DN/HP "晩年" 2025年3月6日

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2025年3月6日
晩年
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太宰治
少しずつ摘み読みしている諏訪哲史『偏愛蔵書室』で取り上げられていたのをきっかけにして、太宰治の最初の作品集の一編目「葉」を読んだ。 詩や短歌のようにも作家の吐露、閃き、思索とも思わせる、数語から数行の短い文章、仕上がっている気もする短編やその断片、パンチライン・コレクション。「ほんとうに、言葉は短いほどよい。それだけで、信じさせることができる」ような気がしてくる、諏訪さんがいうところの前後を必要としない「ひとつの極まった文章」を敢えて連ならせ取り込んだ、散文。多分、小説。そのスタイルにも痺れて、また幾つかの心に残る素晴らしい文章にも出会えたけれど、やはり『偏愛蔵書室』でも引かれていた冒頭の一文がとても印象的で特別だった。 「死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。」 この一文が冒頭に置かれること、それを書いてしまえること、そのインパクトや、着物一反で延命される生の軽さ、あるいは死の無価値さ、そんな『偏愛蔵書室』で評されていたようなことにも改めて納得したけれど、それと同時にまた別の個人的な納得、共感があったのだった。 「死のうと思」うまでの能動性は伴わないまでも、今死んでしまうならそれでも良い、もう生きていなくても良いか、と思ってしまう、生と死が限りなく軽くなるような一瞬や時期というのが人生にはある。わたしにはあった。今後もあるかもしれない。そんなとき何気なく誘ってくれる友人との約束や思いがけず頂く製作の締め切り、少しだけ特別な予定が出来ると、わたしも、ああ、「それまでは生きていようと思った」ということが何度もあった。それがなかったら死んでいた、とは後からは想像出来ないけれど、それがあったから今生きているとは思えるかもしれない、今から振り返れば生死に重みを与えてくれたような出来事。それはもし小説を書くなら、その冒頭に書きたいとも思うのかもしれない。そう考えてしまえば、あの一文は生と死の軽さと同時に、そんな出来事、他人との繋がり、そこにある行為/好意の大切な重さも書いているかも知れない、と「勝手な推察」もしてみたくなる。 前向きに解釈し過ぎ?いや、でも、この小説の最後の一片の詩のような数行、その最後の一行、数文字にもこの作家に持っていたイメージとは裏腹の前向きさと大切にしたい重さがあった。それも作家のその後、最後を思うと「僕の言うことをひとことも信ずるな。」ということなのかもしれないけれど、この小説の最初と最後の数行の「ひとつの極まった文章」にわたしが感じた前向きさは、それだけは、信じることができるものなのだった。この文庫本を読み終わるまでは、いや、そのあとも生きていよう。生きていれる。そんな風にも少し大袈裟に思いたくもなった。多分、「どうにか、なる」はずだから。今、また少し、言語芸術に救われた気がした。
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