
にょ
@Yxodrei
2025年6月24日

回想のシャーロック・ホームズ
アーサー・コナン・ドイル,
深町眞理子
読み終わった
感想
「最後の事件」を読了したのでざっくばらんに語る。
⚠︎︎聞きかじった生半可な知識
⚠︎︎「空屋の冒険」はまだ読んでいない。楽しみ🎶
シャーロック・ホームズの「死」を描いた『最後の事件』は、シリーズにおける明確な一区切りであると同時に、奇妙な余白を多く含んだエピソードでもある。私がこの作品を初めて読んだとき、抱いたのは一種の完了感だった。まるで長い旅路の前半戦を終えたような、そんな読後感である。
この短編が抱える特異性のひとつは、語り手であるワトスンの筆致の変化にある。前作『海軍条約事件』では生き生きとした描写が印象的だったが、『最後の事件』では彼の語りは一転して抑制され、淡々と進行する。物語としては2年の時間が経過しているが、それでも彼の筆の影には未だ癒えぬ傷跡がにじんでいる。読者に語りかけるワトスンは、かつての戦友を失ったまま、静かに、そしてある種の義務感とともにこの“最後の事件”を記録する。
その一方で、作者であるアーサー・コナン・ドイルの意図は、極めて明確だ。すなわち、シャーロック・ホームズを殺すことで、自らの創造物との決別を図ろうとしたのである。ホームズという人気キャラクターに縛られた作家は、彼を打ち破るに相応しい敵として、犯罪界のナポレオン――モリアーティを召喚する。これはもう、コナン・ドイルにとってのデウス・エクス・マキナそのものだ。突如現れる完璧な「宿敵」、しかもこの一作限りの存在。
しかしながら、モリアーティとの対決――その結末は、読者の期待を裏切る形で幕を閉じる。頭脳戦を繰り広げたふたりの最終決戦が「ステゴロ」であり、結果として「一緒に滝壺に落ちて死亡」というのは、もはや劇画的ですらある。その急転直下の展開には、ある種の笑いがこみ上げてくる。まるで連載漫画の打ち切り最終回のようで、なにがなんだか、反応に迷う。
ドイルは、ホームズを葬る手段として、ある種の曖昧さを選んだ。遺体は描かれず、目撃者もおらず、ただ“落ちた”という事実だけが残る。これは、商業的な観点からの「復活の余地」を巧妙に温存するやり方でもあるのではなかろうか。医師であるワトスンに明確な死の診断をさせなかったことも、計算の内なのかもしれない。
それでも、物語構造としての『最後の事件』は実に見事である。ホームズとモリアーティという二項対立の象徴が、ロンドンという人為の都市を離れ、ヨーロッパを横断し、最後にはスイス・ライヘンバッハの滝という自然の暴力に呑まれる。これは象徴的な構造の反転である。ホームズという存在が、人間社会の欺瞞を論理によって浄化してきたのであれば、その終焉は人智を超えた自然によってもたらされるべきだ――そう語っているかのようだ。
事実、作中におけるホームズの言葉には、こうした思想がにじむ。
「近ごろつくづく思うんだが、できるものなら今後は、人工の度がきわまったいまの社会状態から生まれる浅薄な問題よりも、<自然>によって提起される問題をこそ究めてみたい。」
…という彼のつぶやきは、まるで自身の死に方を予告するような、メタフィクション的な響きを帯びる。論理の人ホームズが、論理の通じぬ自然の摂理に呑み込まれて消える――それは、作者ドイルにとっての“文学的復讐”だったのかもしれない。
だが、それにしても
ほんとうに、あれでよかったのか?ドイル先生!?
