Yamada Keisuke
@afro108
2025年10月2日

読み終わった
日本語ラップに関する批評の本ということで読んだ。日本語ラップを批評的に扱う作品は、先日読んだ『アンビバレント・ヒップホップ』などがあるが、依然として数は少ない。そうした状況において、本書は批評という切り口から本格派の登場を告げる一冊であり、日本語ラップを聴く楽しさを論理的に理解できる醍醐味がふんだんに詰まっていた。
三部から構成されており、第一部が日本語ラップ概論、第二部が批評論、第三部が具体的な作品批評としてSEEDAのアルバム『花と雨』を取り上げている。第一部は著者の日本語ラップ観を提示する宣言のような章で、テーマは「一人称」である。ヒップホップが他の音楽と決定的に異なるのは、極端にパーソナル性を要求する点だと説かれる。
その「一人称」を起点に展開される「宇多丸史観」は本著の白眉である。現在では映画批評などを通じ、日本カルチャーにおける批評的眼差しの第一人者といえる宇多丸だが、彼が日本語ラップにおいて打ち立てた「一人称」こそが重要であり、すべての始まりだったという見立ては興味深い。当初は空洞だった「一人称」に、さまざまな出自のラッパーが登場することで、日本語ラップが本来のヒップホップのあり方に近づいていく流れに、まさしく首を縦に振った。宇多丸の批評的立場を真正面から評価する言説がほとんどなかった中で、本書は歴史的な一冊といえる。長年ヒップホップを聴き続けてきたリスナーだからこそ得られる視座と言えるだろう。
また、いとうせいこうが「日本語ラップの創始者」とされることへの違和感が見事に言語化されていた点も印象深い。ヒップホップを「盗み、差異化する概念」として捉えるか、それともオーセンティックな音楽として「ヒップホップ」に忠実であるか。この二つをわけて論じることで、日本語ラップにおけるアティチュードの重要性が浮かび上がる。これは現行シーンのラッパーにも当てはまる課題だろう。海外で流行するスタイルをそのまま日本語で行うのか、それとも異化させて日本語の表現としてのヒップホップを模索するのか。そのアティチュードはいつの時代も問われるからこそ、本著で改めて整理されたことの意味は大きい。
第二部は批評そのものについて議論が展開される。正直にいえば難解で、日本語ラップが好きで読み始めた人はここで挫折してしまうかもしれない。私自身も、著者の主張の半分も理解できているか、怪しいところである。議論が抽象的かつ、さまざまな言説が引用され、それこそサンプリングミュージックよろしく、チョップ&フリップしているようだからだ。元ネタにあたる哲学的な議論の難解さに加えて、さまざまな論点を接続していくので、この手の言説に明るくないと厳しいものがある。しかし、この手法こそが日本語ラップ的な批評の実践であり、以下のラインはそれが端的に表現されていた。
言葉を名で呼び、連関から破壊的に抜き取り、それを新たなテクストのうえで韻を踏ませて。根源へ引き戻す過程を経て、引用された言葉に新たな「死語の生」を生きさせること。
わかりやすいのはタイトルにある「繰り返し首を縦に振ること」と批評の関係性である。この動作は、BPMが85〜100ほどのヒップホップの曲に対してリアクションする動作である。ここから「反復」「肯定」という要素を抽出して、本人の宣言どおり日本語ラップ的に「反復」「肯定」を論じていく。「なるほど」という言葉を多用することで、「反復」「肯定」をリテラルに表現することで、離脱しそうな読者を置いていかないような工夫がなされていた。
第二部は第三部で楽曲批評を進めるための準備段階と位置づけられるが、著者がここまで徹底的に理論武装している背景には、日本語ラップ批評に向けられる、ラッパーやリスナーからの否定的な眼差しを意識してのことだろう。「お前が頑張れ 似非評論家」というSALUのパンチラインに象徴されるように「一人称」の音楽であるからこそ、本人の意向が他の音楽よりも重視される。その中で第三者が日本語ラップを批評する意義をどう担保するのか?著者はその問いに向き合うため、これだけ理論武装しているとも言える。冒頭で宣言しているとおり、批評は中立であったり、対象の意向に沿っている必要はない。著者の言い方を借りれば「より偏向した、より差異的」な視座だからこそ、日本語ラップの本質に迫っていくことができる。
難解な議論の中でも、具体的に日本語ラップが参照されることで理解が進む場面もあった。PUNPEEのサンプリングセンスとベンヤミンの自然史概念を接続した議論や、RUMI「あさがえり」に対するアナロジー的批評には強く心を動かされた。必ずしも有名でない曲でも、批評によって光が当たり再び輝き出す。このマジックこそ批評の醍醐味だろう。
第三部ではいよいよ『花と雨』の研究・批評が展開される。日本語ラップを代表するクラシックであり、特に30代〜40代のヘッズにとって特別な一枚だが、ここでは「日本語ラップを語る」という行為そのものを一段引き上げる試みがなされていた。押韻を軸とした批評の眼差しを日本語ラップに向けることで、思いもよらない解釈へと導かれていく。
画期的だと感じたのは、バースを意訳している点である。意訳してしまうとラップの行間に宿るポエジーを削ぎ落とすため、野暮ったい印象は否めない。しかし、この作業を通じて浮かび上がる解釈の豊かさは他にない体験だった。理論を背景に押韻を軸とした批評が深度を増し「一人称」の音楽としてのSEEDAの圧倒的な描写力が浮かび上がる。そこにBESやNORIKIYOといった仲間が関連し、複数の「一人称」が連帯を生む様が痛快に描かれる。「花と雨」と「水と油」の対比、SEEDAと雨のモチーフの関係性など、聴き込んできた曲にも新鮮な視点が与えられる。さらに「Sai-Bai-Man」のホモフォビア的リリックを大麻というメイントピックと接続し反転させる批評も見事であった。ラストで提示される「遠く韻を踏んでいる」という押韻の新たな視座は、『花と雨』の最深部に到達したかのような感覚さえあった。
現在の日本語ラップは人気拡大に伴い、爆発的なプレイヤー数が増加し、リリース量が過去に比べて膨大になっている。したがって、一曲ごと、もしくはアルバム単位で、これだけ真剣に向き合うことは難しい。しかし、本著を読むと、向き合えば向き合うほど、音楽の体験が豊かになることがわかる。実際、この本を読んでから『花と雨』を聞くと、今まで幾度となく聞いているにも関わらず、リスニング体験に「新たな生」が付与されたようだった。
本著で論じられている日本語ラップは、現在のメインストリームとはやや距離がある。今の日本語ラップにおいて、首を縦に振ってリアクションする曲は多数派とは言えないからだ。トラップ登場以降の日本語ラップのリアクションは、首というより全身を揺らす、より身体性の高い音楽となっている。さらに本書で批判的に扱われたJ性も、Jポップ的なメロディーを特徴としたハイパーポップを筆頭に若い世代では人気を博している。ストリーミング時代のグローバルな音楽市場では「内なるJ」が自身の個性、オリジナリティとして考える新世代のラッパーも登場しているからだ。もし次作があるのであれば、より現行シーンの日本語ラップについて、第三章のような形で研究されたものが読みたい。
