
しんどうこころ
@and_gt_pf
2026年10月4日

世界文学全集〈31〉シュティフター 晩夏
アーダルベルト・シュティフター
読み終わった
シュティフター
『晩夏』
ついに読み終えた。
ちょうど今、日本の季節も晩夏。この季節に読み終えることができて、とてもよかった。終盤は読む手が止まらず、最後は二日ほどで100ページほどを一気に読んでしまった。
この小説では驚くほど事件が起きない。一日が静かに過ぎていく。その中で主人公は色々なことを考え、色々なことを経験する。時の経過とともに主人公もゆっくり成長する。
確かに起伏は小さい。ともすれば退屈なテクストである。
しかし「華やかでけばけばしい」ものに対して、シュティフターが、そして薔薇の家の主人が伝えたかったのは、「清らかで控えめなもの」なのだと思う。この小説の静けさそのものが、この小説の本質なのだと思う。
自然を見る。石を見る。植物を見る。芸術を見る。古いものを修復する。文学や歴史を読む。人と話す。
そうした小さな経験が、少しずつ人間をつくっていく。
読んでいる途中、「普遍性」という言葉が初めて現れたとき、この本は普遍性を説いているのではないかと思った。
しかし、少し違う。
説かれるというより、体験させられる。
自然が長い時間をかけて作り出したもの。歴史を経て残された芸術。先人が積み上げてきた知識や文化。それらには、人間一人の生を超えた何かがある。
過去に積み上げられてきた圧倒的なものに敬意を払い、学び、その上に現代の人間が新しい積み木を一つ載せる。そしてまた次へ渡していく。
しかし渡される側にその価値がわからなければ、それは悲しいかな残らない。本作では芸術論の中でそれが語られていた。美しいもの、良いもの、価値のあるものも、それを価値あるものとして見抜く人間がいなければ残らない。
だから保存とは、ただ古いものをそのまま残すことではないのだろう。
これは教育についても同じだった。
主人公は父から教えられる。しかし父の言葉だけで完成するわけではない。外の世界へ出て、薔薇の家で学び、経験し、そして父のもとへ帰ってくる。そのとき初めて、以前からそこにあった父の正しさを見ることができる。
学びは外界にあり、故郷はそれを再確認し、感謝するためにある。
教育は、経験をもって定着する。
だから薔薇の家の主人が「哲学よりも文学や歴史から学べ」と言うのも印象に残った。他人が紡いだ理論からだけではなく、人が実際に生きたものから、すなわち経験から学べ、ということなのだろう。
そして、この本には「与える」という運動がある。
薔薇の家の主人から主人公へ。父から主人公へ。そして主人公自身も、外で得たものを妹へ与えていた。
与えられたものを受け取り、それによって自分が形成され、今度は自分が誰かに与える。
教育も、芸術も、文化も、愛も、そうやって継承されていくのかもしれない。
終盤では愛が大きく現れる。
肉体的、動物的な欲求や衝動としての「欲情」に対して、人間らしい理知的な努力を愛と呼ぶ。子への愛、両親への愛、兄弟への愛、伴侶への愛、そして芸術や学問、祖国への愛。
本当の愛とは、一時的な情欲ではなく、時間をかけて確かめるもの。
ここまで読んでくると、愛もまた、この小説がずっと描いてきた「育てること」「受け継ぐこと」とつながっているように思えた。
ただし、ひとつ、かなり強い違和感が残った。
身分である。
主人公のような教育を受けられた人間は、ごく一部だったはずだ。
作品の中にも、身分の低い者は身分をわきまえ、身分の高い者を敬う、という考えがごく自然なものとして現れる。
ここまで自由や愛や教育について語ってきた作品なのに、彼らの自由や愛についてはほとんど語られない。
加えて、薔薇の家の主人から主人公へ、主人公から妹へと、愛や教育は与えられていく。しかし、この美しい循環は、ほとんど同等の身分の人間の間を循環しているのではないか。
これは「時代だから」の一言では、私には片づけられなかった。
この作品が普遍的な人間のあり方を描こうとしているように見えるからこそ、その普遍の中に誰が含まれているのかという疑問が残る。
そして、そこから思いがけずベルンハルトが見えた。
シュティフターがこれほど美しく描いた、教養、芸術、家、自然、秩序、オーストリア的な文化世界。それがひと時代を経たベルンハルトでは、まったく違う姿をして現れる。
もちろん単純につなぐことはできない。
それでも、『晩夏』の美しい秩序に感じたこの小さくない亀裂の向こうに、ベルンハルトの激しい言葉があるように思えてならなかった。
それでも私は、この本をとても美しいと思う。
十代の頃にこの感性に触れ、学んでおきたかったと心から思った。
華やかでなくてもいい。
劇的でなくてもいい。
小さな出来事に敬意を払い、よく見て、経験し、学ぶ。過去から受け取ったものを自分のものとし、それをまた誰かへ与える。
二段組、480ページ強。
なぜこれほど長くなければならなかったのか。読み終えて、ようやく少しわかった気がする。
石について読む。植物について読む。家具について読む。芸術について読む。季節が巡り、薔薇の家を何度も訪れ、家へ帰り、また旅に出る。
もしこれが半分の長さだったなら、主人公が成長したことを「知る」ことはできても、彼が成長していく数年間という時間をともに「生きる」ことはできなかったのではないか。
あの長さも、あのテクストの速度も、必要だったのだ。
私はこの本を読んだというより、主人公とともに数年間の人生を旅したような気がしている。
いずれ、シュティフターが体験し、『晩夏』を構想し、書き上げた景色を、自分の目で本当に旅してみたい。






