
いっちー
@icchii317
2025年8月17日

洟をたらした神
吉野せい
ちょっと開いた
たった2ページの「序」がとても良い。
「書くことを長年の仕事としている人は、文章の勘所を心得ていて、うまいものだと感心するようなものを作る。それを読むものもほどほどに期待しているから、それを上廻るうまさに驚く時もあれば、また、期待はずれと言う時もある。
ところが、吉野せいさんの文章は、それとはがらっと異質で、私はうろたえた。例えば鑢紙の仕上げばかりを気にかけ、そこでかなりの歪みは治せると言うような、言わば誤魔化しの技巧を密かに期待していた私は、張手を食らったようだった。この文章は鑢紙などをかけて体裁を整えたものではない。刃毀れなどどこにもない斧で、一度でずっと木を割ったような、狂いのない切れ味に圧倒された。
私は呆然とした。二度読んでも、何度読みかえしても、ますます呆然とした。そして体が実際にがくがくし、絞り上げられるような気分であった。「洟を垂らした神)が最初であったが、この本に入れてある十六篇の作品は、去年から今年の初夏にかけて、三、四篇ずつ私の手許に送られて来た。私も段々に慣れてきてもよさそうなものなのに、その都度、最初の時と同じように狼狽した。
文章を書くことは、自分の人生を切って見せるようなものかも知れない。これは書く者の決意であり、構えであるが、実際その決意通りに行くことはなかなかない。構えることによって不必要な力が入り、ぎこちなくなり、不安が募る。
吉野さんはそれを澄まして事もなげにやった。澄ましてというのは、楽々とという意味ではない。むしろ豪胆である。そしてその人生の切り口は、何処をどう切っても水々しい。これにも驚嘆した。何かを惜しんで切り売り作業のようなことをしている人間は、羨望だの羞恥だの、ともかく大混乱である。
このうちの数篇は私が編集の手伝いをしている『アルプ』と言う雑誌に渡したが、その掲載号が出るたびに私は持って歩き、文学好きの友人、知人に出会うと、その場で読ませた。そんなことをした憶えは他にないが、感想を求めたのでもなく、意地悪く反応を見ようとしたのでもない。ただ一人でも多くの人に読ませたいという至極あっさりした気持ちであった。
そしてこの出版をお願い進めたのも全く同じ気持ちからである。」
まだ始まってないのに3回読んだ。
「文章を書くことは、自分の人生を切って見せるようなものかもしれなち」について、私はそのような人の文章が好きだし、文章以外でもそのような姿勢で表現している人のことがとても好きだ。だか、この文を書いた串田さんがつい読ませたというのは少し分かる気もする。良い文章はつい他の人に勧めてしまう。
まだ吉野せいさんの文を読んでないけど、すごいエネルギーで書かれていそうだから、ちょっと怖くなってきた。



いっちー
@icchii317
表題作「洟をたらした神」を読んだ。うん、確かに凄みを感じる。この読後感はなんだろう。厳粛な気持ちになった。
そしてこの本を向坂くじらさんがおすすめしたのもよく分かる。向坂くじらさんは現代版の吉野せいさんのような文章(詩)を書く方だと思った。