
いぬい
@inuiru
2026年10月15日

ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか
内村鑑三,
河野純治
読み終わった
アウグスティヌスの『告白』がよく分からなかったんで(一巻ではまだ回心してないが)内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』を読もうとしたら光文社古典新訳文庫がKindle Unlimitedに入っていた〜ラッキ〜!
内村鑑三はよく見る顔写真の感じからこわそうなひとをイメージしてたが(有島武郎がメッチャ怒られたエピソードのイメージもあった)少年時代はさまざまな神に祈るためにフレーズを考えたり、さまざまな神に操を立てるために雁字搦めになったりしたそうで、幼少期こわい夢を見たくないためだけにありとあらゆる神に祈っていた私などはかなり親近感をおぼえた。
そんな少年・内村くんが札幌農学校で半ば強制的にキリスト教徒にさせられるわけだが、入信した直後に内村くんが思ったことは「これで神がひとつになる! もはや神社ごとにそれぞれの神への祈りを唱えなくてもいいのだ!」ということだった。そんなおまとめローンみたいな感じでいいのか?
札幌農学校時代のエピソードはかなり青春って感じで読んでいてまぶしくて泣けた。
パウロってのは新渡戸稲造のことだったようだがべつに近眼はいいだろ。
37p
" パウロは「学者」だった。たびたび神経痛を患い、また近眼でもあった。すべての物事を疑い、さらに新たな疑いをこしらえることができ、何事も自分で試して証明しなければ受け入れることができなかった。トマスと名乗ってもよかったくらいである。"
43p
" みんな、それぞれのやり方で歌ったけれど、荒々しい大声と調子はずれの歌には「音楽的な旋律」など皆無だった。パウロはすべての賛美歌をトプレディーの旋律で歌えると言ったが、じっさいにはその旋律しか知らなかったのである! それでも、丘も山もぼくらの歌をがまんして聴いてくれた。神はご存じだ、ぼくらの歌には優れた音楽の一要素――感じる心――があることを。"
44p
" その夜は誰もが天使のように見えた。「とげだらけの」ヨナタンも、「こぶだらけの」ヒューも、「骨と皮ばかりの」フレデリックも、その晩はみんな、「まんまる」のフランシスと同じくらい人が丸くなっていた。疑い深いパウロも、そんなキリスト教に対してなんの異論もなかった。ああ、こんな夜がもっとあればいいのに! 天使の合唱が天に聞こえ、ベツレヘムの星が東方の賢者たちを幼子イエスのもとに導いたあの夜は、この夜よりも美しかったというのか!"
47p
" ヨナタンは牧師のそばに座っていた。顔を上げ、フレデリックの身に何が起こったのか、確かめようとした。するとどうだろう、牧師は小麦粉樽の説教壇にひじをついたままぐっすりと眠っているではないか。道理で祝禱が聞こえてこないわけである。彼の神聖な言葉を待っていたら、ぼくらは一晩中起きていなければならないだろう。
ヨナタンは考えた。これは例外的なケースであり、その場合、「公会議」の同意がなくとも一時的に規則を変更してもよいだろう、と。そこでヨナタンは立ちあがり、厳粛な声で言った。「われらの兄弟フレデリックが寝入ってしまったので、ぼくが代わりに牧師の役目を果たすことを神はお許しになるでしょう。われらの主イエス・キリストの恵み、うんぬんかんぬん、アーメン」"
68p
" しかし、フレデリックやヒューがおまえ[説教壇]の上から使徒の祝福を唱えたとき、おまえが持っていたその不思議な力、その神聖さは、けっして引けをとらないであろう。さらば、聖俗両方の宴において、ぼくらの心を固く結びつけた愛用の水差しよ! いつか黄金の聖杯でワインを飲むことがあるとしても、そのワインには、おまえ[水差し]の口から注がれた冷たく泡立つ液体が、ぼくらの種々雑多な心を調和させ、一つにまとめたときのような結合力はけっしてないだろう。さらば、青い毛布よ!
おまえが提供してくれた「会衆席」ほど居心地のよい場所は、これから先ないだろう。さらば、小さな「教会」よ! 「呼び物」や子供らしい実験の数々、口論や当てこすりがまじった祈り、愉快なおしゃべりや日曜午後の宴会よ!"
ここまで読んだだけでも内村くんがかなり感じやすく純真な感動屋であることは分かる。内村くんはアメリカに渡り、さまざまな経験を経て、「キリスト教は最高!」へ辿り着く……………………うん、何も分からない。
しかし、どうも内村くんもよく分かっていないようなのだ。
218p
" しかし、何がキリスト教なのか? 聖書そのものがキリスト教なわけではない。もちろん、聖書にはキリスト教の多くの要素、そしておそらくその本質が含まれてはいるだろう。また、教義自体もキリスト教ではありえない。それは時代の要請に応じて人々が考え出したものだ。じつのところぼくらには「何がキリスト教なのか」よりも「何がキリスト教でないか」のほうがよくわかる。"
219p
" 真理を定義しようとするまさにその試みがぼくら自身の愚かさを示している。なぜなら無限の宇宙以外に真理を定義すなわち限定できるものはないのだから。だから真理の定義はあきらめよう。"
222p
" ぼくの小さな魂も、そうだと証言できる(神に感謝)。
そしてこれこそがキリスト教なのだ。少なくともぼくにとってはそうである。神の御子の贖いの恵みによって罪から救われること。それ以上かもしれないが、それ以下のものではありえない。ならばこれこそがキリスト教の真髄だ。教皇、司教、牧師、その他の有用無用の添えものは、キリスト教に必要な部分ではないのだ。ゆえにキリスト教は、他の何よりも信じる価値のあるものだ。真の人間はキリスト教がなければ生きていけない。キリスト教がなければ安らぎを得ることもできない。"
終盤、何かを言っているような何も言っていないような、分かっているような分かっていないような話がつづくので私はかなり置いてきぼりになった。
解説の橋爪大三郎が言うことによれば、
" キリスト教、とくにプロテスタントの信仰をもつとは、正統なさまざまの宗派・教会や、これらの教会の違いを理解し、そのひとつを選び、その他を拒否することにほかならない "
のだが、内村くんはどうも宗派への所属をきらうだけで、それぞれの教義などは理解していないようだ、とのこと。思い返してみれば、そもそも内村くんは聖書を精読しているような様子もなかった。←帰国後、聖書を読む会みたいなのをやっていたようだ。
三十一歳のときに書いたらしいので、まあまだ若いんだよな。
最近じぶんが歳取ってきたせいか、文豪の作品など読んで「ん?」と思うことがあっても「二十代のころの作品か……なら仕方ない(?)」などと考えるようになっていいんだかわるいんだか。