Reads
Reads - 読書のSNS&記録アプリ
詳しく見る
しんどうこころ
しんどうこころ
しんどうこころ
@and_gt_pf
岩波の名作を飲み干したい
  • 2026年8月9日
    奥の国
    奥の国
    美術、憧憬、存在、徴(シーニュ)。 これらを「現前(プレザンス)」の視点から哲学していくエセー。 フランスのエセーに、随筆の真髄を見たような気がする。単なる身辺雑記でも、詩情をまとわせた日記でもない。ここには文学があり、哲学があり、そしてエセーがある。 ボヌフォワは美術への造詣の深さもさることながら、美しさやイマージュ、そして目の前に在る存在そのものを、旅人として世界を歩き、エクリチュールによって理解しようとする。 しかし、イマージュによって世界を固定しようとすればするほど、目の前にある存在そのものは遠ざかっていく。 そこで彼が見出したのが、言葉の内面性だったのではないか。 世界を像として固定するのではなく、言葉によって、その現前へと近づいていく。 それがすなわち、ボヌフォワの詩論なのだとわたしは読んだ。 そしてここには、文学そのものについての一つの示唆があるようにも思う。 文学は読み手の想像力を要求する。 作者によってすべてが満たされ、意味が固定されてしまえば、そこに読者が入り込む余地はない。 ちょうど併読しているブランショの「récit(レシ)」とも不思議に重なる。レシは意味を読者へ受け渡すのではなく、読者を出来事へ参加させることで成立する。 書かれていないもの、固定されていないものがあるからこそ、読者はそこへ入り込むことができる。 そして、この感性はボヌフォワの詩によって命を得るのである。 詩人の置く一つひとつの言葉は、自らの体験と思考を経て生まれた、彼にしか現し得ない思想をまとう。それがゆえに、情熱的なまでに美しく、触れられるか触れられぬか分からぬほどに遠い。
    奥の国
  • 2026年8月8日
    巴
    物語がありすぎた。色々なことが起きすぎた。今はこういうものを読みたい気分ではないようだ。
    巴
  • 2026年8月1日
    とどめの一撃
    とどめの一撃
    冒頭、「序」にて作者が語るように、閉じられた小さな世界、限られた時間の中で繰り広げられる物語。それは戦争という巨大な波に侵食されていく。しかし、「戦争は人を狂わせる」といった単純な筋書きではない。戦争は、人々の人生に小さなズレを生じさせ、その積み重ねが避けられない結末へと人を運んでいく。 しかし戦争は、重要ながらも本作のひとつのエッセンスに過ぎず、テーマは別のところにあるように思う。 戦争を含め、さまざまな出来事が複雑に絡み合い、それらは一つひとつ終着点へ向かう道程となる。繰り返しは起こり得ないし、やり直しも存在しない。 人は人生を選択の連続だという。しかし選択を迫られる瞬間は長く感じられても、過ぎ去ってしまえば、それは一瞬の出来事としてしか残らない。過去を振り返ると、人生は無数の線ではなく、点の連なりとして見えてくる。そして、その決断に至った理由さえ、もはや明瞭には語ることができない。 もしかすると人は未来を選んでいるのではなく、過去の延長を生きているだけなのかもしれない。 こう考えていくと、本作のタイトルでとある「とどめの一撃」と呼べるような決定的な瞬間は、作中に存在しなかったのではないか。あらゆる出来事が少しずつ終着点へ向かい、そのすべてが「とどめの一撃」だったのである。 環境、選択、時間。この全てはまったくもって無慈悲である。 比較的難解ではあったが、読むたびに新たな発見をもたらしてくれる作品だと感じる。また再読したい。
    とどめの一撃
  • 2026年7月25日
    リトルネロ
    リトルネロ
    賛否は分かれるであろう。が、わたしは大きな衝撃を受けた。 細切れにされた記憶の断片。脈絡がありそうでなさそうなそれらの連続は、意味がわかるかと言われれば、わからない。それほどまでに不明瞭に書かれている。しかし、だからこそ生まれる不思議なスピード感がある。 至極映像的。それでいて感情的。このテクストは過去を回想する時に似ている。非常識なほどに美を覚える。 ドゥルーズ=ガタリに興味を持ち、初めて手にした本だが、これのおかげで一気にフェリックス・ガタリの方に興味を持つことになった。 おそらく彼の残した著作の中では異質な本書。しかしながら最も彼らしいテクストなのであろうと思う。良いものに出会った。
    リトルネロ
  • 2026年7月18日
    筑摩世界文学大系 82 ベケット ブランショ
    筑摩世界文学大系 82 ベケット ブランショ
    ブランショの『謎の男トマ』を。 わたしの中で過去最高に難解なテクストであった。しかし、とてつもない読書体験をもたらす書物でもあった。 語り手、物語、出来事、そして読者。その境界が溶けていく。わたし自身も作品の出来事へと巻き込まれ、その「参加者」となっていた。これは語り手においても例外ではなく、すべての参加者が「出来事」に揺さぶられる。 これがブランショのいう「récit(物語)」の感覚なのだ、とわたしは読んだ。それぞれの受動性と能動性、その関係を解き明かしながら、また霧の中へと連れ去っていく。 タイトルからして、「トマとは何か」という問いが読者の興味をかき立てる。わたしはトマを、あらゆるものを引き寄せ、あらゆる出来事の契機となる「重力」のような存在ではないかと考えた。 「死んでいる、かつ生きている」「実存、かつ虚無」といった反対の状態が幾度となく現れる。しかし、その矛盾は不思議なほど自然に意味を成しているから恐ろしいし、そして美しい。 読書をする者なら誰しも、文学に触れ、価値観が変わっていく体験を幾度となくしているだろう。これをブランショ的に表すなら、「読書を通じて変わるのではない。読書を経由することで、それまでの自分は自らに殺され、あなたは新たな自分を生み出す」ということなのだろうか。 哲学をこれ以上ないほど文学的に描き切った、至上のテクストであった。生涯をかけてブランショを読み続けたい、そう思わせる最初の一冊となった。
    筑摩世界文学大系 82 ベケット ブランショ
  • 2026年7月11日
    星の時
    星の時
    併読しているブランショのテクストに登場する「レシ(récit)」というワードについての理解を深めてくれるような、まさに今わたしが出会いたかった作品であった。 本作は、物語の語り手(作家)、物語の主人公という複数の視点を持つ構図で進む。ゆえに書き手の心情やナラシオン(物語行為)そのもの、すなわち語り手が対象を描く手触りのようなものを感じることができる。 それはときに、読者がこの物語をどう読むのかをも問うてくる。物語の主人公には語り手を介してしか触れられないという隔たりもまた、味わい深い。 文体は極めて平易で軽やかながら、冒頭から、存在とは何か、書くという行為にはどのような意味があるのかといった形而上的な思索が綴られる。 主人公に起こる物語は極めて残酷であるにもかかわらず、どこか軽やかで、そこには美しさすら覚える。語り手は彼女を愛し、救いたかったのかもしれない。悲劇を愛おしく描く。が、主人公を忠実に描こうとするほど、救済は遠ざかっていく。その残酷さに語り手自身も苦悩し、読者もこれに巻き込まれていく。この「体験」は文学にしかなしえない技なのかもしれない。 言葉によって自我が芽生え、それに伴って無垢が失われていく。その姿には、ジッドの『田園交響楽』に似たものを感じた。 無知は不幸なのか。それとも幸福なのか。
    星の時
  • 2026年6月27日
    息
    自伝五部作の三作目。著者十八歳頃の出来事を綴った作品である。 シリーズを通して改行の一切ない怒涛のテクスト。最初は困惑したが、このリズムがもはや心地よい。 重篤患者が収容される、死が約束された病室。そこで自己の死、他者の死と対峙する時間が描かれる。 威厳などまるでない、赤裸々な死。 その姿を前にして、人には十人十色の生き方があるように、十人十色の死に方があることを知る。 切迫感に満ちた描写は、生の意味、生のはかなさ、そして死の恐ろしさを読者に強く問いかける。胸が苦しい。これは精神が元気なときに読むべき作品だ。 もっとも印象に残ったのは、敬愛する祖父が語る「わしら二人には、将来を自分のものにしようという最高に強い意志がある」という言葉である。 死を目前にすることで、人間の意思はかつてないほど輪郭を強める。これこそ哲学である。哲学というのは机上の空論ではなく、まさにこうした生の中にこそ息づいているのであろう。 また療養中、ベルンハルトは膨大な読書を重ねており、それが文学へ進む大きな契機となったこともうかがえる。
    息
  • 2026年6月27日
    省察
    省察
    『方法序説』に比べ、こちらはデカルトの哲学そのものと向き合う一冊。 第二省察では、デカルトの核心である「コギト」が語られる。 デカルトの気持ちになり、世界の最小単位を「考える自分」とし、それ以外はすべて虚像かもしれないと想像してみた。 すると、とてつもない孤独感に襲われた。 この追体験ができたことは、個人的にとてもうれしい。 哲学とは実感の少ない冷徹な、あくまでも「学問」だと思っていた。だが実際には、自分自身の存在を揺さぶられるほど切実で、熱量のある営みだった。これを感じられたのは今後のわたしの読書にとって、とても大きい。 哲学を読み解くには、感受性もまた必要なのかもしれない。
    省察
  • 2026年6月25日
    杳子・妻隠
    杳子・妻隠
    「杳」 意味 くらい。奥深い。また、はるか。とおい。 何も起きないのに、なんという不穏。 読書中はこの独特の暗さに引き込まれ、登場人物たちと同じように、意識と認識が曖昧になる感覚を体感する。 本作では人物も感情も出来事も輪郭が不明瞭である。だがそれは描写が曖昧ということではない。 なぜわたしはここにいるのか。なぜ当然のように息をし、直立していられるのか。ふとその感覚を見失い、焦燥を覚えることはないだろうか。 主人公たちはこの感覚のはざまに身を置かれ、互いに影響し合い、その境界線を曖昧にしていく。それは快楽であり、また苦悩でもある。 日常の触感、そしてその中に潜む微かなざらつきへの鋭い観察眼。 ときおりハッとさせられる描写に出会う。情景描写ではない。意識の描写である。言語化の難しい領域でありながら、共感を覚えるほどに巧みだ。 面白いとは少し違う。 だが、文学にしか描くことのできない領域が確かにここにはある。 不思議な読書体験であった。
    杳子・妻隠
  • 2026年6月21日
    田園交響楽
    無垢が花開く美しさ。生まれる精神。罪を知らぬ清らかさ。盲いたものにしか見えない感受性。 そして五感を得て、世界を知ることは幸福を知ることであり、同時に不幸をも知ることである。 本作を読みながら、善とは何か、悪とは何かについて考えた。 他人の幸福のために行動することが善なのだろうか。だとするならば、他人の幸福とは一体何なのか。他人にそれを決める権利などあるのだろうか。 誠実であろうと心がけても、それはときに相手の人生を自分の価値観へと導こうとする危うさをはらんでいることもある。心せねばならない。 えもいわれぬときめきと切なさに、終始鼻の奥がツンとするような感覚があった。 ジッド。良い作家と出逢えるのはうれしい。
    田園交響楽
  • 2026年6月20日
    はつ恋(新潮文庫)
    はつ恋(新潮文庫)
    思わせぶりな女性のことをコケットというそうだ。 人生において、決して消えることのない甘く苦い記憶。それは大抵、幼い精神では超越できない大きなものにはばかられ、鮮烈な衝動とともに幕を閉じる。記憶はある種の後悔にも似た感情を伴い、ひとつの憂愁となって後生に残り続ける。 離れるか離れないか。その曖昧な距離に一喜一憂し、焦燥に身を焼く日々。それはわたしの若き日の恋の記憶を呼び起こした。 初めて知る歓喜、嫉妬、焦燥、喪失。そのすべてが未経験のまま心に刻まれる。初恋は初めてであるがゆえに、人生から決して消えない特別な憂愁となる。
    はつ恋(新潮文庫)
  • 2026年6月15日
    悲しみよ こんにちは
    悲しみよ こんにちは
    読後、自分の考えをまとめている。まとめればまとめるほど、『悲しい』。 これはおそらく作者がタイトルで狙った悲しみとは違う。 なんだろう。とてつもなくくやしい。 同じ読後感の人はいるのだろうか。 こうした批判的な読後感をもたらす作品も、見方を変えれば文学的には成功しているのかもしれない。 改めて、読書は面白い。 そして恐ろしい。 文学は作品の輪郭を浮かび上がらせるだけではない。読者の輪郭をも浮かび上がらせる。 わたしは何を大切にしているのか。 何が許せないのか。 本を閉じたあとになって、自分自身の方が裸にされていることに気づくのである。
  • 2026年6月13日
    鏡のなかの鏡ー迷宮
    鏡のなかの鏡ー迷宮
    エンデの豊かな表現力によって描かれる、不穏なシュレアリスムの世界。 ルネ・マグリットを想起させる寡黙な世界の中で、この世の摂理を象徴するかのような小さな物語が繰り広げられる。 オートマティスムを思わせる自由な発想でありながら、情景は驚くほど鮮明に立ち上がる。その文体は見事というほかない。 ひとつひとつの物語は断片的で、ときに意味すら掴みがたい。だがその曖昧さの中で、生と死、不条理、存在そのものへの問いが静かに浮かび上がってくる。 『はてしない物語』や『モモ』とはまるで違う顔を見せる、大人のためのエンデ。 お気に入りの本が、また一冊本棚に加わった。
    鏡のなかの鏡ー迷宮
  • 2026年6月7日
    サロメ (岩波文庫)
    サロメ (岩波文庫)
    語るほどワイルドの作品を知っているわけではない。が、100ページ弱に濃縮された本作は、代表作『ドリアングレイの肖像』よりもワイルドらしいのかもしれないと感じた。 ビアズレーの挿絵がワイルドの耽美を極限まで加速させる。美しいまでの毒と甘さ。
  • 2026年6月7日
    不死 プラトーノフ初期作品集
    不死 プラトーノフ初期作品集
    初プラトーノフ、読了。 詩、短篇、エッセイ、戯曲など、作家初期の多彩なエクリチュールを集めた小品集。ひとつひとつが独自の輝きをじわりと放つ、古い宝石箱のような読書体験となった。 まばゆい華やかさはない。だが、どの作品にも哀愁や苦悩が、仄かに漂っている。 それは生や愛といった普遍的なテーマだけでなく、労働や産業までも作品の中心に据えているからであろう。 これらが折り重なることで、人生という儚くも深刻な営みについて、静かに考えさせられる。 おそらく出版部数の少ない類の書物なのだろう。少々高価ではあったが、大切にしたい本がまた書棚に加わった。
  • 2026年6月6日
    メノン
    メノン
    岩波文庫版にて。 ソクラテスとその客人メノンの会話がメインとなる、対話形式の書式。 ソクラテスは答えを与えない。 問いを重ねることで、相手が当然だと思っていた考えを少しずつ揺さぶっていく。 そのようにソクラテスは「問いを立てること」の意義を解く。 まるで生徒と先生のような問答が続くため、内容もわかりやすく、哲学初心者のわたしにはちょうど良い本だった。
    メノン
  • 2026年6月3日
    方法序説
    方法序説
    方法序説 デカルト わたしの本棚にある中で、『石蹴り遊び』の次に読むべき本としておすすめされたのが本書。 まさにベストな選書だったようで、『石蹴り遊び』の理解を深めるよい読書になった。 文体が古いため少々読みづらさはあるものの、内容は比較的やさしい。 わたし自身、哲学は初心者である。ゆえに、哲学とは「なるほどなるほど」と納得しながら読むものだと思っていた。だが実際には違った。 面白いことに、意見がぶつかるのである。 デカルトの考えに納得しながらも、ときに反論したくなる。そしてその反論についてさらに考え始める。 哲学とは答えを学ぶものではなく、思考するための技術なのかもしれない。 こうして哲学を知ることで、今まで読んできた文学が別の顔を見せはじめる気がする。再読時に新しい発見ができる予感しかしない。 哲学書、思想書、もっと読んでいきたいと思う。
  • 2026年5月31日
    石蹴り遊び(下) (ラテンアメリカの文学) (集英社文庫)
    非常に難解。コルタサルに翻弄されながら、なんとか読了。 不思議な本である。 通常の順序で読む方法と、作者が指定した順序で読む方法とが存在する。 今回は通常の読み方で読了。再読必須。 --- ★★以降、作品の本質に触れるため、自己責任でお読みください★★ ---| 知をまとい、世界に届こうと足掻くオラシオ。しかし知だけでは世界にも生命にも届かない。 だが同時に、知なくしてはその限界にも到達し得ないのである。 作中では生の実感と知の遊戯が対峙する。 知に溺れると、思考と現実との境界は曖昧になる。本作はそれを語るのではない。文体そのものが、その状態へと読者を引きずり込む。 数年後になるだろうか、作者指定のもう一つの読み方で再読としたい。
  • 2026年5月30日
    石蹴り遊び(上) (ラテンアメリカの文学) (集英社文庫)
    苦戦しながら上巻読了。 感想は下巻にて。
  • 2026年5月24日
    焼跡のイエス・善財
    焼跡のイエス・善財
    宗教と俗世が静かに重なり合う。 キリスト教的なモチーフは感じられる。だがそれは説教のためではない。石川淳は、世界を語るためではなく、小さな日常と人間模様の中にこそ宗教を滲ませていく。 神聖な光は人間を照らし、道を示す。だが同時に、その光は人間の影をも鮮明に浮かび上がらせる。 それは白刃のように鋭く、そして危うい。 文体は粋で、荒々しく、勢いがある。読点が少なく、読みにくい。だがその文体そのものに、不思議な熱が宿っている。 戦後まもない焼跡の俗世。 人間の本性がむき出しになったその世界に、著者は宗教の影を重ねて見ていたのかもしれない。
読み込み中...