犬山俊之 "Can-doで教える 課題遂..." 2025年8月17日

Can-doで教える 課題遂行型の日本語教育
Can-doで教える 課題遂行型の日本語教育
二瓶知子,
八田直美,
来嶋洋美
勉強にはなります。が、どうしても違和感が拭えない部分もあります。例えば、以下のような記述……  * 以下引用「そもそも学習目標がなければ、授業の成果として何を望むのかわかりません。課題遂行型の教え方は、まず学習目標のCan-doを見て、それが会話であれば会話ができるように授業を計画します」引用終わり。  * ? 「会話ができるような計画」を作り、そういう練習をすれば、学習者は会話ができるようになるのでしょうか。なんというか、自分の頭に浮かんだのはガラス職人のイメージ。透明で柔らかい熱せられたガラスが、熟練の達人の技術によってあっという間にきれいに整形されてていくーー。 しかし、人間である学習者はそうはなりません。そもそも「学び」なんてのはいつどこで生まれるのか制御できるものではありません。昨日の日本語のクラスで得た「何か」は、(例えば)歴史のクラスでのひらめきにつながるかもしれないし、株の売買のヒントになるかもしれない、或いは「何の役にも立たない」かもしれません。しかし「何の役に立たない」時間を誰かと共有した体験がその人の人生の中でいつか意味を持つ……可能性がないわけではない、なきにしもアラズと思いたい……くらいの心持ちで授業をやっている自分にとっては、「教師の力」を買いかぶっているなあ、という印象です。こういう「やればできる」という前提から入ると、新人の教師の方などストレスが大変だろうなと心配になります。  * また、所謂「会話」を何だと思っているのでしょうか。会話というのは、相手がいないと成立しないものです。しかし、本書の中(というか現在の日本語教育全般で)の「会話」練習において、会話の相手、或いは他者ということがほとんど考えられていないと感じます。 例えば、クラス活動の一つとして、「趣味について話そう」「家族について話そう」というようなトピックがあげられていますが、それは「本当の会話」たりえるでしょうか。教師やクラスメートが、一人の学習者の語りを受け止める他者になれるでしょうか。簡単に言えば、聞き手はちゃんと聞けるのかということです。聞く気がない人に語ることは無意味ですし、教師が学習者の語りを全て受け止め、理解できて、応答できるという前提がおかしいです。ここも、「教師の力」の過大評価から来ていると感じます。(逆に言うと、学習者の力をなめている。「学習者を均一な存在として見ない(by 参照枠)」と言いつつ、やってることは……。) 趣味について語りたくても、それは相手を選ぶ行動で、複数の聞き手がいる教室内では話したくないという人もいるし、家族のことを他者に話したくない人(聞きたくない人)もいるわけで、それらの様々な違いを「慣らして」、「教室内で理解できる範囲」で、「教師が許容できる範囲」で、という断り書きつきの「会話練習」に何の意味が意味があるのでしょうか。それなら、モデル会話の暗記だったり、音読練習だったりの批判されがちな「従来の方法」とそれほど変わらないようにも見えます。 正直、新しい事をやっている風ではあるものの、やってることはそれほど変わらないのではと。
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