
読書記録
@records
2025年5月20日

人生の意味の哲学入門
森岡正博,
蔵田伸雄
読み終わった
第十章と一一章を読んだ。
第十章は「人生の意味の哲学へ入門することは可能か?」というテーマ。
例として、独我論について悩む人が挙げられる。
独我論について考える時、自分が見ているこの世界は自分の心に現れた心象である、ということが問題になる。この場合、他者の存在も否定される(見えている他者も自分の心で作り出されたものであり、自分以外は存在しない、という考えが否定できない)。
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自分でこの問題に陥って、向き合うしか真に理解することはできない。
人生の意味についてもこれと同様の構造があり(私にとっての世界全体の無意味さに直面することで理解できる)、他者から教えられるのでは、人生の意味の問題の最奥部は得心できない、と筆者(山口尚)は述べる。
第一一章「人生にイエスと言うのは誰なのか?」
人生の意味の哲学では、主観説、客観説(とその中間のハイブリッド説)が論じられているが、筆者(森岡正博)は「独在説(独在的な意味の層)」を導入するのがよい、と述べる。
それは、「宇宙の中でひとつだけ特殊な形で存在するこの人生」に、どのような意味があるのかを自分自身が問う時に現れてくる層であるという。
ここから、人生の意味への肯定型アプローチとして、ヴィクトール・フランクル(『夜と霧』の人)とニーチェが紹介されている。
どのような人生であれ、その人生を肯定する、ニーチェやフランクルの考え方を「人生の肯定」として、
それと少し異なるものとして、筆者は「誕生の肯定」というものを提唱する。
たとえそれがどのような人生であれ、誕生してきたことにイエスという(生まれてきたという側面、無からの生成が強調されている)。
そして、「誕生肯定」には、二つの側面があるという。
①現実の人生より素晴らしい人生を想像できたとしても、自分はそのような人生のほうへ生まれたかったとは望んだりしないという態度。
②もし仮に生まれてこないほうが良かったと思えてならないとしても、既に自分は生まれてきてしまっているのだから、生まれてこないほうが良かったという思いを解体していきたいとするような態度。
少しずつ読んでいて、やっと読了。
人生の意味について、学問的な問題として捉えた時にどのように論じられるのか、ということと、最後の方は自分にとっての問題としてどう考えるのかどのような態度を取るのか、という両方から書かれていてとても面白かった。




