
CandidE
@araxia
2025年9月28日

ヘンリー・ライクロフトの私記 (光文社古典新訳文庫)
ギッシング,
池央耿
読み終わった
なんというか、変に甘い作品で、不思議な魅力がある。言葉の響きに慰められながら、どこか胸に棘が残る。
ギッシングは、貧困と不幸な結婚に疲弊しながら40代半ばに本書を執筆したが、語り手ライクロフトは、すでに老境に達した穏やかな人物として自らの内実を披瀝する。この「少し先の自分」という仮面(ペルソナ)は、作家自身の屈辱や敗北の記憶を老成した回想へと翻訳する装置である。羞恥は整えられ、美しい形に記録される。それは虚飾であると同時に、フィクションにしか許されない自己救済でもある。だが老成や円熟として包み直されても、原文の切実な痛みは消えない。だからこそ私は老人の声の奥に、40代の作家の生々しい感覚を嗅ぎ取り、奇妙な違和を覚える。それがいい。
ライクロフトの住むデヴォンの田舎は、欲望が和らいだ隠遁の地として描かれる。だがそこには、大衆文化への嫌悪や教養なき人々への冷たい眼差しといったエリート主義も滲む。必死で教養にしがみついた都会の作家だからこそ、田園の理想には濁りが生じる。しかもその田園は農作業の汗を伴わない労働なきユートピアでもあり、社会的競争や文筆の重圧から逃れるための精神的避難所でもある。
この虚構の隠遁は「社会的挫折」であると同時に、「成功からの離脱」や「内面的充足」への誘いでもある。そこにあるのは社会変革を志す大きな理想ではなく、ただ個人が生き延びるための戦略、一種のサバイバルキットだ。ギッシングはライクロフトという仮面を介して「老成」を様式として提示する。その仮面の内側では、欺瞞とロマンが混じり合う。蜜は滴り、甘い匂いが漂う。
本書の魅力は、そうして立ち上がる「美しく整えられた真実」にある。老成の仮面をかぶればこそ、裸のままでは口にできない人生の汚点や煩悩が、熟した洞察へと姿を変え、読み手に差し出される。その自己編集の手腕は、我々に「自分の人生をいかに語り直すか」という問いを投げかける。それは優雅な演出なのか、それとも切実な救済の技法なのか。
『ヘンリー・ライクロフトの私記』は、人生の苦みを味わい尽くした作家が、架空の遺稿随筆という舞台で織り上げた祈りのような箴言書であり、変に甘い心の処方箋である。妙な余韻が残る。糸を引く。やみつきになる。

