが民族のかつて体験していない状況が生まれているのであり、そこに伝承の原型はない」と。ここに見える、もはや現在地を照射するための「伝承の原型」は存在しない、という言葉を記憶に留めておきたい。むしろ、この時代が必要としているのは、「伝承の原型」といったものに還元してわかった気になるのではなく、その微能や不在こそを「現在の事実」として引き受けることである。」(p171) 隔絶されてしまった環境になってしまっている、ということに気づいた。 「幸か不幸か、わたしたちの生かされている世界には、多くの人を納得させるような棄老を肯定するための他界観や死生観が、すでに失われている。あらためて論じることになるが、棄老のシステムほど経済効率がわるい制度はない、と言い捨てにしておく。」(p137) 「隠居の習俗/制度は、とりわけ世代間の継承や葛藤において、すぐれた緩衝材でありえたのではなかったか。だから逆に、隠居制をもたない社会では、世代間をやわらかく架け渡すための継承の仕組みはどのようにデザインされているか、そこに生まれる葛藤や対立はどのように処理されているか、といった問いが大切なものとなる。」p231 難しい問いが残されている。 最近、年齢的にも「老い」ということを意識するようになった。できれば嫌な老い方をしたくないな、と思いつつ、争わず自然に身を任せているのだが、人よりも健康体であり、長生きしそうな気がする。しかし、それは幸せだとは思えない。 『楢山節考』のおりんの気持ちが、最近わかってきた気がする。10代の頃に読んだときは、おりんが歯が丈夫なのが恥ずかしいと石で歯を打ちつけるなんて、けったいなおばあちゃんだな、と思っていた。けれど今考えると、「今この体だと共同体にいられない」「老けないとは、苦労をしていない証明」という疎外感があったことが理解できる。 おりんの場合、残酷ではあるが、生まれる → 働く → 家族をつくる → 老いる → 死ぬ、という人生の位置づけが共同体によって用意されている。 だから「死」は怖くても、少なくとも自分がどこへ向かっているのかが、社会的にわかる。 現代社会では、それらが消えた一方で、核家族化や高齢化によって、かつて共同体が担っていた問題だけは個人のところに残っている。 私自身も、どこかの共同体に属しているという感覚があまりなく、孤独に一人で死んでいくのかもしれないと思うようになった。 老いていく自分を、「誰か」との関係の中に位置づけられないまま、ただ時間だけが延びていくこと。それが恐ろしいのだな。
姥棄て考 老いの場所をさがして (岩波新書 新赤版 2126)
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved