
読書記録
@records
2025年5月1日

人生の意味の哲学入門
森岡正博,
蔵田伸雄
読んでる
まだ読んでる
第八章「生の意味について語るときに私たちが語ること」というタイトルがつけられた章。
筆者(久木田水生)は、近年の分析哲学者たちの多くが、生の意味についての問題を、特定の基準に照らすことで真偽が確定できるものとして考えていることを、批判している。
「1900年は閏年ではない」「水分子は二つの水素原子と一つの酸素原子からなる」などといった言明と、「ゴッホは意味のある生を生きた」といった言明を同種のものとして扱っている(意味のある生と意味のない生を特定の一般的基準によって分類することができるものだと前提している)
真理条件に焦点を当てて真偽を判定するというアプローチ方法は、数学や科学においては適切だが、それ以外の領域ではその方法を採用するのが適切だと判断するのは軽率である。
↓
「語用論」的なアプローチ方法で考えた方がよいのではないか?というのが筆者の提案(言明の意味を使用の文脈から切り離さずに、具体的で状況依存的な側面から考える)
ここから筆者は生の意味の言明ついて、二人称、一人称的な語りに限定して考えている(没交渉の第三者にいつて「◯◯の生は意味がある/ない」という語りが不自然で、実際にはあまりないため)
・二人称的な言明は、多くの場合、相手が自分の義務を怠っていること、周囲の要求に応えていないことに対する話者の感情的な反応の現れである、という可能性を筆者は提案している。
・一人称的な言明は、「自分の生には意味があるのだろうか」「自分が生きている意味がわからない」という実存的な問いである。
この場合、それを発した人の生にまつわる深刻な苦しみの表出である。(他者に向けられて発せられた時は救いを求める嘆願の可能性もある)
↓
この問いに対して、これが正しい答えだというものは決められない、というのが筆者の主張。
この章は筆者の考えに頷けるところも多く、とても面白かった。
生の意味って哲学の中のジャンルでいうと倫理学で扱う問題というイメージがあったんだけど、言語哲学からのアプローチもありよりのありなのだなということがわかった。

