
noko
@nokonoko
2025年7月30日

峠(中) (新潮文庫)
司馬遼太郎
買った
読み終わった
心に残る一節
「おれの日々の目的は、日々いつでも犬死ができる人間たろうとしている。死を飾り、死を意義あらしめようとする人間は、単に虚栄の徒であり、いざとなれば死ねぬ。人間は、朝に夕に、犬死の覚悟をあらたにしつつ、生きる意義のみを考える者がえらい」
「いま夜道をゆく。この風が、体を吹きぬけているようでなければ大事はできぬ」「気が歩いているだけだ。肉体はどこにもない、体には風が吹きとおっている。一個の気だけが歩いている。おれはそれさ」
ーそのあたりの草も、石ころも、流れる水も、飛ぶ鳥も、その鳥の影も、すべておのれと同質である。すこしのかわりもない。
というのが継之助の覚悟であった。禅宗における虚無感というのが、継之助の精神の基礎であろう。継之助の学祖の王陽明も禅をやり、禅学を学び、それと儒教を統一して、陽明学という特異思想をつくりあげた。継之助も、年少のころから禅に関心をもった。座禅のような愚劣な形式をこの男はきらったが、知的に思索することによって、一種のサトリともいえる境地に達した。
ー自然に融けて呼吸しておればよい。死も生も自然の一形態にすぎず、一表現にすぎず、さほどに重大なものではない。
継之助がおもうのに、人間にとって必要なのは、視角を変えることであり、他人の視角を面白がるということである。
「人間の命なんざ、使うときに使わねば意味がない」
「戦う戦わぬということでなく、戦えば必ず勝つ態勢さえととのえれば、物事は諸事うまくいくものでございます。」
「事をおこなうとき、何よりも知るということが大事だ」
継之助にとってもっとも大事なのはその世迷いごとであった。福沢は渇ききった理性で世の進運をとらえているが、継之助には情緒性がつよい。情緒を、この継之助は士たるものの美しさとして見、人としてもっとも大事なものとしている。
この男にとってなによりもきらいなのは涙であった。涙という、どちらかといえば自己の感情に甘ったれたもので難事が解決できたことは古来ない、というのが継之助の考えかたであった。