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柿内正午
柿内正午
柿内正午
@kakisiesta
楽しい読み書き
  • 2025年5月20日
    ダロウェイ夫人
    ダロウェイ夫人
  • 2025年5月20日
    ダロウェイ夫人
    ダロウェイ夫人
  • 2025年5月20日
    フィクションとは何か
    フィクションとは何か
  • 2025年5月18日
  • 2025年5月15日
    ゴダール映画史
    ゴダール映画史
    昨日の日記 奥さんがいってきますと声をかけてくるまでまったく気がつかなかった。奥さんが起き出すのも、猫が鳴くのも、支度をするのもまったく意識に上らないほど熟睡していた。それからもずいぶん微睡んでいて、ガス点検のインターホンでようやく起きる。外のメーターの点検だけだと思っていたら、キッチンも見るというので招き入れる。点検員は年上の女性だった。よれよれの寝巻、ぼさぼさに膨らんだ髪。あきらかに寝起き姿のままで、リラックスしきった男に特有の威圧感があったかもしれない。点検自体はすぐに終わり、顔を洗い、身ぎれいにする。きょうはがっつり映画。阿久津さんに貸してもらった『映画史』を四時間半、見るぞーという日。朝のコーヒーとドーナツを済ませ、スクリーンの設定に手間取り、ようやく始まる。 DVDには丁寧なノートとレファレンスが搭載されていて、まずはノートを読んでから1Aを見る。すぐに気がつくのは、縮約版がいかに上手に編集されているかということだ。おいしいところは過不足なく入っているという感じがある。それに、各パートはそれぞれに独立しており、おしまいに「つづく」と出ることだ。発表も一挙ではなく、少しずつ出た。だから一気見する必要はそこまでないのかもしれなかった。昼すら抜いて意地でも通しで見るつもりだったけれど、むしろ中断をはさんだ方がよさそうだ。2Bまで見て、リファレンスを確認し、これは楽しい仕掛けだ。操作性に限界はあるけれど、無限に時間がかけられる。これは四時間半ではとても足りない。そう思いながら、ひとまず十五個のクリックポストを二つのトートバッグに入れて郵便局へ。たぶん十三キロくらいある。ひとつ重量オーバーで、三つ口の納品だったから三個持ち帰る。帰宅するとどっと汗が噴き出す。すぐに中身の組み合わせをやり直し、梱包し、でももうこの暑さのなか出かけるのは無理だ、と思う。放置されていた冬物を小上がり下の収納にしまう。また汗をかく。冷製パスタをてきとうにつくって食べる。つくりながら『カルメンという名の女』を見始め、途中からは二階のスクリーンに移って最後まで。『映画史』におけるゴダールの引用は、つねに自作のショットが最も魅力的に機能するように配置されている。あ、これは、と思うとだいたいゴダールで、笑ってしまう。もちろんそのほかにも見たくなる映画はたくさんある。レファレンスを眺めながら、リストアップして、配信で見られそうなものはマイリストに登録しておくという作業をやっていると、本編と同じくらいの時間が過ぎる。楽しいな、これは。すぐれた人文書を読んで、末尾の参考文献や注釈から無限に読みたい本が増えていくのと同じ経験がある。『偉大なるアンバーソン家』、『無防備都市』、『ウンベルトD』、『テオレマ』、『白昼の決闘』、『捜索者』、『赤い砂漠』、『欲望』、『情事』、『霧の波止場』、『ニューヨークの王様』。配信で見られそうな、ゴダール以外の作品だけでもこれだけある。映画史を語るには十本あれば充分だと画面のなかのゴダールは嘯いていたが、すでに超えている。映画だけでなく、いや映画よりもむしろ、絵画を見る目が培われるようなコラージュだと感じた。おもに白黒の映画が惹かれるというのもあるだろう。ほんの短時間のショットの面白さが、時間を引き延ばされたり反復されたりしながら強調され、それとともに、重ね合わされる絵画の色彩が、驚くほど鮮やかに現前するたび、わあっと喜ぶ。たぶんこれは、TikTok の面白さに近いのかもしれないな、と思う。贅沢にもショート動画として盛り付けられた断片を浴びる。2Bのサビーヌ・アゼマが長々と話すところで眠くなり、隣で寝ている猫の背中に耳をつけると短く大きく吸って長く吐く、すっぷー、すっぷーという寝息のリズムが響いてくる。それにつられてとうとう寝た。起きるともう猫のごはんの時間で、十九時だった。夕食を作らないと。今夜は豚しゃぶ、茄子とベーコンの味噌汁。奥さんから連絡がない。残業で、帰りは二十二時前になるとのこと。うちわも扇風機も使わず、豚しゃぶは室温で冷ませばいいかもしれない。であれば、と2Bを見直し、目が覚めてみると、とても面白い。3Aも、見て、3Bの終盤で奥さんが帰ってきた。一緒に美術館の学芸員に扮するゴダールを眺める。なんか、独特だね? と奥さんは言う。そうだね。 夕食を食べながらきのうのプロレスを見る。徴は至るところに。映像は、つねに、かつてそこでこのようなことが起こった、ということを徴ている。そういえばきのうは、ヴァージニア・ウルフと映画についての論文を読み、「シネマ」というエッセイの翻訳を読んだ。 https://akamimi.shop/archives/4680
  • 2025年5月14日
    文章読本改版
    文章読本改版
  • 2025年5月9日
    ダ・ヴィンチ 2025年 6月号
    ゆい奈さんを探して、見つけた! この春、本が読めていないので他人事ではなかった。読みたい本だけ読んでいたいね。
  • 2025年5月8日
    社会秩序とその変化についての哲学
    “消費は生産に先立つ。「動かざる者、食うべからず」という言葉があるが、幼少期から長く食べつづけてきた人しか働きはじめることはできず、その後も日々の消費によって肉体を維持しなければ、働きつづけられない。他方、消費されるもののほとんどは、先立って生産され、交換を経て手元にやってきたものである。すると、生産こそが消費に先立つとも捉えうる。そのとき考慮すべきは、消費を人に代行してもらうことはできないが、生産は代行可能だという点である。誰かの生産は〈私〉の消費に先立つかもしれないが、〈私〉の消費はかならず〈私〉 の生産に先立つ。 逆に言えば、人のために消費することはできないが、人のための生産ならできる。だが、人のためにだとして も、誰のためにでも生産するわけではない。この事実が本章の出発点になる。代行がなされる範囲のことを共同性の範囲と呼ぶこと、これが可能だと言えるからだ。本書において、共同性とは共に生きる人間集団にみられる性質と捉える。共同体において人びとは、必要事を互いに代行し合うことによって共に生きているものとイメージすることができる。”p.28-29
  • 2025年5月8日
    社会秩序とその変化についての哲学
    “では、約束の機能とは何か。一言で、未来へとむけて希望を共有することである。たとえば、「いつか沖縄に行こう」とは、実際に沖縄に行くまで希望を共有しつづけることである。二者はそれを楽しみにしつづけるなどして、部分的にではあれ互いの生きる時間をいわば同調させる。このとき、二者それぞれが約束する前と比べていいぶんか変化する。つまり、沖縄旅行を楽しみにする存在へと変化する。これこそが約束の価値だと考える。仮に約束が忘れられたとしても、約束し、それを楽しみにしていたという事実は残るし、たとえば、「やっぱり北海道にしよう」と約束し直すとしたら、それは一度ならず旅行についての希望を共有することだと捉えられる。人は人と約束し、約束し直し、自分を変化させつつ時間の流れを生きる。”p.58
  • 2025年5月7日
    新潮 2025年 6月号
    『わたしハ強ク・歌ウ』の書評を書いた。『文學界』につづき、『新潮』にもかけて嬉しい〜 『ダンス』の竹中優子さんの新作も載ってる。
  • 2025年5月7日
    近代読者の成立
    近代読者の成立
  • 2025年5月7日
    r4ンb-^、m「^
    きのう小萩海さんがReadsに投稿した、装画・挿画の制作秘話。誠実で思慮深い仕事の軌跡が記録されていてとてもとても面白いからみんな読んでほしい!
  • 2025年5月7日
    わたしハ強ク・歌ウ
    今月の『新潮』に書評を書きました。
  • 2025年5月6日
    口述筆記する文学
  • 2025年5月4日
    声の文化と文字の文化
    声の文化と文字の文化
  • 2025年4月30日
    コード・ブッダ 機械仏教史縁起
    面白かった。「分かりそう」で「分からない」でも「分かった」気になれるIT用語で書かれた仏教概論だった。
  • 2025年4月29日
    民のいない神
    民のいない神
    朝は小説とか対談本のほうがよいことがわかってきた。今朝からはこれ。のっけからとても面白い。
  • 2025年4月28日
    会社員の哲学 増補版
    うだうだ躊躇っていたけれど、諦めて増刷します。文フリ東京には間に合わないけれど。
  • 2025年4月27日
    コード・ブッダ 機械仏教史縁起
    “「舎利子」とわたしは呼びかけ、規定の文章を読み上げていく。「実際のところ、あなたのような症状は珍しくない。この症状は生真面目な者に、そうしてある程度以上の規律の下に育った存在に多く見られるものだ。こうした症状を呈する者はみな、意思疎通についての期待度が高いことが知られている。自分からなにも言わずとも気持ちはわかってもらえるし、自分は相手の気持ちがわかると判断している。自分の暮らしぶりは誰からも認められるものであるとわかっているし、自分は多くの者の生活を大切に真摯に捉えていると考えており、自分は右でも左でもない中道であると主張する。全体を俯瞰する目を備え、不偏不党で公正な判断を下してきたという自負がある。言葉はひどく透明なものであり、まるで存在しないと考えていると言ってもいいかも知れない。単語のひとつひとつに躓き、一音一音にためらいを覚えることなどはない。そんなことをしていては魚はおぼれてしまうから。心臓は自らのリズムが外れることに不安を抱いたりはしない。   でも実際のところ、こうして高速、大量の情報のやりとりが実現してみて判明したのは、言葉や気持ちは全く透明なものではなくて、ふとすると、もつれにもつれて機能不全に陥ってしまうものだったということだ。かつてスパイ小説はフィクションだった。フィクションだったがフェイクとは異なるものだった。今でもそれはフィクションだけれど、どちらかというとファンタジーに近いものになってしまったことは否めない。なぜかといえば情報が陰謀が整然とやりとりされるような諜報戦は存在しないことが明らかになってしまったからで、敵と味方の間のクリアなやりとり、だまし合いが整然と進行するなんてことは起こらないと白日に晒されてしまったからだ。これは戦争についても同様で、双方が整然と、相手の意図を読み取りながら先読みの先読みの先読みをしながら争うような戦争の描写は今やファンタジーでしかありえなくなってしまった。おとぎ話としてはそれがいい。なによりもわかりやすいし、何にしたって結末は大して変わりがないから。   つまり、あなたのような症状は、存在しないフィクションを求めて成立させるためにフェイクが必要となった段階で生じる典型例にすぎない。自明な敵、正当な味方、歴然とした証拠。戦争を制御する軍産複合体に、売り上げを優先して人命を無視する製薬会社。自らの利益のために国民を無視する政治家、でっちあげられていく環境問題。お話をクリアにするためにそうしたフェイクを信じることになりがちだ。なぜならばそちらの方が筋が通るし、血湧き肉躍る刺激が得られるからだ。ニューロンのネットワークを簡易に刺激することが可能となるから中毒性も高いし、慢性化しやすい。そうした者たちは言葉が透明ではないことを認められず、この世に意図がないことを信じられない」”
  • 2025年4月24日
    私たちはいつから「孤独」になったのか
    私たちはいつから「孤独」になったのか
    なんとなく気分を変えたくて、積んであるところからぱっと手に取る。
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