ハマダ "イスラーム生誕" 2025年7月20日

イスラーム生誕
イスラームとは何か? “セム的宗教の正統的な線にそって、倫理的なイスラームの神は、二つの根源的な性質をもつ。すなわち、旧約の神と同じく、アッラーは一方において「愛の神」、他面において「怒りの神」である。…愛と寛容と慈悲にたいしては明るい喜び、深い感謝の念。怒りと憎悪にたいしては暗い恐怖。事実、感謝と怖れとの二つがコーランの啓示に現われたイスラーム的信仰の基調である。というより、神への感謝と神の怖れが信仰そのものなのだ” イスラームをユダヤ教、キリスト教につながる人格的一神教として考えると、この説明だけでは漠然とした”イスラーム的”なるものに近づいた気がしないが、 ”この新しい宗教は、神と人との宗教的関係を、主人ー奴隷関係という形で根本的に規定した。すなわち、ムハンマドの興したこの新宗教に入信して「ムスリム」となる人は、独立不依の存在としての人間であることをやめて、神を「主」(rabb)とし、これに仕える「奴隷」('abd)となって新しい人生を生き始めることを要求されたのである。 神ー人の関係が、ここに主人ー奴隷の関係として確立された。アラブ精神史上に起った 一つの革命的出来事である。 「アブド」('abd)という言葉を日本語に移すとき、「奴隷」という語のもつあまりに強烈な生々しい印象を緩和したいという気持に押されて、われわれは普通「僕(しもべ)」という語を使う。しかし本当は「アブド」という語は文字通り奴隷を意味するものであり、また 実際そう訳してこそ、特にイスラームがアラビアの宗教運動として興った最初期における神ー人間関係のなまの感覚を伝えることができるのだということを、ここに一言注意しておきたい。” つまり、この”強烈”な”生々しさ”こそがイスラーム的なるもの、ルドルフ・オットーにおける畏るべき優越(ヌーメン的なるもの) "アッラーにおいてはヌミノーゼなものが断然勝っている。…言い換えればキリスト教に比べると、合理的なもの、この場合には道徳的なものによってまだ十分に図式化されておらず、程よく調合されていないことから説明される。そしてまたこのことから、この宗教の「熱狂的」傾向とよく言われる点が何であ るかも理解される。合理的な要素による調合を受けていないヌーメンの強い興奮と「熱中」を引き起こす感情、まさにこれこそが、 「熱狂」(Fanatismus) という語を現代の世俗化された、「零落した」意味ではなく、根源的な意味で用いる限り、まさしく正真正銘その本質なのである。 根源的な意味での熱狂は激情とか激情に駆られた主張一般 を言うのではなく、ヌミノーゼな「熱心さ」が情熱的だということなのである" *ルドルフ・オットー「聖なるもの」 だとすると、ユダヤ教、キリスト教とイスラームとを別つものとはなにか? 井筒俊彦に大きな影響を与えたマシニョンは、イスラームをイシュマエルの宗教としてとらえるとその違いがみえてくるとする。 ”マシニョンは、その出発点として三つのアブラハムの宗教をとりあげた。そのなかで、イスラムとは、イシュマエルの宗教、つまり神がイサクに与えた契約からは除外された人々の奉ずる一神教である。したがってイスラムは(父なる神、その化身たるキリストに対する)抵抗の宗教であり、ハガルの涙にはじまった悲しみをその内に宿しているのである。その結果アラビア語は涙の言語そのものとなり、同時にイスラムにおけるジハード概念全体が重要な知的次元を獲得する(ジハードとは、ルナンに理解できなかったイスラムの叙事詩的形態であると、マシニョンは明言する)。” *サイード「オリエンタリズム」 つまり、マシニョンによると、ユダヤ教、キリスト教が神から祝福される者としての宗教だとするならば、イスラームとは渇望と放逐の中で神を求める叫びであり、神の愛に対して絶対的な犠牲をもって応える宗教であり、ジハードとは神を求める者の魂の根源的な闘争ということになる。そして、その”強烈”で”生々し”い宗教的実存こそがイスラーム的なるものといえるのか。あるいはそれこそがイスラーム的虚像なのか。
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