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@records
濫読派。いつか通読したいと思っている読みかけの本がたくさんある。 好きな小説家は松浦理英子、津村記久子。 大学時代の専攻は哲学で、人文系の本も好き。
  • 2025年5月25日
    きみはメタルギアソリッド5:ファントムペインをプレイする
    タイトルと装丁がかっこいい
  • 2025年5月25日
    ヒカリ文集
    ヒカリ文集
    単行本も持ってるけど、解説が追加されてるし文庫も買っとくか精神。 解説は瀧井朝世さんが書いている。 そのうちちゃんと再読したい。
  • 2025年5月20日
    人生の意味の哲学入門
    人生の意味の哲学入門
    第十章と一一章を読んだ。 第十章は「人生の意味の哲学へ入門することは可能か?」というテーマ。 例として、独我論について悩む人が挙げられる。 独我論について考える時、自分が見ているこの世界は自分の心に現れた心象である、ということが問題になる。この場合、他者の存在も否定される(見えている他者も自分の心で作り出されたものであり、自分以外は存在しない、という考えが否定できない)。 ↓ 自分でこの問題に陥って、向き合うしか真に理解することはできない。 人生の意味についてもこれと同様の構造があり(私にとっての世界全体の無意味さに直面することで理解できる)、他者から教えられるのでは、人生の意味の問題の最奥部は得心できない、と筆者(山口尚)は述べる。 第一一章「人生にイエスと言うのは誰なのか?」 人生の意味の哲学では、主観説、客観説(とその中間のハイブリッド説)が論じられているが、筆者(森岡正博)は「独在説(独在的な意味の層)」を導入するのがよい、と述べる。 それは、「宇宙の中でひとつだけ特殊な形で存在するこの人生」に、どのような意味があるのかを自分自身が問う時に現れてくる層であるという。 ここから、人生の意味への肯定型アプローチとして、ヴィクトール・フランクル(『夜と霧』の人)とニーチェが紹介されている。 どのような人生であれ、その人生を肯定する、ニーチェやフランクルの考え方を「人生の肯定」として、 それと少し異なるものとして、筆者は「誕生の肯定」というものを提唱する。 たとえそれがどのような人生であれ、誕生してきたことにイエスという(生まれてきたという側面、無からの生成が強調されている)。 そして、「誕生肯定」には、二つの側面があるという。 ①現実の人生より素晴らしい人生を想像できたとしても、自分はそのような人生のほうへ生まれたかったとは望んだりしないという態度。 ②もし仮に生まれてこないほうが良かったと思えてならないとしても、既に自分は生まれてきてしまっているのだから、生まれてこないほうが良かったという思いを解体していきたいとするような態度。 少しずつ読んでいて、やっと読了。 人生の意味について、学問的な問題として捉えた時にどのように論じられるのか、ということと、最後の方は自分にとっての問題としてどう考えるのかどのような態度を取るのか、という両方から書かれていてとても面白かった。
  • 2025年5月18日
    愛じゃないならこれは何
    軽率にタイトル買いしたけど、ちゃんと面白かった。 好きすぎになりすぎて、もはや好きなのか執着してるだけなのかわからない、でも諦めきれなくて、自分が自分じゃなくなってきた末期みたいな短編集だった。 物語の中で恋愛と友情の差についてときどき疑義が呈される。 「それにしても、どうして『幸せそう』という形容は恋人同士の関係にしか使われないのだろう?」p.35 「それ、友情が恋愛より下って言われてるみたいで嫌なんだけど」p.173 また、三人で成り立っている友達関係の中で、恋愛感情を抱いてしまったというシチュエーションの短編もある。 恋愛と友情って、優劣をつけられるものではないのだろうけど、 恋愛は相手を独占したくなって(※そうじゃない恋愛観の人もいるが)、「恋人」とか「付き合っている」とかその関係を約束したり言葉にしたりして成立させている分、特別な関係って感じがする。 友達の場合は、わざわざ自分たちは友達とか明言するものでもないし、友達は何人いてもいい(というか、世間では友達の人数が多いことが良しとされる風潮すらある)から、そのへんが優劣がつけられてしまう原因なのかな。 もちろん将来的に配偶者になりうるかどうかの違いもあると思う。 でも私自身はどうなのかというと、好きな人に対しての好きという感情の濃淡とか熱量とか、人として好きなだけなのか、そこに恋愛感情が入り混じっているかどうかの違い、とかがあるだけで、自分の中でどういう好きかキッパリと区別できてない時もたまにあるんだよなあ……と思ったりします。
  • 2025年5月17日
    人生の意味の哲学入門
    人生の意味の哲学入門
    第九章を読んだ。前期ウィトゲンシュタインにおける「幸福な生」が取り上げられている章で、ウィトゲンシュタインのいう「永遠の相の下に」世界を眺める見方が詳しく説明されている。 私はこれを読んでいてニーチェの「運命愛」とか、『悲劇の誕生』に出てくる「生存と世界は美的現象としてのみ是認される」というテーゼを思い出したりしたんやけど、 ウィトゲンシュタインとニーチェって哲学的な手法は全く異なるけど、導き出される結論を見ると近いところに着地している(?)ような印象を受ける。
  • 2025年5月8日
    恋できみが死なない理由
    だいぶ前に買って積んでた最果タヒのエッセイ集。東京にライブ遠征するため、旅のお供に持ってきて、新幹線の中で読んだ。 「好き」っていう気持ち(他人に対する「好き」だけじゃなくて、作品やアーティストに対する「好き」も)に言及しているところや、人生は物語ではないということが書かれているエッセイが特に好きな内容だった。 「一生じゃない好き」 「私をきみの黒歴史にして。」 「大人になる」 「主人公になれない人生」
  • 2025年5月5日
    公式トリビュートブック『チ。 -地球の運動についてー』第Q集
    公式トリビュートブック『チ。 -地球の運動についてー』第Q集
    トリビュート本、今更ながら気になって買ってしまった
  • 2025年5月1日
    人生の意味の哲学入門
    人生の意味の哲学入門
    第八章「生の意味について語るときに私たちが語ること」というタイトルがつけられた章。 筆者(久木田水生)は、近年の分析哲学者たちの多くが、生の意味についての問題を、特定の基準に照らすことで真偽が確定できるものとして考えていることを、批判している。 「1900年は閏年ではない」「水分子は二つの水素原子と一つの酸素原子からなる」などといった言明と、「ゴッホは意味のある生を生きた」といった言明を同種のものとして扱っている(意味のある生と意味のない生を特定の一般的基準によって分類することができるものだと前提している) 真理条件に焦点を当てて真偽を判定するというアプローチ方法は、数学や科学においては適切だが、それ以外の領域ではその方法を採用するのが適切だと判断するのは軽率である。 ↓ 「語用論」的なアプローチ方法で考えた方がよいのではないか?というのが筆者の提案(言明の意味を使用の文脈から切り離さずに、具体的で状況依存的な側面から考える) ここから筆者は生の意味の言明ついて、二人称、一人称的な語りに限定して考えている(没交渉の第三者にいつて「◯◯の生は意味がある/ない」という語りが不自然で、実際にはあまりないため) ・二人称的な言明は、多くの場合、相手が自分の義務を怠っていること、周囲の要求に応えていないことに対する話者の感情的な反応の現れである、という可能性を筆者は提案している。 ・一人称的な言明は、「自分の生には意味があるのだろうか」「自分が生きている意味がわからない」という実存的な問いである。 この場合、それを発した人の生にまつわる深刻な苦しみの表出である。(他者に向けられて発せられた時は救いを求める嘆願の可能性もある) ↓ この問いに対して、これが正しい答えだというものは決められない、というのが筆者の主張。 この章は筆者の考えに頷けるところも多く、とても面白かった。 生の意味って哲学の中のジャンルでいうと倫理学で扱う問題というイメージがあったんだけど、言語哲学からのアプローチもありよりのありなのだなということがわかった。
  • 2025年4月29日
    令和元年のテロリズム
    第2章の元農林水産省事務次官長男殺害事件のところを読んだ。 家庭内で暴力をふるっていた息子を父親が殺した事件。(息子の暴力は中学2年生頃から始まり、大学進学を機に一旦家を出て、その後母親が所有する住宅で離れて暮らしていたが、事件の一週間ほど前に実家に戻ってきていた) その背景には川崎殺傷事件があったという導入から、父親と息子の情報を著者が丹念に調べている。 「息子も他人に危害を加えるかもしれない。周囲に迷惑をかけたくなかった」p.70 「英昭に同情や共感、尊敬の声が寄せられるのに対して、英一郎は被害者であるにも拘らず批判や揶揄の対象となっている」p.84(英昭=父親、英一郎=息子) 息子はゲームにのめり込んでいるツイ廃だったらしく、ネット上に残る痕跡や交流があった人物の証言から心情や人柄が垣間見える。 また、父親がTwitterや mixiに登録して息子とコミュニケーションをとっていたことや、息子が出展するコミケに来ていたこともあるらしく、父親の息子に関わろうとする努力も見えて、事件に発展してしまったことがとても悲しいと思った。 彼がやるべきだったのは、外部へ助けを求めることだと著者が書いていて、殺人を安易に仕方のなかったことだと肯定していない姿勢がよい。
  • 2025年4月28日
    令和元年のテロリズム
    著者は音楽ライターらしい(知らなかったけど、文章上手いから読みやすい)。 改元の年に起こった凶悪犯罪を検証するということで、いくつかの事件が取り上げられている。 第1章の川崎殺傷事件のところを読んだ。 犯人は長期間引きこもりで、同居していた伯父夫婦とも関わりが希薄で、パソコンや携帯電話も持っていなかったそう。 ネット環境すらないのは、さすがに気が狂いそうだなと感じる。 「もうひとつ、川崎殺傷事件を語る際のキーワードとなったのが「一人で死ね」だ。テレビでは著名人から隆一に対して「死にたいなら一人で死んでくれよ」「自分一人で自分の命を絶てばすむこと」「死ぬのなら自分一人で死ねってことはしっかり教育すべき」「人間が生まれてくる中で不良品って何万個に1個、これはしょうがない。こういう人たちはいますから絶対数。もうその人たち同士でやりあってほしい」といった発言が相次ぐ。」p.59
  • 2025年4月26日
    文学界 2025年 5月号
  • 2025年4月25日
    人生の意味の哲学入門
    人生の意味の哲学入門
    第七章は「人生の意味と自己実現」というテーマ。個人的に面白かった部分をかいつまんで。 哲学・倫理学の歴史に登場する自己実現の理念は「自分の本性に応じて生きること」「自分自身(の本来の姿)になること」を指す。 そこからアリストテレス的な「完成主義」が紹介されている。 人間に固有の働きは理性を伴った魂の活動 ↓ それを十分に発揮することが徳である ↓ 人間にとって善いことは「徳を備えた魂の活動」 というふうに、自分の本性に応じて生きることを考える上で、「人間」としての自分に着目する。 非エリート主義的な完成主義の可能性 ・ロールズ リベラリズムの立場からすれば、善い生き方についての共通の合意は存在しない。 ある生き方が別の生き方よりも卓越(完成)しているという、特定の生き方を特権化するような理論は斥けられる。 ・スタンリー・カヴェル(エマソン的完成主義) エマソンの「自己信頼」という概念を基幹として、考えられた完成主義。 「自己信頼」とは、「自己のひとつひとつの状態が完結している」と信じつつ、いまだ到達していないが到達可能である別の自己へと変化していくことを自ら認めることを指す。 反対に、自己を信頼していない者は「迎合」という状態であるとされる。 他には、達成の価値(なんらかの目的を達成する過程それ自体に価値があるという議論)や、チャールズ・テイラーの議論も出てきたけど、そのあたりは特段興味惹かれず。 私はエマソンに興味が湧いて、Amazonでポチった。 自己実現や達成ってすごく重要な問題ではあるし、それが生き甲斐や生きる意味にもなりうるんだけど、それを至上の価値のように考えると、じゃあ、それができなければその生は失敗である劣っている、という自己否定的な結論が導かれてしまう恐れもあるから、自分の中でどのように位置付けるかが難しいと思う。
  • 2025年4月17日
    人生の意味の哲学入門
    人生の意味の哲学入門
    第六章を読んだ。ベネターの反出生主義の内容と、反出生主義への反論が書かれている章。 ・非対称性論証 不幸なことが起こるのは悪い、不幸なことが起こらないのは良い。 幸せなことが起こるのは良い、幸せが生じないのは悪いわけではない(ニュートラル) ※ここに非対称性がある ↓ 生まれること(何かしらの不幸が含まれる)は、生まれないこと(幸せも不幸も生じない)に劣る。 これが多分、一番有名なものかな。 全部で7つの論証が説明されているが、個人的にあまり面白くはなかったので全部はここにまとめない。 ・同意論証 同意の不在(生まれてくる子供に同意を得ていない) ↓ 「たとえ利益を与えるためでも、同意のない他者に対して、小さくない加害を行うことは許されない」という道徳原則を適用 ↓ 生殖はこの原則に反する 親が子供を産むことによって利益を与えるつもりでも、子供は同意していない(勝手に産んでいる)。それにより生じる加害(生まれることによって生じる不幸)を正当化することはできない。 この問題は文学でも扱われていて、胎児に生まれたいか問う、という設定の小説もある(芥川龍之介「河童」、李琴峰「生を祝う」) 「産んでくれなんて頼んでない」というのは、親子喧嘩で子供がいかにも口にしそうな台詞で、私自身も子供時代にそういう発想になったことはあった。 確かに、親が勝手に産んだせいで、理不尽な世界で生きることを強いられているのだけど、そんなことにも折り合いがついてきて、30代になった私は生まれてきたことを嫌だと思わなくなってきている。
  • 2025年4月14日
    メメントラブドール
    メメントラブドール
    皮肉でコーティングされたような文章ばかりだと思いながら読んでいた。 辛辣な視線は周囲に対してだけでなく、時には自分自身にも向けられる。 起こってしまった出来事が身から出た錆だとわかっていても、落ち込んだり、目を逸らしたり、悪態をついてでもいないとやっていられないような気持ちになるのがすごくわかるなと、共感してしまった。読みはじめる前に予想していたよりも、好きな小説だった。 「いつだって自分を含めた誰かを無鉄砲に煽って生きている。そうしないと立っていられない場所にいるのだから仕方ない、という開き直りはどれくらいの正当性をもって響くのだろう。」p.99
  • 2025年4月14日
    眼球譚[初稿]
    眼球譚[初稿]
    過激な描写は官能的というより、グロテスクさの方が目立つ。 薄くて一気読みできそうなページ数だけど、読み進めるのに疲れて、途中で中断した。 ここは興味深い一節。 「次第に自殺の誘惑にとらわれだした。ピストルを手にしていると、希望とか絶望とかいった言葉の意味は完全に失せ去るのだった。がそれにしたところでいつしか疲れきって、ともかく自分の人生になんらかの意味を授けねばならないという反省に到達するのだった。望ましいものと決めたいくつかの事柄が自分に訪れる範囲で、はじめて人生は意味を持つことになるのだ。」p.33
  • 2025年4月14日
    人生の意味の哲学入門
    人生の意味の哲学入門
    第五章は人生の意味と幸福。 「不幸だけど意味のある人生」や「幸福だけど意味のない人生」もありうるのではないか、という切り口から始まって、二つの概念の区別や関係について考える。 最近の分析哲学では、「人生の意味」と「幸福」の概念は区別されるという共通認識があるらしく、サディアス・メッツによる「人生の意味」と「幸福」の共通点、相違点が紹介されている。 しかし、メッツが用いる「幸福」の概念は快楽説が前提となっているという指摘を筆者がしていて(そうでない考え方もある)、 幸福についての考え方として①快楽説②欲求充足説③客観的リスト説が挙げられている。 この本は十一章で構成されていて、これで半分弱まで読んだところ(章によって、テーマと執筆者が違う) 前半の中では、第三章のカヘインの議論が一番面白かった。
  • 2025年4月13日
    人生の意味の哲学入門
    人生の意味の哲学入門
    第四章は、人生の意味の客観説と主観説について。 客観説では、客観的に認められている価値(真・善・美)を生み出している生が意味のある生だとされる。 客観説への主な批判は、客観的な価値に貢献していても自分の人生に意味を見出せない人はどうなのか、というもの。 また、自分が死ぬと価値を認識する主体は存在しなくなるし、偉業を成し遂げようがいつかは忘れられ、人類もいつかは滅びる(無意味である) 主観説では、人生の意味は主観に依存している。当人の欲求の満足、喜び、利害関心などに意味が見出される。 主観説への主な批判は、当人が満足するならどんな満足でもいいのか、というもの。 例えば薬物での満足や、非生産的な行為(を当人だけが満足してやっている人生)などが挙げられる。 これらに加えてハイブリッド説があり、主観的魅力と客観的魅力が合致するときに意味が生じるという考え方(スーザン・ウルフ) この章の筆者は主観説と客観説の要素を両方取り入れているハイブリッド説に説得力があるというふうに紹介しているのだけど、私はイマイチ納得しきれなかった。
  • 2025年4月12日
    人生の意味の哲学入門
    人生の意味の哲学入門
    第三章、とても興味深く読んだ。 「広大な宇宙の中でちっぽけな人生に何の意味があるのか」というテーマで、 ベネター(反出生主義で知られる人)と、ガイ・カヘインが取り上げられている。 ベネターによる意味のある人生 「自分の範囲を超えて他者に重要な影響を与える、あるいは自分を超えた重要な目的を果たす」こと。 さらにそれを「宇宙的な意味」(宇宙全体にとって)、「地上的な意味」(地球上の範囲に限定して)という観点で評価する。 「地上的な意味」も、さらに3つの観点に分類して評価される。 「個人的な意味(身近な人々との個人的な関係)」「集団的な意味(国やコミュニティなど大きな集団)」「人類的な意味(人類全体)」 ※どのような人の人生も、宇宙的な意味を持つことは決してない、とベネターは考える。 このようにベネターは人生の重要さを、客観的な立場から成果の大きさに基づいて評価する。 これに対して、ガイ・カヘインの議論が紹介されている。 カヘインは価値があることと、重要であることを区別する。 重要さの評価には、ある観点のもとで、他と比較して「注目に値するか」どうかという側面が関わっている(それ単体では価値があるものでも、注目に値しないため重要でないと評価される) このことから、多くの人々は、広大な宇宙全体という観点で、ちっぽけな自分(の人生)は「注目に値しない」から重要でない、と考えてしまう。 しかし、カヘインは私たちが特別な価値を持っていると指摘する。 私たち人間(あるいは他の生物)は、思考能力や感覚能力をもち、そのことによってさまざまな価値あること(喜びを感じる、他者を愛する、道徳的な行為など)を実現することができる。 それに加え、宇宙には私たちと同じような知的生命体が見つかっていないことに注目し、その「希少」さが私たちに特別な重要さを与えると論じる。 ※カヘインが示す私たちの重要さは、地球上の人類(ないし生物)に共通するものであって、個人に固有の人生の重要さを示すものではない。 個人的には、カヘインの議論の方が魅力的に感じる。 でもそれは論として正しいかどうかというよりは、自分が生きているから、結論ありきで、生を肯定したり擁護したりする思想の方が魅力的に感じているだけなのか?と思わなくもない。
  • 2025年4月11日
    人生の意味の哲学入門
    人生の意味の哲学入門
    第二章を読んだ。 人生全体の存在意義の問題と、人生を有意味にする構成要素は何なのかという問題の区別。 また、人生の意味は主観的に決まるのか、客観的に決まるのか、(その両方のハイブリッド説もある)という問題。 主観説に対する反論として、ヒトラーや麻原(サリン事件)の人生を例に挙げて、彼らの人生は有意味だったと肯定できるのか、という問いが投げかけられている。もしそれに躊躇するなら、その人は「人生の意味には客観的に決まる部分がある」と思っているからなのだろう、と筆者は述べる。 これ、私は主観説かなあ。客観的に見て悪を為している社会的に無価値な人間だとしても、その人間から見て人生に意味があると言える瞬間が少しでもあったのなら、その人生を無意味だと否定することはできないように思う。
  • 2025年4月5日
    人生の意味の哲学入門
    人生の意味の哲学入門
    ずいぶん前に買って積んでた本を読み進めた。第一章の面白かった部分。 意味のある(ない)人生の典型例を考えることを手掛かりにして、「人生の意味は何か」という問いに迫る。 ①ギリシャ神話のシーシュポス(神々を騙した罰として、岩山で巨大な岩を山頂まで運ぶことを課せられているが、シーシュポスが山頂まで岩を運び終わる前に岩は転がり落ち、やり直さなければならない。苦役がひたすら続く) シーシュポスの生を意味のない人生の典型例とした上で、そこに何が付け加われば意味のある人生になるのかを考える(リチャード・テイラー)  ②偉人の生を意味のある人生の典型例として、意味のない人生の典型例(自堕落、自律性を失っている)と比較する。そこからどのような条件を満たせば意味のある人生になるのかと考える(スーザン・ウルフ、サディアス・メッツ)
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