Reads
Reads - 読書のSNS&記録アプリ
詳しく見る
読書記録
読書記録
読書記録
@records
濫読派。いつか通読したいと思っている読みかけの本がたくさんある。 好きな小説家は松浦理英子、津村記久子。 大学時代の専攻は哲学で、人文系の本も好き。
  • 2025年6月22日
  • 2025年6月14日
    ヒカリ文集
    ヒカリ文集
    「小滝朝奈」の章を読んだ。 経験人数が多く奔放に見えるタイプの朝奈がヒカリに恋をするまでは性欲を自覚していなかったことや、 中学以降同性とまともに接しておらず、誰とも同じような当たり障りのない話しかしていなかったことを、「影と影が喋っているようなものだった」p.157と書いているのが印象深い。 作中作として、劇団NTRの「壁越しの恋人」という作品が出てくる。 壁で囲まれた歓楽の街と、壁の外の堅実な街があって、壁の穴の補修の際に裂け目越しに出会った男女が恋に落ちるというストーリー。 元々、歓楽の街は伝染病のウイルスキャリアを隔離するためにつくられた地区で、街の外に出るのを禁じるかわりに娯楽を発展させたとか、そうした政策への批判があるとか、それぞれの街にはもう一方の街に憧れる人々がいるとかいう設定付き。 壁で隔てられた二つの世界があるっていう話自体は結構ありがち(?)なのかもしれないけど、松浦さんがこういう設定を考えて作中作として出してくるってことも含めて興味深いし、面白そうだから小説で読んでみたいなって思った。
  • 2025年6月5日
    GOAT Summer 2025
    GOAT Summer 2025
    市川沙央「悪のロール」 ごきげんよう、ごきげんよう、でこれはもう「マリみて」のような世界やないか!と思いながら読み進めた。 中高一貫の名門女子校に、高等部から入学した主人公は、「〈悪のロール〉は禁止」という、各々が自分で何らかのロール(役柄)を決めて演じるというこの学校独自のゲームがあることを知る……。 ユーモア溢れてて面白く読めたのだけど、「悪」の小説にしてはかなり軽い内容だなと思った。 私は市川さんの『ハンチバック』は結構好きなんだけど、比べると作風が全然違うというか。純文学も書けるしライトめなのも書ける人なのか。
  • 2025年6月4日
    GOAT Summer 2025
    GOAT Summer 2025
    ぱらぱらページをめくってて気になった、 木爾チレン「あの子にしか行けない天国」を最初に読んだ。 医療技術の発達によって、新しい生き方と従来の生き方を選択できるようになった世界の物語。 若さの価値って何?寿命の価値って何?って考えてしまう内容だった。 特集「悪」だから、不穏そうな小説がいっぱい載っていて良い。分厚さに反して510円と安いのも良い(こんなに安くて大丈夫だろうか?と心配になるが) 他の作品も読んだら感想書く。
  • 2025年6月4日
    平等について、いま話したいこと
    平等について、いま話したいこと
  • 2025年6月4日
  • 2025年5月31日
    ヒカリ文集
    ヒカリ文集
    「鷹野 裕」「飛方雪実」の章(というか手記)を読んだ。 明るくて人から好かれ、もてなし上手であるヒカリの陰のある一面がいくつかのエピソードとして出てくる。 ・親との関係がよくなかったらしいこと ・好きな戯曲はテネシー・ウィリアムズ『ガラスの動物園』 ・ヒカリが自分で考えてやる即興劇は陰性なものが多かった この小説を初めて読んだ時は、あまり丁寧な読み方をせずに1日か2日で読み切ってしまって、雪実の章が一番好きだな、というのが印象として残っていたんだけど、 今回改めて雪実の章を読んでみて好ましいと思ったのは、率直に心情を吐露しているような文章。 「どちらかと言えば傷があってほしい。傷のある人の方が傷のない人よりも他人を必要としていて濃密な関係が結べるから──と、まだ人間を大して知らなかった二十歳の私は単純に考えていた。」p.130 「ヒカリが『わたし、NTR辞めた方がいいのかな?』と呟いた時『そんな必要ないよ』と即答したのは、ヒカリと会えなくなるのがつらいというような気持ちからではなく、恰好をつけたのだった。自分をフェアで強い人間と見せかけたかった。」p.137 あと、雪実とヒカリが一緒に献血に行くエピソードで、「稀血(まれけつ)だったらいいな」と呟くヒカリの描写がかわいい。
  • 2025年5月29日
    ヒカリ文集
    ヒカリ文集
    精読してみようと思って、ちびちび読んでいる。 「序に代えて 鷹野裕」と「破月悠高」(悠高の遺作とされる戯曲)のところを読んだ。 以下、気になった点 悠高の戯曲について ・悠高と久代の自宅に元劇団員を招いたことがあり、その時のことを元にして書かれている ・元劇団員たちをモデルにした人物が出てきて実際に喋った台詞も取り入れられている ・実在しない人物が登場する この中で、実在しない人物=酒井順平(遠戚の大学生)だと推測すると、 実際には、みんなで集まって思い出話をしただけだった(ヒカリは来なかった) 悠高はヒカリがテーマの戯曲を書こうとして、酒井順平という劇団とは無関係の人物を登場させて、即興芝居をやるというストーリーを作ったってことかな?(順平にヒカリがどんな人物だったかを伝えるために、一人ずつ即興芝居をやるという会話の流れがある) ・戯曲の中で、即興芝居の順番があみだくじで決められた際に「朝奈→優也→雪実→裕→久代→悠高」となっているのだけど、 その後、戯曲に着想を得てみんなで書いたヒカリ文集の順番は最初に悠高の戯曲があり、その後「裕→雪実→朝奈→久代→優也」と続く。 これは悠高の戯曲で書かれている順番とは異なる。 戯曲に忠実に朝奈からにしてもいいし、ヒカリと付き合った順番は雪実が一番最初だから時系列順にして雪実から始まってもいいわけで、意図的に順番が変えられてるなあと思った。 序や結びも裕が書いているし、裕がヒカリ文集を企画した主導者であるからトップバッターとか、理由付けはできるけど。
  • 2025年5月25日
    きみはメタルギアソリッド5:ファントムペインをプレイする
    タイトルと装丁がかっこいい
  • 2025年5月25日
    ヒカリ文集
    ヒカリ文集
    単行本も持ってるけど、解説が追加されてるし文庫も買っとくか精神。 解説は瀧井朝世さんが書いている。 そのうちちゃんと再読したい。
  • 2025年5月20日
    人生の意味の哲学入門
    人生の意味の哲学入門
    第十章と一一章を読んだ。 第十章は「人生の意味の哲学へ入門することは可能か?」というテーマ。 例として、独我論について悩む人が挙げられる。 独我論について考える時、自分が見ているこの世界は自分の心に現れた心象である、ということが問題になる。この場合、他者の存在も否定される(見えている他者も自分の心で作り出されたものであり、自分以外は存在しない、という考えが否定できない)。 ↓ 自分でこの問題に陥って、向き合うしか真に理解することはできない。 人生の意味についてもこれと同様の構造があり(私にとっての世界全体の無意味さに直面することで理解できる)、他者から教えられるのでは、人生の意味の問題の最奥部は得心できない、と筆者(山口尚)は述べる。 第一一章「人生にイエスと言うのは誰なのか?」 人生の意味の哲学では、主観説、客観説(とその中間のハイブリッド説)が論じられているが、筆者(森岡正博)は「独在説(独在的な意味の層)」を導入するのがよい、と述べる。 それは、「宇宙の中でひとつだけ特殊な形で存在するこの人生」に、どのような意味があるのかを自分自身が問う時に現れてくる層であるという。 ここから、人生の意味への肯定型アプローチとして、ヴィクトール・フランクル(『夜と霧』の人)とニーチェが紹介されている。 どのような人生であれ、その人生を肯定する、ニーチェやフランクルの考え方を「人生の肯定」として、 それと少し異なるものとして、筆者は「誕生の肯定」というものを提唱する。 たとえそれがどのような人生であれ、誕生してきたことにイエスという(生まれてきたという側面、無からの生成が強調されている)。 そして、「誕生肯定」には、二つの側面があるという。 ①現実の人生より素晴らしい人生を想像できたとしても、自分はそのような人生のほうへ生まれたかったとは望んだりしないという態度。 ②もし仮に生まれてこないほうが良かったと思えてならないとしても、既に自分は生まれてきてしまっているのだから、生まれてこないほうが良かったという思いを解体していきたいとするような態度。 少しずつ読んでいて、やっと読了。 人生の意味について、学問的な問題として捉えた時にどのように論じられるのか、ということと、最後の方は自分にとっての問題としてどう考えるのかどのような態度を取るのか、という両方から書かれていてとても面白かった。
  • 2025年5月18日
    愛じゃないならこれは何
    軽率にタイトル買いしたけど、ちゃんと面白かった。 好きすぎになりすぎて、もはや好きなのか執着してるだけなのかわからない、でも諦めきれなくて、自分が自分じゃなくなってきた末期みたいな短編集だった。 物語の中で恋愛と友情の差についてときどき疑義が呈される。 「それにしても、どうして『幸せそう』という形容は恋人同士の関係にしか使われないのだろう?」p.35 「それ、友情が恋愛より下って言われてるみたいで嫌なんだけど」p.173 また、三人で成り立っている友達関係の中で、恋愛感情を抱いてしまったというシチュエーションの短編もある。 恋愛と友情って、優劣をつけられるものではないのだろうけど、 恋愛は相手を独占したくなって(※そうじゃない恋愛観の人もいるが)、「恋人」とか「付き合っている」とかその関係を約束したり言葉にしたりして成立させている分、特別な関係って感じがする。 友達の場合は、わざわざ自分たちは友達とか明言するものでもないし、友達は何人いてもいい(というか、世間では友達の人数が多いことが良しとされる風潮すらある)から、そのへんが優劣がつけられてしまう原因なのかな。 もちろん将来的に配偶者になりうるかどうかの違いもあると思う。 でも私自身はどうなのかというと、好きな人に対しての好きという感情の濃淡とか熱量とか、人として好きなだけなのか、そこに恋愛感情が入り混じっているかどうかの違い、とかがあるだけで、自分の中でどういう好きかキッパリと区別できてない時もたまにあるんだよなあ……と思ったりします。
  • 2025年5月17日
    人生の意味の哲学入門
    人生の意味の哲学入門
    第九章を読んだ。前期ウィトゲンシュタインにおける「幸福な生」が取り上げられている章で、ウィトゲンシュタインのいう「永遠の相の下に」世界を眺める見方が詳しく説明されている。 私はこれを読んでいてニーチェの「運命愛」とか、『悲劇の誕生』に出てくる「生存と世界は美的現象としてのみ是認される」というテーゼを思い出したりしたんやけど、 ウィトゲンシュタインとニーチェって哲学的な手法は全く異なるけど、導き出される結論を見ると近いところに着地している(?)ような印象を受ける。
  • 2025年5月8日
    恋できみが死なない理由
    だいぶ前に買って積んでた最果タヒのエッセイ集。東京にライブ遠征するため、旅のお供に持ってきて、新幹線の中で読んだ。 「好き」っていう気持ち(他人に対する「好き」だけじゃなくて、作品やアーティストに対する「好き」も)に言及しているところや、人生は物語ではないということが書かれているエッセイが特に好きな内容だった。 「一生じゃない好き」 「私をきみの黒歴史にして。」 「大人になる」 「主人公になれない人生」
  • 2025年5月5日
    公式トリビュートブック『チ。 -地球の運動についてー』第Q集
    公式トリビュートブック『チ。 -地球の運動についてー』第Q集
    トリビュート本、今更ながら気になって買ってしまった
  • 2025年5月1日
    人生の意味の哲学入門
    人生の意味の哲学入門
    第八章「生の意味について語るときに私たちが語ること」というタイトルがつけられた章。 筆者(久木田水生)は、近年の分析哲学者たちの多くが、生の意味についての問題を、特定の基準に照らすことで真偽が確定できるものとして考えていることを、批判している。 「1900年は閏年ではない」「水分子は二つの水素原子と一つの酸素原子からなる」などといった言明と、「ゴッホは意味のある生を生きた」といった言明を同種のものとして扱っている(意味のある生と意味のない生を特定の一般的基準によって分類することができるものだと前提している) 真理条件に焦点を当てて真偽を判定するというアプローチ方法は、数学や科学においては適切だが、それ以外の領域ではその方法を採用するのが適切だと判断するのは軽率である。 ↓ 「語用論」的なアプローチ方法で考えた方がよいのではないか?というのが筆者の提案(言明の意味を使用の文脈から切り離さずに、具体的で状況依存的な側面から考える) ここから筆者は生の意味の言明ついて、二人称、一人称的な語りに限定して考えている(没交渉の第三者にいつて「◯◯の生は意味がある/ない」という語りが不自然で、実際にはあまりないため) ・二人称的な言明は、多くの場合、相手が自分の義務を怠っていること、周囲の要求に応えていないことに対する話者の感情的な反応の現れである、という可能性を筆者は提案している。 ・一人称的な言明は、「自分の生には意味があるのだろうか」「自分が生きている意味がわからない」という実存的な問いである。 この場合、それを発した人の生にまつわる深刻な苦しみの表出である。(他者に向けられて発せられた時は救いを求める嘆願の可能性もある) ↓ この問いに対して、これが正しい答えだというものは決められない、というのが筆者の主張。 この章は筆者の考えに頷けるところも多く、とても面白かった。 生の意味って哲学の中のジャンルでいうと倫理学で扱う問題というイメージがあったんだけど、言語哲学からのアプローチもありよりのありなのだなということがわかった。
  • 2025年4月29日
    令和元年のテロリズム
    第2章の元農林水産省事務次官長男殺害事件のところを読んだ。 家庭内で暴力をふるっていた息子を父親が殺した事件。(息子の暴力は中学2年生頃から始まり、大学進学を機に一旦家を出て、その後母親が所有する住宅で離れて暮らしていたが、事件の一週間ほど前に実家に戻ってきていた) その背景には川崎殺傷事件があったという導入から、父親と息子の情報を著者が丹念に調べている。 「息子も他人に危害を加えるかもしれない。周囲に迷惑をかけたくなかった」p.70 「英昭に同情や共感、尊敬の声が寄せられるのに対して、英一郎は被害者であるにも拘らず批判や揶揄の対象となっている」p.84(英昭=父親、英一郎=息子) 息子はゲームにのめり込んでいるツイ廃だったらしく、ネット上に残る痕跡や交流があった人物の証言から心情や人柄が垣間見える。 また、父親がTwitterや mixiに登録して息子とコミュニケーションをとっていたことや、息子が出展するコミケに来ていたこともあるらしく、父親の息子に関わろうとする努力も見えて、事件に発展してしまったことがとても悲しいと思った。 彼がやるべきだったのは、外部へ助けを求めることだと著者が書いていて、殺人を安易に仕方のなかったことだと肯定していない姿勢がよい。
  • 2025年4月28日
    令和元年のテロリズム
    著者は音楽ライターらしい(知らなかったけど、文章上手いから読みやすい)。 改元の年に起こった凶悪犯罪を検証するということで、いくつかの事件が取り上げられている。 第1章の川崎殺傷事件のところを読んだ。 犯人は長期間引きこもりで、同居していた伯父夫婦とも関わりが希薄で、パソコンや携帯電話も持っていなかったそう。 ネット環境すらないのは、さすがに気が狂いそうだなと感じる。 「もうひとつ、川崎殺傷事件を語る際のキーワードとなったのが「一人で死ね」だ。テレビでは著名人から隆一に対して「死にたいなら一人で死んでくれよ」「自分一人で自分の命を絶てばすむこと」「死ぬのなら自分一人で死ねってことはしっかり教育すべき」「人間が生まれてくる中で不良品って何万個に1個、これはしょうがない。こういう人たちはいますから絶対数。もうその人たち同士でやりあってほしい」といった発言が相次ぐ。」p.59
  • 2025年4月26日
    文学界 2025年 5月号
  • 2025年4月25日
    人生の意味の哲学入門
    人生の意味の哲学入門
    第七章は「人生の意味と自己実現」というテーマ。個人的に面白かった部分をかいつまんで。 哲学・倫理学の歴史に登場する自己実現の理念は「自分の本性に応じて生きること」「自分自身(の本来の姿)になること」を指す。 そこからアリストテレス的な「完成主義」が紹介されている。 人間に固有の働きは理性を伴った魂の活動 ↓ それを十分に発揮することが徳である ↓ 人間にとって善いことは「徳を備えた魂の活動」 というふうに、自分の本性に応じて生きることを考える上で、「人間」としての自分に着目する。 非エリート主義的な完成主義の可能性 ・ロールズ リベラリズムの立場からすれば、善い生き方についての共通の合意は存在しない。 ある生き方が別の生き方よりも卓越(完成)しているという、特定の生き方を特権化するような理論は斥けられる。 ・スタンリー・カヴェル(エマソン的完成主義) エマソンの「自己信頼」という概念を基幹として、考えられた完成主義。 「自己信頼」とは、「自己のひとつひとつの状態が完結している」と信じつつ、いまだ到達していないが到達可能である別の自己へと変化していくことを自ら認めることを指す。 反対に、自己を信頼していない者は「迎合」という状態であるとされる。 他には、達成の価値(なんらかの目的を達成する過程それ自体に価値があるという議論)や、チャールズ・テイラーの議論も出てきたけど、そのあたりは特段興味惹かれず。 私はエマソンに興味が湧いて、Amazonでポチった。 自己実現や達成ってすごく重要な問題ではあるし、それが生き甲斐や生きる意味にもなりうるんだけど、それを至上の価値のように考えると、じゃあ、それができなければその生は失敗である劣っている、という自己否定的な結論が導かれてしまう恐れもあるから、自分の中でどのように位置付けるかが難しいと思う。
読み込み中...