イナガキカズトシ
@romantist721
2025年5月25日

方法としての面接新訂
土居健郎
読んでる
序盤に夏目漱石の「彼岸過迄」の探偵属性を持った登場人物、敬太郎の説明で、傍観者に徹するだけでは本当の意味で観察者を分かることができない。本当に分かるとためには、傍観者の立場を越えなければならないと、敬太郎を反面教師として捉えなければならないとしてるところがまず面白い。分かる分からないの話。経験したことあることに関しては分かる。しかし経験したことがなくても分かると感じることがある。それはこれまでの経験したことに類似していると感じているため、経験していなくてもわかると感じることができる。しかしこの分かる、分からないはあくまでも日常的範囲での分かる分からないであって、精神面接の上では日常的意味を超えたものでなければならない。
というか分かるって思ってしまったら思考停止する。患者は問題を抱えて来てるわけであって、分かる分かる、神経症ね躁鬱病ねと診断をつけてレッテルを貼ってるだけでは問題の解消にならない。(もちろんそれも重要だけど)まず何が分からないかが分かることが重要で、分からないことを分かっていくプロセスの中で患者自身気づかなかったことに患者自身が分かることもある。
これはおそらく面接だけの問題ではなくて、演劇も文学もありとあらゆるものが「何が分からないか分かる」とこから始まっているんではないかと思うんですねえ。いま読んでる山﨑哲「俳優になる方法」に「表現とは転倒だ」って書いてて、分かるようで分からんのだが、「お前足が早くて良いよな」ってA君が言う時、A君の中に「自分は足遅くて嫌だ」という自分自身に対する違和や不満が転倒してそのセリフが出ている。それだけでなく、そう言うことで意識的にか無意識的にか自分を守っている。ってことがあるらしく、つまり表現とは転倒であるって見方で俳優はセリフを見ていかなければならないってことなんだけど、これ今なんの話なんだろう。
