
中根龍一郎
@ryo_nakane
2025年4月11日

たった一つの、私のものではない言葉: 他者の単一言語使用
ジャック・デリダ,
Jacques Derrida,
守中高明
ちょっと開いた
かつて読んだ
去年出た岩波文庫版は邦題が『他者の単一言語使用 あるいは起源の補綴(プロテーゼ)』になっている。monolinguismeを「たった一つの、(…)言葉」とするのはおそらくけっこう乱暴で、『他者の単一言語使用』を主とするほうが原題に近く、正確であり、かつ副題もきちんと訳出されている。訳者の守中高明も、実のところこの単行本版の題はそっちのほうがよかったのかな、という雰囲気のことを、この本の訳者あとがきで書いている(岩波文庫版はまだ読んでいないので、タイトル変更の経緯は知らない)。
でも私はこのすこし感傷的でコマーシャルなタイトルに思い入れがある。『たった一つの、私のものではない言葉』という題だったから、学生時代の私は手に取って、いま私の手元にこの本はある。そこには翻訳上の偽証があり、エディトリアル上の詐術がある。そのような言葉を通して生まれる出会いもある。
読むことには読み違いがついてまわる。外国語を読み違えることもあるし、母国語を読み違えることもある。校正者も意外と読み違いをする。文意を取り違えることがあるし、全体をみれば不要なはずの説明を疑問出ししてしまうことがあるし、これではわかりにくいのでこうしたほうがいいのではないか、という疑問出しが、実のところ的外れな手入れだったりすることがある。
校正者は常に自分のものではない言葉を取り扱う。そして自分のものではない言葉について検討する。その言葉は多くの場合母国語で、多くの場合、それについて詳しいことになっている。
しかし、言葉に詳しいというのはとても奇妙な言葉遣いだ。校正者は多くの場合、言語学の専門家ではないし、研究者でもない(もちろん専門家や研究者のこともある)。校正者は、あるジャンル、ある時代におけるローカルな言葉遣いのなかで、「正しい」とされるいくつかの(人によっては無数の)パターンを知っているにすぎない。あるゲラと向き合ったときに、そのゲラのために引っ張り出してくる正しさのパターンが、目の前のゲラに内在する正しさのパターンと食い違ったとき、校正(校閲)は失敗する。
私たちは言葉に慣れている。とりわけ母国語に慣れている。そして慣れているはずの母国語には、しかし、実は人や、時代や、コミュニティや、状況やコンディションによる、無数のばらばらの言葉が集合している。それは限りなく同じ言葉で、その同質性なしに言葉は成立しないのだが、そのモノリンガリズムはしばしば内側に脱臼を隠している。
多くの場合、校正者は原則としてひとつの言葉を取り扱う(例外はある)。でも実のところ、そこで我々が取り扱う言葉はひとつではない。しかし、ひとつの言葉があるという前提なしに、私たちの仕事は成り立たない。

