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Yamada Keisuke
@afro108
乱読の地層。
  • 2025年10月9日
    本が生まれるいちばん側で
    空前のZINEブームの中、私もその流れに乗るようにこれまで二冊を制作してきた。本にそこまで関心がない人にとっては、なぜZINEがこれほどまでに盛り上がっているのか不思議に思うかもしれない。本著は、そんな「本を作ることの醍醐味」を印刷業の視点から解きほぐしてくれており、自分の欲求が言語化されているようだった。  長野県松本市にある藤原印刷で働く藤原兄弟。二人とも東京出身で、東京で印刷とは異なる職に就いたのち、祖母が創業し母が継いだ藤原印刷で働き始める。出版業界の斜陽化が叫ばれて久しいが、印刷業もまた同様に厳しい。既存の堅実な仕事だけでは先行きが見えない中、彼らは個人出版の印刷を新たに受注し始めた。そんな挑戦の歩みと、実際に手がけた作品の背景が丁寧に綴られている。  現在、ZINEの印刷において主流となっているのは、ネットプリントであろう。私自身も小ロットかつ安価に制作できるその利便性から活用している。本著ではその利便性を認めつつも、「本が生まれる」過程そのものをもっと楽しんで欲しいと語られており、装丁を考え、制作することの面白さが、具体例と共に説かれていてワクワクした。  これまで私は「本は中身がすべて」と思っていたが、実際に作ってみて気づかされたのは、「モノとしての佇まい」が手に取られるかどうかを大きく左右するということだった。本著には、そんな「見た目」をいかに工夫できるか、その知恵と情熱がこれでもかと詰まっている。兄弟がともにベンチャー企業で働いていた経験も影響してか、本作りに対する前のめりなエネルギーを感じる。営利企業である以上、利益は当然大切であるものの、クライアントに最適な答えを導き出そうとする社内全体の活気が伝わってきた。  装丁がユニークな本の事例がたくさん紹介されている、その本自体の作りがユニークというメタ構成も見事である。一番わかりやすい例として、本文に五種類もの紙が使われている点が挙げられる。さらに、文字をあえて薄く印刷する技術なども実物で提示されており、説得力がある。  情報の中心は今やインターネットにあることは間違いない。しかし、その情報は流動的であり、いつまで残っているかもわからない不安定なものだ。そんな状況で、ZINEがブームになっているのは、本著でいうところの「閉じる」行為によって、情報や感情を固定したい欲望が背景にあるのだろう。私自身もブログで書いていた書評やポッドキャストの書き起こしをもとにZINEを制作した。ネット上で読んだり聞いたりできるにもかかわらず、多くの人に手に取っていただいたのれは、発散していた情報を「閉じる」という行為によって文脈を与えられたからだと感じる。本著にある「自分が編み上げた世界」という表現は、まさにその感覚を言い当てている。 紙の本は印刷された瞬間に情報が「固定」される。つくり手にとっては「伝えたいことをノイズなく齟齬なく伝えられる」ということだ。自分が編みあげた世界に読み手をぐるぐる巻き込むことができる。  終盤の「出版と権威」に関する話も示唆的だ。藤原印刷やネットプリントのように個人の印刷を請け負うサービスや、電子書籍が登場する以前、本を作る行為は特権的なものであった。つまり、本を発行するには、誰かに認められる必要があったわけだ。しかし、今は誰もが自分の意思で本を作ることができる。その自由を謳歌するように、多様な立場の人が本を作ることで、世界が少しずつ前進していく。本著の高らかな宣言には多くの作り手が勇気づけられるだろう。  奥付のクレジットも通常よりも詳しくなっており、本づくりの工程に、どれだけたくさんの人が携わっていることが明示されていた。「クラフトプレス」ならではの心意気と言える。自分の今のスケールだと藤原印刷で依頼するほどではないのかと正直思ってしまうが、いつかお願いできる日が来ればと思わずにはいられない。
  • 2025年10月2日
    日本語ラップ 繰り返し首を縦に振ること
    日本語ラップに関する批評の本ということで読んだ。日本語ラップを批評的に扱う作品は、先日読んだ『アンビバレント・ヒップホップ』などがあるが、依然として数は少ない。そうした状況において、本書は批評という切り口から本格派の登場を告げる一冊であり、日本語ラップを聴く楽しさを論理的に理解できる醍醐味がふんだんに詰まっていた。  三部から構成されており、第一部が日本語ラップ概論、第二部が批評論、第三部が具体的な作品批評としてSEEDAのアルバム『花と雨』を取り上げている。第一部は著者の日本語ラップ観を提示する宣言のような章で、テーマは「一人称」である。ヒップホップが他の音楽と決定的に異なるのは、極端にパーソナル性を要求する点だと説かれる。  その「一人称」を起点に展開される「宇多丸史観」は本著の白眉である。現在では映画批評などを通じ、日本カルチャーにおける批評的眼差しの第一人者といえる宇多丸だが、彼が日本語ラップにおいて打ち立てた「一人称」こそが重要であり、すべての始まりだったという見立ては興味深い。当初は空洞だった「一人称」に、さまざまな出自のラッパーが登場することで、日本語ラップが本来のヒップホップのあり方に近づいていく流れに、まさしく首を縦に振った。宇多丸の批評的立場を真正面から評価する言説がほとんどなかった中で、本書は歴史的な一冊といえる。長年ヒップホップを聴き続けてきたリスナーだからこそ得られる視座と言えるだろう。  また、いとうせいこうが「日本語ラップの創始者」とされることへの違和感が見事に言語化されていた点も印象深い。ヒップホップを「盗み、差異化する概念」として捉えるか、それともオーセンティックな音楽として「ヒップホップ」に忠実であるか。この二つをわけて論じることで、日本語ラップにおけるアティチュードの重要性が浮かび上がる。これは現行シーンのラッパーにも当てはまる課題だろう。海外で流行するスタイルをそのまま日本語で行うのか、それとも異化させて日本語の表現としてのヒップホップを模索するのか。そのアティチュードはいつの時代も問われるからこそ、本著で改めて整理されたことの意味は大きい。  第二部は批評そのものについて議論が展開される。正直にいえば難解で、日本語ラップが好きで読み始めた人はここで挫折してしまうかもしれない。私自身も、著者の主張の半分も理解できているか、怪しいところである。議論が抽象的かつ、さまざまな言説が引用され、それこそサンプリングミュージックよろしく、チョップ&フリップしているようだからだ。元ネタにあたる哲学的な議論の難解さに加えて、さまざまな論点を接続していくので、この手の言説に明るくないと厳しいものがある。しかし、この手法こそが日本語ラップ的な批評の実践であり、以下のラインはそれが端的に表現されていた。 言葉を名で呼び、連関から破壊的に抜き取り、それを新たなテクストのうえで韻を踏ませて。根源へ引き戻す過程を経て、引用された言葉に新たな「死語の生」を生きさせること。  わかりやすいのはタイトルにある「繰り返し首を縦に振ること」と批評の関係性である。この動作は、BPMが85〜100ほどのヒップホップの曲に対してリアクションする動作である。ここから「反復」「肯定」という要素を抽出して、本人の宣言どおり日本語ラップ的に「反復」「肯定」を論じていく。「なるほど」という言葉を多用することで、「反復」「肯定」をリテラルに表現することで、離脱しそうな読者を置いていかないような工夫がなされていた。  第二部は第三部で楽曲批評を進めるための準備段階と位置づけられるが、著者がここまで徹底的に理論武装している背景には、日本語ラップ批評に向けられる、ラッパーやリスナーからの否定的な眼差しを意識してのことだろう。「お前が頑張れ 似非評論家」というSALUのパンチラインに象徴されるように「一人称」の音楽であるからこそ、本人の意向が他の音楽よりも重視される。その中で第三者が日本語ラップを批評する意義をどう担保するのか?著者はその問いに向き合うため、これだけ理論武装しているとも言える。冒頭で宣言しているとおり、批評は中立であったり、対象の意向に沿っている必要はない。著者の言い方を借りれば「より偏向した、より差異的」な視座だからこそ、日本語ラップの本質に迫っていくことができる。  難解な議論の中でも、具体的に日本語ラップが参照されることで理解が進む場面もあった。PUNPEEのサンプリングセンスとベンヤミンの自然史概念を接続した議論や、RUMI「あさがえり」に対するアナロジー的批評には強く心を動かされた。必ずしも有名でない曲でも、批評によって光が当たり再び輝き出す。このマジックこそ批評の醍醐味だろう。  第三部ではいよいよ『花と雨』の研究・批評が展開される。日本語ラップを代表するクラシックであり、特に30代〜40代のヘッズにとって特別な一枚だが、ここでは「日本語ラップを語る」という行為そのものを一段引き上げる試みがなされていた。押韻を軸とした批評の眼差しを日本語ラップに向けることで、思いもよらない解釈へと導かれていく。  画期的だと感じたのは、バースを意訳している点である。意訳してしまうとラップの行間に宿るポエジーを削ぎ落とすため、野暮ったい印象は否めない。しかし、この作業を通じて浮かび上がる解釈の豊かさは他にない体験だった。理論を背景に押韻を軸とした批評が深度を増し「一人称」の音楽としてのSEEDAの圧倒的な描写力が浮かび上がる。そこにBESやNORIKIYOといった仲間が関連し、複数の「一人称」が連帯を生む様が痛快に描かれる。「花と雨」と「水と油」の対比、SEEDAと雨のモチーフの関係性など、聴き込んできた曲にも新鮮な視点が与えられる。さらに「Sai-Bai-Man」のホモフォビア的リリックを大麻というメイントピックと接続し反転させる批評も見事であった。ラストで提示される「遠く韻を踏んでいる」という押韻の新たな視座は、『花と雨』の最深部に到達したかのような感覚さえあった。  現在の日本語ラップは人気拡大に伴い、爆発的なプレイヤー数が増加し、リリース量が過去に比べて膨大になっている。したがって、一曲ごと、もしくはアルバム単位で、これだけ真剣に向き合うことは難しい。しかし、本著を読むと、向き合えば向き合うほど、音楽の体験が豊かになることがわかる。実際、この本を読んでから『花と雨』を聞くと、今まで幾度となく聞いているにも関わらず、リスニング体験に「新たな生」が付与されたようだった。  本著で論じられている日本語ラップは、現在のメインストリームとはやや距離がある。今の日本語ラップにおいて、首を縦に振ってリアクションする曲は多数派とは言えないからだ。トラップ登場以降の日本語ラップのリアクションは、首というより全身を揺らす、より身体性の高い音楽となっている。さらに本書で批判的に扱われたJ性も、Jポップ的なメロディーを特徴としたハイパーポップを筆頭に若い世代では人気を博している。ストリーミング時代のグローバルな音楽市場では「内なるJ」が自身の個性、オリジナリティとして考える新世代のラッパーも登場しているからだ。もし次作があるのであれば、より現行シーンの日本語ラップについて、第三章のような形で研究されたものが読みたい。
  • 2025年9月29日
    ブラック・カルチャー
    このタイトルで岩波新書となれば、読まざるを得ないと思って手に取った。ヒップホップをはじめ、アメリカ、イギリスのブラック・ミュージックが好きな人間であればあるほど、「ブラック」という呼称について考えをめぐらせることになる。本著では、大西洋を軸に据えることで、宗主国の視点だけでなく、オリジンであるアフリカに焦点を当てている点が新鮮だった。  タイトルどおり、ブラック、つまりアフリカの人々が奴隷として北米や南米(著者はアメリカスと呼んでいる)へ連行された結果、誕生したカルチャーの変遷を追った一冊となっている。ドラマ『ザ・ルーツ』、映画『それでも世は明ける』、小説『地下鉄道』など、アメリカにおける奴隷制度を題材にした作品は色々と見たり、読んだりしてきたが、それでも抜け落ちている視点がまだまだあることを痛感させられる。近視眼的ではなく、もっと俯瞰した形で、北米に閉じないアメリカスとアフリカの関係性を捉えることで、文化の豊かさをさらに噛み締められるのだ。  ここ日本でもヒップホップが爆発的人気を獲得している今、ヒップホップのルーツとどう向き合うべきか?という問いは、しばしば問われがちだ。つまり、それが借り物の文化であることに自覚的かどうか。しかし「貸し借り」という窮屈な図式に陥るよりも、本著を読むと、アフリカの人々が連綿と伝承してきた音楽スタイルの延長線上に、日本のヒップホップが存在していることに気づかされ、歴史の壮大さに対して自然と敬意が芽生える。それを可能にしているのは、著者が「環大西洋」という広い領域を対象に、現行のブラック・ミュージックを位置付けているからだ。また、ブラック・カルチャーはアフリカ系アメリカンが占有するものではないことを丁寧に示しており、後ろめたい気持ちがいくばくか和らげられる人もいるだろう。(決して盗用の肯定ではないことは補足しておく。) 「自分は〜である」とその反対の「他者は〜である」というアイデンティティ画定の呪縛を解除し、絶えず混交状態を生きている私たちの生の実態をむしろ見つめましょう。そのことを教えてくれるのもブラック・カルチャーです。ブラック・カルチャーが植民者の文化を受容し、何世代もの創意と工夫によって自文化をつくりあげてきたように、私たち一人ひとりもまた、日本語をはじめとする文化を共有しながらも、世界のさまざまな文化にかかわり、ときに他者の文化を自己の属性に変えながら、生きています。  「ブラック・カルチャー」とはなっているが、音楽が一番フォーカスされているテーマである。奴隷制によりアフリカの各民族が分断され、奴隷としてアメリカスで過酷な労働に従事する中で、なんとか伝承されてきたのは、口頭伝承だからこそ。文字に残されなかったがゆえのニュアンスがメロディやリズムに息づき、その揺らぎがブラック・ミュージックのグルーヴを生んでいる。今ではポップミュージックにも大きく浸透し、多くの人々を惹きつけてやまない。文字の記録こそ進んだ文明の証とされがちだが、必ずしもそうではないことを示している点も興味深い。 西洋音楽が楽譜に書いた理論を再現するという抽象的世界から出発するのに対し、アメリカスの奴隷制社会から生まれた音楽は、奏でられる音を聴き、真似て覚えるという個別・具体的世界から生まれてきた現実と無関係ではないはずです。  世の中では「新しさ」が重視され、斬新であることが称揚されがちだが、本当にそうだろうか。著者はブラック・ミュージックの性質を思想家のアミリ・バラカンの概念を用いつつ「変わりゆく同じもの」だと主張している。単純に「新しい」というだけではなく、その未来は過去から生み出されている。ヒップホップのサンプリングはまさに最たるものだろう。偶然なのか、この「変わりゆく同じもの」をテーマにした日本語ラップの曲を思い出した。  新書とは思えないほど広範な議論が展開、紹介されており、ここで紹介したのはほんの一部だ。「ブラック・ミュージック」好きの方は、ぜひ読んでほしい一冊。
  • 2025年9月18日
    ディック・ブルーナ ぼくのこと、ミッフィーのこと
    子どもがいつからかミッフィーのことを好きになった。二歳ごろから好きな気持ちが顕著になり、絵本を読んだり、アニメを見たり、フィギュアでごっこ遊びをしている。図書館に絵本をよく借りにいくのだが、最近は自分で探してきてしばらく眺めていることも多く、こちらが手持ち無沙汰になる。そんなとき、子ども本のフロアにある「絵本・児童書研究」といった大人向けの棚を見ることが習慣になり、そこで本著を見つけてオモシロそうと思い読んだ。ちょうどZINEの仕上げを進める中で、クリエティビティに煮詰まっていたのだが、光明が差すようなクリエイティブ論に救われた。また、ミッフィーに関する知らなかった情報がたくさん載っていて、そちらも興味深かった。  日本に来日したブルーナ氏にインタビューした内容がまとまった一冊となっている。一問一答形式で、彼自身の人生を振り返りつつ、ミッフィー制作の裏話が数多く明かされている。 冒頭で家族との関係性について問われ、パートナーに真っ先に作品を見せると話していた。その理由は「作品がひとりよがりになっていないだろうか?」という不安からだという。終盤にも同じようなクリエイティブ論があり、特に次の言葉に心を打たれた。 どれだけ描いても、慣れた仕事であっても、その出来ばえに謙虚になることは、創作活動に必要です。 作品のスタイルは自然に生まれてくるものではなく、探し求めるものです。(中略)スタイルの探求というのは、絶えず発展していくプロセスなのです。今もそのプロセスの途中にいると思っています。 自分は自分を客観的に見ることはできません。だから、ぼくには作品を正直に評価してくれる、信頼できる批評家が必要なのです。  第二次大戦の戦火はオランダにも及んでおり、その経験から「やりたいことで生きていく」と決意した話は、平和な時代を生きる私たちには想像もつかない。彼のキャリアも順風満帆とは言い難く、はじめはアーティストとして生きていくことを親に反対され、父親の会社である出版社でデザイナーとしてキャリアをスタート。膨大な仕事量をこなしながら、絵本をサイドビジネスとしてコツコツ続けていた。このあたりは、自分が会社員しながらZINEを制作していることにも重なった。結局、父親の会社を退職して自立したのは48歳らしく、相当遅咲きであるが、会社員として鍛えられた結果、自分のスタイルを見つけることができたらしい。  ミッフィのビハインド・ザ・ストーリーについて、本人の口から聞けた点では貴重なインタビューである。普段読んでいる絵本の裏側を知る機会はなかなかなく、特に日本で出版された本書に収録されているエピソードとして、『ボリスとあおいかさ』が東京のホテル滞在中に、傘をさして風に煽られている人々を見て思いついた話は印象的だ。他にも『うさこちゃんのにゅういん』『うさこちゃん ひこうきにのる』の誕生エピソードが具体的に語られており興味深かった。  また、茶色のうさぎであるメラニーの誕生秘話も興味深かった。読み聞かせのために小学校に訪れると、肌の色が異なるさまざまな子どもがいることがきっかけだったらしく、そのアクチュアルな感性に驚きつつ、私自身は子どもが色で区別してしまう難しさに直面している。子どもに色で区別するこの是非について逐次説明しているのだが、果たしてどこまで伝わっているのか。  デザインの観点でいえば、シンプル・イズ・ベストだと信じてやまないスタンス。いかに削ぎ落として本質だけ抽出できるかに尽力していたか、インタビューから伝わってきた。他にもデザイン論についてはたくさん話していて、たとえば、ミッフィーの絵本が正方形なのは、子どもが持ちやすいようにしているとのこと。実際にうちにある絵本で、子どもが手に持って自ら読んでいるのはミッフィーの本が多いので、まさしくデザインの勝利だ。  使う色についてもブルーナ氏が厳密に決めていたことがよくわかる。しかし、日本で展開されるミッフィー関連商品の中には、その色味を無視したものも多く見受けられる。「権利を購入したのだから自由でいい」という発想は、ブルーナ氏、ひいてはミッフィーそのものへのリスペクトに欠けるのではないかと思ってしまった。  ミッフィーたちは体が横を向いていても、顔は正面を向いている。これは、子どもたちのまっすぐな目に応えようとブルーナ氏が思ったからとのことで、とにかく絵本を読む子どものことを何よりも大切に考えていることがわかるエピソードだ。絵本の世界の奥深さを堪能できる一冊だった。 子どもにとって絵本は世界を広げてくれるもの。絵を見たり読んだりして心に響くものがあるから、自由にイマジネーションをふくらませることができるし、その先にある何かに気づいたり、自分もやってみたい気分になったりするのです。子どものための絵本は、そういうことが大事なんです。
  • 2025年9月17日
    砂漠の教室
    砂漠の教室
    先日読んだ『音盤の来歴』で、著者の別作品に関する言及があり、積んであった本著を読んだ。これまで何作か著者の本を読んできたが、その中でも骨太な一冊だった。紀行エッセイとしてオモシロいのはさることながら、イスラエル、ユダヤ人に対する価値観が克明に書かれていて興味深かった。  タイトルの「砂漠の教室」とは、ヘブライ語を学習するために訪れたイスラエルの語学学校のことであり、著者がイスラエルで過ごした期間に書かれたエッセイが中心となって構成されている。過去作同様に著者の観察眼は冴え渡り、教室にいる生徒や先生たちのユニークな雰囲気がふんだんに伝わってくる。時代は70年代であり、第二次世界大戦の余波がまだまだある中で、ユダヤ人たちの立場の脆さや、イスラエルという国をなんとか理解しようとストラグルしている。検索、さらにはAIに尋ねたりと、知らないことを学ぶ上で、現代ではたくさんのアプローチがある。しかし、当時、生きた情報を得ようと思えば、現場に直接訪ねることがもっとも確実だったのだろう。だからといって、夫婦二人でいきなりイスラエル行ってヘブライ語を学ぶなんて、相当トリッキーではある。  特に心をつかまれたのは「イスラエル・スケッチ」と呼ばれる章だ。銀行員との会話、兵士のヒッチハイク(花と銃の対比!)、ベドウィン、イスラエルの料理など、イスラエルで暮らす人たちの生活がまさにスケッチされるかのように微に入り細に入り描かれていた。特に今回は料理にフォーカスしていて、なかでも「悪夢のシュニツェル」では、イメージする中東料理が裏切られていき、イスラエルと欧州の関係性のねじれを料理をアナロジーにしてズバッと表現していて見事だった。  エッセイにとどまらない思索が載っている点も本著の特徴だろう。具体的には、最後にある「なぜヘブライ語だったのか」「おぼえがきのようなもの」という章だ。ここではイスラエル、ユダヤ人を著者がどのように捉えているか、言葉を尽くして書かれている。イスラエル、パレスチナの問題は日本から距離もあり、直接関係するわけでもないため、どうしても他人事に映ってしまうのが現状だろう。しかし、著者はユダヤ人と朝鮮人をディアスポラとしてオーバーラップさせ、イスラエル・パレスチナ問題がについて、私たちが他人事でいれるわけがないのだと喝破していた。  当時のイスラエルと2025年の今のイスラエルでは状況が異なり、ユダヤ人の不遇に思いを寄せることは今は難しい状況ではある。ただ、そんな中でも突き刺さる言葉はいくつもあった。 わたしは人間が人間に対してこれまでに行ってきた残虐行為の詳細な内容を知ることでは、もはやわたしたちの思想を力強いものにすることはできないと感じた。(中略)残虐、血、殺戮、死は茶の間でも日常茶飯事となり、わたしたちの感覚はしびれきって、持続しない、もろい「一般的な怒りの気持」としてあるだけで、結晶しない。正義の言葉のように思える言葉の一つ一つは、歴史に汚され、いやしめられ、萎えている。言語の貧困は思想の貧困を丸出しにしている、と思った。  今日もガザ侵攻のニュースが流れてきて、一体どうすればいいのか、もはやよくわからなくなってきているが、こうやって本を読んで理解を深めることは必要だと感じている。最近、イスラエル擁護の視点を日常生活の中で目撃して、そこで違和感を感じたのは、間違いなく自分で能動的に情報を取得しているからだ。自分の違和感を少しでも伝えていくしかないのかなと思う。
  • 2025年9月11日
    音盤の来歴
    『それで君の声はどこにあるんだ?』の著者による音楽を主題としたエッセイ集。前作はかなり好きな一冊だったが、本著も自分にとって特別な一冊になった。レコードを買うこと、聞くこと、さらには音楽を聞くこと全体を通じて、これだけの話を書ける著者の筆力に改めて感服した。そして、月並みながら「やっぱりレコードっていいなぁ」という思いを新たにした。  レコードさながらSide A、Side Bという形で構成されており、Side Aではレコードをめぐるエッセイ、Side Bではより広く音楽と人生に関するエッセイとなっている。著者はアメリカに移住してから本格的にレコード蒐集を趣味として始めたようで、買ったレコードに関するエピソードがSide Aでは展開されていた。レコードに関する読み物は色々あるが、一枚のレコードに付随して、これだけパーソナルな出来事が言語化されている文章に巡り合うことはなかなかない。さらに、レコードを買ったミュージシャンのライブレポも興味深く、栄枯盛衰な音楽の世界で、それぞれのアーティストがキャリアを重ねながら、自分なりの表現を貫いている様に「アメリカ」を感じたのであった。レコードとライブを通じて、アーティストの今昔を貫いていくような構成はまさに「音盤の来歴」というタイトルがふさわしい。  著者が若い頃からレコード好きというわけではなく、比較的最近好きになったからこそ、レコードに対するみずみずしい感情が表現されていて、レコード愛を取り戻させてくれる。レコードで音楽を聞く行為は、日常においてスペシャルな瞬間なのである。また、レコード蒐集家であれば、皆が抱いたことのある、中古レコードがもっている強烈な磁場のようなものが、著者の言葉で見事に言語化されていた。誰かがレコードという塩化ビニルの円盤に音を記録して、誰かがそれを聞く。そして、様々な人のもとを経て、自分の家のレコード棚にある奇跡を本著は感じさせてくれる。  ストリーミング時代においては、言及されている音楽をすぐに聞くことが可能であり、聞きながら読むと臨場感が増して、より一層楽しむことができる。本著で取り上げられる70年代のロック、ソウル、ジャズといった音楽の数々は、読まないと出会うことがなかっただろう作品ばか。特に最初のエピソードに登場するアラン・トゥーサンとの出会いは大きな収穫であった。  Side Bにかけては「音楽と人生」とでもいうべきエッセイとなっている。自分の人生において重要な存在だったものの、今わざわざ連絡して会おうとは思わない。誰しもそんな人がいると思うが、そこに音楽というファクターが加わるだけで、どうしてこんなにスペシャルでノスタルジックなものになるのだろうか。タイムレスな魅力を持つ音楽が、記憶と結びつくことで輝きがさらに増す、つまり、その音楽がその人固有のものになるからなのか、と考えさせられた。  著者のオリジナリティがもっとも発揮されているのは「レコードにまつわる抜き書きのアーカイヴ、あるいは百年目のボールドウィンへ」という章だろう。アフリカ系アメリカンの作家たちを縦横無尽に引用しながら、レコードを絡めつつ思考が広がっていく様は圧巻。特にボールドウィンの引用は前作にも増して行われており、いつか読みたいなと思っていた気持ちを強く後押しされた。ボールドウィンのレコード棚にあった音楽が、ストリーミングのプレイリストで聴けることの味気なさの話も興味深かった。何を聞いていたかも大事ではあるが、それよりもボールドウィンと音楽のあいだにあった「痕跡」こそを私たちは求めているのだという指摘は、データ至上主義の今、新鮮に映った。  終盤にはイスラエルとパレスチナの戦争に対して胸を痛めている話があった。ちょうどこの戦争の受け止め方でモヤモヤしていたタイミングだったので、著者のまっすぐな懸念に溜飲を下げた。この言葉を胸に刻んでおきたい。藤本和子の『砂漠の教室』をちょうど家に積んでいたので、次はそれを読む。 遠くの地の虐殺を止めろと叫ぶことと、子どもたちが走り回る部屋でレコードを聴くこと(もちろんそれはレコードじゃなくたって、音楽じゃなくたっていいのだけど)、これらは二者択一ではなくて、どちらも生きるという営為の大切な一部であり、しかもきっとどこかで繋がっている。
  • 2025年9月8日
    ビルボードジャパンの挑戦 ヒットチャート解体新書
    『本の惑星』というポッドキャストで著者がゲスト出演していたエピソードを聞いて、著作がオモシロそうだったので読んだ。番組内ではビルボードジャパンが「本のヒットチャート」を構想している話が出ていたが、本著では音楽チャートについて詳細に解説されている。これまで考えたこともない視点の連続で、普段あまりチャートアクションを見て音楽を聞くタイプではないもの、思わずチャートを眺めたくなる一冊だった。  アラフォーの私にとっては、音楽のチャートといえばオリコンだが、それはCDが売れに売れた時代の話だ。いまやCDはアイドルカルチャーを中心とした「複数枚購入機会生成装置」と化してしおり、その売上枚数は世間的流行の物差しにはなりにくい。その代わりに存在感を増しているのが、ストリーミングや動画、カラオケ、CDなど複数の指標を総合するビルボードチャートである。本著は、そのビルボードチャートの立ち上げから携わってきた著者が、設立までの過程、運用の状況から実際のデータ分析まで「チャートとは何か?」「チャートから何がわかるか?」を丁寧に解き明かしてくれている。  今や当たり前に存在するビルボードチャートだが、その設立までの紆余曲折の過程が詳細に書かれていた。本家USビルボードのロジックをそのまま持ってきているだけかと思いきや、USサイドはあくまでアドバイザー的立場でしかなく、日本サイドでロジック構築、チューニングしていることに驚いた。ガラパゴス的とも言われる日本の音楽産業は、配信解禁の遅れなどステイクホルダーの思惑に左右されており、今となっては、ストリーミングがほぼ全面開放ではあるものの、それが数年遅れたことによるインパクトの大きさについて、チャートを作る立場から憂いていた。既得権益がその構造を維持したがる態度は、音楽業界に限らず、日本全体の風習とも言えるわけだが、それを一つずつ打破して今のビルボードチャートがある。合間合間にある著者の過去のエピソードを読む度に、同じサラリーマンとして胸が打たれるものがあった。  後半は実際のアーティストのデータ分析に踏み込んでいる。アーティストファンダム、楽曲ファンダムという大きく二つのタイプで分けて、各アーティストの過去、現在をあぶり出していく様に、音楽に対しても想像以上にデータ分析の波が押し寄せている現実を改めて突きつけられた。最近、ツイッターでYOASOBIの地方巡業について話題になっていたが、なぜ彼らがそういったアプローチをしているのか、本著に答えが載っている。また、ストリーミングの台頭によってCD販売で見えなかった過去曲の聞かれ方も分析対象となっている点も興味深かった。手元の資産を有効活用して利益を最大化していくにはどうすればいいかデータが教えてくれる、というのはデータ分析の基本であり醍醐味だが、それをふんだんに味わうことができる。特に著者はビルボードの最大の特徴である複数指標を重視しており、単純な実数だけではない考察も含めて興味深かった。  「音楽はアートだ」といってもやはりトップアーティストになれば、アーティストは商材であり、その商材で会社、ひいては多くの人を支えなければならない。素晴らしい音楽を作ることがアーティストの役目であれば、それを最大化するには、データを軸とした細かいマーケティングが必要であることがよく理解できた。  著者が、音楽ジャーナリストの柴 那典と、BMSG社長のSKY-HIとそれぞれ対談した内容も載っており、それらもオモシロかった。前者では音楽業界全体の構造、後者ではアイドルカルチャーとチャートについて深堀りされている。特にSKY-HIは自身がアイドル産業の当事者だった時代を経て、今度は自分がオーナーになってアイドルを売り出す側になった唯一無二な存在である。2020年代になっても、アイドルカルチャーにおいては、特典商法を通じてCDを尋常じゃない数(数10万〜100万!)を売っている事実に驚いたし、それに対してレコード会社と自分たちの双方がウィンウィンになるような打開策を検討してるあたりにビジネスマンとしての手腕を垣間見た。  ビルボードチャートだけではなく、Spotifyのバイラルヒットチャートなど、いつの時代もチャートの存在が、世のトレンドを作っていることは否定できない。そして、今の時代は以前よりもメジャー、インディペンデントの垣根なく、素晴らしいものを作れば、忖度抜きでダイレクトにチャートインされ、広がっていく素晴らしい時代である。チャートにあるからといって、その音楽を好んで聞くわけではないが、それでも、相対化された「いま」を映し出す指標としての存在意義は大きい。音楽とデータが好きな人には間違いなくおすすめできる一冊だった。
  • 2025年9月4日
    小名浜ピープルズ
    坂内拓氏による美しい装画に惹かれて読んでみた。東日本大震災から14年が経過し、時の流れの早さを実感する一方で、福島県ではまだまだ「災後」という現実が存在している。そして、日本に住んでいるかぎりは常に「災前」とも言える状況にあり、その「災間」に生きる我々がどのように災害と向き合って生きていくのか、たくさんの視座に溢れていた。  タイトルどおり、著者のふるさとであり、今も住んでいる福島県小名浜を中心に、さまざまな人のエピソードおよび著者の思索で構成されたエッセイ集。冒頭の「はじめに」でまず心を掴まれた。それは著者の造語であり、本著のメインテーマでもある「共事者」という言葉に出会ったからだ。 中途半端であることそれ自体に意味があるはずだし、当事者でも専門家でもないからこそ果たせる役割だってあるんじゃないか。そう考えられるようになって、ぼくは「わたしの震災」を語っていいんだ、そうやって自分の立場から語っていかないと震災や原発事故の影響だってわからないじゃないかと思うようになった。そのプロセスで「共事者」なんて言葉が自分のなかから生まれた。共事者とは中途半端な人たちのことだ。自分自身の中途半端さに意味を見出したくて、つまり自分をなんとか勇気づけたくて出てきた言葉だった。  インターネット、SNSの台頭により、誰もが発信できるようになった時代、災害に限らずあらゆる場面で「当事者」性が求められる。外野のヤジは聞くに値しないこともあるが、「非当事者」だからこそ語れることがあるのではないか。それは自分がブログやポッドキャストで試みていることそのものだ。著者の「共事者」という言葉は、自分のアプローチに名前を与えてもらったように感じたのだった。  各章ごとに著者にゆかりのある「ピープルズ」が紹介されながら、その人のバックグラウンドや会話のやりとりを紹介しつつ、著者の思索が丁寧に描かれている。著名な人というわけではなく、福島に暮らし、自分なりにストラグルしている方々のリアルな姿は、エスノグラフィーのような魅力に溢れていた。自分が勝手に抱いていた被災後の実情や被災者像といったものを、読んでいる間にことごとく塗り替えられた。これこそが最大の魅力だ。押し付けの「復興」がどうしてワークしないのか、本著はその答えにもなっていると言える。  印象に残ったエピソードを挙げればキリがない。例えば、原発処理水の放出をめぐる漁業の話では、補償があれば安心なのかと思いきや、その補償が結果的に下駄を履かせてもらうような形になり、純粋な商売として競争ができない。商品の魅力そのものを伝えたいという思いが、補償によって逆に歪められてしまうもどかしさにハッとさせられた。  また、旅館の一角に設けられた「考証館」の話も興味深かった。旅館の一角に設けられた考証館では、津波で亡くなった子どもの遺品が展示されており、触れることまで許されている。その場所と国が用意した伝承館を対比しつつ、原発事故を経験した人たちによる新たなまちづくりに関する議論は、現場ならではのものだ。そして、遺族の方の今なお続く捜索活動へと繋がっていく流れは、災後は終わらないことを痛感させられた。  さらに、原発事故後、立ち入りが禁じられた双葉高校に当時の高校生と共に訪問するシーンは本著のハイライトと言えるだろう。被災したことの辛い現実よりも、母校を訪問したときに誰でもが抱くシンプルに懐かしい気持ちが上回る。若い人たちのそんな率直な感情の動きに驚いた。  終盤、著者が子どもと原発伝承館を訪ねる場面がある。そこで重ねられる何気ないやりとりの中で、子どもが発する真理と思えてしまう言葉の数々。「怒り」ではなく「悲しい」という感情が、被害者と加害者の境界線が曖昧にさせ、安易な二項対立ではないと著者が気づいていく。そして原発の無責任性に対して、子どもが発する「伝承」することへの意思表示。いくらビッグバジェットで豪華な施設を用意しても、最終的には人間の意思が重要なのだという対比にグッときた。  時間が経つほど、過去の災害に関する情報は届きにくくなる。だからこそ、風化しない媒体としての本に託される意味は大きい。本著は単なる当事者語りを超え、非当事者の心の持ち様にもフォーカスしている。読むことで、自分自身が「共事者」として何ができるのか考えさせられる一冊だった。
  • 2025年8月30日
    介護入門
    介護入門
    エドワード・サイードの『ペンと剣』を読んだきっかけが著者の紹介だった。その記事を知ったタイミングで芥川賞受賞の記念品をメルカリに出品するというオモシロ過ぎることをやっていたので受賞作品を読んだのであった。久しぶりに小説で頭にガツンとくる内容でめちゃくちゃクラった。大麻、介護、文学が魔合体し、気づけば「介護の入門書」と読めてしまう奇妙な読書体験だった。  物語はシンプルで、30代の男性が実家で母と共に祖母を介護している。それだけで大きな展開はない。延々と描かれるのは、主人公が介護している情景および心情描写、介護にあたっての心構えだ。閉ざされた家庭内介護の空間からトリップしていくかのような主人公の思考の展開は、著者がまるで吸引しながら書いているように映る。  ラップのリリックを彷彿とさせる文体が特徴的で、その大きな要因の一つは繰り返し登場する「朋輩」という言葉だ。同志と同様の意味をもち、本来の読み方は「ホウバイ」なのだが、作中ではルビが「ニガー」と振られている。2025年の現在、このNワードはアフリカ系アメリカ人固有の言葉として、部外者が使うことは差別に加担する行為とみなされる。しかし、2004年時点では、芥川賞を受賞するほど世間的に認知された小説でもこれが問題にならなかったのかと時代を感じた。当然Nワード自体には問題があるのだが、「朋輩」という呼びかけが、読み手を物語に引き止め、発散する視点をひとつに収束させる効果を生んでいるのもまた事実である。  表紙に麻の葉模様が描かれているとおり、主人公は大麻を吸引しているのだが、あくまで日常のルーティンの一つでしかなく、描写としては控えめなものだ。大麻で酩酊状態のまま祖母を介護する主人公には、様々な思考の濁流が押し寄せ、延々とそれが吐露されていく。特に自らの親であるにも関わらず介護にコミットしない親戚や「介護地獄」と称してコタツ記事を書くマスコミ、ろくに介護したことない開発者が生み出す介護ロボットへの呪詛のような言葉の数々がハイライト。ロジック、文体どれをとっても一級品であり、こんなにネチネチと「なめんなよ?」と表現することができる作家の筆力と独特の文体。芥川賞受賞も納得の仕上がりである。  一方で、作中には真っ当な介護の心得も折り込まれる。だからこそ前述の呪詛のような文章とのギャップが興味深かった。取材して描く作家には書くことができない、介護当事者の気持ちを余すことなく書いているからこそ、本書はスペシャルなのだ。介護は被介護者が亡くなったときに終わることになるが、その終わりが訪れるのは明日かもしれないし、五年後かもしれない。そんな終わりが明らかではない介護生活でのマインドセットについて、著者が言葉を尽くして書いてくれており、文字どおり「介護入門」として役に立つだろう。  「血」と「記憶」を相対的な視点で捉えて、血縁至上主義に対して「記憶」でカウンターを放っている点が印象的だった。それは祖母の実子でありながら介護に関わらない親族に対する激しい罵倒と裏表の関係にある。「祖母の記憶の物語が、血の物語を乗り越えるのだ!」という宣言は、閉塞的な介護生活を突破する力強い思想にもなっていた。  終盤にかけて、祖母に対する愛、生きてほしい気持ちを主人公が吐露している。石畳に頭を打ってしまい、ICUで生死をさまよう祖母に主人公が語りかけ、触れ続ける姿はエモーショナルそのもの。その一方で、介護が人を追い込んでいく現実も描かれ、日々ギリギリで命をなんとか繋ぎ止めることのリアルが浮かび上がっていた。  2004年刊行当時に比べ、大麻も介護もいっそう身近なものとなった今だからこそ、両者が交錯することで見えてくる感情の機微は、今こそ多くの人に読まれるべきだと思う。
  • 2025年8月23日
    さかだち日記
    さかだち日記
    ぶってえ本を連発で読んでいたので、古本屋でサルベージした本著を読んだ。『アマニタ・パンセリナ』を読んで、中島らものオモシロさに改めて気づいて古本屋で見たら買うようにしている。日記ということもあり、彼の生活の機微が伝わってきて興味深かった。  95年5月にアルコール依存症と躁うつ病で入院して、そこで断酒を決意。そこから一年後の96年5月〜98年4月までの日記となっている。(タイトルの「さかだち」は「酒断ち」を意味している。)作家、ラジオパーソナリティ、役者、バンドマンとマルチタレントとして多忙な時期を過ごしている頃の様子が伺える。バタやんというマネージャーと二人三脚で、仕事をこなす日々は退廃的なイメージとは裏腹であった。それだけに酒がいかに危ないか証明するような日記である。一度、連続飲酒が炸裂するシーンがあるのだが、そのときのタガの外れ方が尋常ではなくスリリングだった。  バブル崩壊後とはいえ、まだまだ日本は豊かだったのか、連載原稿のために海外旅行にバンバン行っているのが印象的だ。インターネット登場以前、紙媒体が持っていた情報の価値の高さに思いを馳せた。海外に行くと、やはりジャンキーの血がうずくのか、入手方法やそれをキメた感想などが書かれており、酒をやめている分、そこで発散するようにしていたのかもしれない。前述の酒のシーンに比べると、どれも穏やかなので、酒のようなハードドラッグが手軽に安く入手できるのに、大麻に対して異常に厳しい今の日本の状況は合理的には納得しづらいなと改めて感じた。そして同じことを著者も憂いていた。  冒頭とエンディングには野坂昭如との対談が掲載されている。冒頭は断酒について、エンディングはバイアグラについて。前者では、それぞれの断酒方法や酒をやめるまでの経緯などについて話しており日記の導入として機能しているのだが、問題は後者である。脈絡なく、二人がその場でバイアグラを飲む対談が載っており、丁々発止のやりとりを披露している。ただの露悪趣味の企画と思いきや、野坂がアメリカ論にリーチするあたりが油断ならない作家ならではの展開だった。小説、エッセイ、悩み相談など膨大な著作があるので、他のも少しずつ読んでいきたい。
  • 2025年8月23日
    さよなら未来
    夏の読書といえば、分厚い本を読みたい気持ちになる。そこで、ずっと置いてあった本著を読んだ。元WIRED編集長による、雑誌やウェブに掲載されていたエッセイ・評論集。五年分あるので500ページ超だが、記事の集積なので隙間時間で読み進めることができた。未来を考えるために過去や現在を見つめ直す、まさに温故知新の考えが詰まっていて興味深かった。  2012〜2017年という近過去は、2025年の現在からすると振り返られにくいタイミングであるが、だからこそ今読むと色々と気づきがある。テック雑誌の編集長として未来について語ることを要求されながらも、著者は未来を語る上での過去の必要性を問うていた。実際、未来のことを直接言及するよりも「過去にこういうことがあった」という視座から話が展開されていくことで説得力が増している。特に原発に関する論考は、十年以上が経ち歴史化しつつある今読むと改めて刺激的で、「あのとき何が起き、何を考えるべきだったのか」を突きつけられた感覚があった。  テック雑誌ということもあり、トピックは多岐にわたるなかで著者の引き出しの多さに驚かされた。編集長なので、一つのテーマについてどういうアプローチで雑誌を作るか、そのテーマの思索を深めているとはいえ、毎度フレッシュな視点を提供し続けることは並大抵のことではない。  なかでも著者が音楽好きということもあり、音楽に関する記事が豊富な点も特徴だ。ビジネスとしての音楽について論じたり、匿名ブログでブックオフの500円CDをレビューしていたりと切り口の幅に驚かされる。世代や音楽の趣味は異なるものの、読んでいて興味深いものばかりだった。たとえば、アイスランドの音楽シーンのエコシステムは、グローバル化の時代に読むと新鮮だし、K-Pop論は今日のグローバル・ポップな状況を予期したような内容となっていた。そして、近年の爆発的人気の拡大に伴い、ヒップホップ周辺で巻き起こるさまざまな事象にモヤモヤするわけだが、結局は著者のこの言葉に尽きるなと思える金言があった。 音楽好きは、音楽好きを敏感に察知する。音楽ファンが、アーティストのみならず、レコード会社なり、オンライン/オフライン問わずショップなり、新しいメディアやデジタルサーヴィスなりのなにに注視しているかと言えば、結局のところ「こいつら、ホントに音楽が好きなのかな?愛、あんのかな?」というところでしかない。  音楽に関しする内容の中でも、ソランジェとビヨンセがそれぞれ2016年にリリースしたアルバムに対するレビューに一番グッときた。特にソランジェのアルバムについて、その音像からしてエポックメイキングな内容で個人的にかなり好きなのだが、特にリリックの考察まで含めたアフリカ系アメリカンの現在地に関する考察が目から鱗だった。こういう記事を読むと、サブスクでひたすら新譜を右から左に聞きまくっているだけの音楽生活について考えさせられる。つまりは、アーティストが残した作品に対して、ちゃんと向き合うことがいかに必要で重要であるかということだ。  また、本著はクリエイティブ論としても読むことができる。テック雑誌といえば、テクノロジーの発展に対して過剰に期待して持ち上げそうなものの、そういうものとは意識的に距離を置いている。厭世感が漂う中で、クリエイティブに対してエンパワメントに溢れる言葉がふと現れる。そんなギャップがあるからこそ、読み手は著者の言葉を信頼し、活力を得られるのだろう。終盤、トランプが一回目の大統領選を制した際の「分断」をめぐる記事は、日本にもその波が訪れているからこそ、当時よりも迫るものがあった。「私たちは他山の石にできたはずなのでは?」と思ったりもするが、世界の潮流はそう簡単に変わるわけもない。未来をただ夢想するのではなく、現実や過去を直視しながら考えること。その重要性を改めて教えてくれる一冊であり、2025年の夏に読むにふさわしい読書だった。
  • 2025年8月21日
    【合本版】世界99 (集英社文芸単行本)
    夏の読書2025、第二弾。ぶってえ本を読みたいと思ってたら、Kindleのセールで合本版がポイント還元で実質半額になっていたので読んだ。村田沙耶香作品はいくつか読んできているが、集大成と思わず言いたくなるような強烈な小説だった。女性が日本で生きる困難さについて、アイロニーをこれでもかとねじ込んで煮詰めた末に出来上がった怪作とでも言えばいいのか。さらに、ジェントリフィケーションが物理的な場所だけではなく、私たちの心のうちにまで入りこんできている現状を描きだしていた。そんなことができるのは、なんでもありの最後の聖域である「小説」というフォーマットだからこそかもしれない。  主人公である空子の一生涯を軸に近未来を描く物語で、女性が経験するイベントや心情を丁寧に追いながら、男性社会の地獄と人間の差別心を徹底的に浮かび上がらせていく。前者については男性社会の最悪な部分を余すことなく列挙し、順番に詰め込んでるレベルで網羅的に取り上げられており、自分の振る舞いを改めて指摘されている気がした。感情移入しやすく、追体験ができるフィクションだからこそ描く意味がある。特に前半で空子が学生の頃に経験する性にまつわる描写の数々がきつい。中学生、高校生の女の子と付き合う大学生、社会人男性の気持ち悪さがここまで言語化されている小説はない 。「純愛」というか、そこに愛があれば成立するかのような言説があるが、権力勾配を利用した性搾取であることを突きつけていた。  後者については、特定の遺伝子を有した人間が差別される社会となっており、見た目でわからない「遺伝子」というファクターで差別が行われる怖さが存分に描かれている。外国人に対するヘイト感情が可視化された今読むと、人間の差別心が増長すると、なんでもやれてしまう怖さを感じた。また検査結果がすべてであり「根拠があれば何をやってもいい」という一種のファクト主義へのカウンターにもなっていた。  近未来要素としてはピョコルンという生き物が挙げられる。はじめは一種の愛玩動物として登場するのだが、物語が進むにつれて、その中心を担う存在となる。具体的には性別役割分担として、女性がこれまで担ってきた家事、出産、子どもの世話などを代行する都合のいい動物へと変化していくのだ。これまで担う側だった女性たちが解放されるわけだが、担う側から頼む側になったことで、自分たちの置かれていた非人道的とも言える立場を自覚すると同時に、辛さがわかるゆえに押し付けることの苦悩に苛まれる。ピョコルンは動物ということもあり、家畜に近い扱いだからこそ、人間サイドの残酷性が思いっきりぶつけられており辛い。この設定によって、日本社会において女性がいかに抑圧されているかを逆説的に強調することに成功していた。物語が進むにつれてピョコルンに女性の「負債」が移行していくことで、著者がリミッターを徐々に解除して、ドス黒い感情を広げていく様が圧巻だった。上巻の終わりのあまりに凄惨すぎるエンディングは言葉を失った。そのエンディングを受けても、人間は自分たちの都合を優先して生きていく、業が深い生き物なのだと言わんばりに厳しい仕打ちが待っており何も救いがない。  物語の軸としてペルソナに焦点を当てている。人は人間関係ごとにペルソナを使い分けている中で、本当の自分なんてどこにもいなくて、己の意志もない。誰かがいて、初めてそこで自分のペルソナが立ち上がるという描写が繰り返される。主人公は各ペルソナを「世界」と呼び、各ペルソナに番号を振っている。その一番後方にいる99番、つまり複数のペルソナを司る空っぽな人間だと自己認識しているペルソナを「世界99」と呼んでいるのだった。これは考察ブームを筆頭としたメタ視点に対するカウンターであり、いろんなものを客観視できたとしても、そこには己の残滓は何も残っていないという指摘に映る。さらに、いくらメタ視点をとっても、その外側には真の意味で客観視できる他人がいるのだから、という無限マトリョーシカ的な構造まで示唆されていた。『コンビニ人間』から一貫してアイデンティティの揺らぎに着目しているが、今回のペルソナの使い分けは、SNSでアカウントをクリック一つでスイッチする様を想起させるもので、より時代にフィットする形にアップデートしたものとなっていた。  専業主婦である自分の母親を「道具」と呼び、自分も便利な道具の連鎖の中にいることを自覚している。つまり、都合のいいように使われるだけの存在であり、そこから彼女は自由でありたいと思っているが、生きていくうえではそうも言ってられない。夫である明人との関係を評した以下ラインが象徴的だった。これらだけではなく、見た目を整えて、男に選ばれることを目指す気持ち悪さを手を替え品を替え表現していた。 明人の便利な生活と人生のための家電になること。その上で性欲処理もし、ゆくゆくは子宮を使って明人の子供を発生させること。私が捨てようと努力している未来は、母が生きてきた地獄でもあった。 自分を養うためだけに自分の奴隷になるか、家畜を飼うことで真の家畜になることはぎりぎりで免れながら、明人の人生と生活のための便利な家電になるか。私は家電を選んだ。  当たり障りがない、摩擦をなるべく起こさない人間を「クリーンな人」と呼び、自分の意見を主張することは暴言と同列で「汚い感情」として取り扱われる。クリーンな人は何も考えずに調和を乱さないように生き、面倒なことは遺伝子の異なるラロロリン人 a.k.a「恵まれた人」がやってくれる。意志がない人間がクリーンな世界を構築し、表向きは何も問題がないように取り繕っているが、その内実は面倒なことを他人に押し付けているだけという社会論が後半では展開されていた。小説だからこそできるラディカルなものだと思いつつ、投票率が50%程度なので、現実のアナロジーとも言えるだろう。  「死ねよ!」という言葉に代表されるように言葉遣いの乱暴さが目についた。しかし、これは単純に乱暴なだけではなく、その手の言葉が「己を守る一つの武器なのだ」という指摘がなされておりハッとした。自分自身もよく言っていたし、ダウンタウンの浜田が昔よく言っていた「死ねばいいのに」にも笑っていた。暴力性が社会で徐々に剥ぎ取られていく中で、その言葉自体を誰もが公に発することが難しい状況となった。しかし、世の中には「死ねよ!」という言葉でしか抗えないほど気分が悪くなることがあり、その暴力性を弱者からも取り上げて、感情の発露を封じてしまうのはどうなんですか?と問うていた。これは小説家という言葉を仕事にしている人だからこその視点だし、暴力的な言葉が世の中に蔓延ることは必ずしも賞賛すべきことではないとわかりつつも、声なきものの声まで奪っていないか?という指摘はもっともだ。  各論についてだーっと書いてしまったが、日本社会の嫌な部分をこれだけ集めてきて濃縮しながら物語として構築するスキルは圧巻である。この小説を読み終えて思い出したのは百田尚樹のクソ発言だ。発言の中身が最悪であることは当然だが、あの発言はSFひいては小説全体に対する侮辱でもあったのだと本著を読むと気付かされる。百田尚樹から仕掛けられたビーフに対するアンサーとして、これ以上のものはないだろう。そして、ラッパーのように現役の小説家でGOATをあげろといわれれば、村田沙耶香の他にいない。それくらいの超大作だった。
  • 2025年8月9日
    派遣者たち
    派遣者たち
    小説家の中で、リリースのたびに迷わず買う数少ない作家、キム・チョヨプ。本著は長編ということで楽しみにしていたが、今回も期待を裏切らないオモシロさだった。「共生」がテーマであり、今の時代に読むと、ことさら胸に沁み入るものがあった。  舞台は地球が荒廃し、人類が地下で暮らすクラシカルなポストアポカリプス的世界。地上は、菌をモチーフにした異生物「氾濫体」に支配されており、選ばれし「派遣者」が地上に出て調査や探索を行う。主人公は、自分の脳内に存在するオルターエゴのような存在と関わりながら任務を進める。当初は生成AIによるCopilotのように、こちらの利益を最大化するために相手を利用する関係だったところから、物語が進むにつれてジャンプ漫画のような熱いバディへと変化していく。(シャーマンキングとか?たとえが古すぎて終わっている…)  氾濫体に侵食されると、人間は錯乱状態に陥り、やがて死に至るため敵視されている。ゆえに氾濫体を絶対悪として描き、その異生物から世界を奪還するのだ!という勧善懲悪な構図を想像するかもしれないが、著者はそんな単純な物語にはしない。人間と氾濫体の狭間の存在について、さまざまなグラデーションで描き出し、世界の豊かさと難しさを同時に表現している。価値観どころか姿、形も全く異なる生物同士が協調して、どうすれば同じ世界で生きていけるか模索する。メッセージ性を失わず、ダイナミックな物語としてドライブさせながら描き切るその筆致がキム・チョヨプらしい。  個人的ハイライトは、スーサイドスクアッドならぬスーサイドトリオによる過酷なミッションだ。それぞれが命をかける事情を抱えつつ、協力し、ときに衝突しながら、探究心で物事を明らかにしようとする姿は、それぞれの動機があるとはいえ、サイエンスそのものだった。終盤にかけては、主人公の善悪の揺らぎと儚い恋心が重なり、怒涛のクライマックスへと向かっていく。著者がストーリーテラーとして、よりポップでエンタメ性の高いステージに突入していることがよくわかった。  物語の背景にあるのは、人間を「さまざまな生物の集合体」として捉える視点である。私たちの体内には無数の菌や微生物が共生している。つまり、自分と関係ないと思っていても、いつのまにか関係している、その象徴としての菌は「共生」というテーマで物語を紡ぐ場合、これ以上に適当なモチーフはないだろう。主人公の親代わりの存在であるジャスワンという登場人物の言葉はシンプルにそのテーマを表現していた。 大事なのはね、自分が自分だけで成り立ってるって幻想を捨てること。そしたら、可能性は無限だよ  日本でも、幻想に溺れている人々がたくさんいることが可視化されてしまった今、誰かと共に生きることを考える上では、うってつけの小説だ。
  • 2025年8月5日
    サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍 (白夜ライブラリー001)
    著者の本は見かけるたびに読んでおり、その中でもあまり見かけたことのない一冊をゆとぴやぶっくすで発見。積んであったので読んだ。著者の見識の広さはもはや言うまでもないが、そこに格闘技まで含まれていることを知ったのは『あなたの前の彼女だって、むかしはヒョードルだのミルコだの言っていた筈だ』を読んだときだった。なぜ今読んだかといえば『1984年のUWF』『2000年の桜庭和志』を読んで下地が整ったからである。そのおかげで、著者のバイブスをふんだんに味わうことができた。  副題にあるとおり、著者が神経病を患ったことも影響してか、格闘技から五年ほど離れていた中、著者の格闘技語りに目をつけた編集者が執筆を打診。そして、2004年大晦日のPRIDE観戦をきっかけに「解凍」され、格闘技語りを再開するという背景で書かれた本となっている。前半はインターネット掲示板(!)で著者が書いていた格闘批評、後半はPRIDEを含め実際に会場で観戦したライブレポート&論考という構成だ。  「成孔節」という文体が明確に存在し、こと批評において、これだけオリジナリティを出せる人が今どれだけいるのだろうかと、いつもどおり打ちのめされた。2000年代前半で、著者が比較的若いこともあいまってノリノリで今読むとオモシロい。(それゆえにキワドイ発言も多いのだが…)特に注釈量が異常で、なおかつその注釈では収まり切らないほどに言いたいことがあるようで、紙面の都合で割愛されている見立てがたくさんあった。また、まえがきのあまりの見事さに「粋な夜電波」の口上をレミニス…復活しないのだろうか。(定期n回目)  プロレス、格闘技と与太話は相性がよく、なんなら与太話がしたくて見ているところだってあるわけだが、その相性の良さが抜群に発揮されており、他のジャンルを語るときよりも好き勝手に、縦横無尽に語っている印象を持った。その中心となっているのはPRIDE語りである。ピーク期の大晦日でカードの並びがエグい。今では定番となった「大晦日に判定、駄目だよ。KOじゃなきゃ!」が五味から発せられたり、ノゲイラ vs ヒョードルがあったり。特にミルコ、シウバに対する批評的な見方が興味深かった。  『1984年のUWF』は佐山史観であったが、著者はどちらかといえば前田史観でUWFを捉えている。本著を読んだことで両方の視座を得ることができた点は収穫だった。『1984年〜』では総合格闘技の始祖としての佐山を神聖化していたが、佐山は佐山で彼なりのきな臭さがあることを知った。そして、前田の煮え切らなさを父殺しの神話でアナライズしている様が見事でうなりまくった。さらに終盤にかけてHERO'sで前田が前線復帰。HERO'sのポジションを考察しながら、その崩壊を予想しつつ、それでも前田の孤独を受け入れるというエモい文章は批評の中でも抑えきれない前田への愛に溢れていた。  上記の前田に関する言論然り、日本ではプロレスが発展していく流れで、総合格闘技が誕生してきたわけだが、その歴史を踏まえているかどうかは総合格闘技に対する見方に違いが出ることに気付かされた。たとえば、RIZINにおける皇治の色物カードはガチの人からすればノイズでしかないだろう。しかし、プロレス的な思考があれば、その戦いから導き出されるストーリーや意味を紐解こうとする。そこにロマンを感じるかどうか。今の社会情勢からすると「正しさ」を希求するあまりに「ガチ」が正義となりがちだが、そこを迂回できる余裕がほしいものだ。  文庫解説でも触れられているように、一種の文明論にまでリーチしているあたり、著者の慧眼に打ちのめされた。なかでも世界を「途中から見る連続テレビドラマ」であるとする人生論からプロレス論へ展開していく流れは最高だった。  格闘技はツイッターを中心とした言論空間がシーンの中心なので、こういうまとまった批評を読む機会はほとんどない。(強いていうなら青木のnoteか)だからこそ昔のものだとしても、こういった本を読むことで自分の目や見識を養っていきたい。
  • 2025年8月5日
    対馬の海に沈む
    対馬の海に沈む
    2024年の開高健ノンフィクション大賞受賞作。ずっと気になっていたが、Kindleでセールになっていたのを機に読んだ。導入からエンディングまで、まるで優れた推理小説を読んでいるかのようで、ページをめくる手が止まらなかった。離島で起きた事件から日本社会の歪みを浮き彫りにしていく著者の手腕は圧巻だった。  舞台は長崎県・対馬。JA対馬の従業員が不可解な死を遂げる。彼は優秀な営業マンとして知られていたが、その裏には金融商品をめぐる不正があった…そんなイントロダクションから物語は始まる。この時点で面白いことは確定しているかのようで、著者はジャーナリストとして粘り強く取材を重ね、事件の全貌を少しずつ明らかにしていく。その過程が丁寧に描かれており、読者は著者とともに謎を解き明かしていく感覚を味わえる。  驚かされたのは、「農業」という素朴なイメージとは裏腹に、JAが共済をはじめとした金融商品の販売において従業員に過大なノルマを課していることだ。そのノルマが不正の温床となり、従業員を追い詰める。JAは想像以上に複雑な組織構造で、パッと読んで理解できるような代物ではない。しかし、著者はもともとJAの媒体出身というバックグラウンドを生かし、平易な言葉で懇切丁寧に解きほぐしてくれる。そして、従来型の日本的組織がいかにして歪んだモンスターを生み出してしまったのかを明らかにしていた。  本著が圧巻なのは、わかりやすい悪党について取材で徹底的にあきらかにしたあと、その過程で読者がうっすらと思っていた疑問について、最後の最後で刺してくところである。旧態依然とした日本社会の縮図のような寓話的エンディングに、狐につままれたような気持ちになった。持ちつ持たれつの互助社会は利害関係が一致しているときだけ機能し、問題が起これば一人に責任を押し付けて「トカゲのしっぽ切り」で終わらせて、全員は知らん顔していることが怖い。しかも、それが都心部で起こるならまだしも、人口がそれほど多くない対馬のような比較的閉鎖空間で起こっていることが恐ろしい。閉鎖空間ゆえに誰も見てないし、気づかないから大丈夫でしょ的なマインドなのだろうか。そんな状況と、初期の段階から不正を告発していた人物の人生がオーバーラップして胸を締めつけられるようだった。  組織には目に見えないルールや空気があり、それにうまく馴染めるかどうかが、生き残るための重要なスキルになる。本著は、日本人が集団になるとどうしても顔を出す「村社会」の性質が、強烈な形で表れた様子を克明に描いている。読んでいると、自分自身が組織でどう立ち振る舞うべきかを考えずにはいられなかった。
  • 2025年7月27日
    今日もよく生きた
    今日もよく生きた
    先日、common houseで行われている植本一子さんの写真展を見に行った際、著者の佐久間さんがたまたまいらして、その場でサインしていただけるとのことで本著を購入した。「こんにちは未来」での若林氏との丁々発止のやりとりをいつも楽しんでいるのだが、その背景にある佐久間さんの今の考え方がより深く伝わってくる内容で興味深く読んだ。  副題どおりNY在住の佐久間さんが自分の愛で方=セルフケア、セルフラブについて、あますところなく綴っている。日本では「ご自愛」という言葉が普及し、自分に対するケアを大切にするムードが醸成されつつあるが、欧米ではさらに進んでいて、セラピーにかかることが日常的だ。佐久間さんがセラピーで自己分析した内容に基づいて、セルフケアへとつなげていく過程をみると、セラピーを通じて自分を客体化していくことで楽になる部分があることに気付かされる。自分自身で客体化できているつもりでも、自然とブレーキを踏んでしまっている部分が少なからずあり、言語化を通じて内なる感情を引き出し、クリアにしていくことの有用性を感じた。  特に印象に残ったのは、NYでサバイブするために「強い存在」として自分を位置づけてきた佐久間さんが、年齢を重ねるにつれて弱い部分も含めて自己開示できるようになっていく過程だ。アクティビストとしての精力的な活動の裏側で、文章だからこそ開示できる深く繊細な部分がある。終盤にかけてはセクシャリティ、子どもを産むこと、父の死といったパーソナルなテーマが次々と語られ、数々のストラグルに対して「今日もよく生きた!」とタイトルそのままの言葉を送りたくなった。  「How are you?」 カルチャーに関する論考も興味深い。日本では「調子どう?」から会話が始まるケースは少ないわけだが、英会話教室に行くと、毎回のように必ず「How are you?」と聞かれる。そのときに「調子よくないと言うのもアレか…」と思って、なんとなく「I’m good」と毎回答えていた。実際の自分の感情と乖離した表現を口にすることのモヤモヤがあったのだが、このやり取りは相手を慮ったケアの一種だから、素直に表現すればいいのだと思えた。  また、日本の「バチ」の概念が自責の念を強める遠因となり、呪いのように心に忍び寄るという指摘も鋭い。なんでもかんでも「自己責任」で結論づけてしまう社会的な圧力に抗うためのセルフケアという文脈は、今を生きる多くの人にとって必要なことだろう。  内容としては自己啓発に近い部分があるが、単なる方法論ではなく、その背景にある状況や考えがセットで書かれているため、ケーススタディとして読むことができる。人生の先輩による指南とでもいうべきか「ここに石があるから気をつけな」と先回りして教えてくれるようだ。たとえば、先日の選挙結果をふまえると、コロナ禍における誤情報による「別れ」が辛かったという話は、これから日本でも現実味を帯びてくるのかもしれない。  極度の天邪鬼体質なので、自己啓発的なものを敬遠しがちなところがある。それは押し付けがましく、資本主義社会において、とにかく利口に生きていくためのライフハック的な要素が強いからだ。しかし、本著では佐久間さんが色々な情報を見聞きしながら、自分の中で生まれた考え方について、人生をご機嫌に過ごすための「人生の道具箱」として整備しているから参考になった。一次情報を確認して自分ごとにしていく作業は、真偽不明な情報が飛び交う中では今後ますます必要かつ重要な能力になってくるだろう。何かに触れたとき、自分がどう思うか、そしてどんな人生を生きていくのか、主体性を取り戻すためには格好の一冊だ。
  • 2025年7月27日
    生きる力が湧いてくる
    おすすめしていただいたので読んだ。前情報を全く入れないまま読んだ結果、一人の女性の壮大な人生に巻き込まれていくような読書体験で驚いた。「世の中には色んな人がいる」と口で言うのは簡単だが、壮絶な環境において、それでも人生を続けていく覚悟が本著にはたっぷり詰まっていた。  著者は編集者を生業としているようで、文芸誌も自身で発行するようなバイタリティのある肩書きとは裏腹に、母を自死で亡くし、その後に父が病で他界、さらに兄を自死で亡くすという壮絶すぎる半生を過ごしたらしく、自分の過去から現在まで、あまりにも赤裸々なエッセイ、私小説の数々に読む手は止まらなかった。  フィクションではよく描かれる「天涯孤独な人」が、実際に存在し、ただ悲しみに沈むのではなく、「生きる」ことに向き合っている様子が生活の機微を含め、丁寧に描かれている。冒頭、実家のガーデニングにまつわるほっこりしたエッセイから始まり、装丁やタイトルからして、日常系のエッセイ集なのかと思いきや、いきなり母親の自死の話が始まり、そのギャップにも驚かされた。  これまでの人生で辛いことがたくさんあったことは経歴からして容易に想像つくわけだが、そんな御涙頂戴な展開の話は入っていない。むしろ、その逆境をどうやってタイトルどおり「生きる」ためのエネルギー源としていくか、肉親が不在の中でとにかく自己を肯定し、自分をブチ上げていく。無条件で愛してくれる存在がいないから、自分のことを愛する。まさにご自愛。そんなエピソードがたくさん入っているので、セルフケアの文脈に位置付けることが可能で、文字どおり「生きる力が湧いてくる」人もいるだろう。  ただ一つ、個人的にしんどく感じたのは、兄の自死をモチーフに、兄の視点から語られる小説があったことだ。他人の家族の話であり、どう書くかは著者の自由だ。ただ、自死に至るまで、相当な葛藤があっただろうと想像がつく中で、あまりにも自死を単純化しすぎている気がした。それは繰り返し述べられるように著者にとって「死」があまりにも日常的に存在することも影響しているのかもしれない。しかし、だとすれば、より自死に対して慎重な取り扱いが必要なように思う。  とはいえ、家族偏重主義に対するカウンターとしてはこれ以上機能するエッセイはないだろう。家族を大切にすること自体は否定されるべきではないが、他人に対して「家族を大切にする」価値観を一種のテンプレートとして押し付けることに違和感がある。先日見たバチェラー・ジャパンの最新シーズンで、やたらと「家族が〜」と連呼されていて、それが無条件に受け入れるべき価値観として提示されていることにモヤモヤしていたので、本著における家族観には溜飲が下がった。  歳を重ねれば重ねるほど、死との距離は自然と縮まっていく。しかし、死は順番どおりには訪れない。それは突然で、理不尽なものだ。そんな死と、私たちはどう向き合えばいいのか。壮絶な人生を生き抜いてきた人が書いた言葉だからこそ、本著はそのヒントをくれる一冊だった。
  • 2025年7月27日
    死なないための暴力論
    随分前に二木氏のツイートで知って読んだ。直前に産獄複合体を題材にした小説『チェーンギャング・オールスターズ』を読んでいたこともあり、必要な「暴力」に関する論考はどれも興味深かった。  間違いが許容され辛い潔癖な世界の中で、暴力は忌避される方向にある。理不尽に他人の権利を侵害するような暴力は悪であることは当然として、本著では「暴力を十把一絡げに悪とみなしていいのか?」という議論が終始展開している。つまり、のほほんと「非暴力」を掲げていても、国家の暴力的振る舞いには太刀打ちできないのだから、カウンターとしての暴力が必要なのではないか?ということだ。本著における暴力はただの殴り合いや戦争のことではない。税の徴収や家父長制といった制度がもたらす抑圧も含まれる。そう考えると「自分には関係ない」なんて言える人はいないだろう。  人間は潜在的に暴力を内包し、それがいつ、どのような形で顕在化するかに焦点が当たっている。今の世の中で暴力と無関係に生きることは不可避である。そんな前提のもとで古今東西の暴力議論と実例を紹介してくれている。  例えば、イギリスの女性参政権を獲得するまでの市民運動、メキシコでのEZLNによる自治のエピソード、クルド人によるロジャヴァ革命などが紹介されている。その背景にある考え方や、暴力性があったからこそ社会が変革したのではないか?というアナキストらしい意見が展開されており興味深かった。いずれもあくまでカウンターとしての暴力であり、暴力が先攻行使されていないことがくり返し主張されており、これは本著における重要なポイントである。  新自由主義は今や世界中に広がった思想であり、その暴力性は世界で火を吹いているわけだが、その黎明期における広め方について解説されており、知らないことばかりで驚いた。すべてに市場の原理を導入して淘汰した挙句、上流だけがお金を儲けて、その結果もたらされた荒廃を引き取るのは、下流にいる民衆という話は何回読んでも腹が立つし「勝ち馬に乗れないと負け」という思想は本当に貧乏ったらしくて嫌になる。そんなブルシットに対しては、やはりカウンターをかまさないとやりきれない気持ちになる。  抑止力的な意味合いでも暴力の必要性が議論されている。暴力をふるわれるのは、こちらが非暴力で無抵抗だからであり「やられたら出るとこ出るぞ」というマインドが大切だということは、ここ十数年の国の無策っぷりで痛感している。国民が舐められているのは明らかだ。  個人に対して暴力的な気持ちを抱くことは加齢と共に減ってきてはいるものの、対国家、権力という視点で考えれば、いつだってそんな気持ちである。選挙だけがカウンターできる手段だと思い込まされているが、間接的抗議であるデモの価値について分析がなされていた。短期的成果ではなく、中長期的な社会変革を見据えた視点は、日本のデモ観に対する有用な意見だったと思う。デヴィッド・グローバーがかなり引用されており、改めて彼の論考の鋭さは本当に貴重なものだったのだなと痛感した。そして亡くなっていることに途方に暮れるのであった…  自分の中に国家を内在化し、結果的に排外的な振る舞いをする人が増えている中で、国家と同じヒエラルキー構造ではなく、非国家の形で民衆が起点となり反操行を繰り広げる必要性を痛感した。本著でも取り上げられている大麻の問題もその一つと言える。国家の枠組みを盲目的に信じているだけで本当にいいのか?国とは別の枠組みで権利を考えてみることをあまりにも忌避しすぎてないか?そんなことを考えさせれられた。  終盤では、暴力が起こる手前における民衆同士の相互扶助の議論が展開されており、グローバーの提唱する「基盤的コミュニズム」の議論が刺激的だった。というのも子育てをしていると「基盤的コミュニズム」の欠如を著しく感じるからだ。特に首都圏はひどく、目も当てられない場面に幾度も遭遇している。しかし、先日関西に久しぶりに帰ったときに感じた子どもに対する「コミュニズム」的な視点やアプローチには逆に驚かされたことを記しておく。  そして最後に引用しておきたいのは、前述したメキシコのEZLNマルコス副司令官による例え話。 警察に不満があるからといって、自分が警官になることで解決しようとする市民はいないだろう。もし警察がうまく機能しないのなら、市民は警官になろうとするのではなく、より良い警官を配置するよう要求するのだ。このことはEZLNの提起に通ずるところがある。われわれは権力を批判する。しかし、だからといってわれわれは権力を排除しようとしているのではなく、適正に機能し、社会の役に立つ権力を求めているのだ。  国家、権力に対して批判すると、すぐに「てめえがやれや」「代替案は?」という言葉が飛び交う今こそ、この言葉は有用だと思う。暴力のない世界が理想だけども「なめんなマインド」は常に忘れないでいたいと思わされた一冊だった。
  • 2025年7月27日
    チェーンギャング・オールスターズ
    チェーンギャング・オールスターズ
    前作『フライデー・ブラック』が滅法オモシロかった著者による二作目。今回は短編集から長編にフォーマットが変わったものの、オモシロさはあいかわらずぶっちぎり…!いわゆる日本の少年漫画的な世界観が全編にわたって展開されつつ、彼のシグネチャーといえる、アメリカにおけるマイノリティへの差別構造が見え隠れするレイヤードスタイルは健在。これぞエデュテイメント!  アメリカでは刑務所に収監される人数が膨大になる中で、囚人たちを安価な労働力として搾取する「産獄複合体」が社会問題となっている。以下リンクやNETFLIXのドキュメンタリー映画『13階段』に詳しい。 現代の「奴隷制」アメリカの監獄ビジネス 黒人「搾取」する産獄複合体の実態 本著は、その刑務所産業をSF的発想で拡張し、刑務所ごとに受刑者たちをチーム編成させ、対抗形式で殺し合いをさせる、そんな格闘イベントとして殺し合いをエンタメ化してしまうという、ある種の残酷ショーが舞台。物語は殺し合いの参加者や周辺人物の群像劇として描かれている。キャラクターの魅力が本当に素晴らしく、さながら少年漫画。各キャラには複雑な背景と武器が設定され、ゲームのようなランク制度まで存在する。世界観の作り込みの強度は本当に高く、友情・軋轢・強大なヴィランの登場など、子どもの頃から慣れ親しんできた格闘漫画フォーマットが踏襲されている。ページをめくる手が止まらなかった。  なかでもメインで描かれるのは、No.1とNo.2の実力を誇る女性ふたり。彼女たちは愛し合う存在でもあり、最強同士の百合的関係性が本作の大きな魅力となっている。少年漫画的世界観との差別化ポイントであり、マスキュリニティに満ちた刑務所産業へのカウンターとしても機能しているのが印象的だった。  表面だけ見ていれば楽しいバトルエンタメ小説に見えるが、そうは問屋が卸さない。なぜなら参加者たちは全員受刑者であり、なおかつその戦いで敗れることは、そのまま死を意味するからだ。つまりこれは、新たな形の死刑制度にほかならない。バイデン政権下では死刑制度の見直しが進んでいたが、再びトランプが就任したことで死刑執行が活発に行われる可能性が高い。著者はそんな状況を憂慮していたのだろう。これは死刑制度に代表される懲罰願望が拡大する機運がアメリカにあるとも言えるだろう。  現在問題になっている深刻な現実をエンタメにレイヤードしているわけだが、そのスタイルが斬新だ。例えば、大量のTMマークは、いかに民間企業が刑務所産業に食い込んでいるかを示す象徴的な表現である。また、受刑者が参加にあたってサインする契約書の描写から、このバトルプログラムのルールを知ることになわけだが、これは完全にシステムと化している現在の刑務所産業を暗に示唆しているようにも受け取れる。  印象的だったのは、バトルを含めて受刑者が小説内で亡くなるたびに注釈で著者が弔いの言葉を書いている点だ。バトルフィクションかつ展開が早いので、命が軽く取り扱われてしまうところを意図的にブレーキを踏み、人間としての尊厳を取り戻そうとしており、そこに著者の真摯さを感じた。  刑務所産業への批判にとどまらず、刑務所そのものが孕む暴力性にも意識的である。特に独房における拷問シーンが強烈だ。インフルエンサー(!)と呼ばれる棒を使うことで、通常の何倍もの痛みを引き出して囚人たちを追い込んでいく様は読んでいて辛かった。このように囚人を過剰に抑圧した結果生まれてしまう悲しきモンスターの誕生はマジで漫画!と感じた。  痛みを増幅する方向ではなく、収監されているあいだ一言も話すことができない刑務所もあり、そちらは窒息しそうになる息苦しさが表現されていた。どれもがエクストリームな設定ではあるが、刑務所で行われている拷問に近い暴力を念頭においたものであることは「謝辞」で展開される情報ソースの多さから明らかだろう。  好みはわかれる作品かもしれないが、ここまで振り切ったスタイルはこれで良しと思える。次はもう少し内省的な物語を読みたい。
  • 2025年7月27日
    2000年の桜庭和志 (文春文庫)
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