
DN/HP
@DN_HP
2025年9月16日

霧に橋を架ける
キジ・ジョンスン,
三角和代
この短編集に収録されている、キジ・ジョンスンの傑作「蜜蜂の川の流れる先で」を再読した。もう10回目くらい。蜂のひと刺しと、年齢と病気で死にそうになっている犬との「変化」を求めてのドライブからはじまる、「蜜蜂の川」を辿る旅。自然の美しさと厳しさを体験しながらの避けられない別れに備えるようなその行程を経て辿り着く先では、フィクションの力がその悲しみをそっと抱きしめてくれるような物語。悲しいけれどとても優しい、と思っていたけれど何度か読むうちに優しいけれど悲しい物語なのかもしれないとも思いだす。どちらにしてもこれは「永遠に生きて」と願わずにはいられないものとの避けることのできない別れに対峙するときには必要な物語だ。きっとそのため(作家自身のためにも)に書かれたのだと思っているし、いつもそうやって読んで、少しだけ泣いている。
はじめて読んだときの感動を思いだす。その感動を言葉にして、本(そのときは文庫本だった)と一緒に贈った友人のことも思う。少しあとに教えてくれた、旅の途中の車中で読んで号泣した、というエピソードは今でも大好きだ。その友人は今は2匹の犬と暮らしている。別れを前提にして日々を過ごすなんてことはするべきではないと思うし、別れは来なければ良いなとも思うけれど、もし「必要」な時がきてしまったなら、この物語のことも思い出してくれたらと思う。
わたしはといえば、まだ出会っていない、出会わないかもしれない犬の名前をよく考えている。幾つかの小説の登場犬の名前も候補にしているけれど、この小説に登場するジャーマンシェパードの名前「サム」もそのひとつだったりする。男の子だったらサミュエルで女の子だったらサマンサか、でも普段はやっぱりサムと呼ぶ。小さく口に出してみる。良いかもしれない。そんな来ないかもしれない犬との生活を思って、また少し泣いている。




