@sotaono
2026年10月22日
p16
「自分のこれまでの人生は、誰のものでもない、つまりあれは、誰でもなかった。白い地面に月明かり、そして赤い綺麗な……。途轍もなく綺麗な……。」
p18
「そうか、これまで自分は眠っていたのかもしれない。
全部夢の中だった。だから、なにものにも感情を揺さぶられることがなかった。怒ったり、泣いたり、笑ったり、そういうことを本当にできなかった。みんな嘘だと思っていた。振りをしているだけだろう。だから自分もそれに合わせて、逆らわないようにしょう、とだけ考えていた。面白いこともなかったし、嫌いなこともそれほどなかった。自分から話をするような気にもなれなかった。問われれば、ただ反応し、適当に答えるだけだった。全部、それは夢だったのだ。今、目覚めたところだ。」
p29
「今が良ければ、それで良い。生きているのだから、これで良い。良いにきまっている。とにかく、腹が空いた。何か食べなくては……。」
p43
「自分も、あの歳のときには、人から助けてもらいたいなんて思わなかった。放っておいてほしい、一人にしてほしい、とバリアを張り巡らせていた。あれは何だったのだろうか。ああすることでしか、痛みを和らげることができない、傷口に触らないでくれ、と頑なに拒んでいた。冷静になって考えてみると、可哀想になるくらい愛おしい。頭を撫でてやりたくなる。これは、歳のせいかもしれないし、反対に自分が軟化して、心の防御が衰えているせいかもしれない。」
p52
「「捨て猫とか、絶対保護するでな、俺はさ。」「それは、ちょっと引っかかる。」「よしよし。」雨宮の手が伸びて、加部谷は頭を撫でられた。」
p83
「いつまでも引きずっているのは良くないな、とも思った。引きずっていることに価値を見出していたのに、まるで反対である。どうして切り替わったのか、よくわからなかった。電車の中でも、ずっとそれを考えた。生きられそうな人生の時間から考えて、今がちょうど折り返し地点だろうか。まだ半分もあるのだ。音楽やオーディオを楽しむだけで生きていけるだろうか。否、そもそもこの音楽の趣味が彼の影響なのだから、引きずっているウェイトの一つともいえる。」
p129
「寂しい現実ではないか、と思う。しかし、本当にこれは厳しい現実なのだ。野菜や果物は新鮮なものが美味しい。魚も獲れたてが美味いだろう。しかし、人間はそうではない。食べられるだけのものではない、ということだ。もう少しそれを大勢が認識し、抵抗した方が良いように思える。ただ、口に出して主張すると、絶対に誤解される。きっと、妬んでいるとか、僻まないように、と言われてしまう。まったく面白くない。」
p140
「でも、人に言われるよりも、自分でその言葉を発した方が、むしろ悲しくなるのかもしれない、とは感じた。」
p156
「「そうですね。でも、効率が悪すぎます。殺人者は、一人殺して、そして自分は隠れています。被害者の周辺の人には迷惑というか、悲しみを与えることになります。でも、数は少ないし、損害も大きくない。それに比べると、もっと大勢の人たちに迷惑をかけたり、財産を奪ったり、人生を台無しにするような行為って、もの凄く沢山あって、多くのものは、犯罪と扱われていません。たとえば、戦争なんかがそうですね。それから、災害もそうです。どちらも、防ぐ方法があったはずなのに、それを怠った結果といえます。」「戦争も災害も、しかたがないと思ってしまいます、私は。」「殺人は、そうは思わない?それは、どうしてですか?」「どうしてでしょう。やっぱり、個人の勝手を許容できない、という怒りでしょうか?」「殺人は、それがわかりやすいだけです。たとえば、無差別大量殺人などは、あれは災害だと諦めるしかありませんよね。殺人者を逮捕しても、なにも解決しません。同様の犯罪がまた起こることを防げるわけでもない。繰り返し、何度も、起きている。警察が正義を訴えても、全然効き目がありません。殺人を犯すような人の大半は、最初から覚悟をしていて、自分の人生を犠牲にしているんです。逮捕されても、むしろほっとするだけです。やりきったという充実感に満たされている人もいます。それに、犯人が逮捕されても、それが未来の犯罪の抑止にはならない。むしろ、真似をする者が出てくる始末です。どうですか?虚しいと思いませんか? どうしたら良いでしょうか?」「どうしたら良いのか、私も全然わかりません。でも、とにかく目の前の悪事を正しく裁くようにすることが、一歩前進だと思います。」「偉いなあ、小川さんは。」牛田は微笑んだ。「立派ですね。探偵じゃなくて、警官にば良かった。」「駄目なんです、私、運動が苦手で……。やっぱり、体育会系じゃないと、なれませんよね?」」
p166
「お礼とか、遠慮とか、お世辞とか、恐縮とか、気違いとか、それらすべてが渾然となった演技とかを応酬するという場面が、そういえば、就職して公務員になった頃にあった、と思い出された。今は、相手は女優である。雨宮もその方面のプロだ。自分は田舎から出てきたばかりの世間知らずの振りをするしか道はない、と加部谷は考えた。」
p172
「「たしかに、あんたと一緒だと、運がついてくるような気がするわぁ。」」
p174
「「うるさいな。君はな、加部谷。そうやって、なんでもずばずぼ本気で正直に言うだろう?そういうのが、うん……。」「悪い癖だよね。」「違う。良い癖。そんな奴、おらんで、ホント、お上手ばっかり言いやがってよう、陰ではけちょんけちょんに言っとらつせる奴らばっかし。腹黒い奴ばっかし、情けなくなるわさ、ホント。」「よしよし。」加部谷は言った。「聞いてあげるからね、いいんだよ、もっと話しなさい。」」
p271
「「雪上流血美女連続殺人という先入観です。」雨宮が答える。「それも、全部、想像上の話だったし。」加部谷が説明した。「逮捕できるような根拠はなかったのだし、ふわつとしたイメージにすぎない。実際に見たものではないし.....。でも、そういうイメージで、すべてを捉えてしまうから、錯覚しちゃうわけ。」」
p278
「「あぁ、西之園さんは、ちょっと特別ですから。」」
p316
「「犯人が捕まっても、その後も捜査は続くし、裁判もあるし、全貌が見えてくるには時間がかかるわよ。」小川が話す。「それが全部終わっても、真実がすべて明かされるかどうかわからない。だから、事実を調べて、その調べたことで仮説を組み立てるしかないと思う。」「真実かぁ……。」雨宮が言葉を繰り返した。「たしかに、そうですね。誰も、本当のことなんて話さない。絶対に自分を庇う。都合の悪いことは伏せて、良いことだけを強調する。割り切れないことが多いし、納得がいかないことも多い。そんな感じですね、いつも。」」
p318
「人間は五十年以上生きる。過去にあったこと、子供の頃に経験したことは、往々にしてその個人を決定づける。加部谷自身も、子供の頃に、たまたま殺人事件に遭遇したことがあった。死んでいる人を見たのだ。その後、どういうわけか、物騒な経験を幾つか重ねているのも、なにか運命づけられたものだという気がしてならない。きっと、この連続殺人犯も、子供の頃になにか経験したのだ。なにかを見たのだ。それは、どんなに検索しても、探すことはできない。個人の頭脳だけに刻まれたもの、焼きついたもの、傷跡のように消えないものにちがいない。」
p345
「「憎いっていうのは、相手が正常で、むしろ自分の信じている人の場合の感情なんだね。沙保里さんくらいになると、もう存在自体が遠くて、ただ、近寄りたくないのよ。怖い、気持ち悪い?手を引っ込めてしまう。それに、何ていうの?彼女が子供の頃から、あんなふうだったのだとしたら、身近にいる誰かが気づいてあげて、彼女を止めなきゃならなかったんだと思う。雨宮さんが、沙保里さんの手を握って止めたでしょう?あのときの沙保里さんの顔、目を見開いて、自分の手を見たのよ。びっくりしていた。今まで、誰も止めなかったんじゃないかしら?抵抗しなかったし、なにも言わなかった。心の底では、誰かに止めてほしいと思っていたのかもしれないじゃない。マスクをしていたから、目しか見えなかったけれど、怒りに満ちた目じゃなかった。驚いて、今にも泣きそうな目だったよ。さすが女優だなってあのときは思ったけれど、でも、演技じゃなかったのかも。」小川は溜息をつき、グラスのワインを飲んだ。何故か、涙が流れていた。三人が見ているので、彼女は微笑んだ。涙なのに微笑むのは、素敵だな、と加部谷は感じた。」