柿内正午 "眼がスクリーンになるとき" 2025年2月4日

眼がスクリーンになるとき
昨晩は、紀伊國屋ホールに千葉雅也と福尾匠の対談を見に行った。  質疑応答の時間にはしゃしゃり出て聞きたいことも発話できた。その反応を見るに、もはや哲学も芸術もなく、ただプロダクトしかないという現状認識はお二人に共通しているようにも思えた。そのうえで、福尾にとっての「芸術」とはなんなのか、どうプロダクトと違うのかをもうすこし訊きたかった。 千葉は小説についても意識的にプロダクトとして扱っているように見えて、理論と実践の一貫性を見出しやすいのだけど、福尾の『非美学』を読むと「芸術」がロマンチックなほど不可能なものとして描かれているようにも思えてしまい、そこで僕は躓いているという気がするのだ。 もはやそんなものない、すべてプロダクトで、身勝手な誤認によって見出されるほかないのだ、というのであれば、わざわざ哲学と芸術をああまでして切り離す意味が取れないというか、プロダクトであるという形で一元化すると、それはそれで両者の区別がぐずぐずにならないだろうか。‪ ぐずぐずなんだよ、という千葉のスタンスはわかりやすい。今晩の発話だけ追っていくと、福尾も概ねそこに同意しているようにも思えるけれど、やっぱりそれぞれ無関係なものとして自立を言う。この大元の問題意識を拾い損ねたままな気がする。‬拾いてえ。
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