

柿内正午
@kakisiesta
楽しい読み書き
- 2025年8月23日
- 2025年8月23日
- 2025年8月23日
- 2025年8月23日黒人音楽史 奇想の宇宙後藤護読んでる調子よく読めている時ほどReadsへのメモをしそびれるということがわかってきた。さいきんは『罪人たち』の熱を得て、黒人史や、その文化(特にホラーとSFへの接続)についてあれこれ読んでる。
- 2025年8月15日
- 2025年8月15日
- 2025年8月15日
- 2025年8月10日
- 2025年8月3日ジェンダー・トラブル 新装版ジュデイス・バトラー,竹村和子買った@ 本屋lighthouse 幕張支店入門書は原典と一緒に買う主義。図書館で借りて読んだときは、たしか途中で返したと思うのだけど、言われるほど読みにくくないという印象だったけれど、それが未熟ゆえの勘違いだったかどうかはわからない。
- 2025年8月3日バトラー入門藤高和輝買った読み始めた@ 本屋lighthouse 幕張支店夏祭りで買って読み始めた。『女子プロレスの誕生』との読み合わせもよい。「非公式ファンブック」としてのスタイルが内容と密接に連関している。
- 2025年8月3日
- 2025年8月1日読み終わったよかった。 学生の恋愛を描くフィクションというのは、作中主体の若さゆえの身動きの取れなさと視野の狭さを通じて、他者への想像力を喚起する。未熟な子供たちのストラグルによって明らかになるのは、階級やジェンダーや時代といった限界に、自分とは異なる形で直面している人の、途方もない遠さだ。出てくる大人たちもまた、まったく成熟していないのがいい。誰かを大事に思うとき、誰かをないがしろにしたり、一面的に決めつけたり、想像の節約をしなければどうにもならない瞬間というのがある。若いころの苦しさって、なによりも、自分の培ってきたものが、大事にしたい他人の生にはまったく影響しないということに打ちのめされることからくる。これまで当然だと思っていたものが、誰かにとっては信じられないくらいの特権であったり、死なないために欠くことのできない宝物が、相手にとってはとるにたらない些事であったりする。そうしたことに、誰かを好きだと思う経験によってだんだん勘づきつつも、しっかり自分の足で立つために纏わねばならない苛烈さというものがあり、その傍らにただぼんやりと佇み続けることのできる拓はとてもえらい。みんな可愛かった。
- 2025年8月1日
- 2025年8月1日
- 2025年7月31日10:04ベン・ラーナー,木原善彦読み終わった一気読み再読@ 本の読める店fuzkue 下北沢週末に夏祭りがある本屋lighthouseで『トピーカ・スクール』を取り置いてもらっているけれど、ずいぶん好きだったはずの『10:04』の記憶は断片的で、覚えているのは、ハリケーンの夜に立ち現れる幽けき親密さ、精子提供のための個室でのドタバタ、砂漠の花火と鉱物についての思索、そのくらいだった。 だったらとフヅクエ下北沢に出かけてがっつり七時間くらいかけて、“とにかく全部”読み通した。「砂漠の花火と鉱物についての思索」のシーンは存在しなくて、遡及的に過去の読書が組み替わってしまった感がある。それはそれとして、今回の読書で僕は作中主体よりも歳上になっていて、アレックスよりは歳下で、そういう距離によってもビューが、頭足動物の拡散した触覚のようにして知覚する世界が、日々劇的に変わっていることを実感するようだ。
- 2025年7月30日社交する人間山崎正和読み終わったこちらもずいぶん面白く、たいへん触発されたのだけれど、ちまちまちまちま一ヶ月かけて読んだ。欲望の達成は、あえて悠々と遅延させたほうがむしろ満足は増すのだとこの本でも示唆されていた。けれども、一気に読まされるのも、ゆっくり読むのも、どちらもよいものだ。速い方が楽しいか、遅い方が味わい深いかは、本ごとに異なる。読了の冊数なんかにこだわるのがナンセンスなのは、その本がどんな本なのかをまったく不問にして均質にしてしまうからだ。本はそれぞれに異質であるのに。
- 2025年7月29日革命的半ズボン主義宣言橋本治読み終わったきのうで『革命的半ズボン主義宣言』を読み終えてしまって、二日程度で本が終わってしまうのはさいきんでは珍しく、だいたい一ヶ月くらいかけてあちこち併読しながら終えていくようになっていたので、もう終わっちゃったよ、ずいぶん楽しかったなあ!と名残惜しい。今月はいいかげん『社交する人間』を終えておしまいだろう。なにも読めていない気はするけれど、なんだかんだで月に五冊は始末していて、並行しているのが十冊くらいあるから、読んではいる。というか、半ズボンみたいに一冊に集中してさっさと読んでしまえばもうすこし読めるだろう、という思いがあるからこそ、読めていないと感じるのであって、読んではいる。読み方が汚いだけ。
- 2025年7月27日
- 2025年7月22日
- 2025年7月21日社交する人間山崎正和読んでる“社会の感情的な統合という観点から見たとき、近代国民国家が生みだした問題はしかしこれだけではない。多くの近代国家は義務とひきかえに国民に権利を与え、メンバーシッブの印しとして政治への参加を許したが、問題はその方法として広く採用された国民投票という制度のなかにあった。忘れてはならないのは、近代国家の選挙はつねに半ばは一種の祭りであり、国民の理性よりは感情により多く訴える儀式だということだろう。もちろん政策はさまざまな理念として国民に発されるが、その明晰さは祭りにおける宗教的理念、経文に書かれた教義ほどにも十分ではない。人びとは論理よりも象徴を通じて、標語やポスターやブラカード、運動員の制服や支持者のワッペン、候補者の容貌や演説の雄弁を通じて、漠然とした正義の感情を刺激される。国民にとって選挙期間は周期的に訪れる「ハレ」の日々であり、日常は忘れている国家の道義性、「選ばれた民」の使命観を思いだして、演出された関争心に駆られる時間なのである。 選挙は法と制度によって組織された理性的な国家が、数年に一度、政治秩序の公然たる紊乱を許して、国民感情のカタルシスをめざす医療行為の一面を持つ。だがそれはふたたび重要な一点で祭りとは異なるのであって、そのずれのために国民の感情に避けがたく逆説的な効果を及ぼすことになる。なぜなら前章の冒頭でも触れたように、一人一票の無記名投票は必然的に個人の判断を機械化し、人間の感情に白か黒かの単純化を要求する方法だからである。どんな祭りの参加者とも違って、民主的な投票者は感情の自然な強弱とは関係なく、自己を顔も名前もない一票として表現するほかはない。また感情には高揚の過程があり、むしろその起伏の過程が感情の内容であるのに、一票の投票には感情の決着点しか表しようがない。しかも祭りの感情表現には身体的なアルスがあり、それがまた感情の微妙な豊かさを生むのにたいして、投票という行動にアルスの生まれる余地はない。ここでは白い紙に記号を書くか、文字どおり投票機械のレバーを引くしか術はないからである。 極端にいえば、これは人間感情にたいする組織的な愚弄であり、侮辱的な感情数育の方法だといえるかもしれない。近代の国民は政治的な感情を抱くことを制度的に奨励され、それを抱いたとたんに自然な感情ではないものにするように訓練される。長らくこの愚弄と侮辱によって感情教育を受けた国民は、やがて無意識にみずからの感情を自己規制し、最初から白か黒かの感情しか抱かなくなるのは当然だろう。少なくとも政治指導者の政策提案に単純さを期待し、それが白か黒かの二者択一であることを好むようになるのはふしぎではない。とかく選挙では、社会の明快な敵を指名し、正義の闘争を扇動する指導者が喜ばれるのである。そしてまさにここに近代国家の内発的な危険が潜むのであって、民主主義そのものの根から全体主義が生まれる逆説的な土壌が培われることになる。民主主義の総本山アメリカが跡を絶たないポピュリズムの国であり、さらにいえばあのナチスがまさに選挙によって政権を奪ったことも、あながち偶然ではなかったといえるだろう。” p.242-244
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