石坂わたる
@ishizakawayaru
2025年8月21日

学問と世間
阿部謹也
「十八世紀以降産業化が進められ、経営と家計が分離されると、」
「教養というものが『いかに生きるか』という問いに対する自らの答えであったとすると、文字などはそのひとつの手段ではあっても、すべてではないことが明らかとなる。」
「教養とは自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のために何ができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうと努力している状態であると。このように教養のある人を定義すると、これまでの教養概念のように知識人だけでなく、農民や漁民、手工業者たちも含まれることになる。これまでは教養のある人というと、学歴の高い人、ブルーカラーでない人、書物などに通じている人といったイメージがあり、時には人格高潔といった言葉さえ出かねない。しかし先ほどのような定義をすれば、さまざまな人が対象になる。農民や漁民、手工業者その他の職業の人には立派な方が数多くおられ、それらの人を除外した従来の教養概念は極めて偏狭なものといわねばならない。」
「西欧ですでに個人との関係が確立されていたから、個人の意志が結集されれば社会を変えることができるという道筋は示されていた。しかし『世間』については、そのような道筋は全く示されたことがなく、『世間』は天から与えられたもののごとく個人の意志ではどうにもならないものと受けとめられていた。」
「大きな騒ぎになっている。排斥運動をしている人々は、人権という言葉や法律という言葉にも反感を示す場合がある。
論理ではなく、感情の次元での反発となっている場合が見られる。そこに働いているのは『世間』の感情なのである。」
「最近の政局のきしみに見られるものも『世間』の動きである。わが国の政治は『世間』の動きを見なければ理解できない。派閥の動静などは『世間』の典型というべきものである。」


