
中根龍一郎
@ryo_nakane
2025年4月23日

文字移植
多和田葉子
ちょっと開いた
かつて読んだ
4月23日は聖ゲオルギウスがドラゴンを退治した日で、サン・ジョルディの日とも、ドラゴンの日とも言われる。聖ゲオルクといえば『文字移植』だなと思って、すこし開いた。
カナリア諸島で、聖ゲオルクのドラゴン殺しに関する何かのテキストを翻訳しているという翻訳家の話で、彼女はゲオルクという、恋人のような支配的な人物から離れて、仕事をしている。でもゲオルクは彼女を追って遠からず島に来てしまう。ゲオルクは彼女の翻訳の仕事を嫌っている。だから、翻訳家は、ゲオルクが来る前に翻訳を終えてしまいたいのに、仕事は思うように進まない。実在するゲオルクとドラゴンを殺す聖ゲオルクが、翻訳する文章と現実が混じり合いながら小説は進む。
自分の名前に龍と入っているせいで、子供のころからドラゴンに気持ちをひかれて、ドラゴンのほうに感情移入してきた。ドラゴンが殺される話は、自分が殺される話だった。『文字移植』のなかで(聖)ゲオルクは支配的で魅力的な他者として現れる。ゲオルクは翻訳家の仕事を否定的に評価し、聖ゲオルクは剣で〈何か〉をいたぶっている。翻訳家はゲオルクに立ち向かうことはできず、ゲオルクから逃れようとするが、ゲオルクはどこまでも追いついてくる。それは聖ゲオルギウスに敗北するドラゴンを思わせる。
小説に実際にドラゴンが出てくることはない。でもそういう形でドラゴンのようなものに自分をかさねることがある。
その〈何か〉は赤茶けた色をして猫のように小さかった。汚水をはね上がらせながらそれは抵抗しているのか逃げようとしているのか敷物の切れ端のように形も定まらずあるいは生き物ではないのかもしれなかった。聖ゲオルクは退屈そうにいい加減に剣を動かしていたかと思うと急に歯を剥き出して夢中でつついたりした。
(『文字移植』p.136)
多和田葉子のこの短い小説が好きで、ときどき読み返している。翻訳家の小説であり、翻訳をうまくできないことの小説でもある。実際にあるひとつのテキストに沿った翻訳が、物語と並走しながら、しかし、その翻訳は意味をなさない。その意味をなさない翻訳に、一人称視点の翻訳家は、とても真剣に向き合っている。そして真剣に向き合っているにもかかわらず、翻訳は失敗してしまう。その翻訳は単語の意味がとれているのに、文法の統御を失っている。「において、約、九割、犠牲者の、ほとんど、いつも、地面に、横たわる者、としての、必死で持ち上げる、」……ほとんど意味をなさない翻訳に、しかし、翻訳家は単語単位で訳語の検討をしたりする。もう翻訳かどうかもわからない、そのような原稿に向き合う試みが、翻訳家にとって誠実さや真剣さを求められることだからだ。
わたしなどはひとつの単語を読んだだけでもう息が苦しくなってきて苦しいと思いながらいろいろ考えていると次の単語にはなかなかたどり着けなかった。それでも少なくともわたしはひとつひとつの単語の馴染みにくい手触りには忠実なのだと思うとそのことの方が今は大切かもしれないという気はしてきた。
(『文字移植』p.29-30)
自分のものではない言葉、自分のものではない文字に向き合い、文字の馴染みにくい手触りに向き合うこの感覚は、校正にも親しい。校正はどこかでゲラに没入するが、どこかでゲラから離れる自分を持ってもいる。
ゲラに対して他者であると、ゲラに書いてあることがわからない。ゲラと同化しすぎると、ゲラに書いてあることのわからなさがわからない。言葉が通じる世界と通じない世界を行き来するのが校正の仕事だと私は思っていて、そのオペレーションのさなかで、見知っているはずの言葉はときどきとても遠ざかる。
エイさんは読者の身になって何度も読み返すようにと忠告してくれたけれどわたしは読者の身になどなれそうにない。わたしは他人の身になんかなれない。もちろんだからと言ってわたしは自分の中に閉じこもって何も受け止めていないわけではなくて少なくとも作者から何かを受け止めているという実感があった。それに受け止めたものを投げ返していないわけでもなかった。ただどこへ向かって何を投げているのかがよく分からないだけだった。
(『文字移植』p.76)
電気をつけるわけにもいかず声も出せずおまけに自分のしていることがよく分からなくなりながらわたしは作業を続けていた。言葉はどれも穴になっていった。でもわたしは無感覚になっているわけではなかった。無気力になってしまったわけでもなかった。それどころかわたしは穴を見つける度にわざわざ手を差し入れてみるほど好奇心に満ちていた。
(『文字移植』p.91-92)
アラビア文学の文人アル=ジャーヒズは『動物の書』のなかで、人間の能力の特徴を、「より少なく為す」ことができること、つまり、歌を歌うとき、簡単にも、下手にも歌えること、人間の行動の本質は、そのような「減少の可能性」にあると書いたそうだ。つまり人間は、読むことに成功することもできれば、失敗することもできる。成し遂げることができるとき、より少なく成し遂げることができる。ある行為を失敗で包み、失敗によって試みることができる。そしてその失敗は、ことによると、成功よりも大きなものに触れようとしていることがある。『文字移植』の、読者やゲオルクによって嫌われる「下手な翻訳」の試み、遠ざけられようとする「より少ない成功」の試みには、追い立てられ、遠ざけられ、殺されようとしながら、しかし実はそうした成功裏の世界にはとうに消えてしまったドラゴンの影が、わずかに見え隠れしている。


