
それぞれのカルピス
@tbttmy
2025年9月28日

図説写真小史
ヴァルター・ベンヤミン,
Walter Benjamin,
久保哲司
読み終わった
この写真家の腕は確かであり、モデルの姿勢はすみずみまで彼の意図にそったものである。にもかかわらず、こうした写真を眺める者はそこに、現実がこの写真の映像としての性格にいわば焦げ穴をあけるのに利用したほんのひとかけらの隅然を、〈いまーここ〉的なものを、どうしても探さずにはいられない。画面の目立たない箇所には、やがて来ることになるものが、とうに過ぎ去ってしまったあの撮影のときの一分間のありようのなかに、今日でもなお、まことに雄弁に宿っている。だから私たちは、その来ることになるものを、回顧を通じて発見できるのである。眺める者は、この目立たない箇所を発見せずにはいられない。カメラに語りかける自然は、肉眼に語りかける自然とは当然異なる。異なるのはとりわけ次の点においてである。人間によって意識を織りこまれた空間の代わりに、無意識が織りこまれた空間が立ち現れるのである。p17
初期の感光板は感度が低かったので、屋外での長い露出が必要だった。ここからさらに、被写体となる人をできるだけ隔離して、何にも妨げられることなく静かに気持を集中できるような場所におくことが望ましいという考えが出てきたのである。オルリグは初期の写真について次のように述べている。「モデルが長い間静止していなければならないことから必然的に生ずる、表情の綜合性が主な理由であるが、これらの写真は素朴であると同時に、後代の写真よりも強烈で長続きする効果を見る者に及ぼす。その効果はスケッチや絵の具によるすぐれた肖像画に劣らない」。技法そのものがモデルたちを、瞬間から抜けだして生きるのではなく、瞬間のなかに向かって生きるよう仕向けた。長い撮影時間のあいだに、モデルたちはいわば写真にだんだんと体がなじんできたのである。したがって彼らは、スナップショットに写っている人物の姿とは非常にはっきりした対照をなすものとなった。スナップショットというのは、昔とは様変わりした環境世界に対応するものである。[…]初期の写真におけるあらゆる要素は、持続する性質をもっていた。人びとが集いあって作り出す比類のない群像──そして群像の消滅こそは、十九世紀後半の社会において進行した事態を、もっとも正確に表わす徴候のひとつであった──だけではなく、こうした写真に見られる衣服に寄った熱さえもが、のちの写真におけるそれよりも長続きするのである。シェリングの上着を眺めるだけでそれが分かる。上着も本人と一緒に、心からの確信をもって、不滅の世界へ往くことができる。服が体の線にそってとっている形には、この人物の顔の皺に恥じない価値がある。p23