いるかれもん "ゆれる水脈" 2026年10月4日

ゆれる水脈
ゆれる水脈
中井菜央
早速読み返してみたけれど、前よりも理解できたような気がする。一方、やっぱり理解できないなと思った部分もあった。でも、どこが自分の中で腑に落ちていないかは前より分かった気がする。それも一つ収穫だと思う。 改めて、風景描写がとても美しい。特に、雪・水の描写がとても好き。 例えば P.4 「まるで、水が、使い慣れない人の言葉を使って知恵を語っているみたいだと、私は水槽に切りとられた水面の揺らめきを見ながら思っていた。よく知っていることも、うろ覚えのことも、知らなかったことも、全部初めて耳にするように感じられ、私は、そのいちいちに相槌を打ったり問い返したり、もう一度聞きたくて確認をしたりしていた。  見上げる水面は、水底から登ってゆく空気の粒と、浄化されて水上から注がれる水流によって、細かな波立とたおやかな揺れを合わせ持っている。波間に虹が浮かんで消える。低い山の尾根を閃光が叡智のように走る。波紋と波紋が何事もなくすれ違う。水面の向こうの世界がふと幻を結ぶ。  おおどかなたゆたいだけを見ていると、水槽の小さな水面が海の水面に感じられてくる。比較にならないほど大きさの異なるどちらの水面も、その鋭敏さに変わりはない。海の水面は、あの遠い月の引力に感応し、満ち引きを繰り返す。  自らは生きておらず、動かず、形すらない。陸の形に従い、水槽の形さえ従順に従い、河の堰を切って溢れ出るときも、それは自らの意思ではない。それほど受動でありながら、水であることをけしてやめず、頑なに水でありつづける。個体となり気体となっても水であり、その変容も意思でもない。どれほど深く切り割かれても、見る間にその傷口はふさがる。何ものも水を傷つけられない。」 事実を客観的に描写しつつも、精密な描写によって、水が特別なものにも思えてくる。水槽の水面と海の水面の対比がとても好き。本書のタイトルは『ゆれる水脈』である。これは、本書の中では著者の内面に流れている思考のようなものを表す言葉として登場するが、著者が言葉と写真で捉える水も、特別な意味があるように思える。 「答えであるのに問い」という言葉が登場する。著者は、鏡に映った自分の姿を見て『この子は誰?』と問いかけ、それを「答えであるのに問い」と表現している。それは、人や物に対して私たちが与えている意味・価値・目的のイメージの先にあるイメージ、要素。著者は、認知症をその人らしさを失った祖母に「答えであるのに問い」を見いだしている。 私は、この「答えであるのに問い」は、意味・価値・目的のイメージの「先」というよりも、その根底にあるものと感じた。人や、物に対して見出す、意味・価値・目的を取り払ってもなお、それに残り続ける根底的な存在。そこにあること・いることの特別さ、あるいは、力と言ってもいいかもしれない。それは、例えその人が死んでしまっても失われない一番根源的な存在であり、それを写真はできるだけ透明に捉えることができるのではないか。 私自身もたまに写真を撮る。写真が捉えるのは現実。それは絵画や音楽などの創作とは一線を画している。実際にそれが存在したという現実、その確信。その疑いようのなさは、世界に対する強い信頼を与えてくれるように感じる。そんなふうに、この本を読んで思えた。 文章とともに、もちろん、掲載されている写真もどれも好きだった。特別でない光景をまっすぐ見つめるような写真。確かに、「答えであるのに問い」を見抜いているような気がする。 2回読んでまだわからない部分もあるけれど、次は、ロラン・バルト『明るい部屋』も用意して読みたいと思う。
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