
はる
@tsukiyo_0429
2025年9月12日

トラジェクトリー (文春e-book)
グレゴリー・ケズナジャット
読み終わった
名古屋という土地、英会話教室、講師、という設定が私自身に馴染み深いもので、これまでのことを思い出しながら読んだ。
ブランドンとアポロ計画の宇宙飛行士たちとの対比が興味深かった。
確固たる目的地へと向かうために、住み慣れた場所(地球)から離れた人たち。
それに対して、中間地点にいるような気がするが、最終地点がなく宙ぶらりんなブランドン。
どこに行っても同じで、「自分」からは逃げきることはできない。
そんな終わりのない閉塞感をひしひしと感じた。
作中では、英会話教室の生徒・カワムラさんの提出物と思われる日記が挟まれる。
その日記は教室でのカワムラさんの態度とはかなりギャップがあり、彼の中の柔らかい部分、子どものように純粋な部分が表れているようだった。
私は言語に興味があるので、英語ネイティブの元同僚が言っていた以下の言葉が衝撃的だった。
(元同僚は出版関係の仕事をしている)
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——まあ、つまり、すべてが英語になっても、英語の中に日本語の一部を残すことができればいいなと思う。みんな日本語のことを忘れていっても、こんな言葉が英語の中で生き続けていたら、それはそれで素敵だなと思って。その意味では、やり甲斐のある仕事なんだ。
(P91,92)
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このセリフを読んだとき、なんて傲慢で上から目線なんだと憤りを感じた。
また、英会話教室のスタッフ・ダイスケも、こう言う。
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やはりコストパフォーマンスも考慮に入れないといけないね。仮に日本語を勉強することにしたら、学習時間を控えめに設定しても、週二時間は要るでしょ。つまり年間で言うとおよそ百時間。授業の時間や移動の時間を入れれば、二百、三百時間じゃない。それは最低限でしょ? 本格的に勉強しようと思えばもっとかかるでしょう。時間の使い方は自由だけど、私ならやはりそんな時間があれば、アジアのこんなヘンテコな文字に使うよりももっと面白い使い方がいろいろあると思うなぁ。
(P65)
——あ、でも、教科書はここには持ち込まないほうがいいかも。このスペースはグローバルゾーンだからね。
(P80/「教科書」は日本語の教科書のことを指す)
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ダイスケが求めているような「グローバルで活躍できる日本人」が増えて、グローバル化が進んでいっても、日本語がなくなることはないだろう(と私は願っている)。
母語というのは、自分自身である根っこを育てる力のようなものだと感じている。
言葉は人間を形作るものだ。
根を張った確固たる自分自身さえあれば、どこにいても、例え遠くに行ったとしても、宙ぶらりんにはならないのかもしれない。
そんなことを考えた。
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表題作『トラジェクトリー』も『汽水』も、私自身の人生にとても近い作品だった。
他人事とは思えなかった。
そして「グローバル」という言葉について、何度も考えさせられた。
今の世界では、「“中心的な英語圏”に同化していくこと」が「グローバル」であると考えられていないだろうか。
少なくとも日本では、そういう傾向があるように思う。
私は幼少期から「西洋的なもの」に憧れ、語学の道を歩み、地元を出て、方言を隠しながら暮らしているが、未だ宙ぶらりんのままだ。
この本を読んで改めて、自分のルーツや居場所について考えたくなった。
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子供の頃には方言が自ずと口をついて出た。方言であることすら意識はなかった。自分の言葉が正しくないこと、多くの人にとっては田舎の無知の証に聞こえることに気がついたのはその後だった。方言をやめる決心がついたわけではない。ただ対等に相手にされるためにはどのような言葉を話せばいいか、分かってきただけだ。地元の者同士なら方言で構わないけれど、どこでも通じるプロフェッショナルとして見做されるためには標準的な言葉を使うほかない。
少しずつイントネーションが変容した。言い回しがスタンダードなものに変わっていった。教育が身につくにつれて地方特有の言葉遣いが抜かれ、清澄とされる言葉だけが残った。
その英語はカウンターの上のロゴマークのように実用的で味気なく、なんだか物寂しい言葉だった。
(『汽水』P139,140)