中根龍一郎 "エコラリアス" 2025年4月17日

エコラリアス
エコラリアス
ダニエル・ヘラー=ローゼン,
関口涼子
本当は、ウビフ語はテヴフィク・エセンチが死去するずっと前にすでに死んでいたのだ。ある言語の最後の話者が一人しかいない時、言語を伝達の道具と考えるならば、その言語はすでに死んでいる。 (『エコラリアス 言語の忘却について』p.75/デイヴィッド・クリスタル『消滅する言語』の引用) 『地球にちりばめられて』を読み返して、そういえば言語の消滅についての話が『エコラリアス』にあったな、と思って、ちょっと開いた。思い出した一節は「行き止まり」の章で語られていた。人は往々にして〈言語の死〉というアイデアにロマンティックなものを感じるもので、そうした記録はたくさんあるそうだ。コーンウォール語は1777年12月26日に消滅した。ロマンス語方言のヴェリア方言は1898年6月10日に。ウビフ語は1992年10月8日に。言語の死の記録者にとって、それは〈最後の話者〉が死んだ日付を指している。ダニエル・ヘラー=ローゼンはこうした言語の死亡診断書をある種おもしろおかしく紹介しつつも、言語の死というコンセプト自体への疑いのまなざしを崩さない。冒頭に引いたデイヴィッド・クリスタルの議論に続けて、ヘラー=ローゼンはヴァンドリエスを引用する。 それにしても、コーンウォール語は彼女の死の瞬間に本当に死んだことになるのだろうか。老いたドリーはこの言葉を話すただ一人の人間だった。しかし、言葉を話すには少なくとも二人の人間が必要だ。コーンウォール語は、彼女に返答できる最後の人間がいなくなった日に消え去ったのだ。 (『エコラリアス 言語の忘却について』p.76/Joseph Vendryes「La Mort des langues」の引用) 『地球にちりばめられて』のなかで、自分と同じ母語の話者をさがしてヨーロッパを旅することになるHirukoは、対話を求めている。動画やひとりごとや日記や文字のコミュニケーションではなく(Hirukoは絵を描くが、文字を書く描写はほとんどない)、自分の言葉への応答を求めている。旅の先で出会った同じ母語の男に、Hirukoは語りかける。男はあきらかにHirukoの話す言葉を理解しているが、自分から話すことはない。Hirukoはなんとか応答を引き出そうと必死になる。でも、男はHirukoの言葉に、さまざまな仕方で反応しているのだ。そこには非言語的であれ、コミュニケーションがある。にもかかわらずHirukoは「自分の話す言葉が理解されている」ということのみでは、彼女の求める対話の成立要件として認めない。Hirukoはあくまで言葉による、音声言語による応答を求めている。地球のどこかにいるはずの「彼女に返答できる人間」を求めている。 ひとつの言葉にひとつの言葉で応えるというのは不思議なことだ。「あなたは中国人ですか?」という言葉に、「いいえ、私は日本人です」と応える。そこで私と彼は単語を共有し、構文を共有し、指示対象を共有し、共有した指示対象について語っているという前提を共有している(ネイティブスピーカー……というかフルエントスピーカーは、その共有の密度がきわめて濃く、かつ、一定している)。その不思議な共有の空間のなかで、私たちは言葉を手がかりに、なにか言葉より大きなものを共有する。 言語の死というコンセプトが疑問含みのものであるとしても、少なくともそのとき、言葉は死んでいない。言葉はそこにおいて生きている(でも、そこで生きているもの、そこで生かされているものは、言葉によって生かされているものであって、実は言葉とはすこし違うものなのかもしれない)。 それには二人以上の話者が必要になる。言葉は人間が消滅したあとも残存するだろうけれど、言葉によって生きているあの奇妙な空間は、二人以上の言葉の話者を必要とする。それは生命の問題だからだ。ヘラー=ローゼンは、言語に対して「生きる」「死ぬ」という生物学的な比喩を使うことを警戒していた。言語は生物学の対象ではなく、その比喩は言語のありかたを見誤らせるからだ。しかし、私たちが言葉を扱うときに生成されるコミュニケーションの空間が有するある性質が、言語の問題を死や生命の問題に横すべりさせてしまう。それは言葉それ自体ではなく、言葉のいる場所が、死や生命のいる場所と近接し、類似しているからだ。私はその横すべりを引き起こす類似に興味がある。
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