
中根龍一郎
@ryo_nakane
2025年4月17日

NI44 聖書 新共同訳 小型(A6判) ビニールクロス装
共同訳聖書実行委員会
ちょっと開いた
『地球にちりばめられて』という多和田葉子の小説の題は、バベルの塔から引かれているのだろう。でもよく知られたエピソードであるにもかかわらず、創世記のバベルについての話はとても短い。
彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
(創世記 11:4 新共同訳)
主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
(創世記 11:8-9 新共同訳)
「ちりばめる」という言葉に、校正者はどうしても反応してしまう。漢字では「鏤める」と書くのが〈一般的〉であり、しかしそれは難読なので「ちりばめる」とする、というのが、多くの現場にあるルールだろう。そしてそのルールがある現場では、「散りばめる」は「一般的ではない用法」として、ひらがなにしていくことが多いだろう。けれど「ちりばめる」という言葉を、その語感の類似から、私たちはどうしても「ぱらぱらと散っている」というような、「散り」のイメージでとらえてしまうところがある。どれだけ「ちりばめる」をひらがなにしても、現代の日本語について回るそのイメージは拭いがたい。
「鏤める」は金銀や宝石をはめこむニュアンスのある言葉だ。この難読な漢字のほうが、実のところまだしもその工芸的なイメージをとどめているかもしれない。それは装飾であり、美的なものであり、ばらばらでありながら、ある図像的意図のもとに配置され、少なからず固定されている。
「ちりばめる」をそのような辞書的な語法で捉えなおしたとき、バベルによる混乱、バベルによる離散は、「ちりばめる」というニュアンスからはずれてしまう。「鏤める」には、どこか秩序、コスモスの印象がある。けれどバベルの離散はもっとカオスなもののように見える。そして人は言葉がばらばらになり、民族がばらばらになったあとも、ばらばらの言葉を横断して、溶け合い混ざり合うことをやめなかった。
でも人の目には混乱と見えるものが、主の目にはそうでないことということもありうる。人々の離散は実は混乱(バラル)ではなく、ある神の想定した秩序のもとに配置されていると考えることもできる。すると、ばらばらに見える離散は実は混乱の名を借りた秩序であり、放し飼いに見える馴致であることになる。そのとき、人はまさに、全土に散らされたのではなく、主のある設計意図のもとに鏤められたことになるだろう。
「全地に散らされることのないようにしよう」と語り、「塔のある町」を築こうとしたシンアルの地の人々は、「東の方から移動してきた」という。彼らは移民だった。そして彼らの動機は、「散らされることのないように」したいということだった。それは移民の動機としてはとても自然なことのように思える。
前段の「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」というところがよく目立ち、また知られていて、その〈有名になろう〉という思い上がりのためにシンアルの地の試みは咎められたと、人は思いがちだ。それはいわゆるヒュブリスの諌めで、ふつうのストーリーラインとしてはそのほうが理解しやすい。でも創世記のとても短い話を読み直すと、主は、シンアルの地の人々が試みたことそれ自体の咎を裁くというよりも、このままでは彼らがなにか大きなことを試みてしまったときに止められないから、という、わりと予防・防災的な観点から〈混乱〉をもたらしているように見える。
主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、 言われた。 「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
(創世記 11:5-7 新共同訳)
東の地から来た人々、という言い方に、アジア人である私は共感し、同情してしまう。なんらかの理由で故郷を去ることになり、西の土地にたどりついた彼らが、インフラの整備や都市設計によって「全地に散らされることのないようにしよう」とした試みは、それ自体切実なものだ。しかし彼らは彼らの避けようとした離散を受難することになる。必要なものだったはずの予防や防災が未来の被災を呼び寄せてしまうように。
でも一方で、予防や防災が実のところ被災の予知であるなら、主による予防・防災的な混乱もまた、未来の避けがたい被災、神の被災を予知し、予告していることになる。人は鏤められた配置から逸脱し、はめこまれた場所を脱出し、石留めをこじ開け、もはやひとつではない散り散りの言葉で、大きな企てを始めてしまうのかもしれない。そのとき鏤められた図像は散らかされた図像に変わり、バラルの名を借りた秩序は転換され、別の仕方のバラルが訪れることになる。そしてその企ては、なにか大それた陰謀や理想というよりも、もう一度母国語で話したいだとか、複数の言葉を覚えることができなかったので人工語をつくったとか、そうした、素朴で切実な欲望や倒錯によるのかもしれない。

