
柿内正午
@kakisiesta
2025年9月17日

読んでる
“ブランショは文学論において、「諾」を、読書の経験に本質的なものだとも書いていた。読書とは、世界において何か行動することでも、労働=作業することでもない。それは「受容し、承認し、「諾」と言うところの自由、「諾」と言うことしかできぬ自由」だとされる。読書とは「作品」への「滞在」であり、また「歓待」であり、根底的にそれに「諾」と答えることであり、そうすることでしかない。ここには、「entretien」と同じ作用を見出すことができる。読者は作品を否定することも、そこに何を付け加えることもせず、反復することしかしないのだが、その反復において作品は無限の差異へと開かれる。
反復的である「諾」にある自由や軽快さ。ブランショはそれを、作家が必然的に抱え込む暗く重い「孤独」と対照させる。それゆえ、「こうした意味では、読書は創造よりも積極的な、何ものをも生産しないにもかかわらず創造的なものである。それは決断の一翼を担っており、その軽快さと、貴任の不在と、純潔さとを持っている。それは何事をも行わず、しかもすべてが達成される」。
読書に根源的な肯定性、その軽さ、無垢=無罪、喜び。かくしてブランショは、読書に本質的な「諾」、反復=肯定をダンスの歓喜とさえ結びつけるだろう。”
p.176