Reads
Reads - 読書のSNS&記録アプリ
詳しく見る
はる
はる
はる
@tsukiyo_0429
【読書】小説・短歌・歴史【言語】日本語教育/英会話学び直し/2021年4月から趣味でドイツ語を勉強中🇩🇪/独検3級・ゲーテA1💮【💡】読書はゆっくりペース/江戸・プロイセン・ドイツに興味があります/hanatama様フリーアイコン
  • 2025年9月25日
    李陵/山月記
    衝動的に『山月記』が読みたくなって読んだ。 大まかな内容は知っていたが、ちゃんと読んだのは初めてだと思う。 虎になった李徴の語りが素晴らしく良かった。 私たちは誰もが虎になってしまう可能性を持っている。 自身を受け入れられず、暴れた感情に振り回され、支配されてしまったら、たちまち虎になってしまう。 とても現実味のある話だと思った。
  • 2025年9月22日
    NHK「100分de名著」ブックス マルクス・アウレリウス 自省録
    SNSで『自省録』が紹介されているのを見て読んでみたいと思ったが、その前に一度手助けとなるような本を読みたくて選んだ。 全く知識がない状態で読んだが、マルクス・アウレリウスがどのような人生を辿り、どういう状況で『自省録』を書いたのか、ざっくりと知ることができて良かった。 『自省録』を読むのがさらに楽しみになった。
  • 2025年9月14日
  • 2025年9月12日
    トラジェクトリー (文春e-book)
    トラジェクトリー (文春e-book)
    名古屋という土地、英会話教室、講師、という設定が私自身に馴染み深いもので、これまでのことを思い出しながら読んだ。 ブランドンとアポロ計画の宇宙飛行士たちとの対比が興味深かった。 確固たる目的地へと向かうために、住み慣れた場所(地球)から離れた人たち。 それに対して、中間地点にいるような気がするが、最終地点がなく宙ぶらりんなブランドン。 どこに行っても同じで、「自分」からは逃げきることはできない。 そんな終わりのない閉塞感をひしひしと感じた。 作中では、英会話教室の生徒・カワムラさんの提出物と思われる日記が挟まれる。 その日記は教室でのカワムラさんの態度とはかなりギャップがあり、彼の中の柔らかい部分、子どものように純粋な部分が表れているようだった。 私は言語に興味があるので、英語ネイティブの元同僚が言っていた以下の言葉が衝撃的だった。 (元同僚は出版関係の仕事をしている) . ——まあ、つまり、すべてが英語になっても、英語の中に日本語の一部を残すことができればいいなと思う。みんな日本語のことを忘れていっても、こんな言葉が英語の中で生き続けていたら、それはそれで素敵だなと思って。その意味では、やり甲斐のある仕事なんだ。 (P91,92) . このセリフを読んだとき、なんて傲慢で上から目線なんだと憤りを感じた。 また、英会話教室のスタッフ・ダイスケも、こう言う。 . やはりコストパフォーマンスも考慮に入れないといけないね。仮に日本語を勉強することにしたら、学習時間を控えめに設定しても、週二時間は要るでしょ。つまり年間で言うとおよそ百時間。授業の時間や移動の時間を入れれば、二百、三百時間じゃない。それは最低限でしょ? 本格的に勉強しようと思えばもっとかかるでしょう。時間の使い方は自由だけど、私ならやはりそんな時間があれば、アジアのこんなヘンテコな文字に使うよりももっと面白い使い方がいろいろあると思うなぁ。 (P65) ——あ、でも、教科書はここには持ち込まないほうがいいかも。このスペースはグローバルゾーンだからね。 (P80/「教科書」は日本語の教科書のことを指す) . ダイスケが求めているような「グローバルで活躍できる日本人」が増えて、グローバル化が進んでいっても、日本語がなくなることはないだろう(と私は願っている)。 母語というのは、自分自身である根っこを育てる力のようなものだと感じている。 言葉は人間を形作るものだ。 根を張った確固たる自分自身さえあれば、どこにいても、例え遠くに行ったとしても、宙ぶらりんにはならないのかもしれない。 そんなことを考えた。 . 表題作『トラジェクトリー』も『汽水』も、私自身の人生にとても近い作品だった。 他人事とは思えなかった。 そして「グローバル」という言葉について、何度も考えさせられた。 今の世界では、「“中心的な英語圏”に同化していくこと」が「グローバル」であると考えられていないだろうか。 少なくとも日本では、そういう傾向があるように思う。 私は幼少期から「西洋的なもの」に憧れ、語学の道を歩み、地元を出て、方言を隠しながら暮らしているが、未だ宙ぶらりんのままだ。 この本を読んで改めて、自分のルーツや居場所について考えたくなった。 . 子供の頃には方言が自ずと口をついて出た。方言であることすら意識はなかった。自分の言葉が正しくないこと、多くの人にとっては田舎の無知の証に聞こえることに気がついたのはその後だった。方言をやめる決心がついたわけではない。ただ対等に相手にされるためにはどのような言葉を話せばいいか、分かってきただけだ。地元の者同士なら方言で構わないけれど、どこでも通じるプロフェッショナルとして見做されるためには標準的な言葉を使うほかない。 少しずつイントネーションが変容した。言い回しがスタンダードなものに変わっていった。教育が身につくにつれて地方特有の言葉遣いが抜かれ、清澄とされる言葉だけが残った。 その英語はカウンターの上のロゴマークのように実用的で味気なく、なんだか物寂しい言葉だった。 (『汽水』P139,140)
  • 2025年9月12日
    トラジェクトリー (文春e-book)
    トラジェクトリー (文春e-book)
  • 2025年8月26日
    トラジェクトリー (文春e-book)
    トラジェクトリー (文春e-book)
  • 2025年8月23日
    トラジェクトリー (文春e-book)
    トラジェクトリー (文春e-book)
  • 2025年8月9日
  • 2025年8月8日
    たえまない光の足し算
    衝撃的な作品だった。 薗やハグ、ひろめぐたち「とび商」は、「かいぶつ」と呼ばれる時計台のまわりで商売をしており、薗は異食、ひろめぐは軟派、ハグはフリーハグをしていた。 爆発を待つ時計台は薗たちの気持ちを表しているようで、気持ちがいつ爆発するか分からない危うさを感じた。 . 「痩せたらなにもかもが変わる!」 美容外科に飾られたそんな広告をきっかけに、薗はダイエットをして痩せ、異食をするようになった。 口にするものが「食べ物」であればあるほど食べられず、「食べ物ではないもの」であれば食べられる。 特に花の雄蕊と雌蕊を好んで食べる描写が強く印象に残っている。 そんな薗の行為は異様で考えられないものであったが、途中から登場する抱擁師・ハグにより、薗の異様さが私の中で薄れた。 . この小説を読む中で考えたことは、大きく分けて二つある。 一つは、世間からの性別の捉えられ方だ。 性行為に関して、世間から向けられる目が、性別(この小説では女性と男性)によってかなり異なり、イメージが固まってしまっていると感じた。 ハグ(女性)とひろめぐ(男性)の行為をSNSで目にした人たちは、ハグをか弱いもののように扱い、抱擁師としてのハグの仕事は破綻してしまう。 本当は、抱擁師であるハグの包容力で成り立っていたものなのに。 動画一つでハグの仕事が成り立たなくなってしまう流れの中で、頭のどこかで「やっぱりな」という諦めにも似た気持ちが浮かんだ。 女性を弱いもの、支配されるものだと捉えられてしまうのは、本当に悔しい。 そして、その人自身の光を性的魅力だと思われ、それが生涯拭い去れず、何をしても「そのせいだ」と思われてしまうのは、とても苦しい。 その人自身の光は変わらないはずなのに。 考えたことのもう一つは、過剰な包容力についてだ。 ハグとひろめぐの行為について、「抱擁師であるハグの包容力で成り立っていたもの」と書いたが、その包容力が恐ろしかった。 「包容力」という言葉からは温かく優しいイメージを抱くが、ハグのそれは果てしなく、それゆえに近寄りがたいような感じがした。 ハグは「みんなのひと」になりたかったし、そのためならどんな手段を使ってもいいと思っていた。 そのいきすぎた包容力は、薗の異食よりも怖く感じた。 . ハグの仕事が成り立たなくなる中で、薗の気持ちに変化が起きていたのが印象的だった。 これまで疑わず迷わず生きてきた薗が、初めて「方向転換」をすることを考える。 ハグとひろめぐが《痛くない出口》に向かったあと、「非生活者」だった薗が「人間(=生活者)」になるために動きだすラストは、ほんの少し希望があると思った。
  • 2025年8月8日
    たえまない光の足し算
  • 2025年7月25日
    踊れ、愛より痛いほうへ
    愛情がおぞましい、鬱陶しいと感じつつも、無意識にそれに縋ってしまっているように思えた。 抵抗していても、望んでいなくても、その愛情のもとに帰ってきてしまう。 抜け出すことができない。 アンノがテントで暮らしていることも、私にはそう見えた。 家を出ることにしたアンノは、両親に「わたしはもう、旅に出たんだと思ってください」と伝え、実家の庭にテントを設置して生活していた。 アンノ自身は親に頼らない生活をしているつもりかもしれない。 しかし実家の敷地内で暮らしていることは、アンノ自身が親から逃れられていない、自立できていないことを表しているようだった。 あーちゃん(元彼の祖母)とアンノの関係はとても興味深かった。 家族の愛情から切り離された(と思っている)二人は、友情を育んでいるように見えてそうではなく、ただこのときを一緒にやり過ごしているだけのような関係に見えた。 ともに過ごした時間は多かったかもしれないが、二人の間に愛情はなかったように思う。 アンノのバレエが忙しいしお金がないからと、アンノの母親は生まれるはずだった子どもを堕した。 その来るはずだった妹を、アンノがあーちゃんと弔う場面がとても好きだった。 遺影の代わりに自身の幼少期の写真を置いたアンノは、まるで昔の自分と決別しようとしているように見えた。 アンノの“頭が割れる”場面が、強く印象に残っている。 自分ではどうにもできないような感情が溢れ、激しく揺さぶられ、割れているから外のものが簡単に入ってきてしまう。 そのどうしようもない激情がよく表れていて好きだった。 . そのとき、足もとからふたりを見上げていたアンノの頭は、もともとそうなることが準備されていたみたいに、てっぺんからパカっと割れた。ひび割れからは脳がもりもりあふれだし、アンノは思った。ぜんぶ出ちゃう。そうしたらたいへんなことになる。だから、力のこもったお母さんの手を、それでも力いっぱいふりほどいて、あふれるままにしゃべった。 (P7)
  • 2025年7月22日
    鳥の夢の場合
    鳥の夢の場合
    生と死、現実と非現実。 そういうものが曖昧に混ざり合っていくような感じがした。 文章の中で一人称と三人称が混ざる箇所があり、始めは読みづらかったが、次第にその人物との境目が分からなくなるような不思議な感覚になった。 離れて見ていたはずなのに、いつの間にか「わたし」になっていて、また「わたし」ではない自分になっている。 そんな感じがした。 私たちは、あるはずのものは必ずあると信じてしまっている。 疑うこともなく、当たり前にあるのだと立ち止まることもない。 しかし、この小説の中には「ないはずのものがあって、あるはずのものがない」。 でもそれは私たちが気づいていないだけで、この現実にもあるのかもしれない。 絶対にあるはずのボールが見つからないこと。 話した当人すら忘れてしまった言葉を覚えていること。 現実には存在していなかったけれど、確かに存在していた大切な時間のこと……。 そういう、特別ではない日常にも、ちぐはぐに曖昧になる瞬間、混じり合う瞬間はあるのだと思う。 普段受け流すように暮らしている日常を、ほんの少し立ち止まって見つめたくなるような作品だった。
  • 2025年7月21日
    鳥の夢の場合
    鳥の夢の場合
  • 2025年7月19日
    たえまない光の足し算
  • 2025年7月19日
    踊れ、愛より痛いほうへ
  • 2025年7月19日
    鳥の夢の場合
    鳥の夢の場合
  • 2025年7月19日
    トラジェクトリー (文春e-book)
    トラジェクトリー (文春e-book)
  • 2025年7月18日
    革命前夜
    革命前夜
    ベルリンの壁崩壊直前の東ドイツ、そしてクラシック音楽と、関心のある設定だったにも関わらず、読み始めはなかなか乗りきらず、断念しようかと何度も考えた。 序盤で主人公が「もともとラフマニノフはあまり好きではない」(P22)と、好きではない理由も含めて述べていてしょんぼりしてしまったというのもあるかもしれない。 自分の一番好きな作曲家について、そんなふうに言われるとは思っていなかったので……。 「第三章:監視者」のあたりから没頭できるようになり、特にピクニック事件あたりの展開にはハラハラさせられながら壁崩壊の瞬間を楽しみにしていたが、正直、これで終わり!?というラストだった。 『革命前夜』というタイトルだからそれはそうなのかもしれないが、不完全燃焼な感じがあった。 設定は私好みのはずなのに、心を揺さぶるものがなかった。 心をぐちゃぐちゃにされるあの感覚が、この小説では得られなかった。 ただこれは、この小説が悪いというわけではなく、今の私が欲しているものではなかったという、タイミングのミスマッチが起きてしまっただけのことなのだと思う。 素晴らしい作品であることは間違いない。 作者自身が経験していない世界をこんなにも密に描けるのか、という点は非常に驚いた。 東ドイツのヒリヒリした空気感、緊張感が伝わってきて、まるで当時の東ドイツを実際に経験しているかのような心地になった。
  • 2025年7月4日
  • 2025年7月3日
    革命前夜
    革命前夜
読み込み中...