
中根龍一郎
@ryo_nakane
2025年6月24日

人殺しの花
大貫恵美子
読み終わった
むかし日比谷公園に薔薇を見に行ったことがある。柵に囲われた花壇のなかに「プライムミニスターナカソネ」という白薔薇を見つけてちょっと驚いた。初めて見た名前だった。中曽根康弘は長いこと日本ばら会の会長を務めていたから、そういう薔薇があっても不思議ではない。でも薔薇が持っている花のイメージと、強い政治家、強い権力者のイメージはなかなか結びつかない(とはいえシャルル・ド・ゴールやリシュリューの名を冠した薔薇には特に違和感を覚えないわけで、それはそれでへんな話ではある)。
日比谷公園の花壇には「プリンセスミチコ」という薔薇もあった。皇族の名を冠した薔薇はけっこうある。でも知っている限り、女性皇族に限られるし、天皇の名前がつけられることはない。ヒロヒトやアキヒトという名前の薔薇は見たことがない。天皇はそういう形で表象されることはない。それは大貫恵美子の書く〈無のシニフィアン〉と近接しているような気がする。天皇の写真や肖像画を明治政府が避けようとしたような、迂回されることによって生まれる統治の形。
薔薇や桜が担わされてきた象徴性について、その象徴性(象徴するものと象徴されるものとの結びつき)が実は曖昧なものであるために多義的になり、それによって権力の支配が見えにくくなるという大貫の分析は明快だ。桜や薔薇の花には、花それ自体を超えて、桜や薔薇についてまわる無数のイメージが含まれている。そして私たちの花に対する素朴な好みが、時に抵抗であり時に抑圧でもあるイデオロギーを立ち上がらせてしまう。大貫の記述が興味深いのは、日本人のなかで桜が特別な花になっていくプロセスをさまざまな歴史的事例や文化的事例(能や狂言や花見)を引きながら調べていくところだ。稲と桜の関係は特に面白い。日本人がいかに桜を特別視してきたか、そして稲をいかに特別視してきたか。1993年の外国米輸入に伴う大変な騒動は、子供心になんとなく覚えている。タイ米は周りで不評だったが、私はそれなりにおいしく食べた覚えがある。
桜が支えるイデオロギーがあるように、稲が支えるイデオロギーもある。いまファミリーマートの店先には大谷翔平の大きな広告があって、「僕はおむすびのおいしい国に生まれた」と巨大な明朝体で書かれている。それをナショナリズム的だと言うのは言いすぎだけど、国家的な帰属意識を米によって代表させているところにはすこしどきりとさせられる。きわめて素朴な感覚として、米を食べるのは好きだ。でも稲には日本という国家のイデオロギーがどうしても忍び込んでいる。花と国家の関係に興味があって読み始めた本ながら、はじめの期待と違った面白い視点に出会えたのはとてもよかった。


