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Yamada Keisuke
Yamada Keisuke
@afro108
乱読の地層。
  • 2026年5月12日
    トーフビーツの(難聴)ダイアリー2023
    日記熱が高まったので積読していた本著を読んだ。インタビューを含め自己開示がダサいというムードは、ヒップホップのアーティスト周辺で散見されることだが、ここまで筆力をもって自分の状況や感情を書くことができるミュージシャンであれば、むしろ強力な武器になりうることを証明していた。  2023年の出来事がまるっと1年分収録されている日記ZINE。今回もZINEということもあってか、踏み込んだ内容が多く、ファンとしては嬉しい。2023年当時、まだ社会にはコロナの余波が残っていたことを日記で気付かされるなど、やはり記録しておくことに意味があることを再認識した。東京のシティライフを謳歌する様子と、それに伴うストラグルが並行して描かれており、酸いも甘いもある、人生を象徴するような日記となっていた。  2023年から現在に至るまで飛ぶ鳥落とす勢いで活躍を続けているが、2023年時点でなお、自身の音楽キャリアや築いてきたレガシーについて疑問を抱いている点に彼らしさを感じた。自分の作品を疑う視線は一見ネガティブに映るかもしれない。しかし、それは裏返せば、まだ自分ができることを模索しているとも言える。だからこそ彼は停滞することなく、常にシーンの中でプレゼンスを発揮し続けているのだろう。  tofubeatsのレガシーについて友人と話した際に印象に残っているのは「Lonely Nights」だ。もし、tofubeatsがYOUNG JUJU名義だったKEIJUにオートチューンを提案していなければ、今の彼のスタイルや立場はなかったはずである。だから、日本語ラップヘッズたちはもっとtofubeatsに感謝すべきだ、という持論を勝手に抱いている。そんな「Lonely Nights」を収録した『FANTASY CLUB』に関して言及しているラインにくらった。 手前味噌だがこのアルバムは良い悪いは別として何かを突破しようとしていてその気合いみたいなものはそれなりにきっちり込められたとは思う。せっかくHIPHOPに類する音楽を聴いているのだがら簡単に越えられないものを越えようとする気概みたいなものを感じたい。  もともと難聴をきっかけに日記がスタートしたわけだが、コロナ禍が明け、ライブやDJ活動が本格化していくタイミングで、耳が再度不調をきたしていく様子が描かれる。耳に入ってくる音の総量(ボリューム×時間)で症状が変化する。難聴がここまでデリケートな病であることを初めて知った。ミックスやマスタリング、ライブでのオペレーションなど、音の細部に強いこだわりを持つミュージシャンだからこそ、余計に辛いだろうなと感じた。  合間合間に挟まれる論考も興味深い。たとえば、HIPHOPライブにおける相互客演問題について言及していた。フェスなどでは、客演曲はゲスト込みでやること当然視されており、実際に本人が出てこないと観客は肩透かしを食らった気分になる。勝手に期待され、勝手に失望される構図は確かに不憫だと思う一方で、リスナーとしては「同日出演ならやってほしい」と思ってしまう気持ちも正直ある。  他にはアーティストの言動と楽曲の関係性についての話。言動と音楽を切り分けて「関係ない」という態度を決め込む人もいれば、逆に言動と音楽は不可分で適切な対応が取られなければならないという態度もあるだろう。直近ではKanye Westが最たる例だろう。このどちらかを選びきれない感覚について「選ぶこと」が加速度的に要求されている現代の社会状況を踏まえつつ、自身のDJ論も絡めて実直に語られていた。  SNSではこういった思考の軌跡を追うことは難しい。だからこそ本というスタティックかつ、いい意味で一方的なフォーマットの強度の必要性を感じた。2024年の日記もリリースされることを心待ちにしたい。
  • 2026年5月10日
    N/A
    N/A
    美玉ラジオで取り上げられていたので読んだ。現代的な感覚や時代の空気をこういった形で小説へ落とし込む筆致に芥川賞候補になるのも納得のオモシロさだった。  主人公は高校生のまどかという女の子。彼女の学生生活を軸にしながら、現代社会のムードを描いていく。まどかは、生理になりたくないという理由で食事制限を始めたり、恋人とは異なる「かけがいのない他人」を追い求めて女性と交際を始めたりする。こういった一連の行動は「社会規範」から逸脱する行為に映ってしまい、そんな逸脱した主人公に対して、周囲がどのようなリアクションを取るのか、細やかに描かれている点が興味深い。  規範から外れた存在に対して、杓子定規に正しく応答することに意味があるのか?当人の気持ちを傷つけない最適なアプローチは、当人のことを本当に考えているのだろうか?「多様性」という言葉だけが先走り、実態を伴わず形骸化している状況が、繊細な年頃のティーンエイジャーの関係性の中で浮かび上がっていた。  特に、インターネットの普及により、ある種の「正解」の流布で起こったコミュニケーションの均一化が、人間関係を毀損している可能性に気付かされた。周囲のリアクションと自分の意図が乖離していることに戸惑いを感じた経験はあるが、拒食症や同姓愛といったマイノリティのテーマと接続することで、当人の気持ちをいかに置き去りにしているのか鮮明にしている。特に後者の同姓愛に関しては、2人の関係が一番大事であるにも関わらず、社会的正義、貢献という名の元で、まどかの恋人が己の承認欲求を満たす様は最近よく見る光景だ。  本著全体から伝わってくるのは、自分自身の感情に根ざしたコミュニケーションの重要さと、テクノロジーの進展によって私たちがそれをどれほど疎かにしているのかということである。一番顕著なのは終盤のLINEのやり取りだった。LINEは日本における2010年代後半以降のコミュニケーションを象徴するツールだ。そこでどういった言葉をかわしていくのか、思考過程を含めてこれだけスリリングに描いた小説を読んだのは初めてだった。チャットアプリなので、応答することが前提となっているが、それはアプリに駆動されているだけで、適切な言葉を探す意味がどこにあるのかと思わされる。  タイトルの「N/A」は、Not Available=データがないことを意味している。エクセルのVLOOK関数などで値を探しにいっても見つからないときに帰ってくるエラーだ。皆が自分の内側ではなく、さながらVLOOK関数のように外側に正解を参照しにいく態度の比喩として秀逸である。ゼロではなく「存在しない」というニュアンスが、正解探しの虚しさを端的に表現している。  心がひやっとしたのは後半の生徒と先生のやりとり。「先生が元生徒と結婚する」vs「生徒が授業中に内職する」という双方が規範から逸脱した結果として、教師から振るわれる言葉の暴力にゾッとしつつ、そこで連帯するシスターフッドにグッときた。突発的な状況の中では、誰もが検索、参照することなく、思い思いの連帯を示すからだ。ここで初めて本当の意味での多様性が立ち上がる裏腹な構成が見事だった。  多様性と言われるものの、それは理解できる範囲でのみ許容されるという暗黙の了解の上に成り立っている。朝井リョウや村田沙耶香がここ数年指摘してきた息苦しさとも響き合いながら、本著はさらに軽やかに、なおかつ現代の空気やツールをうまくパッケージした上で提示している素晴らしい小説だった。
  • 2026年5月10日
    すべての原付の光
    あまりにも気になりすぎるタイトルかつ早川書房から出てることに惹かれて読んだ。日本のSFを読めていない中で、脳みそがスパークしそうな圧倒的情報量とドライブしまくる物語の構成に魅了されてあっという間に読み終えた。  タイトル作を含めて合計5作の短編・中編で構成されている。似たような話は一つとしてなく、それぞれ異なる魅力を持っていた。なんといってもタイトル作が「これぞ日本のSF!」という内容で最高だった。暴走族およびヤンキーという絶滅危惧種の日本の伝統を、SFに落とし込んでこんなユニークな小説が書けるだなんて。勝手に原チャで暴走していた中坊を捕まえてタレットから空中に打ち込み異世界に吹き飛ばすという設定がぶっ飛んでるし、原付の光が明滅するシーンにおけるリテラルな表現は斬新だった。全体通してのギミックとしては、ルビ振りが特徴的。漢字に対して英訳ルビが振ってあるので、情報量が増えて世界観の構築に一役買っていた。  一番好きだったのは「ショッピング・エクスプロージョン」ドン・キホーテをオマージュした量販店が無限に増殖し、地球上を侵食していく。それを食い止めるミステリーバディものという荒唐無稽な話。『フライデー・ブラック』を想起しつつ、ワンピースやドン・キホーテというベタなものをかけあわせてフレッシュな文学に昇華してしまうスキルに脱帽した。主人公2人がジャズメンを模した名前だったり、熊谷が大麻の街だったりと、ハイコンテキストなカルチャーのマダラ模様も読んでいて楽しかった。タランティーノに映画化してほしい。  一方で「竜頭」は少し不思議系なストーリー展開に地方の鬱屈性が配合された独特の世界観だし、「ラゴス生体都市」は進撃の巨人オマージュな展開だったり。同じSFの中でも、サブジャンルを横断して自分のスタイルに落とし込む様からオールラウンダーであることが伝わってきた。  いわゆる日本的なサイバーパンクのイメージを率先して具現化している街は、渋谷、新宿といった都市部かもしれないが、そのベタ性から距離を取り、地方を舞台に想像力を爆発させて軽やかに完全オリジナルの世界観を作り上げている点にクリエイティビティを感じた。新作が最近出たばかりのようなので、そちらも読みたい。
  • 2026年5月8日
    ちょっと踊ったりすぐにかけだす
    日記ブームと言われて久しい中、その一翼を担う書き手である著者の作品を初めて読んだ。育児日記として面白く読んだ。  もともとウェブ上で公開されていた2018年から2022年までの日記を抜粋、再構成した一冊。著者と2人の子どもによる他愛もない日常の様子が綴られている。形式としては日記だが、日付や時間の連続性はそこまで前景化していない。むしろ各エピソードにキラーフレーズのようなタイトルが付されていることで、エッセイ的なニュアンスが強まっていた。  成熟した大人から見ると、子どもの発想や言葉づかいにハッとさせられる瞬間は多い。著者はその瞬間をキャッチするアンテナが鋭く、丁寧に記録しているからこそ面白い。印象的なのは、著者のボキャブラリーや感覚を子どもたちが吸収して育っていることだ。以下に端的に表れている。 「感性がちょろいからすぐ踊っちゃう」と息子に言われた。その「感性がちょろい」って言葉、教えたの私だ。上手に使いこなしてる。  SNSやYouTubeにおいて、子どもと大人の非対称性から生まれる出来事でインプレッション稼ぎしているコンテンツを見るとギョッとするときがある。しかし「はてなブログ」を筆頭とした、当時のウェブ日記の文体をまとった著者の文章からそういった邪な気持ちは微塵も感じることがなかった。それは、かしこまっていない自然な文体を通じて、著者の人柄や子どもに対する無償の愛が伝わってきたからだ。  「些細な日常を描く」という惹句は、日記やエッセイで山ほど使われているが、これほどまで文字通りの「些細な日常」を体現した日記はそうそうない。家族3人以外の部外者の話がほとんど登場せず、著者は仕事して、子どもは学校に行く。そんな繰り返しの日々の中でも、考えることやプレシャスな瞬間が溢れている事実に気付かされる。並の人間なら日記にならない日が、著者の手にかかればスペシャルな一日になる。この観察力と文章力が多くの人の心を鷲掴みにするのだろう。なかでも親と子どもの異なる発想の角度が交差して発生するコミュニケーションの数々は読んでいてニヤニヤしたし心が清められた。  本著の特徴としては、育児におけるネガティブな側面やしんどさがほとんど言及されていない点も挙げられるだろう。子どもと暮らしていると、かわいい、健気だと思う瞬間はたくさんある一方で、親を当惑させ、ときには怒らせるような出来事も当然ある。自分自身も4歳の子どもを育てている中で、つまづくことが山ほどある。これだけポジ出しのエピソードがたくさんあると育児で疲れることがあっても、著者の子どもに対する優しい視点に勇気をもらえた。  一方で、ここまでキレイにされていると、ジェントリフィケーションに近いニュアンスを感じないと言えば嘘になる。それは子どものディテールの細かさに対して、パートナーに関する記載の薄さも同様の感情を抱いた。そもそも何を書こうが自由だし、わざわざネガティブな瞬間を人に伝える必要はないのかもしれない。また、パートナーや子どもとしても「書かれない権利」があるのだから、時代にあった適切な配慮とも言えるだろう。  植本さんや西村賢太の日記で育ったので、「日記」というフォーマットに対して「リアル」を過剰に求め過ぎているのかもしれない。同じ「日記」と呼ばれるものでも、著者は現実を食べやすく成形した結果としての「リアル」であることについて自覚的なのだろう。それは前述したとおり、タイトルをつけて日記の要素を薄めていることや、あとがきでも「日記というよりも創作に近いものである」という自身の日記観からも伺える。まだ一冊しか読んでいないので、次は『おくれ毛で風を切れ』を読んでみる。
  • 2026年4月30日
    シスタ・ラップ・バイブル
    シスタ・ラップ・バイブル
    最近読んだ『ヒップホップ名盤100』の中で、リル・キムが「早すぎたフェミニスト」と言及されており、積んであった本著を読んだ。ヒップホップはずっと好きで聞いてきたが、女性たちが構築してきたカルチャーについて知らないことばかりで興味深かった。  ヒップホップ黎明期から現在までシーンに登場した女性ラッパー100人を個別に取り上げた「ラッパー名鑑」的な一冊である。 基本的には時系列で構成されており、それぞれのラッパーの来歴を追いながら読むことで、誰がどのような変化をもたらしてきたのかが、歴史として立体的に浮かび上がる。オールカラーで描かれたポップなイラストも魅力的で、ページをめくるだけでも楽しい。  女性ラッパーにフォーカスして、ヒップホップ史を捉え直す試みは、男性中心で語られてきた歴史のアナザーサイドである。同じヒップホップでありながら、まるで別のカルチャーのように映るのは、女性の存在がこれまで十分に歴史として語られてこなかったことの証左と言える。  ヒップホップにおいては、女性が搾取の対象として描かれてきたケースも多い。そうした文脈の中で、女性ラッパーたちが自身の欲望、経験をリリックに落とし込んできた歴史こそが、ヒップホップがもつレベルミュージックとしての側面を体現しているように感じられた。  なかでも、リル・キムとフォクシー・ブラウンが印象的だった。彼女たちが女性のあけすけな欲望をヒップホップに持ちこんだことは革命だったわけだが、自身のセクシャリティを解放しているだけにも関わらず、下品だと言われてしまったり、男性中心の価値観の中で消費されてもきた。「b*tch」という言葉を筆頭にリリック内で女性を搾取してきたにも関わらず、当人たちが同様に表現すると男性が当惑する。このダブルスタンダードっぷりはどうなんだと思いつつ、自分も日本語ラップにおける女性のダイレクトな性表現を聞いて当惑することもあるので、人のことは言えない。  一番驚いたのはニッキー・ミナージの捉え方だった。Kanye West「Monster」での客演バースは歴史に残る最強のバースであり、そのラウドな印象に引っ張られがちだ。しかし、彼女は女性のラッパーとしての新たな土壌を2010年代に切り拓いた。セクシュアリティに依存しすぎない表現とメロディックなスタイルも取り入れた幅広い音楽性で、リル・キムやフォクシー・ブラウン以降のラッパー像を塗り替えたゲームチェンジャーだと知った。かつて『Pink Friday』を何気なく聴いていた当時の自分の理解の浅さを思い知った。  さらに、ローリン・ヒル、ミッシー・エリオットといった性的表現とは異なる軸で革新をもたらしたラッパーたちも取り上げられており、その音楽性だけではなく、キャリア全体を振り返って後進に対する影響の大きさについて丁寧に書かれている。シンギンスタイルの萌芽をローリン・ヒルに見出すのは新たな視座だったし、ミッシーがいかに才覚に優れた人間なのかもよく理解できた。  本著によれば、かつては女性ラッパー同士が競合構造の中で「一人しか生き残れない」状況に置かれることも多く、それがシーンにおける持続的な定着を妨げてきた要因のひとつとされる。しかし現在では、DEI(ダイバーシティ・エクイティ&インクルージョン)の広がりやヒップホップ自体のさらなる大衆化を背景に、多様なスタイルの女性ラッパーが同時に活躍する状況が生まれている。NETFLIXの『LADIES FIRST』というドキュメンタリーが本著の理解を大きく促進してくれたので、まずはそちらを見てから本著を読むのもいいかもしれない。  どういったサウンドなのかだけではなく、リリックの中身を知るとラッパーについてイメージしやすくなる。英語に明るくなく、USのヒップホップを聞く際にリリックを蔑ろにしてきたが、AI全盛の今はスラングも含めてわからないところは簡単に翻訳できたり、リリックの技巧的な部分を含めてレビューまで生成してくれたり、理解が深まりやすい環境だからこそ、積極的に情報を取っていきたいと感じた。
  • 2026年4月22日
    理系の読み方
    理系の読み方
    去年の友人のベスト10に入っていたので読んだ。人生において理系、文系の選択は大きなものであり、結果的に理系を選択して良かったなと思うこともあれば、別の可能性を想像してしまうこともある。本著では、そんな異教同士を接続させ、新たな小説の捉え方を提示している刺激的な1冊だった。  小説を読むこと・書くことについて、理系視点から講義のように解きほぐしていく構成になっている。一口に理系といっても幅広いが、著者の専攻は「熱力学」「統計力学」。つまり、物理化学的な思考がベースにある。その視点で小説と科学という全く異なるものを重ね合わせて、鮮やかなアナロジーで小説について語っていく。論理的な思考回路で具体的に作品を分析し、そこで得た知見をさらに「読み方」として定式化していく手つきは理系そのものだ。小説と科学を以下のような解釈で接続し、本著の語りの必然性を見出していく点にグッときた。 「わかる」を積み重ねていたはずなのに「わからない」という全体が生成されていて、そういう経験を与えてくれる本に出会うたび、小説と複雑系の自然科学はかなり近い位置にあると思わされます。  特にオモシロかったのは、ミステリーを理系的に読み解くパート。読書に対してわかりやすい答えを求めていないので、正直進んでは読まないジャンルだが、そのゲーム性の高さゆえに表現方法の進化が言語化できるオモシロさに気付かされた。同じジャンル小説のSFに対する視点も鮮やかで、SFを読んでいて苦労するのも小説体験の一部として機能していることがわかったので、これからは挫けることなく読み切れそう。 SFは「理解できない」という感覚が作品の底力となりえるのです。この感覚を使いたいとき、複雑かつ詳細にわたる説明をあえて改行なしに長く続けたりすると「読みにくさ」が「スケールの大きさ」として表れます。  一番ハッとさせられたのは、読書習慣がもたらす功罪に関する指摘だった。長い間、本を大量に読む生活を続けている中で知識や思考の幅は広がった一方で、読んだ本の内容が以前ほど記憶に残らないことに薄々気づいていた。著者も同様の状況だと書かれていた。 慣れによって文章のパターンを知っていき、長く読書をする体力がついたのと同時に、簡単に読み流せるようにもなってしまった。効率良くたくさん読むための技術を知らず知らずのうちに身につけてしまっていて、この読み方こそまさに前回に述べた「『ノイズ』を削ぎ落とす」という行為です。 ノイズを得るために本を読んでいると思っていたが、ノイズと感じるセンサーが死んでしまっているのかもしれない。ただ読書していて、頭に残る数少ない本は、どこかしらノイズがあるものだなと逆説的に気付かされた。  「小説の技巧」をエンターテイメントとして楽しめていないから本が売れていないのでは?という問題意識で本著は書かれている。最後のパートで具体的な作家を取り上げて、その技巧を分析しているのだが、それがなんと滝口悠生!日本の小説家でトップクラスに好きな作家について、理系的なアプローチで読み解かれており興味深かった。  滝口作品に関して言及する際、誰もが人称について触れることになるが、本著は他の追随を許さない圧倒的解像度を誇っている。小説を読んでいるあいだにボヤッと頭に浮かんだことが逐一言語化されており、さらに作品構造を図示して「私」のあり方を整理していく試みも興味深かった。滝口作品の技術的アプローチについて「メゾスコピックな領域で世界を捉える方法」と位置付けており、これぞ理系的な視点だなと感じた。しかも『長い一日』の一文で締め括られる構成も鮮やかだった。小説の読み方に関する示唆を得たい人には理系、文系問わずおすすめしたい。
  • 2026年4月20日
    オートコレクト
    オートコレクト
    エトガル・ケレットの最新作ということで読んだ。新潮クレストからリリースされた『あの素晴らしき七年』でファンになって以来、翻訳されるたびに読んでいる作家だ。この状況でイスラエル作家の小説を読むことに逡巡があったが、国家と個人を同一視する必要はない、そんな当たり前の事実に気づいた瞬間、戦争が思いのほか自分の心に染み込んでいることが怖くなった。それはともかく、アテンションの持続が難しい今の時代にふさわしい形式の小説集だった。  SFのショートショートを彷彿とさせる極めて短い話が大量に収録されている短編集。 訳者あとがきによれば「フラッシュフィクション」と呼ばれる形式で、彼の得意なスタイルの一つらしい。SNSでちょっとした小話を読むくらいの分量であり、隙間時間に読むのにぴったり。男女関係、テクノロジー、宗教とテーマは多岐にわたるが、著者のシニカルさは通底している。ウェットではなくドライだからこそサクサク読み進められた。  話が短い分、比喩表現の鮮やかさにふと心を掴まれる。短いからこそ密度が高いのかもしれない。 人は、本当に起きたことをそのとおりに覚えておくのが、どうも苦手らしい。たとえば記憶っていうのは、洗濯表示を無視して何度も洗った服みたいなものだ。色は褪せるし、サイズも縮む。もともとあった懐かしい匂いも、いつのまにか柔軟剤のランの合成香料にすっかり変わってしまっている。 向こうの部屋では、まだ恐怖というものを知らない好奇心旺盛な男の子が、老人みたいないびきをかいて寝ている。人生の木の幹を、のごぎりで削られているとでもいうような音をたてて。  最もタイムリーに映る話は「犬には犬を」だ。飼い犬をアラブ人のドライバーに轢き殺されたことをきっかけに、ユダヤ人の子どもたちが復讐を企てる。戦争の原初的な衝動にフォーカスしながら、その緊張感とくだらなさの両方が伝わってきた。戦争と子どもの喧嘩を比較はよくあるモチーフだが、「向こうの犬にガソリンかけて火をつける」という具体的な展開があるからこそ、単なるアナロジーの領域に収まらないリアルネスがあった。どちらかが引き金をひいてしまったとき、落とし所はそれぞれが妥協する以外にない。  コロナ禍を題材にした「外」も印象的だった。ロックダウンされて外出できなくなった後の世界で、外出許可が出ても人々は戸惑う。孤独になることの功罪と、他者との関係を構築していく中で徐々に心が死んでいくことをミニマルに描き切っていてコロナ禍をテーマにした作品を色々読んだ中でも鋭い切れ味だった。SNSを眺めることに疲れている人にこそオススメしたい小説集。
  • 2026年4月9日
    ヒップホップ名盤100
    大阪帰省時にblackbird booksで遭遇してゲトって読んだ。このタイトルに求められる、ある種の普遍性をかなぐり捨てて、著者独自のセレクションと視点で単なるディスクガイドを超越した読み物として圧倒的にオモシロかった。  日本でもヒップホップが爆発的人気を獲得する中、「一体何から聞けばいいのか」と途方に暮れている人も多いだろう。そうした場面でディスクガイドは機能するわけだが、とりわけ月1000円で音楽が聞き放題のストリーミング時代においては、その効力がかつてより増している。なぜなら、掲載作品を即座に再生できるから。本著を読みながら、クラシックや隠れた名作を聞き返す時間は最高だった。  アメリカのヒップホップのアルバムから著者が100枚を選び、紹介している本著はディスクガイドと言える。ただし、本著がヒップホップをこれから聞くビギナー向けかといえば、正直なところ難しいかもしれない。というのも、王道は一応抑えてあるものの、玄人志向なチョイスが散見されるからだ。なぜこんなチョイスなのかといえば、定番の名盤情報は今やインターネット上に溢れており、本に頼る必要はないからだろう。それこそ生成AIに細かくプロンプトを与えて、各自のリスニング歴や環境に応じたリストを作ることなんて造作もない。  となるとディスクガイドをリリースする意義がどこにあるか。それは、アルバムのチョイスとそれに対する視点のユニークさに他ならない。同じラッパーやグループでもどのアルバムを選ぶかで、選者の個性が如実に現れるわけで、本著はその点で雄弁である。DJが「人が作った曲を選んで、かけているだけ」と揶揄されることがあるが、AI時代においては「選ぶこと」自体が大きな意味を持つ。その人固有のコンテキストが重要だからだ。「定番ではない方」を選び、それに対して情報を肉付けしている本著は独自のコンテキストを持ち、日本語圏におけるアメリカのヒップホップに対する理解の促進に大きく貢献している。  英語が堪能ではないため、リリックや各ラッパーたちの背景について、そこまで知らず、音楽としてかっこいいかどうかの次元でしか聞けていないことを痛感させられた。100枚のうち7割くらいは聞いたことのある作品だったものの、本当の意味で聞けているかと言われれば、言葉を濁さざるを得ないほど、本著に詰まっている情報の密度が高い。  日本でアメリカのヒップホップが紹介される際、アルバム概略やサウンドデザインが中心で、リリックが深堀りされるケースはそれほど多くない。しかし、本著ではリリックについてライミングまで含めたスタイル、内容が丁寧に紹介されており、各ラッパーの新たな側面を知ることができた。ヒップホップの発祥地であるアメリカには千差万別のスタイルが存在することを、改めて思い知らされた。  冒頭に「2025年に選ぶのであれば」というエクスキューズがあるが、本著は各アルバムを2025年の視点から捉え直すアーカイブとしても貴重だ。ラッパーの女性に対する視点や陰謀史観は特に顕著で、なかでもLil Kimの早過ぎたフェミニズムのくだりは笑った。 他にもリリース当時の時代背景が紹介されているケースも多い。ネット上の情報を後追いして「当時の空気を知っている」ように振る舞うスタンスが個人的に苦手なのだが、著者は筋金入りのラップ好きであり、その点でも信頼できる。年の功がなせるリアルがあった。  100枚のセレクションの合間に挟まれたコラムも読み応えがあった。特に2010年代に関するコラムで紹介されていたChief Kief「I Don’t Like」がもたらした、数文字の脚韻のみで押し切るスタイルは、近年の日本語ラップでも顕著になっており、その源流について知ることができて勉強になった。『ミックステープ文化論』を執筆した著者だからこその視点が光るコラムも興味深い。実際、ミックステープが多く選ばれていることは本著の大きな特徴と言えるだろう。2000〜2010年代にインターネット上で無料ダウンロードできたミックステープ文化はモロに世代なのだが、2000年代前半の作品は聞いたことのない作品が多かった。なおかつ最近はミックステープがストリーミングで解放されているし、去年のMetro Boominによるミクステなど、環境やタイミングが整っていることもあいまって今ミックステープを取り上げるのはベストタイミングと言えるだろう。これを機にディグってみたい。  ここまで刺激的なディスクガイドはなかなかネット上では出会えないと思うので、ヒップホップ大好きな人たちには超推奨な一冊だし、『ミックステープ文化論』も読んでみたい。
  • 2026年3月30日
    菜食主義者
    菜食主義者
    ノーベル文学賞受賞も記憶に新しいハン・ガン。以前に『すべての、白いものたちの』を読んだことはあったが、少しトリッキーな作品だったので、小説ど真ん中の作品を読むのは今回が初めて。あまりの面白さと重厚さに「そらノーベル文学賞取るか」と心底納得させられた。  本著は、中編が3つ収録されており、1つずつ独立した話ではあるものの、すべて繋がっており連作長編といった構成になっている。最初の話はタイトルどおりで、ある男性の妻ヨンヒが肉を食べなくなるところから始まる。この一つの変化からバタフライエフェクトのように壮大な物語が広がっていく点にハン・ガンの筆力が詰まっていた。  「多様性」が叫ばれる現在、菜食主義(ベジタリアン)は何も特別なことではない。しかし、本著が書かれた2000年代初頭の韓国においては、それが社会のルールから大きく外れるようなことなのだと周囲のリアクションから伺える。なおかつ、それが女性という点が話のキーとなっている。なぜなら、家父長制が色濃く残り、女性が家のことをすべて担い、性別役割分担が露骨に決まっている時代背景を「肉を食べない」というトリガーで浮き彫りにしているからだ。「妻が肉を食べなくなった→夫も肉を食べることができない(夫が自分で料理しない)」という論旨が当然になっているし、ヨンヒの父親を中心に、家族全員で無理くり肉を食べさせるシーンは読んでいて心がエグられた。社会や家族が定めた「普通」から少しでもズレた人間を矯正しようとする暴力。それが最終的には精神病院にまで到達する展開は「精神に病を抱える人を、無理くり社会に適合させる必要はあるのか?」という問いさえ突きつけてくるものだった。  近年の韓国文学では、主張が目的化しているケースもあるが、本著はそういった要素だけではなく、小説としての面白さ、凄みも伴っている。それは残り二つの中編で顕著だ。  「蒙古斑」では、アーティストであるヨンヒの義兄がアートを通じてヨンヒと関係を構築し、自身の作品へと昇華していく。といえば聞こえはいいが、結局は性欲の犠牲になっていくおぞましさ。どんどん膨張していく義兄のリビドーと、それをいい意味でも悪い意味でも森のように受け止めてしまうヨンヒの儚さ。その対比が見事で、ページをめくる手が止まらなかった。  最後の「木の花火」はヨンヒの姉が、実質精神崩壊してしまった妹であるヨンヒを救うために悪戦苦闘する。ヨンヒは肉どころか食事自体を拒絶し、命の危機に瀕している状況。なんとか生きていてほしいと懸命に手を伸ばす姉もまた、徐々にすり減っていく。その様子は、読んでいるだけなのにグッタリするレベルだった。家族だからわかりあえる、といった綺麗事がない点にリアルを感じた。 許したり、許されたりする必要さえない。私はあなたを知らないから。  この話が素晴らしいのは、終盤のポエティックな描写である。タイトルの「木の花火」はパッとタイトルだけ読んでもわからないだろう。最後の最後で著者が姉の視点を通じて隠喩と共に語るわけだが、不眠症を患い、明け方に見るその光景の儚さと美しさに人生を感じるのであった。  本著に通底するのは「人間はどこまでいっても他人の心のうちは理解できない」という、当たり前の現実である。では、他者のことがわからない前提のうえで人間はどうやって生きていくべきなのか?暴力を介在させ、自分と他者を同化させることに果たして意味があるのか?そんなことを考えさせられる一冊だった。他の作品もどんどん読んでいきたい。
  • 2026年3月27日
    創造性はどこからやってくるか
    著者の名前を知ったのは、OGRE YOU ASS HOLEのリリースタイミングのウェブ記事がきっかけだった。それからずっと読みたいと思っていたところでKindleでセールされていたので読んだ。新書とは思えない情報量とパーソナルな内容に驚きつつ、著者が繰り返し提示する「天然表現」という概念があらゆる領域に転用可能な理論で興味深かった。  新書というと一般的な概念を体系立てて解説するイメージがあるが、本著では独特の理論とその実践が記録されている一冊となっている。中身としては、最初に著者が構築した理論の解説があり、その理論を適用した作品批評、さらに実践としての創作という構成になっている。  著者はもともと学者であり、理論を考案することは自身の得意領域だ。前半では存分に、自身の持論を開陳し、その勢いのまま後半はコンフォートゾーンを飛び出し、自らの理論を実践する創作に挑んでいく。その過程がスリリングだった。理論を語るものは創作しないし、理論を語らないものは創作するというイメージを持つが、著者はその壁を乗り越えていく。大谷さながらの二刀流挑戦ドキュメンタリーとして抜群に面白い。  特に興味深いのは、通常であれば、作品が理論の適用対象となるのに対し、本著では理論が先行し、それを体現する作品を後から創作するという逆転現象が起きている点だ。理論ベースの作品は頭でっかちでクリエイティブに欠けるのではないか?とつい思ってしまう。しかし、著者は自身の作品のエッジの鋭さをもって、そんな通説に対して鮮やかにカウンターを決めている。特に実家でのインスタレーション制作は、写真付きの制作日誌とあいまって、現代アートらしい理論ベースの制作プロセスが伝わってきて、読みごたえがあった。 では、そんな理論とは何か?読み終えた今も明確には捉えきれていないものの、一番端的でわかりやすいと思えた部分を引用する。 創造とは外部を召喚することだ。相反する二つの概念を共に受け入れる肯定的矛盾と、共に脱色し否定する否定的矛盾を共立させ、トラウマ構造を開くとき、そこに二つの概念を想定し、両者をどう関係づけるかと思案していたときには思いもよらなかった、その思考の外部が召喚される。それこそが創造であり、絶えず創造するシステム、生命の構えである。  「外部が召喚されることが創造」という主張は直感に反するかもしれない。創作においては、作家の主体性がすべてのように考えがちだが、能動的なアプローチだけではなく、受動的に何かが起こるように能動的に手配しておくことも必要だということだろう。これはPUNPEE(ひいてはRHYMESTERも)がたびたび唱えているヒップホップにおける「事故」の重要性と重なる話で個人的には腑に落ちた。閉鎖系の中では要素が少なく何も起こらないが、開放系にして受け入れることで、予期せぬ何かが生まれる。こういった態度は年を重ねるほど難しくなるからこそ、自戒の意味を込めて開放系でいたいと思う。  最初に理論の話から始まるので取っ付きづらさはあるが、これほど深いアート論が実践と共に語られていることが貴重である。たくさんの金言があったのですが、作家最強論に対するカウンターとして、アナロジー含めて「こんな視点があるのか!」と驚いた。 作品が、作家の描き切ったもので、もはやそれ以上、何もそこに関与する外部がないなら、作品は、どこでも、誰が鑑賞しても、作家が意図した通りのものとなる。ビルに入るための電子入構カードを、誰が使っても同じ機能を果たすように、作品は誰が鑑賞しても同じ理解を立ち上げるものとなる。電子入構カードを誰が作ったのか気にしないように、そのような作品は、誰が制作したかの意味を失う。誰が制作しようがそれを忘れても、作品の理解に影響しない。  作家が何かを完成まで作り切るのではなく「完全な不完全体」として作品を提供した結果、多義的な解釈が生まれて、作品としての完成が初めて日の目をみる。鑑賞者の役割や視点についてここまで深い論考はなかなか読めないから貴重である。書籍や日本語ラップのレビューを書く中で、つい当事者の意図に寄せたくなることがあるわけだが、そこに寄せるばかりでは何も生まれない。鑑賞者という立場だからこそ感じるものを、改めて追い求めていきたいと思った。  『天然知能』という別書籍もある著者ならではの科学に対する視座も興味深かった。AIを中心とした科学への過度な信頼に対して疑問を投げかけつつ、安易にアンチ科学となるわけではなく「芸術ベースの科学」を提案していた。つまり試行錯誤と証拠の積み重ねを前提とする現代科学に対し、思いつきを含めてAIが到達できない「外部」へアクセスすることで、人間の当事者性や尊厳を取り戻せるのではないか?という主張が刺激的だった。  本著を読んで「ペギ夫的思考回路」が身についた気がするので、OGRE YOU ASS HOLEも影響を公言している『やってくる』を次に読みたい。興味ある方は、本著のエッセンスが理解できるOGRE YOU ASS HOLEと著者による対談をおすすめしておく。
  • 2026年3月24日
    一私小説書きの日乗 新起の章 堅忍の章 這進の章(4)
    唯一単行本化されていなかった『這進の章』が過去作の文庫化に伴って収録されたと聞いて読んだ。『這進の章』では、亡くなる1ヶ月前までの日記が掲載されており、生活のあらゆる細部が「死の予兆」なのではないかと勘ぐってしまう自分がいて、何とも言えない読書体験であった。  『堅忍の章』はコロナ初期だったのに対して、今回はコロナ禍真っ只中で著者がどのよう日々を過ごしていたのかが記録されている。もはや遠い昔のように感じるが、実際は数年前だということが信じられない。人はこうやって生きていくために忘却していくわけだが、そんな自然の摂理に抗うかのごとく細かく記録されている日記を読むと、当時の空気を思い出すのであった。  日記スタイルにはなんら変わりなく、起床時間、食事の内容、飲酒量、入浴の有無など、定点観測が続いている。その中で原稿仕事、ライフワークである藤澤清造の活動記録の編纂にいかに身を捧げているかがわかる。  基本的に出不精で、家で原稿を書き、晩酌を重ねる日々。しかし、月に一度、藤澤清造の墓のある石川県七尾市までかけていき法要を取り行っている。コロナ禍で移動制限があった中でも関係なく移動を繰り返しており、あれだけ自粛ムードで皆が抑圧されていた中、著者はその影響を受けていないことに芯の強さを感じた。そして「自粛とはなんだったのか?」と以下のラインで改めて考えさせられた。「感染拡大」という社会全体としての課題はあったわけだが、他人が自分の外出の必要性をジャッジする構図はやっぱりおかしい。 この一連の短き時間が、今の自分の生きる原動力。これが不要不急の要件であるわけがない。  一応、関係者には配慮しており、飲み屋で食事していることは記録されているものの場所から人の名前まで「某」という形で基本的には伏せてあった。その中で「ソーシャル」という言葉の使い方がオモシロく、著者の皮肉屋としての側面が発揮されていて笑った。  日記を読む限りでは、眼科や通風での通院はあるものの、死の気配は日記から漂っていないからこそ怖い。会社員だと年一回の健康診断があるので、何か病気があれば見つかりやすいが、フリーランスだとそうもいかないから、自己管理に委ねられる。著者は自分が直接感じない不調については無頓着であり、爆食爆飲道を歩み続けた結果、亡くなってしまった。そんな爆食爆飲がエンタメになっている点が、この日記の醍醐味なので、なんとも言えない気持ちである。(大食い選手権を見ているときと似たような感情を読むたびに抱く。)日記はもう更新されることはないので、残された小説たちをこれから読んでいきたい
  • 2026年3月22日
    羆嵐(新潮文庫)
    令和の熊騒動が記憶に新しい中で、かつて人々が熊とどう対峙していたのかを知りたくなり、積んであった本著を読んだ。大正時代、北海道に入植したばかりの村で実際に起きた、熊による最大規模の被害ということでかなりスリリングな内容だった。  昭和57年初版で手元にあるのは、令和6年59刷…!歴史に名を刻むクラシックだということがよくわかる。文体としてはやや硬派で、慣れるまで若干読みにくさはあるものの、事態が凄惨さを増していくにつれて、リーダビリティを上回る「先を知りたい」という欲求が勝り、いつのまにか読み終わっていた。  舞台は、農業や漁業で生計を立てる開拓期の北海道。そこに現れる羆が、住民を次々と襲い、捕食していく。「熊が人間を襲い、食べる」という事実の原初的な恐怖は、現代と何ひとつ変わらない。ただし、人間側の装備と環境は大きく異なっている。猟銃は一部の人間しか持っていないし、その銃で定期的に猟活動をしているわけではないので、宝の持ち腐れと化している。さらに電気もないので、ひたすら薪で火を炊いて、闇夜の中で羆を警戒し続けるしかない。そんな脆弱な環境を見透かすように、羆が果敢に襲いかかってくるシーンが怖かった。  本著の白眉はスプラッター描写であろう。今の時代に同じような被害が起こった場合、どこまで書けるだろうか?と思わされるほど、羆が人間を餌として食べてしまった結果の残忍さが克明に記録されていた。ひとたび襲われれば、人間はもはや「個人」ではなく「餌」へと変化してしまう。結果として、遺体を扱う側の人間もまた、同様の視点を引き受けざるを得ない。その過程で、人間の尊厳が揺らいでいく感覚が生々しく伝わってきた。読み手ですらそう感じるのだから、遺された家族の心情は想像に余りある。  襲われた村の者たちだけでは到底対処できないので、外部に助けを求めることになるのだが、対照的な助け船が登場する。かたや国家権力である警察を中心とした大量動員で羆を数で制圧するようなアプローチなのだが、いくらたくさんの銃があったとしても、それを扱う胆力や技術がなければ意味がないし、いざ羆と対峙した際の覚悟がなければ烏合の衆にすぎない。巨大な組織では機動力に欠け、フットワークの軽やかな羆の前では無力である。ここには単なる熊被害対応を超えた官僚的システムを否定する眼差しがある。  ジリ貧の状況で羆に相対するのは、銀四郎という名の1人の猟師である。酒癖は最悪だけども、狩りの腕は一級品という男の登場で事態が大きく進展していく。銀四郎と羆のやり取りの緊張感は相当なもので、ページをめくりながらヒヤヒヤしつつも、どんなエンディングが待っているのか続きが気になってしょうがなかった。  警察をふくめ集団では熊を退治することはできず、猟師個人と熊によるタイマンでしか退治できない。つまり、100年以上経過した今でも、熊との戦いが「個」の技量に依存している側面は大きく変わっていない。AIやテクノロジーの進化が叫ばれる時代にあっても、自然との関係において人間が依然として従属的な存在であることを容赦なく突きつけてくる話である。まごうことなきクラシック。
  • 2026年3月9日
    牛を食べた日
    牛を食べた日
    バックパックブックスで買って積んであったことを思い出して読んだ。「飼っていた牛を食す」という一連の流れがドキュメンタリーのように記録されつつ、私たちの食肉文化について考えさせるリーチも併せ持った興味深い本だった。  和歌山県の農村が舞台で、著者と同じ村に住む人が飼っていた牛を食べることに決めて、実際に食べるまでの過程と、その背景が書かれている。当たり前のことだが、私たちが普段食べている牛、豚、鶏といった肉は誰かが捌き、それが食べやすいサイズにカットされ、スーパーに陳列されたり、外食で提供されている。普段はそういった流れについて、意識していないが、本著を読むとその一つ一つの工程に思いを巡らさずにはいられない。  この牛は食肉目的ではなく、牛耕という使役目的で飼われていた。しかし、牛耕がうまくいかず最終的に食べることにしたという。今の日本では特殊な状況が書かれている点が貴重な記録である。(仮に寿命まで飼育したとしても、最終的には産業廃棄物として処理されてしまう現実に驚いた。)  と畜場へ出荷する一日の様子が克明に記録されているのだが、その道中があまりにもドラマティック。牛を運ぶだけでもこれほど大変なのかと、読んでいてハラハラさせられた。そこで発生する矛盾する感情について否定も肯定もせず、淡々と記録している点が印象的だった。  著者は現在の牛肉消費のあり方に懐疑的な立場だ。食用として牛を飼うことで地球環境に与えるコストについても具体的に書かれていて勉強になった。もともとあった自然が、食用牛向けの飼料用の穀物畑や飼育場へ置き換わっていくのは確かに本末転倒に思える。  愛情をもって接していた存在を食べる。この行為に矛盾を感じる人がいるかもしれないが、本著を読むと、矛盾することなく、むしろシームレスに感じる。使役動物から食用動物へ役割が転換するだけで、あくまで生活のために存在しているという認識がある。 動物をまるで家族の一員のように捉える感情移入ではなく、利害の一致で一緒にいる、ということなのかなと思う。最近で言うところの「ビジネスカップル」のような。人と牛のビジネスカップル。  「同じ地球に暮らす動物」というあまりにも粒度の粗いレイヤーで捉えてしまうと、犬や猫のような愛玩動物と混同され、動物愛護の議論へと発展していくのだろう。昨年から話題となっている熊騒動で「熊がかわいそう」と自治体にクレームを入れる人が一定数いたことからもわかる。動物愛護はポリコレと地続きの文脈にあり、昔よりも「熊を駆除することの正しくなさ」に抵抗を感じる人は増えているかもしれない。しかし、そういったクレームを入れるのであれば、食肉ほど暴力的な行為はない。その点について自覚的な人はどれほどいるのだろうか。  本著では、生き物と共生することに関して高い解像度で語られており、机上の空論で「正しいっぽい」ことを言うだけなら誰にでもできるが、実際に命をいただく行為と密接に関わる人たちの現場の声を知ることの大切さを強く感じたのであった。  動物を食べる行為について「かわいい、かわいそう、おいしい」という著者の表現が独特で頭に残っている。本来であれば、生き物をと殺して食べる行為は、これだけ相反する感情が入り混じる行為であるにも関わらず、現代の食肉産業はそこをマスキングしてしまっている現状を端的に表現しているからだ。食肉産業が工業化され、システマチックに市場へ肉が供給されることの利便性を享受するだけではなく、消費者として少しでもカウンターアクションできればなと考えさせられた。とはいえ、結局は家族で焼肉きんぐへ行き、牛タンを何度も頼んでしまう自分の姿が容易に想像できてしまい、生きることの難しさを痛感した。
  • 2026年3月5日
    書店員の怒りと悲しみと少しの愛
    書店員の怒りと悲しみと少しの愛
    ツイッターで印象的な表紙を見かけてオモシロそうだと思っていたら、行きつけの本屋に置いてあったので読んだ。ここ10年ほど比較的熱心に本を読み、書店に通う身としては、読んでいて辛い部分がありつつ、読み手に本が届くまでの実情を知ることができて勉強になった。  本屋の過去、現在、未来について、現役の書店員や店主、さらには退職した人までが語っている。本屋が社会的インフラだった時代は終わりを告げ、斜陽産業だと言われて久しい。とりわけAmazonの登場以降、本はもっとも割を食っている商材の一つだろう。実質無限に在庫があり、ワンクリックで注文可能、翌日には届く。電子書籍も拡大し、ワンクリックで購入してその場で読める。こういった利便性を持つ競合と実店舗の本屋は戦っていく必要がある。  実店舗としての本屋を残していくのであれば、書店、流通、取次、出版社といったサプライチェーンが一体となって、Amazonを中心としたネット通販に対抗するための施策を考えなければならない。しかし、そこまで進んでいない現状が詳しく語られている。当然、過去の経緯もあるのでドラスティックに何かを変えることは難しいのだろう。課題のジャンルは異なるものの、複数のプレイヤーがそれぞれの利害をめぐって揉めることは仕事につきものだなと感じた。  読んでいて辛い気持ちになるのは、単純に「本屋は大変」という批判ではなく、タイトルどおり本屋への「少しの愛」が文章の節々から伝わってくるからだ。むしろ「最悪だ!」と強めにディスってくれたほうが清々しく読めるわけだが、なんともいえない底知れぬ怒りと悲しみが文章からにじみ出ていた。本著に寄稿するくらいなので、筆力がある人が抜擢されているとはいえ、書店員の方々の文章力の高さに驚かされた。  そもそも論として、社会的に小売業に対するリスペクトが少ないように感じる。「ゼロイチで何かを産み出す人間が偉い」という価値観の過度な浸透とは無関係ではないだろう。正直、私自身もZINEを作り、イベントで自ら販売したり、本屋に卸して販売してもらうまで、モノを売ることの大変さをまったく理解できていなかった。モノは置いておくだけで売れるわけではない。小売業に従事する方たちのきめ細やかな創意工夫の積み重ねの結果だということを痛いほど思い知ったのだった。  学生時代、某チェーンのレンタルショップでバイトをしていたのだが、その頃のことも鮮明に思い出した。CDやDVDを無料で借りられるとはいえ時給は最低賃金ポップもバイトが家で作っていた。学生だった自分にとって、自分が書いたポップのCDやDVDをお客さんが借りてくれるのは何とも言えない嬉しさがあった。今振り返れば、その承認欲求を店側にうまく利用されていたのだなと気づいた。  また、BOOKS青いカバの店主である小国氏が言及していた「接客向上」の話にも似た記憶がある。当時の店長が無類のディズニー好きで、チェーン店舗間の接客評価もあったため、「ディズニーランドレベルの接客をこの店で達成する!」と意気込んでいた。丁寧な接客ができない人間はシフトを減らされることになり、「こんな下町のレンタルショップで誰がそんな接客求めんねん」と思って何もしなかった結果、案の定シフトを減らされたのは苦い思い出である。  ネットショップにない要素として「人間による細やかな接客」は確かに実店舗の強みかもしれない。しかし、そんな短絡的なことで利益率の低さをはじめとする産業構造の歪さを解決できるはずもない。接客がお店づくりにおいてコストになっているという指摘が複数の書店員から出ており、異なる現場から同様の声が上がっていることが一冊の中で確認できる点に本著の価値がある。  本屋に行く動機として「目的買い」のケースはここ数年ほとんどなくなった。なんとなくお店に行って、自分の琴線に触れる本を探して買うことが多い。その点では、独立系書店、古書店、新刊書店のどれも等価なのだが、ランダム性が高い独立系書店、古書店に足が向きがちでだ。新刊書店も、子どもの習いごとのあいだに立ち寄ることはあるのだが、どんな本が出てるのか眺めるだけで終わることが多い。そうして「遅かれ早かれ買うつもりの本」をその場で買わないことが、結果としてどれだけ書店の売上を減らしているのか。往来堂書店の店主のインタビューを読んで、そのことを痛感した。  これだけ脊髄反射なエンタメが氾濫する世界では、読書はむしろ知的行為として崇高ささえまとっている。結果として本屋はどこか非日常な場になりつつあるのかもしれない。しかし、実際の商いは泥臭い作業の連続であり、本屋がこれからも悪戦苦闘するであろう実像がわかる本として、これ以上のものはないだろう。  そして、発行者である長嶺氏の最後の言葉が印象的だった。本屋や書店員に皺寄せがきている、取次、出版社もこの状況を打破するために協力できないのか?といった声が本著にこれだけ集まった中で、こんなことはなかなか言えない。 私は、書店がどんなに苦労しているとしても、同じ業界にいるからといって、出版社がその苦労を分かち合うべきだなどとは思っていません。  一見すると極めてドライな意見に映るが、泥舟のなかで足を引っ張り合い「しんどいから一緒に苦しもう」というのは解決策ではない。「もっと未来を切り開く可能性を模索しよう」という前向きな態度の現れだと受け取った。読了前後で本屋および書店員に対する解像度が一気に変わるので、本が好きな方にとってはマストで読むべき一冊。
  • 2026年3月2日
    リック・ルービンの創作術
    リック・ルービンの創作術
    Mu-tonのMVで登場したり、ISSUGIがスタジオ紹介で言及していたり、そしてついに曲名(BABYWOODROSE「リックルービン」)やリリック(Campanella「Monarch」)にまで登場しているリック・ルービンによる書籍。タイトルどおり、彼がどのようにクリエティブを発揮して、創作に向き合っているか、それを余すことなく書いてくれている一冊で興味深かった。  リック・ルービンはヒップホップ創成期の立役者であり、Def Jam Recordingsを立ち上げた一人でもある。個人的には、Jay-ZやKanye Westのクラシックに関わっていることでその名を知った。特にJay-Zのドキュメンタリー『Fade to Black』における「99 Problems」の録音シーンが印象的だ。他にもKanye Westにとってキャリアの分岐点となった『YEEZUS』にも彼の存在が背景にある。そんな彼が音楽業界でいかにトッププロデューサーとしてやってきたか、そのノウハウや思考がたくさん詰め込まれている。  読み始めて気づくのは、スピリチュアルな語り口が強いということ。宇宙とのコネクション、運命論的な発想は、正直受け入れづらいなと思いつつも、過剰に主張されるわけではなく、むしろ創作において前のめりになりがちな意識を一歩引かせるための装置のようにも映る。能動的な姿勢も大切だが、受動的な姿勢で適切なタイミングを待つことを伝えるための比喩としての「宇宙」と解釈すれば腑に落ちた。  今回は通読したものの、本著はそれよりも自分がクリエティブなことで煮詰まった際に、リック・ルービンならどのように考えるかを教えてもらう、辞書や事典のような読み方が適切だろう。 本の構成としてもアイデアベースから始まり、アートが完成に至るまでの各工程に応じた、具体的なハウツーから抽象的な考え方まで網羅的に抑えてくれているので、読むというより「使う」に近い。なので、スタジオに置かれている理由もよくわかる。そういった用途を想定したような圧倒的な装丁の美しさは特筆すべきポイントだろう。手に持ったときの重厚感が素晴らしく、本著で語られているクリエティブを体現しているとも言える。こういった理由から必ず紙の本で買うべきと断言しておく。  自己啓発書で似たようなことを書いている本は探せば、正直見つかるかもしれない。しかし、結局のところは「どの口が何言うかが肝心」であり、リック・ルービン御大の言葉だからこそ響くのだ。彼は冒頭で「生きているだけでアートだ」と喝破する。アートを特別な領域から引き下ろし、間口を極限まで広げる。それは明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」を彷彿とさせるもので、誰もがアートにコミットできるとエンパワメントしてくれているようだ。他にも、アートのために別の仕事をこなすことは、純粋な作品を作ることができるベターな方法だとダブルワークを肯定していた。サラリーマンとして働きながら、ZINE作りを続ける身としては勇気づけられた。  オール・オア・ナッシングで、何も手につけられないことは、アテンションエコノミー時代には往々にしてあることだ。完璧を目指さなくていいから手を動かして一歩目を踏み出し、6〜8割の出来でも走り切ったときに見えてくる風景を目指せ、というアドバイスが刺さった。なので、次のZINEを作ろうと思って、今は少しずつ手を動かしている。
  • 2026年2月23日
    本と偶然
    本と偶然
    フェイバリットなSF作家であるキム・チョヨプの初エッセイ。去年読んだ『サイボーグになる』が興味深かったので楽しみにしていたが、その期待を上回る素晴らしいSFエッセイだった。SFを読むのも好きなのだが、他人の語るSF論も好きなのでドンズバな内容だった。  エッセイ集ではあるものの、生活の話というより著者の読書遍歴と作家論が中心となっている。これまでの作品を読んできた読者からすれば、作品や彼女自身の背景を知ることができる最高のビハインド・ザ・ストーリーものである。  『サイボーグになる』もノンフィクションという点では共通しているが、内容もあいまって文章が硬かった。それに比べて本著は柔らかく読みやすい。自然体で自身のことを語っており、著者の誠実さが文章からヒシヒシと伝わってくるエッセイらしいエッセイだ。  著者の小説はSFではあるが、いわゆるハードSFではなく、現代社会とどこかしら地続きなものが多い。ゆえに私を含めてコアなSFファンに限らず、広い読者層に届いているのだろう。意図的に柔らかいSFを書いているのかと思いきや、実際には結果としてそうなっているようで、本人は思いのほかSFというジャンルにこだわりを持っている。自分の作品評価や業界での相対的なポジションについて極めて自覚的で、その視点の鋭さに唸った。  前述のとおり、制作裏話がところどころに挟まれており、ファンにとってはありがたい。なかでも『サイボーグになる』は執筆における苦労に関してかなりの分量で書かれており個人的に嬉しかった。そもそも著者が「SF作家によるエッセイ」を愛読してきており、その系譜を自覚的に引き受けているのだろう。 SF作家のエッセイは作家の日常をのぞき見できるばかりか、当人のジャンルと作法に関する話までたっぷり聞けてしまう、作家仲間としてはまことにありがたい秘蔵の玉手箱なのである。  興味深いのは、著者が必ずしも熱心なSF読者として作家になったわけではないという点だ。作家になってから、どうやってキャッチアップしていったか、読書遍歴と共に語られる。とにかく科学ノンフィクションの素養がハンパない。玉石混合の割に分量が多く、本屋では取扱いも少なく単価も高い科学ノンフィクション。こういったいくつものハードルがあるにも関わらず、著者のアンテナはバリサン。タイトルだけで読みたくなる本がわんさか登場する。さらに著者の柔和で真摯な語り口も読みたくなる気にさせてくれる。  著者は、自身の創作を「内面から湧き出る想像力」だけでなく、「外部から集めた素材を積み上げていく営み」に近いと語る。その比喩は料理や建築に例えられていたが、私にはサンプリングから始まったヒップホップの方法論とも重なって見えた。ラッパーのC.O.S.A、プロデューサーのKMなど、著者の作品が局地的にヒップホップ業界で人気があるのは、こういった背景も影響しているのかもしれない。  また、大学院で研究に挫折した経験も率直に語られている。著者の言うとおり、科学的なものが好きなことと、実際の科学の現場、特に研究業務には大きなギャップがある。レベル感は違うが、私も高校で理系科目が他より得意だったから大学で専攻したものの、まったく好きになれなかった。結果的に現在の仕事が研究職ではない自分に負い目がある。そんな負い目について著者も繰り返し吐露しており、そんな葛藤を乗り越えて、作家として確固たる地位を確立しているのだからかっこいい。  書評に関するチャプターは踏み込んでいる印象を受けた。本の評価に対するアンビバレントな感情を結構な分量で書いており、小説家がここまで踏み込んで書いているものを読むのが初めてだった。書評が単純な感想に閉じずに脈絡を構築し、誰かの読書に貢献する可能性についてはまったくもって同意で、その気持ちでこのブログを延々と書いている。(著者が書評集を出そうとして、友人から「黒歴史になるからやめとめけ」と止められた話は、個人で書評ZINEを作った身としては耳が痛かった…)  本を通じた作者と読者のコミュニケーションへの言及が最も興味深かった。そもそも小説を通じてメッセージを伝え、それを読者が受け取るという手段は、効率だけを基準にすれば信じられないほど非効率である。しかも今は、作者の意図から逸脱する読解が許されにくい「考察の時代」でもある。そんな中で、著者がコミュニケーションの失敗にこそ可能性があると言っている点に、安易な逆張りではない本への愛を感じたのだった。 作家が読者に意味を伝えつくすことに失敗し、読者が作家の意図を把握しつくすことに失敗することで、本は本来より拡張した存在となる。(中略)読むことを試み、読むことに失敗し、時に誤読が拡張の可能性へと変貌する個然の瞬間を期待しつつ、誤解と理解のあいだを行きつ戻りつしながら本に無数の意味を盛り重ねていくその作業を、わたしは喜ばしい気持ちで追いかけたい。  最後に語られている現代社会における科学の立ち位置についての視座も新鮮だった。陰謀論や疑似科学はくだらないものだと科学の合理的な価値観から説明することは可能だが、結局は科学も人間の営みだからこそ、どこまでいっても非合理性からは抜け出せない。そんな悲観的な視点から、正直さ、誠実さ、明確さ、開放性といった「科学的価値」を選び取る姿勢を示しており、今の時代に必要な態度だと感じた。  巻末には本著で紹介されたブックリストがついていて、日本語への翻訳状況も含めて一覧で見れるのは本好きにとって貴重な資料である。そんな本への愛に溢れた最高の一冊だった。
  • 2026年2月16日
    2011年の棚橋弘至と中邑真輔 (文春文庫)
    いくつかKindleで積んでいる柳澤健による『〇〇年の〜』シリーズ。先月、コンビニでプロレス雑誌を見かけたのだが、そこに踊っていたのは「棚橋、引退」の文字だった。それをきっかけに本著を読んだ。著者の作品を読むのは5冊目になるが、これが一番好きだった。なぜなら、自分が子どもの頃にど真ん中で見ていた新日本プロレスの物語だったから。当時は理解できていなかった背景、新日本プロレス再生の道程を知り打ち震えた。  本著は、棚橋弘至と中邑真輔という二人のレスラーを軸に、2000年代から2010年代の新日本プロレスを描くドキュメンタリーである。当時の新日本は総合格闘技(MMA)隆盛のあおりを受け、その棲み分けの過渡期にあり、厳しい状況が続いていた。そんな中で二人の若者が文字どおり地べたを這いつくばって、自らの愛する団体を再び輝かせるために試行錯誤する。その歩みが、個別の章から徐々に交差し、やがて結実していく構成は見事というほかない。  黒いショートタイツと黒いリングシューズに象徴されるストロングスタイル。そのストイックに強さを誇示していく姿勢に惹かれ、カール・ゴッチを始祖としたストロングスタイルを継承する西村、柴田、後藤らがマイフェイバリットレスラーだった。ゆえに当時の棚橋はアウトオブ眼中で、彼が新日本の中心に来たころ、ちょうどMMAが隆盛するタイミングでプロレスから離れてしまったが、その後にこんなにアツい展開があったなんて…やはり冬の時代だとしても、自分が好きなら変わらず見続けることが大事だと痛感した。底辺から頂点までかけ上がっていくのを一緒に伴走することは、お金で買えない時間がもたらす最高の醍醐味だからだ。  太陽と月のような二人だからこそ、プロレス観の陰影がくっきりと浮かび上がり、その対照性に魅了される。そして、その中心にどう転んでも存在するのがアントニオ猪木だ。棚橋は一貫して反猪木でエンタメとしてのプロレスを追求していた。一方、中邑は猪木の掲げる「プロレスラーが最強」という思想を体現する舎弟として登場したものの、総合格闘技をマージしたスタイルでは結果を出し切れない。しかし、そこから自分のプロレスラーとしての自我をか獲得していき、最終的にエンタメプロレス最高峰であるWWEまで到達するのだから人生どうなるかわからないものである。しかも、必殺技の名前が「ボマイェ(今はキンシャサ)」という猪木へのオマージュという逆説も素晴らしい。つまり、「King of Strong style」という中邑オリジナルのスタイルで、猪木の象徴であるストロングスタイルを再定義、更新しているのだ。  棚橋パートで最も興味深かったのは、本人の卓越した言語化能力である。現役レスラーとして連載を持ち、そこで現状のプロレスを高い解像度で自ら分析、言語化していたことには驚いた。本著では、彼の思考を思う存分、堪能できる。ビジネス論であり、アート論でもあり、プロレスをあらゆる角度から検証し、「自分に何ができるか?」を考え続ける姿勢から深いプロレス愛をひしひしと感じた。引退後、新日本プロレスの代表取締役に就任したというのも、レスラーよりも天職かもしれないと思わされた。  様々な第三者の視点も二人の物語を肉付けする重要なファクターだ。不遇の世代である永田や真壁の客観的評価や、観客代表であるユリオカ超特Q、ハチミツ二郎まで取り入れる大胆さ。特に中邑のチャプターへ突入する直前のユリオカ超特Q(と著者)による刃牙オマージュが最高。  さらに当人たちのインタビューをふんだんに取り入れていることも、私がこれまで読んできた柳澤作品になかった特徴である。たとえば『1984年のUWF』では当人取材なしのアプローチが議論を呼んだわけだが、本著はプロレスファンの多くが納得するであろう圧巻の情報量と整理力で目から鱗だった。試合描写はもちろんこれまでの作品と同じく素晴らしい。前半は試合描写を抑えめにして、ここぞという場面で細かく描いていくあたりの緩急も抜群で、著者の作品を読んでいると、試合を見ていないにも関わらず、毎回見たような気持ちになるのだから不思議である。  今回は評伝的要素ももちろんあるが、新日本プロレス史でもある。特に子どもの頃に理解できていなかったプロレスにおける表向き人事の裏でうごめく政治的力学が興味深かった。橋本小川の件、猪木の横暴っぷり、坂口から藤浪への権限移行、武藤と小島の全日移籍など、すべてに意味があり、そこには泥臭い人間ドラマが背景にある。  大人になった今その背景を知ると会社人事そのものだ。プロレスは「勝ち負け決まっているヤラセでしょ?」と揶揄されるが、会社の人事も一事が万事、「根回し」という名のヤラセが事前に行われた上で決裁される。MMAが等身大の人間ドラマだとすれば、プロレスには「政治」という別ベクトルの人間ドラマがあることに今さらながら気づかされた。  ラストの西加奈子の解説も素晴らしい。プロレスファンが抱えてきたアンビバレントな感情を見事に言語化している。彼女がかつて同じタイミングでプロレスから離れていたこと、そして再び魅了された理由が、棚橋と中邑の切り拓いた「開かれた世界」にあったこと。プロレスを改めて見てみようかなと、プロレス熱に再びを火を灯してくれる最高にアツい一冊だった。
  • 2026年2月12日
    父親が子どもとがっつり遊べる時期はそう何年もない。
    大阪帰省の際、blackbird booksで見かけてタイトル買いした一冊。タイトルに掲げられた事実を踏まえ、自分はどう振る舞うべきかを考えさせられる内容だった。  著者は三児の父。関西出身で神奈川郊外の海辺に住み、都内でサラリーマンとして働いている。そんなペルソナの父親が、育児とどう関わっているかが記録されている。遊ぶ時間が短いとわかっていればこそ、日々の関わりは本来尊いもののはずだが、その瞬間にはなかなか実感できない。その前提を踏まえた著者なりの育児奮闘記であり、ノウハウ本というより「こんなことしてます」という日記的なものなのでグイグイ読めた。  自分の今の状況とは子どもの人数や就労状況などが異なるので、単純に重ね合わせることはできないけれども、著者が子どもと一緒に何かをすることに重きを置き、それに全力で応える子どもたちの元気いっぱいな姿が目微笑ましい。  本著で繰り返し唱えていることは、子どもと遊ぶときの「準備」の大切さだ。ただでさえ子どもは色んなことでまごついてしまう。だからこそ、大人サイドの準備不足による時間浪費を最小化して、いかにスムーズに導入し、楽しくできるか。時間があると、つい自分のことに時間を使ってしまいがちだが、子どものいないところで子どもを思って事前に行動しておく必要性を感じた。  読み応えが最もあったのは、子ども二人を連れての四万十川を川下りするパートだった。新宿から夜行バスで高知へ向かい、河原でキャンプをしながら数日かけて川を下る。その冒険譚はどこか椎名誠的だと思っていたら、実際に本人が帯を書いていて腑に落ちた。著者のような行動力はなく、無類のインドア派で行動に移せないことが多いので見習いたい。  本著は2016年の刊行であり、この十年で父親の育児参加を取り巻く状況は大きく変化した。育児休業の実質的な義務化もあいまってコミットする男性は確実に増えている。当時はまだ父親の育児参加が珍しかったこともあってか、「父親」であることを強調する構成は今読むと違和感を感じた。(著者が一人称を「オトン」としていることも、違和感を助長している気がした。)つまり、父と子どもの時間が中心で「家庭の育児」という全体像が見えづらいのだ。育児にコミットしていることは伝わるのだが「非日常はオトン、日常はオカン」という性別役割分担に映るのだった。  当然、男性サイドが育児に参加していなかった状況なので、それを打破するためには男性に育児に対して目を向けさせる必要がある。その認識を基にして、ウェブサイトを作ったり、そこでの連載が本著という形で本になったり、他にも巻末で紹介されているような施策を事業として企画している。そういった草の根の活動があってこそ今があるのは間違いない。  一方で男性が育児を語ることの難しさは、自分が育児のZINEを作って初めて認識したことだった。「男性」という属性が付与されるだけで、もともと女性が日常的に担ってきたことが特別視されてしまう。ある種、下駄を履かされている状態である。自分では、そのあたりのドヤ感が出ないように配慮したつもりでも、本というスタティックな情報になると、そのニュアンスが出てしまう。「育児本」と一言で圧縮してしまうと、こぼれ落ちてしまう話でバランスを取ったつもりだったが、機能しないこともあるのが現状で、結果的にイクメン文脈に回収されてしまう状況について、本著を読んで改めて考えさせられた。
  • 2026年2月10日
    なぜ書くのか
    なぜ書くのか
    タナハシ・コーツの新作でこのタイトルとなれば読まざるを得ないと思って読んだ。『世界と僕のあいだに』で好きになって、そのあと小説『ウォーターダンサー』を読んだが、アフリカ系アメリカンの立場からアメリカの過去から現在をリリカルに描き出す書き手だという印象を持っている。本著も紀行文の形式でありながら、彼自身の思考をユニークな表現で提示してくれている一冊だった。  第1章ではタイトルどおり「書くこと」に関する論考が展開されるが、それ以降はセネガル、パレスチナ、アメリカ南部を訪れ、自身の目で見て、耳で聴いて得た知見を基に、彼ならではのパースペクティブで現状を分析している。インターネットのおかげで、なんでもわかったような気にはなっていても実際に訪問して見える景色は別物だと痛感させられる。上記の訪問場所は、時間的、精神的にもコストを伴うものであり、コーツほどの筆力であれば行かずとも素晴らしい文章を書けるだろうが、きちんと取材して自分の中で腹落ちしたものがアウトプットとして出てきている書きっぷりに彼の真髄を見た。  邦題は「書くこと」に寄せているが、著者が最初に提示するのは読む必要性である。試合中の不慮の事故で四肢麻痺となったアメフトのワイドレシーバーの話や、シェイクスピアとラキムへの言及を通して、読むことの意味とナラティブの力が語られる。独自の視点でツカミはバッチリだ。  第二章は初めて訪れるアフリカの地・セネガルの旅行記であり、同時にアフリカ論でもある。ワンドロップルールの不条理さをアフリカの視点で、おもしろおかしく描いているところにウィットを感じる。さらにトニ・モリスン『青い目が欲しい』を引用しながら、外見と人種の問題へと接続していく。アフリカを訪れた経験によって西洋的価値観が相対化され、「西洋の枠組みの外側にもカルチャーがある」という主張は、自分の好きなヒップホップやR&Bの在り方を考えさせるものだった。 私たち自身の人生や文化ー音楽、ダンス、書くことーはすべてこの「文明」の壁の外側という不条理な空間で形作られてきた。これが私たちの団結した力となる。  ちょうど選挙のタイミングで読んでいたこともあり、サウス・カロライナ州を訪れて教育委員会の会議に参加する第三章が一番グッときた。著作である『世界と僕のあいだに』が禁書になりそうという話を聞きつけて、現場に自ら足を運ぶ。そこでは賛成派、反対派による派手な衝突が起こるわけではないのだが、禁書に反対する市民がその場で意思表示を行い、誤った判断が是正されていく。そんな当たり前とも言える場面が印象に残った。こういった市民活動の成功体験が政治との距離を縮め、市民の連帯が民主主義を支えているのだと感じた。今の日本に必要なことはこうした生身の横の連帯なのではないか。必要以上に個別化が進み、接触頻度の高いSNSの情報に振り回される現状が、本著を読むと空虚に映った。  そして、もっともページ数を割いているのが、パレスチナ訪問に関する4章である。今に至るまで続く紛争以前のパレスチナの日常や社会の空気といったリアルな実情を手記で読めることが貴重である。外形的な情報はネットや専門書で得ることができるかもしれないが、パーソナルな視点と論考を行き来する構成だからこそ地に足がついている印象を持った。  著者ならではの視点といえば、アメリカにおけるアフリカ系アメリカンと、イスラエルにおけるパレスチナ人の立場の比較であろう。人種差別の被害者であった歴史を持つユダヤ人が、パレスチナ人に対して加害者として振る舞っている現実に驚いた。真綿で首を締めるようなイスラエルからパレスチナ人に対する迫害の状況に読んでいて苦しい。さらにアメリカとイスラエルの複雑な関係性が、アフリカ系アメリカンである著者がパレスチナを訪れる過程のなかで徐々に立ち現れる。読者は著者に伴走するように未知の過酷な現実を知っていくことになりスリリングだった。  著者は過去と現在を接続して自分のリアルな手触りを語り下ろしていく手腕が本当に見事だなと今回も感じた。調査能力もありながら、その結果を噛み砕き、さらには自分の経験もスムーズに混ぜ込んでいく、エッセイ以上論文未満のこの塩梅が、個人的にはとても心地よい。このブログや日本語ラップのnoteも著者のようなスタイルでやっていきたい。 書くこと、書き直してゆくことは、たんに真実を伝えるだけでなく、真実がもたらす恍惚をも伝えようとする営みなのだ。私にとっては、読者に私の主張を納得させるだけでは十分ではない。私が一人で感じているあの特別な歓びをともに感じてほしいのだ。世のなかで、誰かがその歓びの一部でも共有したと聞くことは嬉しいものだ。
  • 2026年2月5日
    フェミニズム入門
    ずっと読もうと思っていた中で友人からレコメンドしてもらって、ついに読んだ。今読むと新書とは到底思えないほど専門的内容が詰まっており、フェミニズムの学問的側面を知る上で興味深い一冊だった。  フェミニズム研究者である著者によるタイトルどおりの入門書。初版は1996年で、ちょうど30年前の本になる。正直、本著を読むまでは「フェミニズム」と聞いても「女性が奪われてきた権利を奪還していくための思想体系」くらいの印象しか持っていなかった。しかし、実際にはフェミニズムと一言にいっても多様な立場が存在する。思想体系という横の広がりと、歴史という縦の深さ、両方をカバーしてくれているので、2000年直前までのフェミニズムの全体像とグラデーションを把握することが可能となっている。  冒頭、<女性に関することなら何でもフェミニズムであると誤解しているお気楽な輩>とあり、いきなり首根っこを掴まれたような気持ちになった。第一章は当時のフェミニズムの立脚点を宣言するような文章であり、未来への期待も感じさせる。  本著を読んで最初に驚いたのは、第二章で紹介されているフェミニズムの多様さである。9つもの潮流が紹介されており、これらをすべて一括りに考えてしまうから、理解が進まないのかもしれない。個人的には「精神分析派フェミニズム」における、ナンシー・チョドロウの主張が印象的だった。性的役割分業が従来から変わらず、母親のみが育児を担うという性的役割分業がジェンダー差異を生み、性別意識を再生産するという指摘は、男性の育児参加がフェミニズムと接続していることを示している。男性として育児ZINEまで作った身としては驚いたのだった。 チョドロウは、このようなプロセスで形成される心理的性差は、性別役割分業体制の産物であるから、分業の解体、特に「初期の親業を男女で分かち合う」ことが、男女間の情緒の非対称性を変えていくことになると示唆している。彼女の理論は、性別役割分業の改変が、男女の外的存在形態のみならず、心理的存在形態も変革せしめるという、実践的な問題提起を行っていて、大きな影響力をもっている。  日本におけるフェミニズムの歴史を深堀りしてくれている点も勉強になった。平塚らいてうなんて、学生の頃の教科書で見た歴史上の人物の一人でしかなかったが、本著を読むと彼女の来歴や思想を具体的に知ることができて興味深かった。母性主義を掲げているがゆえに近代天皇制の家族主義に取り込まれ、フェミニズムが弱体化していく流れは全く知らず、国ごとの社会背景によってフェミニズムの様相が大きく異なることを知った。  そのあと、戦後のフェミニズムへと流れていくのだが、日本のフェミニズムが他責ではなく自責に向かってしまったという見立ても興味深い。新左翼の影響を受け、自己否定や自己批判を基に、女性自身の内面分析へと向かっていく。外部の制度的抑圧が問題であるにもかかわらず、社会制度を批判するのではなく、自身の内部に解決を求める姿勢は、どこか日本的にも思える。  日本のフェミニズムといえば上野千鶴子が頭に思い浮かぶが、本著では彼女の功罪を冷静に分析している。フェミニズムを女性の問題から家族の問題へと転換し、性別役割分担という男女関係の問題として提示したことで大衆化に成功した一方、女性の搾取構造そのものが見えにくくなったという指摘は新鮮だった。こうした学問的対立の存在を知れたことも収穫であり、上野自身の議論も読んでみたいと思わされた。このように興味の射程を広げてくれる点で、本著は確かに入門書として機能している。  最後の章では家父長制、ジェンダー、性暴力といったテーマがフェミニズムの理論的解釈と共に紹介されている。このパートが一番興味深かった。当然、フェミニズムの実践となれば、具体的な行動がなければ現実は変わらない。それゆえ、具体的な事象について取り上げる場面を多く見るが、その事象の背景にどういった学問的理論があるか。それを知っているか、知らないかで解像度は変わるだろう。そういった意味で、本著はフェミニズム的問題を新しい切り口から理解するための視点を与えてくれる。  ただ、著者はむすびで、理論に傾倒することがフェミニズムではないと述べている。繰り返しになるが、あくまで日常的な実践を伴ってこそ現実は変化していくからだ。 フェミニズムは、人間的現実を突きつけて、何重にも錯綜した欺瞞や仮象の体系を解体しようとする、日常的、理論的実践である。解体の後に何がくるのか、それを発見していくことにこそ、尽きせぬ快楽の泉があるといえるかもしれない。  女性の首相が誕生したこと自体はジェンダーバランスの上では歓迎すべきことだが、彼女が日本の歪なジェンダーバランスの是正に積極的かといえば、そうとは言えない状況である。これだけではないけども、今回の選挙までの流れふくめて、国民は舐められまくっているわけで、選挙で自分の民意を示していきたい。みんな選挙いこ!(定期)
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