いぬい "道徳の系譜学 (光文社古典新..." 2026年10月21日

いぬい
いぬい
@inuiru
2026年10月21日
道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫)
読みかけの『神聖喜劇』に「金毛の野獣」のくだりが出てきて、そう言えば有名な「金髪の野獣」の話ってちゃんと読んだことなかったな、と思ったらKUにあってラッキー。ニーチェがちょいちょいこっち見て話しかけてくるので目をあわせたくないタイプだと思った。 アブラハムの宗教について読みつつ「人類の敵」とか「復讐する民族」という感覚がいまいちピンときてなかったんだけど、価値の転換ってわりとどこでも起きているなかで、ある意味「最大の転換」がユダヤ教〜キリスト教で起きてたってことなんだな……というのが分かって、何かを肯定することは何かを否定することっていうシンプルな原理を思い出したな……(これを肯定するけど、これを否定するわけじゃないよ、みたいな言説をしがちだし……)。 91p " そもそも人間は苦悩には憤慨するものだが、それは苦悩そのものではなく、苦悩が意味のないことに腹を立てているのである。しかし苦悩のうちに魂を救済する秘密の機械を読み込んでいるキリスト教徒にとっても、すべての苦悩を傍観者としての立場や、他人に苦悩を与える側の立場からしか解釈することを知らなかった古代の人々にとっても、意味のない苦悩というものは存在しなかったのである。この世から隠れた苦悩とか、発見されていない苦悩とか、目撃する証人のいない苦悩などというものを消滅させて、うやうやしく否定できるように、人類はほとんどやむをえずに神々を発明したのだし、さまざまな高さの中間的な存在を発明したのである。これらは要するに、隠れた場所にも入り込んでくる者、暗闇のうちでも見透すことのできる者、痛ましいと同時に興味をそそる見世物を決して見逃すことのない者なのだ。" そう言えば『虚空蔵の峯』を読んだとき、無名の苦しみみたいなことについて考えたのを「隠れた苦悩、発見されていない苦悩」のくだりで思い出した。私は敬虔なクロノクロス信者なので「降りかかるすべてのことに意味はない」と思っているんだが、やはり意味がない、ということは苦しく受け入れにくいものなんだ……と言うか、ニーチェの言だと意味は「見られること」で発生するんだな。 113p " 犯罪者は、司法によって定められ、執行された処罰の手続きがどのようなものであるかを目撃することで、自分の行為そのものが、それ自体として非難すべき性質のものであるとは考えなくなったのだ。このことの意味を過小評価してはならないだろう。なぜなら犯罪者は、自分の行った行為と同じ性質の行為が正義の名においてなされていること、それが疚しくない良心の行う行為として、善なる行為として、遂行されているのを目撃するからである。こうしてスパイ行為、欺き、買収、詐術など警官や告訴者が活用するすべての悪賢い手管が、そしてそれだけではなく、さまざまな刑罰において明確に確認できる行為である強奪、圧服、誹謗、監禁、拷問、殺害などが、たんに感情に走ったから行われるどころか、根本的に免責されていること、──これらのすべてを目撃するうちに、こうしたものは裁判官によってそれ自体として非難すべきものとも、罰すべきものともされず、特定の観点から利用されているにすぎないと感じるのである。" カントは死刑を肯定していたけど、ここはニーチェの言う通りだと思う。価値が転換し得るものである以上、正義の名のもとに行われる刑罰と犯罪は区別しにくい。ニーチェは「意味」は流動的なものであると言っている。形式ですら流動的だと言っている、これは(内容ではなく)形式から普遍的な法が成立しうるというカントの考えと真っ向から対立している。 215p " そしてみよ!  人間はある暗示をうけとる。魔術師である禁欲的な司牧者から、自分の苦悩の「原因」について最初の暗示をうけとるのだ。その原因はお前のうちに求めるべきだ。負い目のうちに、自分の過去の一コマのうちに求めるべきだ。お前は自分の苦悩を、ある刑罰をうけている状態と理解すべきなのだ……。人間、この不幸なる者は、この暗示を聞き、理解した。いまや人間は、回りに自分を囲む線を引かれて身動きできなくなった雌鶏のようなものだ。この円周の線からもはや外にでることはできない。こうして病人から「罪人」が生まれたのだ……。" 自然状態にあって外へ向けられていた攻撃性が内に向かった結果「やましさ」が生まれ、苦悩になる。そして意味のない苦悩に「刑罰」という意味を与えることで人間は禁欲的な生きかたを理想とするようになった。苦悩から救済されるべく罪人となった! なんだか分かるような分からないような話だ、救済が先なのか神が先なのか…… 正義の名のもとに行われる刑罰が「裁判官によって利用されている」ものならば、神の名のもとに行われる刑罰も同様なんだけど……ニーチェは「禁欲的な理想」を否定しながらも、それ以外には苦しみを受け入れる方法はないと考えているように見える。たぶんニーチェ自身が、苦しみに意味を求めてたんだろう。 死ぬほど頭が痛くて何を飲んでもだめなとき、「いったい私が何をしたってんだ?!」と思う。気圧なのか? 本の読みすぎ? 姿勢がわるい? などとあれこれ理由をさがす。目を休めたりストレッチしたりして気をつけていたつもりでもまた頭が痛くなって、「私の努力に意味はなかったのか?!」などと思う。 このばあい問題なのは「頭が痛いこと」であって理由や意味ではない気がするんだが、それが逃れられないものなら、「せめて原因が知りたい」と思うのが人情だろうか……(頭痛と人類の苦悩はちがうと思うが……)。
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