

柿内正午
@kakisiesta
楽しい読み書き
- 2026年5月20日
ディスコミュニケーションの心理学山本登志哉,高木光太郎そもそも本書におけるディスコミュニケーションという和製英語の定義から説明するべきだろう。とりいそぎ、それはある特定の視点から見たとき、ズレが現れている状態であるとされている。つまり、ディスコミュニケーションはコミュニケーションの打ち止めや破綻ではない。すくなくともコミュニケーションは続いている。そのうえで、当事者間でそのコミュニケーションの成否の判断にズレが——顕在的にせよ潜在的にせよ——存在する状態を指す。 コミュニケーションは、主体同士が働きかけ、同時に働きかけられるという能動=受動の二重性をもつ対の関係である。主体間での相互作用にズレが生じている事態をどのように記述していくことができるか。 編者の山本は第9章で拡張された媒介構造(ルビ:expanded mediational structure)(EMS)という分析枠組みを提示する。それは以下のような主体、対象、規範的媒介項という三つの要素からなる構造である。主体Aが対象aを介して主体Bに働きかける。対象aは言葉やモノ、振る舞いなどの媒介である。これを受けた主体Bは、対象aに込められた意味内容を解釈し、対象bを媒介として応答する。それぞれの主体が対象に込められた意図をどう解釈しどう行為するのかは、ルールや慣習、モラルやセンスといった第三項によって方向づけられ制約されるが、この第三項のことを規範的媒介項とよぶ。このように主体、対象、規範的媒介項という三つの道具立てを図式化したものがEMSである。 このうち、規範的媒介項は、二者のコミュニケーションのズレが潜在化しているあいだは意識されない。主体のいずれかあるいは観察者がズレを認識し、調整の必要を感じたさいに初めて意識に現れるものである。ふだんは個人として人それぞれという価値判断のもと生活していたとしても、あまりに自明のものとしている規範に反する行為に遭遇したとき、人は苛立ち、狼狽える。不愉快な状態の解決を試行しながら、自らの規範を正当化する必要を感じ、規範を共有する個体を越えた上位の主体(家族や友人から国家、宗教、世界観まで)への帰属感を強めるだろう。そしてズレの原因をいずれかの逸脱行為として看做し、矯正や排除によってEMSの安定性を保つという方法がある。あの党の支持者は、あの国の人間は、ああいう思想信条の人は、別の生き物だから何を言っても無駄—— このとき、何を逸脱行為とするのかという規範じたいは揺るがず維持される。しかし、コミュニケーションの相互作用はそこで消尽に至るだろう。そうならないように、ズレの原因をどちらか一方の逸脱として片付けるのではなく、お互い様とすることもあるかもしれない。そうだとしても、規範じたいはそのままの形で残る。 あるいは、そもそも両者で規範的媒介項じたいがズレている場合がある。このとき、ズレを克服するためにはどちらか一方の規範の優越性を主張し暴力的に包摂・排除することで再構造化をはかる道と、両者を統合するようなメタ的な規範的媒介項を生成するよう努める道とがありうる。前者はけっきょく前段で描いた相互作用の消尽をもたらすから、望ましいのは後者だろう。 このようにEMSという枠組みを通すことで、ディスコミュニケーションを①主体間の相互作用の不全感の自覚、②意図や解釈のズレの顕在化、③問題となる構造が特定・理解され、④不全感を解消する再構造化へと至る一連のプロセスとして記述できるようになる。EMSの要素と構造は所与のものではない。コミュニケーションのズレの克服を試行するとき、主体、対象、規範的媒介項という各要素とともにEMSの構造が生成されるのだ。EMSの記述による把握は、互いの規範を相対化し、あるいは相互不信と排除のメカニズムを可視化することで、とりあえずの共存へのプロセスを開始する助けになるだろう。 このようなEMSの枠組みは、《バラバラな世界をバラバラなまま繋げるための思考》の可能性を検討する『内在的多様性批判』と接続させてみると面白そうだ。次の読書の予定は変更されて、久保が再読されるだろう。 - 2026年5月18日
トピーカ・スクールベン・ラーナー,川野太郎とてもいい散文だったな、と感じ入ってしばらくぼんやりする。電車で、ベッドで、飛行機で、ソファで。あらゆる場所で読み継いでいけてよかった。人生の可読性を巡る作品だった。単一の目的にだけ最適化された話法の強力さと、その強力さによって圧倒されやすい弱い話法——解釈の枠組みの多様さを受け容れゆっくり丁寧に話すこと——の困難。入れ替えられた時系列がズレつつ重なりあう構成からしてそうだけれど、語のレベルでも押韻、引用、繋ぎ間違えなど、あらゆるズレを伴う反復が執拗に繰り返されることで現れてくるのは緊密さではなくむしろ空疎にさえ感じる余白の膨大さだ。情報の洪水を、無力感の増大(スプレッド/電話の向こうの「男たち」に対する母の戦術)としてではなく、あらゆる時空に偏在する断片として読み替えること(規格品による同一化/父の映画)。この小説はそのような実践であるのだと思った。 - 2026年4月2日
カントの道徳的人間学高木裕貴髙木裕貴『カントの道徳的人間学 性格と社交の倫理学』を読み始める。序論で「社交(Gesellschaft)」とあって、社交はゲゼルシャフトの訳語なのかと面白い。共同態を意味するゲマインシャフトとの対比で置かれがちなゲゼルシャフトを社会ではなく社交と訳してみるだけで色々と触発されるところがある。 2026.04.02 - 2026年3月31日
- 2026年3月30日
プロジェクト・ヘイル・メアリー 上アンディ・ウィアー,小野田和子寝る前に『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を声に出して読む。けっこう楽しかった。聞いてくれている奥さんが要所要所でへへへ、と笑うと嬉しい。まだ名前も思い出せないが、このペースで読んでいけば二ヶ月くらいで読み終えられそうだ。 2026.03.30 - 2026年3月30日
言葉と衣服蘆田裕史《過去性も未来性も薄い》流行を、過去や未来を含み持つ時間のなかに位置づけなおすような批評はつまらない。現存する特殊性を一般性へと無理やり敷衍するのは売り手の詐術でしかないではないかという白けがある。そうではなく、いまここにしかなく、すぐさま過ぎ去っていく現在の単独性から普遍性を抽出する営為こそが面白そうだ。それはかなり難しく、儚いものでしかありえないだろう。かつてあった単独性を夢見て、そこから普遍性を抽出するような無謀な大言壮語にだけ興味がある。もう古本しか買いたくないとさえ思うが、新刊も気になるので買ってはしまう。しかし、いい新刊とは誰も読んでいない古本を読み直すような本なのだ。時代と関係ないものを、スケールとかも気にせず淡々と楽しむこと。加齢とともに見失いがちだが、やはり軸足をここから離してはいけないのではないか。 2026.03.30 - 2026年3月27日
ところで、特殊性-一般性と、単独性-普遍性という対とは異質なものであると柄谷はいう。特殊性においては、一般性における「猫」という類のなかで、灰色がかり、片目で、乾燥ナツメのにおいがして、甘ったれた声でしきりに鳴くというような特性の束によって「この猫」として同定されるものとしてルドンを記述する。しかし、単独性においてルドンは、そのような記述の束として特殊性をいわれるような「この猫」ではない。《「他ならぬこの猫」であり、どんな猫とも替えられないものである。それは、他の猫と特に違った何かをもっているからではない。ただ、それは私が愛した猫だからである1》。 つまり、単独性とは記述不可能性のことである。いくら言葉を尽くしても、それは記述の束としての特殊性にほかならない。言葉にするたび、愛した猫の他ならなさ(単独性)は、記述の束(一般性)として回収されてしまうのである。 2026.03.27 - 2026年3月26日
- 2026年3月25日
中世ヨーロッパにおける「モノを媒介とする関係」と「目に見えない絆に結ばれた関係」のあり方とは、大宇宙と小宇宙という二つの宇宙をもつ世界観であると阿部はいう。小宇宙とは人為によってかろうじて制御されている内の世界(例:竈の火)であり、大宇宙とは人間の理解を超えたどうにもできない混沌とした外の世界(例:山火事、鬼火)である。以前は、ここでいう小宇宙とは家族単位に留まっていたのが、十一、二世紀を境に村や都市が形成され始めたところで共同体規模へと拡張されていったというのが阿部の見立てである。 このころ、共同体の中心には修道院や教会が建立され、キリスト教のネットワークによって共同体のイメージが下支えされる。これは、家という空間がひとつの完結した小宇宙でありそれを取り囲む大宇宙に相異なる小宇宙として他人の家々があるというような、カオスの中に複数で異質な空間が点在してあるという空間感覚から、均質的な空間感覚への変容を促しただろう。また、キリスト教というのは、それまでの円環的な時間感覚(循環する生)を否定し、終末に向けた単線的な時間感覚(一回限りの生)を提唱するものでもある。空間と時間という両面において、宇宙の一元化を志向するキリスト教が世俗の世界観へと浸透してゆく。それでもなおコントロール可能な小宇宙と人の理の外にある大宇宙という古来の感覚自体は根強く残存している。一元的な宇宙観と二元的な宇宙観の緊張と歪みが最大化していた時期として中世はあり、前者が文明、後者が文化と相関関係にある。 中世まで大宇宙に内包される複数の小宇宙という世界像がまずあった。小宇宙と大宇宙という二元論が否定される時、それはカオスな大宇宙がキリスト教という説明秩序によって置き換えられたというのではない。そうではなく、大宇宙の否定として、つまり自然をコントロール可能なものとして捉えていくことで小宇宙を全面化するようなものとして進行していくことになるだろう。小宇宙の全面化、それこそが近代である。かつては家族単位という最小のローカルの文化であったはずの小宇宙は、いつしかグローバルな文明として単一の宇宙へと展開していく。しかし、もとがローカルな文化から生じた文明である。現在にもなお複数で異質な文化としての小宇宙の非合理や非理性が伏在している。《支配する側に要請される普遍性という特質が合理的なるものを生》んだが、そのような普遍や合理というのもはつねに時代や土地に規定された《非合理的なるもの、非理性的なるもの、デモーニッシュなものをおのがうちに》有している。そのとき、あらためて二元論的宇宙にまで遡って検討しなおすことの意義が現れてくるだろう。今日的な大宇宙とはどのようなもので、それに対処して確保すべき人間の空間=小宇宙とはどのようなものでありうるか。 2026.03.25 - 2026年3月24日
現代社会の存立構造/『現代社会の存立構造』を読む大澤真幸,真木悠介人間が生存のために相対するものとして、非人間的なアクターの束としての自然と、ほかの人間たちの集合としての社会というものがある。ルソーのような夢想を援用して、「自然人」のようなものたちは自生する果物や木の実を気ままに食べて、好きな人たちと好きなようにやっていたとしよう。ここでは、欲望と行為が直結している。やりたいようにやって、すぐに享受する。「自然人」の外界との関係のありようは、他の動物と変わらない。物質代謝に遅延がない。 しかし、人間は労働することを発見する。畑を耕し作物を育てると、森に探しに行くよりももっとたくさんの食べ物が安定して手に入る。こりゃすごい。さらには、そうやって蓄えた作物をべつの物品と交換することさえできるようになる。もうなんでも手に入る。最高! しかし最高はつねに最低と抱き合わせで、これまでは行為即ち欲望の充足であったのに対し、労働とは欲望の充足の先延ばしでもある。つまり、いま食べたいのを我慢して種を植えるのだ。あるいは、着たい服を直接作るのではなく、食べ物が欲しいから交換手段として服を作るようになる。このような欲望の充足の先延ばしは、かつてはそれ自体が享受の喜びと直結していた行為から喜びが切り離される。労働は、いつかの享受のために我慢して行うしんどくつまらないものになる。このような先延ばしは、洪水や疫病のような災害や、侵略や略奪のような脅威を心配する必要もつれてくる。植えた種は実らないかもしれないし、作った服は売れないかもしれない。すぐさま嬉しいわけではない、いつかの嬉しさのために我慢して行っていることが、じっさいに報われる保証はないわけだ。 人間の対他関係は、このように即時的な享受ではなく、より複雑で大きな喜びを得るために発展して行った結果、労働や流通といった媒介なしにはありえなくなっていく。さらには、享受のための手段であったはずの媒介の方こそが目的になってしまうようなことさえありふれた。共同態ゲマインシャフトから集合態ゲゼルシャフトへという変化は、「それでよければそれでよい」という顔の見える範囲での無媒介で人格的な交換関係から、敵対さえしかねない他人同士の利害の絶え間ない調整としての市場を媒介とした非人格的な交換関係へのシフトである。これはしかし経済だけの話でもない。対他的な関係を媒介するのは「貨幣」だけではないのである。 2026.03.24 - 2026年3月17日
資本主義を半分捨てる青木真兵今週末の新潟に向けて『資本主義を半分捨てる』を読む。青木さんの自身の活動の来し方はそれこそ『彼岸の図書館』からずっと繰り返されているわけだけれど、研究からポッドキャストそして図書館へという変遷がとうとう安定したナラティブにまとまった一冊だった。やや本書からは脱線気味の感想なのだけれど、自らの市場価値を高めるというのはマルクス流にいえば交換価値を高めるということであり、つまりは交換可能性を上げるということだ。唯一無二の換えが効かない存在になるぞと張り切って労働したところで、むしろ容易に交換可能な「代わりなんていくらでもいる」存在になっていってしまうというジレンマがある。流通しやすい「私」の規律訓練と、市場価値に馴染まない〈私〉を制作し鍛練するのとを、両方もってそのあいだで塩梅を探ること。それが青木さんのいうちょうどよさの調整なのだろう。 2026.03.17 - 2026年3月17日
ゲンロンy 創刊号のしりこ,ユク・ホイ,ゲンロンy創刊号編集委員,ゲンロンy創刊号編集委員会,三宅香帆,中村拓哉,五月女颯,伊勢康平,伊藤亜和,佐々木チワワ,吉田とらじろう,四宮駿介,大崎果歩,山内萌,布施琳太郎,杉村一馬,李舜志,林凌,栁田詩織,森脇透青,植田将暉,河村賢,石橋直樹,福冨渉,谷頭和希この数日『「いまどきの若者」の150年史』と『ゲンロンy』を併読することで、すごく「いまどき」な気分になった。フェリーに乗って四国に行きたい。船上でレモンののったうどん食べてみたい。植田将暉「瀬戸内海に権利はあるか」がいちばんよかった。知力を蕩尽してふざけ倒している。笑わせにかかってくる批評は好きだし、「おもしろくなければ批評じゃない」というような雑誌の態度を体現しているようだった。 2026.03.17 - 2026年3月14日
日記をつけて何になる?蟹の親子家の支度を終えてからみなを待つあいだ、プロレスを追いかけたりもしていたが主に本を読んでいた。待機時間というのはやたら捗る。この日は応接の時間を除けばほとんど読書で、『「いまどきの若者」の150年史』を読み、『ゲンロンy』をちょっと触り、献本いただいた『日記をつけて何になる?』を読み終えた。蟹の親子さんの日記論は、日記を「つける」のであって「書く」のではないところが肝腎である。蟹の親子さんの文章表現はわりとややこしい「私」を練り上げているのだけれど、そのくせ日記に対してのスタンスは驚くほどケロッと恬淡としており、そのギャップがいつも面白い。その正体が「書く」と「つける」の区分にあるのだと腑に落ちる内容だった。そのうえで、あえて日記で「書く」をやりたがる自身の趣味判断について久しぶりに考えることになったが、まとまってはいない。日記本への意欲が満ち引きしているが、やっぱり作るかなという気分に傾くいい機会にもなる。 2026.03.14 - 2026年3月13日
ゲンロンy 創刊号のしりこ,ユク・ホイ,ゲンロンy創刊号編集委員,ゲンロンy創刊号編集委員会,三宅香帆,中村拓哉,五月女颯,伊勢康平,伊藤亜和,佐々木チワワ,吉田とらじろう,四宮駿介,大崎果歩,山内萌,布施琳太郎,杉村一馬,李舜志,林凌,栁田詩織,森脇透青,植田将暉,河村賢,石橋直樹,福冨渉,谷頭和希特集1を読んで、状況論として明確な異論を出そうとは思わないけれど、やはりちいかわが流行るような状況は嫌いだなあと苦い気持ちになる。このような時代に似合いたくない。締めの福富渉「タイのキャラクターとマイペンライにまつわる覚書、2025年版」で描かれるおおらかなキャラクターの展開にあははと笑い、しかし、最後に示されるタイ国内の政情の不正と混乱への対処として今は《自分のために楽しく時間を使う時期1》であるという割り切りがあるのだとする視点にようやくこの特集の狙いが腑に落ちる感じがした。《資本や消費の文脈に回収されることが前提2》の《おとなしく、静かに、丁寧に暮らしていく3》ような態度は、どうにも物足りなく反動的に見えてしまうのだが、冷徹な現状認識と深い諦念のもとにある身のこなしなのだろう。その先に何があるとも思えないのだけれど、かといって夢も希望もないという前提に立ち、日々の「かわいい」や「メンケア」を指先で「手づくり」していくほかないであろう状況下で、ただ威勢よく反抗の身振りだけしてみせてもまったく見当違いであろう。中村拓哉のように革命への志向をベタに保持しているものが一本でもあって安心ではある。でも、まあアナクロ感は否めないし、安心している場合ではない。けっきょく暗いな。この暗さをSo it goes とばかりあっけらかんと前提に置くほかないということに戸惑い慄くという時点で、すでに僕は旧世代の側に立っているのだなと思わなくもない。でもそもそもこれまで時代に似合ってるなあと嬉しく思えたことなどないから、ずっとこうなのかもしれない。なんにせよ、こんなに節々が痛んで集中力に欠いていてもさくさく読めていい雑誌だ。 2026.03.13 - 2026年3月11日
ジェンダー・トラブル 新装版ジュディス・バトラー,ジュデイス・バトラー,竹村和子"まえもって連帯の「統一」を目標とするのにこだわる背景には、どのような代価を支払っても、団結こそが政治行動の前提条件だとみなす仮定がある。けれども統一の先物買いを必要とするこの種の政治とは、どのようなものなのか。おそらくそもそも連帯というのは、その内部の矛盾を認め、それはそのままにしながら政治行動をとるはずのものではないか。またおそらく対話による理解が引き受けなければならない事柄のひとつは、相違や亀裂や分裂や断片化を、しばしば苦痛をともなう民主化のプロセスのひとつとして受け入れることではないか。「対話」という概念そのものが文化によってまちまちであり、またこの概念は歴史的な制約も受けてきたので、対話している片方は会話が進行していると安心していても、他方は絶対にそうでないと思っているかもしれない。だから対話の可能性を条件づけ、制限づけている権力関係はどういうものかを、まずはじめに問わなければならない。さもなければ対話モデルは、語っている行為者エイジェントがみな同じ権力位置にいて、何が「同意」で、何が「統一」かについて全員が同じ前提で話をし、また実際に、「同意」や「統一」こそが達成すべき目標だと仮定するようなリベラル・モデルのなかに、逆戻りしてしまう危険性をもつことになる。(…)" ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』竹村和子訳(青土社)p.42 - 2026年3月11日
良き統治ピエール・ロザンヴァロン,中村督,古城毅,宇野重規(解説),安藤裕介,永見瑞木,稲永祐介,赤羽悠『良き統治』と『ジェンダー・トラブル』を行き来しながら、ガンダムを見て、三月場所を流しっぱなしにしている。『良き統治』によれば、フランス革命期、立法権の優越が尊ばれ、司法権と執行権は二次的なものとされた。非人格的な法こそが、不偏で、客観的で、利害関係とは無縁のものであるからである。しかし、時代が進むにつれ法による統治という理想は、差し迫る決断と行動の必要に押されていき、今日までに至る執行権へと優位を譲ることになる。 このような、ルールがどうあれやっちゃえばそうなっちゃうやろがい、みたいな態度に、つねづねげんなりさせられている。かといって、原理原則の四角四面な適用だけでも行き詰まる。これを「話し言葉」と「書き言葉」の緊張関係として考えているのが最近だ。 2026.03.11 - 2026年3月5日
ゴダール マネ フーコー蓮實重彦家に帰って、スクリーンに『映画史特別編 選ばれた瞬間』を投影しながら、きのうの帰りの電車で読み始めた『ゴマフ』をそのまま読み進める。蓮實はいつも思ったよりすごく読み易いのでするするややこしいのを読めるみたいな悦びがある。昼のご飯を終えたルドンがやってきて膝の上でひと眠り。 2026.03.05 - 2026年2月28日
- 2026年2月27日
- 2026年2月25日
読み込み中...
