
Yamada Keisuke
@afro108
乱読の地層。
- 2026年8月25日
プロレス少女伝説 (文春文庫)井田真木子読み終わった『1985年のクラッシュギャルズ』の副読本として推奨されていたので読んだ。熱狂を巻き起こした女子プロレスの世界を、アウトサイダーの視点から描いていて興味深かった。 大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したことからもわかるように、本著の魅力はプロレスという熱狂の渦に対して、冷静な視点を保ちながら、その渦中を描いているところにある。序盤では、そもそも女子プロレスが古来の女子相撲を背景としたビジネスとして成立してきたことを紐解いていく。その歴史的背景はまったく知らなかったので勉強になったし、そうした成り立ちの違いゆえに、同じプロレスでも男子と女子では根本的に異なることも、本著を読んで改めて理解できた。 先日読んだ『1985年のクラッシュギャルズ』では長与千種に関して、どちらかといえば客観的に描かれていたのに対し、著者自身が雑誌で彼女の対談相手を務めていたこともあり、よりインサイドワークに踏み込んでいる。長与千種のプロレスに対する鋭い感度、そして全体を見渡す俯瞰的な視点があったからこそ、観客を巻き込むテクニックに長けていたことが伝わってきた。マス受けを狙ったことをこんなふうに言えるのがかっこいい。 私は、女子プロレスにふりがなを振った人間やと思う。それまでの女子プロレスは、いわば、漢字ばっかりで、古臭くて、読みにくいプロレスだった。読める人にしか、読めなかった。それに、私はふりがなを振ったのよ。だから、どんな人でも、女子プロレスを読めるようになった。私がやったことは、そういうことだと思う 本著が白眉なのは、実質的な中国残留孤児二世である天田麗文、アメリカからやってきたレスラーのメデューサ・ミシェリー、元柔道家の神取忍といったアウトサイダーから日本の女子プロレスの実像に迫っていく点だ。前述のとおり、相撲の流れを汲むからこそ、村社会的な同調圧力や強烈な徒弟制度など、日本の悪しき伝統が濃縮還元されている環境となっていた。そのおかしな状況を外部からやってきた人々の目を通して浮き彫りにしていく。2026年の今読むと、移民に対する容赦ない対応は息が詰まるようなことばかりだが、今でもこういった気配は社会に存在し、同質性の高い(とされている)日本社会が持つ一種の特徴なのだろうなと思う。 一番衝撃だったのは、神取忍のパートだった。私が彼女の存在を知ったころにはすでにバラエティ番組の人で、本著を読むまで単に横暴なイメージしかなかった。しかし、その実像はまったく違った。プロレスラーとしての能力の高さはもちろん、プロレスに対する理解度、そしてそれを言語化する能力が圧倒的なのだ。個人的にずっと女子プロレスに乗り切れない気持ちを抱えているのだが、その辺りを神取忍がずばり言語化していた。まさか彼女の論理的な言葉に納得させられるだなんて想像もしなかった。 女子プロレスは、同じ感情を持てる人にはわかるけど、そうじゃない人には、いまひとつ、理解できない部分が多いじゃん。 女子プロレスというのはさ、だから、やる方にとっても、見る方にとっても、けっこう複雑で難しくて……だからこそ、やっぱ、やりがいがあるっての? そういうものなんじゃん また、当時は団体に所属するのが当たり前だった中で、フリーとして試合ごとに契約しようとするインディペンデント精神もかっこいい。それは前身の柔道時代から一貫しており、講道館や柔道連盟と距離を置きながら、自らの強さを示して代表に選ばれていったというエピソードもかっこよすぎる。とにかく徹頭徹尾、話がオモシロい。「心を折る」という言葉は今や誰もが使う表現だが、その起源が神取忍だと知ったのも驚きだった。こんなラッパーみたいな格闘家は、もう二度と現れないかもしれない。 ただ、この人は、今まで、一度も、心が折れた音を聞いたことがないなって思ったんだよ。だから、こんな危なっかしい、嫌なことをするんだなって。だからさ、心を折ってやろうと思ったんですよ。その音を聞かせてやろうと思ったのよ 肉体のぶつかり合いという圧倒的にフィジカルなスポーツであるにも関わらず、「活字プロレス」という言葉があるように、プロレスは言葉や物語との親和性が高い。人は単純に殴り合う様子を見ることが楽しいわけではなく、通底する因果関係や物語があってこそ楽しめる。そして、それらは言葉によって紡がれる。 そのことについて、天田麗文がプロレス業界で活躍できず悪戦苦闘する姿を通じて描き出すのが鮮やかだ。本人は「言葉を使わない女子プロレス」だと思って入門したのに、長与千種から「プロレスにも言葉が必要だ」と教えられる。このエピソードは本著全体を貫くテーマでもある。 わたしは、言葉ができませんから、言葉を使わない女子プロレスに入ろうと思いましたんですね。でも、プロレスにも、やはり言葉が必要だって、チコさんは言います。わたしは、びっくりした。プロレスには、言葉なんかいらないと思ったから、プロレスラーになろうと思ったのにね。やはり、プロレスにも言葉がいるのだそうです。 わたしは、どうしましょう、と思いました 今はRIZIN、UFCなど総合格闘技にどうしても惹かれてしまうが、プロレスに関して書かれた本は何を読んでも面白いから、プロレスも少しでも見ていきたいなと思えた。 - 2026年8月21日
名前のないカフェ (新潮クレスト・ブックス)ローベルト・ゼーターラー,浅井晶子読み終わったすっかり新潮クレストでお馴染みの作家となったローベルト・ゼータラーの最新作ということで読んだ。過去作と同様、市井の人々を見つめた素朴な作品で「いい本を読んだな」というしみじみとした余韻が残った。 主人公は天涯孤独な男性で、日雇い労働からカフェ経営へジョブチェンジ。物語は、カフェ店主となった主人公を中心に、周辺の人物たちを三人称で描いていく。これまでの作品でも、なんでもない人生にフォーカスし、その情緒を細やかに描き出していくというスタイルが印象的だったが、本著でもその持ち味は健在だ。1960年代のオーストリアで営まれる人々の生活がみずみずしく伝わってきて、場所と時間の両方を超えて、その世界にトリップさせられる。 松浦弥太郎が背表紙にコメントを寄せていることから「丁寧な暮らし」的な作品を想起する人もいるかもしれない。確かにそういった側面はありつつも、人生に影を差すような出来事が何度か差し込まれる。しかも、その内容が「カフェにおける群像劇」という主題からするとハードな内容で驚いた。戦後まもないという時代設定が影響しているのだろうが、こうしたところに日本の作家と異なり、海外文学を読む醍醐味があると言えるだろう。 前作『野原』に近いアプローチで、カフェを訪れるさまざまな人物を描きながら、そのカフェがある市場全体へと視野を広げていく筆致が見事。プロレスラー、飲んだくれ、カフェのバイト、向かいの肉屋さんなど、本当にいろんな人がいて、それぞれの人生を生きている。当たり前の事実なのだが、それを物語として立体的に見せてくれるからこそ読んでて楽しい。 ギミックとして興味深かったのは、音楽のアルバムにおけるインタールードよろしく合間に挟まれるマダム同士の井戸端会議だ。、未改行ベタうち、鉤括弧もなく、2人の会話がつらつらと書かれているのだが、これが物語に対していいスパイスとなっている。ともすれば平坦になりがちな「カフェでの日常」の描写に対して、文体のユニークさで起伏をつけている。 さらにそんな何気ない日常から著者は人生の本質と思えることを抽出し、鋭くクリティカルな言葉として小説にねじ込んでいる。特に人生を俯瞰したような格言めいた言葉の数々にくらった。ビジネス書の格言等は忌避しているが、こうして小説の中で生きている登場人物、つまり親近感を抱ける存在の口から語られるからこそ響くものがある。主人公がアラフォーであり、自分のビジネスにストラグルしている姿に自分を重ねたことも大きいのだが。部分的に読んでも刺さらないかもしれないが、いくつか引用しておく。 父がいつも言ってたのを憶えてる。振り返るな、人生はお前の前にあるんだって。でもいまとなっては未来より過去のほうがずっと長いじゃない。もうなんにもないのに、前を見てどうするのよ? ときどき遅くまでベッドから出ずにほかの部屋からの物音を聞いていると、気づかないうちに人生は自分の脇を通り過ぎてしまったのではないかという疑念に囚われた。自分に残されたものはこの世にもうなにひとつないのでは、と。 - 2026年8月8日
読み終わったエレキングによる日本のヒップホップ特集号が久しぶりにリリース。ヒップホップ専門誌がない中で、各雑誌が定期的に特集を組んでくれるわけだが、今回も充実した内容で読み応えがあった。 巻頭インタビューは舐達麻のBADSAIKUSH。別のヒップホップ雑誌『BLUEPRINT』でも彼が表紙を飾っており、近年リリースのない中でも、注目されていることが伺える。久しぶりに彼自身の言葉で現状を知ることができて興味深かった。特に印象的だったのが、家族、とりわけ子どもとの時間を大切にしているという話。彼のようなストリート上がりのラッパーが、それを率直に語れる状況そのものに社会の変化を感じた。その理由も至極納得できるもので、日々育児をする中では、どうしても煮詰まって面倒だと感じてしまう瞬間があるわけだが、この時間も永遠に続くものではないという現実を踏まえると、しっかり向き合っていきたいと思わされた。 さらにBADSAIKUSHがInstagramのストーリーに投稿した内容を起点にインタビューが展開されていた点にも時代を感じた。ラッパーたちがもっとも気軽にポストしているだろうSNSのフォーマットだからこそ、そこから彼の興味の本質に迫ろうとするジャーナリズムを感じた。5lack『花里舞』を聞いていたというエピソードは今のシーンのあり方に対する重要な示唆に映る。 全体的な特徴として、論考は抑えめで、現状のシーンについて対談形式で語るパートがその分増えている。紙媒体や活字離れが進み、ポッドキャストを含めて対談形式が隆盛している状況を踏まえての構成なのだろう。実際、対談はヒップホップと相性の良い語り口だと思う。論考になると客観的な視点や文体が求められるが、一人称の音楽であるヒップホップと必ずしも相性は良くない。一方、対談であれば、語り手のパーソナルな視点、意見が入り込むからこそ、言葉にアクチュアリティが生まれる。 今の日本のヒップホップは細分化が著しく進み、もはや一人ですべてを把握することは困難だ。だからこそ、ラッパーであれ、ライターであれ、リスナーであれ、自分が何に価値を置いているのかを明確にしなければ、語りに説得力を持たせることは難しい。それぞれの対談を読んでいくと、個々の視点を通して現在の細分化したシーンの流れを包括的に捉えられる内容になっている。 インタビューもそれぞれ興味深かった。つやちゃんによるReichiのインタビューは、『LIFE HISTORY MIXTAPE』以降を感じさせる社会学的なアプローチが垣間見えた。Reichiの「RAPSTAR CYPHER 2025」のバースは何回聞いても涙ぐんでしまうのだが、その背景を知ることができてよかった。また、目下最注目のプロデューサーであるYamieZimmerのインタビューは、自身もビートメイキングを手掛ける吉田雅史氏ならではの解像度で、彼のサウンドの奥深さの一端を知ることができた。あのサウンドの背景にDr.Dreがいることは、聞かないとわからないことだろう。(表紙のスペル、mが1つ多いので、もし二刷があれば修正して欲しい。) そして、SpiderWebのインタビューは『DAWN』におけるYOKO SQUADのインタビューと同様に、彼らを現在のシーンにマッピングする意味でも重要な機会と言える。実態をなかなか掴みづらい彼らのスタイルの片鱗を知ることができた。他にもOMG、凸凹。へのインタビューでは、若い世代がいかにキャリアを形成しているか、具体的に語られていて興味深かった。インターネットがデフォルトの世代であり、その利点を生かしながらも、ネットに閉じない現場主義がコロナ禍を経て花開いている。 このとおり、いわゆるウェブで見かける定型的なインタビューではなく、ヒップホップの文脈を踏まえたハイコンテキストな内容が紙媒体として残っていくことは貴重である。 エレキングらしさを感じたのは、VOLOJZA、AIWABEATZ、没、CHIYORIによる座談会だった。ヒップホップはナラティブの音楽である一方、さまざまなジャンルを取り込み、新しい音を鳴らし続ける音楽でもある。クラブミュージックからのアプローチで、どういう音の上でラップをしていくのか。その過程についてプレイヤーたちがここまで言語化してくれていることがありがたい。今のKid Fresinoがオルタナという話題が出ていたが、その文脈でTohjiをどう見ているのかは聞いてみたいところである。 また、ラッパー自身による原稿が掲載されているのも新しい試みだ。しかも、valkneeと仙人掌という人選よ。インタビューを基に構成されることも多いラッパーによる原稿だが、2人の場合は自分自身の言葉で書いていることが伝わってきた。「ラッパーは何か言いたいなら曲で言え」という風潮はわからなくもないが、ラップで表現できないことも当然あるわけで、両者ともそれを踏まえた内容になっていた。 日本のヒップホップはバブルと言われているものの、各自が点として存在するだけではカルチャーとして残っていかない。だからこそ、本著のような雑誌やYouTubeなど、点と点を繋ぎ、線として捉えようとする試みに意味がある。その時代の空気が抽出され、後世に残していくことができるからだ。 そんなことを考えながら、自分でもZINEを作った。私がやっていることもまた、今の日本のヒップホップを点ではなく線として残していくための小さな試みである。弊ZINEを読んだ方は、ぜひ本著も合わせて読んでみてほしい。二つを行き来することで、現在の日本のヒップホップをより立体的に捉えられるはず…という宣伝で終わらせていただきます。 - 2026年8月7日
菊地成孔の粋な夜電波 シーズン13-16 ラストランと♂ティアラ通信篇TBSラジオ,菊地成孔読み終わった著者が旧Twitterと意識的に距離を取ってきた中で、とうとう現Xに飲み込まれ、暴れまくっている様子を見て、ずっと取っておいた最終巻を手に取った。同じ内容だとしても、X上の言葉と、ラジオで話す言葉はまったく異なる印象を受けるのだな、という当たり前の事実に気づいたのだった。 過去作はすべてKindleで買ってきたのだが、いつのまにか販売休止となっている。手元にあるKindleでは読むことができて安心したものの、いつ引き上げられるかわからないなとも思う。本著だけ出版社が変更になり、Kindleになるのをずーっと待っていたのだが、一向にリリースされないので観念して紙で購入したのだった。 それはさておき、本著ではシーズン13〜16ということで、私がリアルタイムで聞いていたエピソードがいくつも収録されていた。毎シーズンごとに番組冒頭の口上用にBGMが選ばれ、それを毎週聞いていたこともあり、その曲をストリーミングサービスで再生した瞬間に当時の記憶がフラッシュバックした。音楽を聞きながら読むことでセルフラジオ状態になり、読書体験として興味深かった。 10年弱前の放送が収録されているにも関わらず、タイムリーな内容が多く驚く。(帯のコメント!!!)トランプがアメリカ大統領であること、東浩紀との初邂逅、AIの台頭、音楽におけるラティーノの活躍など、今とシンクロする内容や、先見の明は鋭さはあいかわらずである。なかでも平野歩選手が好きなラッパーが誰なのか?という話題に言及していて、流石の嗅覚すぎる。 構成作家を置かず、セルフプロデュースで、毎週のように特集を企画し、選曲する。ときにはコント台本まで書いたりする、そのバイタリティに感服する。当時50代だったことにも驚きつつ、10年経った今、そのエネルギーがSNS上での不毛と言えるレスバに、吸い取られている現実がとにかく悲しい。おそらく多くのファンは「やっぱそうなっちゃったか…」と遠い目になるしかない。一方で、たいして知りもしないのに「菊地成孔はどうのこうの」としたり顔で綴っているポストを見るだけでムカついてしまう。そんなXのアルゴリズムの勝利とも言える状況にも辟易する。 タイトルに掲げられているとおり、最終シーズンに突如として盛り上がったKing & Princeを取り上げたエピソードが多く採用されている。これはKing & Princeのファン(総称ティアラ)による売上を狙ったものらしいのだが、巻末で著者も触れているとおり、その分だけ落としてしまったエピソードがあると思うと悔やまれる。たとえば、韓流最高会議は歴史的にみて重要な資料であることは間違いないからだ。 しかも、King & Princeのうち、本著で言及されていたメンバーは旧ジャニーズを抜けて、Number_i としてのびのびと活動している。キンプリに対する高評価を歴史に残す意味がないとは言い切れないものの、さすがにちょっと多い。ただ、今のNumber_iに対する音楽的、ひいては批評的な見立てはぜひ聞いてみたいところであり、番組が終わってしまったことが改めて残念に思える。 最終シーズンの終盤は、番組が終わるのが悲しすぎて聞いていなかったので、今回初めてどんな内容だったのか知ったのだが、想像以上にエモーショナルだった。ニヒリスティックな著者ではあるが、8年間毎週エネルギーを注いできた番組が唐突に失われることを受け止めている様子から、間接的に痛みや悲しみが伝わってきた。 ネットの影響力がここまで大きくなく、まだまだラジオの力が健在だった頃、そこで果たした役割についても振り返る機会になった。期せずして今回、熊本地震の発生に伴って、著者が「快涙と快眠を導くため」ということでYouTubeでプレイリストを提供しており、音楽の力を信じている著者ならではのアプローチだなと感じた。(レスバとトレードオフと考えると代償がデカすぎる気もするが。。。) その1つ目のプレイリストの最後にセレクトされている宮沢昭『野百合』からセレクトされた「Beyond the Flames」があまりにも凄すぎて。。。日本の音楽でこんな美しい曲、久しぶりに聞いたし、著者のアーカイブの懐の深さに恐れ慄いた。 これに象徴されるように著者の選曲する力は並大抵のものではなく、この番組で知った音楽の数々は自分の中で大きな財産となっている。音楽に貴賎を設けず、かっこいいかどうかの審美眼を常に携えて選んでいることが改めてわかった。ストリーミングサービスとYouTubeを駆使すれば、ほぼすべての音源を聞くことが可能であり、それだけで楽しい。 特に旧譜が中心のジャズアティチュード、ソウルBAR<菊>で紹介されていた音楽の数々は古びないエバーグリーンな作品の数々を著者が紹介してくれているから貴重な財産。巻末についている番組プレイリストを基に色々聞いていきたい。そして、今回聞いてぶち上がった曲たちを紹介して終わりにしたいと思います。はー、復活しないかな。(m年ぶりn回目) - 2026年7月31日
未来ナオミ・オルダーマン,安原和見読み終わった美玉ラジオで紹介されていて、それを聞きながらブックオフをぶらついていたら、偶然にも目の前に本著があった。そんな巡り合わせで購入したまま積んでいたのだが、ここ数年は「Summer Reading」に乗っかり、夏に鈍器本を読むのが恒例になっており、満を持して500ページ超の本著に挑んだ。現代的なテーマをこれでもかと盛り込みながら、それらをエンターテインメントとして見事に昇華した一冊だった。 著者は前作『パワー』が世界的なベストセラーとなり、そちらで知っている人も多いだろう。訳者あとがきによると、マーガレット・アトウッドの弟子筋にあたるらしい。本著は終末SFという王道の枠組みを用いながら、「世界を支配するビッグテック企業のCEOたちが急に姿を消したら社会はどうなるのか」という思考実験を起点にしている。この設定が非常に新鮮だった。しかも舞台は限りなく近未来であるため、SFでありながら現実の延長線上として読めるリアリティがある。テックに関心のある人なら、とりわけ引き込まれるだろう。 主人公はサバイバル系YouTuberとビッグテック企業の秘書という二人。冒頭で謎めいた激しいアクションが描かれ、その出来事を起点に、終末世界をどう生き延びるのかが多角的な視点から語られていく。 印象的だったのは、終末論を思想的に支えるソドムとアブラハムをめぐるモチーフだ。旧約聖書を下敷きにしているのだが、神話は毎回読んでもなかなか頭に入ってこないのだが、比較的理解しやすかった。それは複数のテーマに重ねながら繰り返し描かれるため、寓話として自然に読み解くことができたからだろう。 なかでも表紙に描かれた「キツネ」と「ウサギ」は、本著を象徴する重要なモチーフである。狩りをしながら移動していたキツネだった人類が、一か所(都市)に定住するウサギへと変化してしまった。そんな比喩を通じて現代社会を読み解いていく。その停滞こそが世界を滅ぼす根源だとするラディカルな視点に、環境問題や資本主義への批判が接続されていく構成が見事だった。それは現在の加速度的な資本主義の浸透に対するカウンターでもあり同時代性があった。 物語全体にインターネット、SNS、AIを中心としたテクノロジーに対する懐疑的な視線が投げかけられており、フィールする内容が多かった。ネット上で机上の空論を交わし、何かを成し遂げた気になっていても、現実は何一つ変わっていないことはよくあることだ。そこから抜け出すには身体を伴った行動が必要であり、その先には現実世界そのものの尊さがある。そんなメッセージが胸に響いた。 物語のギミックが豊富で、500ページを超える長さにもかかわらず最後まで飽きさせない。掲示板形式の書き込みが随所に挟まれる構成が効果的だし、終盤にはどんでん返しが何度も繰り広げられ、読んでいてハラハラした。複雑な人間関係のなかで、それぞれの思惑が絡み合いながら社会が変化していく様子は読み応え十分だった。その展開は計算されているというよりも、未来の予見不可能性を物語に組み込んでいるようだ。さまざまな出来事や個人の選択が少しずつかみ合って社会は変化していく。つまり「一人一人の行動変容こそが未来を変えていくのである」というメッセージだと受け取った。まさにONE PERSON ONE POWER。 未来という言葉には期待と不安が常に同居している。本著はその両極を振り子のように行き来しながら、私たちは何を拠り所にこれから生きていけばいいのか問うてくる。目先の利益を利己的に目指していくような現代だからこそ、誰のために、何のために生きていくのかについて、考えさせてくれる小説だった。 - 2026年7月26日
読み終わった日本で出版されるヒップホップ関連本は可能な限り読んでいるので、本著も読んだ。YouTuberが書籍を出版することに時代を感じるし、著者のヒップホップに対する考えも伝わってきて興味深かった。 著者はYouTuberとして、ヒップホップに関する解説動画を中心に、インタビューなども含めて幅広く活動している。本書はヒップホップ入門書として、アメリカにおけるヒップホップの誕生から現在の流行までを、時系列に沿ってこのカルチャーが発展してきた歴史を解説している。 世間全体の空気として、YouTuberをナメてかかる風潮があるし、タイトルもボケてきているので、正直なところ内容には不安があったが、それは杞憂だった。想像以上に骨太な内容で、自分の穿った見方を反省した。 正直ヒップホップの歴史を知るだけなら、インターネット、生成AIなどを駆使していくらでも勉学べる。そんな時代に、本という限られたページ数の媒体でヒップホップについて書く意味があるとすれば、それは切り口に他ならない。ヒップホップの歴史は約50年にわたり、背景まで含めれば膨大な出来事が積み重なっている。著者はそれらを独自の視点で整理しており、これまで読んだヒップホップの歴史本とは一味違うフレッシュな視座を感じた。 たとえば、ファッションとの接続が挙げられる。ヒップホップとファッションが切っても切れない関係にあることは本書でも繰り返し語られるが、歴史を語る際には意外と見落とされがちな論点でもある。YouTuberという間口の広い仕事だからこそ拾えた視点なのだろう。なかでもFUBUには懐かしさを覚えた。略称の意味を今回初めて知ったし、当時まわりにいた大阪のヤンキーたちがこぞってFUBUを着ていたこともレミニス。インターネット以前から、ファッションを通じてヒップホップがグローバルに影響を与えていたのだと、あらためて考えさせられた。 また、時間軸だけでなく場所の軸で整理している点も優れている。アメリカのヒップホップを聞くとき、ざっくり東西南といったイメージで捉えてはいるだけだったが、本著では具体的な地名だけでなく、その相対的な位置関係や規模、街の歴史や空気感まで説明されており理解が深まった。ヒップホップの音楽的な側面だけでなく、社会背景まで噛み砕いてくれるので、本を通じてヒップホップを知りたい、という知的好奇心の強い読者にとっては、入門編として十分に機能するはずだ。 創世記から2020年代までを一気にたどることで、ヒップホップという音楽がいかに豊かな表現形式であるかを、あらためて思い知らされる。既に歴史を知っている古参リスナーにとっても今読むことの醍醐味はここにある。リアルとフェイクをめぐる価値観の変遷や、「何がヒップホップなのか」という定義の揺れも、「歴史」という軸があるからこそ、よりいっそう興味深く映った。 ヒップホップのオーセンティシティを巡る議論の健全さを主張している点は納得した。常に何がリアルなのかを問い続けることで、その真価が進化してきた歴史を知ることができたし、伝統と革新がせめぎ合い、これほど音楽性と思想性が更新されていく音楽ジャンルは他にない。だからこそ、自分がいまもなおヒップホップに惹かれ続けているのだと気づかされた。 本著の中で、もっとも読み応えがあったのは、ヒップホップのアンビバレントな側面に関する著者の考え方だった。YouTuberとして活動している以上、いかに間口を広くするかは重要であり、その必要性を著者はよく理解している。一方で、ヒップホップへの深い愛情も伝わってきて、その狭間でストラグルしていることがうかがえる。終盤の日本語ラップの解説や、みのミュージックとの対談は、アメリカ編の情報量や洞察の深さと比べるとやや見劣りするのは否めない。だが、それもより広い層にリーチし、ヒップホップを理解する入口に立ってほしいという思いがあるからこそのアプローチなのだろう。 若い頃なら「これはセルアウトだ!」と大きな声で言っていたかもしれない。しかし、日本においてヒップホップの人気が実際に広がり、その結果としてメジャーからアングラまで、恩恵を受ける状況がある今、進んで「ゲートドラッグ」になろうとする著者の勇気と姿勢を、素直に応援したい気持ちになった。 次は2010年代のトラップ以降の細分化されていくアメリカのヒップホップを体系的にまとめた、著者の得意分野かつ専門性の高い内容の本を読んでみたい。(YouTubeチャンネル見ろやって話かもしれないけれども。) - 2026年7月21日
翻訳する私ジュンパ・ラヒリ,小川高義新刊が出るたびに必ず買う作家の一人であるジュンパ・ラヒリの最新作。今回はエッセイの枠を超え、翻訳という営みを多角的に掘り下げた、骨太な論考集だった。 近年の著者はイタリア語の習得をライフワークとし、エッセイや小説をイタリア語で執筆してきた。本著では、そうした経験を踏まえながら英語にも立ち返り、複数の言語の間で生きることを深く考察している。移民二世である著者は、幼い頃からベンガル語で考えたことを英語へ変換するプロセスを自然に経験してきたという。複数の言語を身につけた人だからこそ見える、それぞれの言語でしか表現できないニュアンスについての考察は、どれも刺激的だった。 『変身物語』におけるナルキッソスとエコーの話と翻訳のアナロジーは著者の翻訳論の肝である。ギリシャ神話を抽象化して、自身の論理を築き上げていく様は学者さながらだ。神話に詳しくない読者にも伝わるよう丁寧に説明され、さらに繰り返し参照されることで、その比喩の説得力が増していた。 イタリア語への深い愛情が随所から伝わる一方で、イタリア社会ではなお「外様」として見られることへの戸惑いも率直に綴られている。多様なバックグラウンドを持つ人々が英語を共通言語として生きるアメリカとは対照的に、イタリアは画一性が高いからこそ、著者に対して「なぜイタリア語なのか?」と繰り返し問われることに疲れているようだった。 翻訳は生成AIの普及によって真っ先に代替される仕事として語られがちだ。しかし、実際の翻訳プロセスや思考過程について読んでいると、AIによる翻訳でどこまでフォロー可能なのかと思わされるほど、プロフェッショナルな仕事だった。コンテキストだけではなく、言葉のリズム、語同士の響き合い、一冊全体の構造まで見渡しながら訳文を組み立てていく。その徹底した仕事ぶりには圧倒された。AIが翻訳を大きく変えることは間違いないとしても、仕事のディテールを知らないまま「AIで代替できる」と決めつけることの危うさも感じさせられた。 また、「翻訳は二次創作であり、創作より下位に位置する」という価値観に著者が強い怒りを示している点も印象深い。「作家としてアイデアが枯渇したから翻訳をしているのだろう」という偏見に対し、創作と翻訳を序列化する発想そのものを問い直していく。具体例を交えながら翻訳の創造性を論じ、「すべては模倣から始まる」というクリエイティブ論へと展開していく流れは、著者の創作哲学そのものを映し出しているようだった。 著者がイタリア語で執筆を始めたのは45歳の頃らしく、物事に遅いことなんてないなと思えた。他の言語能力を取得するモチベーションはAIの台頭に伴い減退する一方だったが、著者の言語に対するピュアな興味の抱き方を読んでいると、何かを学ぶことの醍醐味を思い出させてくれた。コスパ、タイパで物事を測っていては、人生は少しずつ味気がないものになっていくからこそ、学習意欲は大切にしたいと思えたし、英語をもう1度頑張るか、韓国語を新たに勉強しようかな。 - 2026年7月10日
イン・ザ・メガチャーチ朝井リョウ読み終わった色んな人からおすすめされていて、やっと読んだ。最近読んだ著者のエッセイで、アイドルオーディション番組に初期から関心を持ち、熱心に追いかけてきたことを知り、解像度の高い作品なのだろうと期待していたが、その想像を何倍も上回る怪作だった。 オーディション番組から誕生したアイドルを軸に、ある父親とその娘、彼らとは無関係な独身女性の三人を主軸に物語は展開していく。得意の群像劇によって、それぞれの立場からアイドルとの関わり方を描きながら、推しカルチャーについて立体的に批評するような小説となっている。 アイドルオーディションを題材にした作品と聞いていたので、アイドル本人やファンを中心とした物語だと勝手に想像していた。しかし、実際には、オーディションを仕掛ける側である中年男性の視点が大きな比重を占めている。しかも、敏腕アイドルプロデューサーではなく、ミドルエイジクライシスに苦しむ元コンテンツ担当の経理職のおじさんなのだ。この人物設定は、おそらく日経新聞夕刊での連載を前提としていたからこそ生まれたのだろうが、ここに朝井イズムがこれでもかと詰め込まれている。 著者の群像劇は、登場人物のペルソナの描き込みが作品の深みにダイレクトに寄与してきたわけだが、おじさんパートでは特に筆が乗っている印象だ。「独りで啜るインスタントの味噌汁」というパワーワード一発で、おじさんの孤独を表現している。さらには「脳みそを溶かす」「味噌玉」など、「みそ」を起点に物語のキーとなる展開を描いていくあたりは、さながらラッパーである。 自分自身がモロに中年男性なので、身に覚えのあるシーンが次々に現れて心苦しかった。意地悪に感じるほどのディテールの細かさは圧倒的だ。数年の社会人経験があるとはいえ、ここまでの解像度で中年サラリーマンの悲哀を書けるだなんて。人生が宙ぶらりんだった主人公が、水を得た魚のように仕事へ没頭し、若者たちと交流する中で失われた時間を取り戻すように主体性を回復していく姿は実に健気だ。そんな健気な気持ちが最後は裏目に出てしまうのだから切ない。その姿を見ていると、自分の将来について考えずにはいられないし、娘と過ごしている時間がいかに尊いものなのか、逆説的に気付かされた。 やりがいを超えた「生きがい」が本著のテーマの一つである。大量のコンテンツに囲まれて、可処分時間が足りないというエピソードは今や珍しくない。しかし、本著がフォーカスするのは可処分時間が余ってしまうことの恐怖である。その空白を埋めようと、仕事や趣味に生きがいを求める中年男女の姿は読んでいて苦しくなる。とりわけ、アイドルカルチャーで育まれた「信じる力」が陰謀論へと滑らかに接続され、全力でのめり込んでいく女性の描写は、近年の社会状況を思い起こさせるものがあった。 「メタからベタへ」も本著を貫く大きなテーマであろう。「視野」という言葉が繰り返し登場し、どのような距離感で物事と向き合うのかを問いかけてくる。ズームインして視野を狭めれば、夢中になれる一方で、他人からは痛々しく映ることもある。逆にズームアウトして俯瞰すれば、冷静ではいられるが、そこに熱量は生まれにくい。著者はどちらか一方を肯定するのではなく、両方を丁寧に描くことで、人生はそのバランスの上に成り立つことを示しているように思えた。 ただ、自分自身は今の社会状況だからこそ、冷笑へと流れがちな俯瞰的な態度よりも、視野を狭めてでも何かに熱中する姿勢を選びたい。「メタ視点を取り続け、考えているだけでは何も積み重ならない」という登場人物の言葉は、この作品の中でも特に胸に刺さった。 人を夢中にさせるためのマーケティング手法としての「物語」も本著の大きなテーマである。タイトルは、その手法を宗教勧誘に応用するチャーチマーケティングからインスパイアされている。マーケティングを学ぶために留学する同級生と、そのマーケティングの餌食になっている主人公の女子大学生を終盤で対比させる構成は強烈だった。なぜならマーケティングの手法と、その実践を対比させているからだ。しかし、自分が渦中にいるとしてもなお、自分が幸せであればそれでいいという主体性を取り戻した女子学生の姿を見ていると、周囲に流されて生きることと、自ら選んで何かに夢中になることのどちらが人間らしいのかを考えさせられる。その一方で、主体性のないまま別の「物語」に巻き込まれていく中年女性の存在が鮮やかな対比となり、このテーマをより際立たせていた。 本著がチャーチマーケティングを駆使した推しカルチャーの裏側をメタ的に描いた小説である。それが推しカルチャーサイドに受け止められているからこそ、本屋大賞を受賞し、ヒットしているのだろう。(実際、BMSG推しのパートナーも珍しく読みたいと言っていた。)主人公のように推しカルチャーにどっぷり浸っている人や、それを仕掛ける音楽事務所の人が本著を読んでどんな感想を抱くのか聞いてみたい。 - 2026年7月6日
ミルク・ブラッド・ヒートダンティール・W・モニーズ,押野素子読み終わったリリース当時に見た表紙が印象的でいつか読もうと思っていたら、気づけば時が経ち、ブックオフで見かけてサルベージした。アメリカで暮らす女性の観点を中心にした短編の数々に魅了された。 フロリダ出身の作家によるデビュー作の短編集となる。11編を収録しており、それぞれ独立しているので、どこから読んでも楽しめる仕様となっている。 とにかくストーリーテリングが見事だ。短編ながらも「この先どうなるの?」とグイグイ引き込まれつつ、その背景にあるテーマについても描かれている。エンターテイメント性とメッセージが高いレベルで両立しているので、新世代として期待される理由がよくわかる。 表題作をはじめ、シスターフッドを扱った短編が印象的だった。ただ連帯を描くのではなく、その中にある複雑な関係性や感情の機微まで余すことなく描いているからこそリアリティがある。その背景には、黒人であり、女性であり、フロリダで育った著者自身の経験が色濃く反映された登場人物の存在があるのだろう。 個別の話をすれば、表題作では色を通じた語り口が素晴らしかった。冒頭で乳と血に関する強烈な展開があるのだが、単に物語の起伏を作るためのショッキングな演出ではなく、終盤でしっかりと物語に帰結していく構成力の巧みさに唸らされた。 中年男性として最も刺さったのは「天国を失って」だ。妻の癌が再発し、拠り所を失った男が、バーテンダーの女性や若い男性客との関係を通じて自分の立場を保とうとする。加齢に伴ってメタ認知が鈍っていく様子を、ここまで容赦なく描かれると精神的に堪えた。最近話題の俳優間によるパワハラ問題を彷彿としたし、自分も「おじさん」と呼ばれる年齢なので、その危うさを自覚していかなければならないと感じた。 「欠かせない体」は妊娠初期に出産を逡巡する女性が主人公。ネット、SNSの発展に伴い、妊娠、出産、育児に関して情報が溢れる時代だからこそ、必要以上の不安に苛まれる姿が現代的だった。情報過多で身動きが取れなくなる状況は出産に限らず、あらゆる場面に通じる普遍性がある。そして、主人公の妹のセリフは何かと重たくなる足取りを軽くしてくれる効果があった。 うん、そうしてみなよ?自分のやってること、みんながみんな、きちんと分かってると思う? 「骨の暦」では、放浪する母親と専業主婦という対極的存在を配置し、女性の主体性を問う挑戦的な内容だった。子どもを祖母に預け、世界を旅する母親が、専業主婦に対して「家で飼いならされるのは動物だけだよ。動物だって本当は嫌なはず。」と言い放つのは極論すぎる。しかし、その極端さゆえに、バランスが大事であることが伝わってきた。また、周囲と異なることで向けられる視線について、子ども目線の瑞々しい感性で描いており、自分の子どもの頃を思い出した。最後の話でも乳、血、熱というタイトルに挙がっているワードを回収する語り口が鮮やかだった。 - 2026年7月1日
ディス・イズ・アメリカ 「トランプ時代」のポップミュージックTBSラジオ,高橋芳朗読み終わったいつもの古本屋でサルベージした。2010年代後半〜2020年初頭という近過去の音楽は最近なかなか接する機会がないので、こうやって書籍を通じて振り返ることができたのは有意義だった。 副題に「「トランプ時代」のポップミュージック」とあるように、本著は第一次トランプ政権直前〜コロナ禍初期までに登場したアメリカのポップミュージックについて多角的に読み解く1冊となっている。著者がラジオ出演した際に紹介をもとに構成されているので、論点が整理されていて、リーダビリティが高い。アメリカのポップミュージックのメインがヒップホップ、R&Bへ転換していく時代を扱っており、自分の好きなジャンルを深掘りしてくれていてありがたかった。ストリーミングサービスの登場で膨大な量のカタログに簡単にアクセスできるようになった一方で、各作品をじっくり堪能する機会は減ってしまった。しかし、本著のように作品の時代背景を含めて丁寧に紹介してもらえると、改めて聞き直してみたくなるアルバムがいくつもあった。 その筆頭株がアリアナ・グランデだ。マック・ミラーとのデュエット「The Way」にノックアウトされ、デビューアルバムのCDを買ったことを覚えている。その後は世界的なスターとなり、「ポップシンガー」というイメージを勝手に抱き、新作が出ても何となく流し聞きしているだけだった。しかし、彼女のコンサートで起こったテロ事件や、LGBTQやフェミニズムをめぐる活動など、彼女の背景を知ることで音楽の聞こえ方が大きく変わった。また、彼女のルーツの一つにインディア・アリーがあることを知って、自分が彼女の歌声に惹かれた理由の答え合わせができた気がした。 もちろん扱われるのはヒップホップやR&Bだけではない。ポップミュージック全体を対象としているからこそ、当時のアメリカ社会を理解する上でも非常に参考になった。なかでも印象的だったのは、テイラー・スウィフトが政治的発言へ踏み込んでいく過程の解説だ。あれほどの国民的アーティストが、自身の政治的スタンスや支持する候補者をSNSで公表するようになった背景には、アメリカ社会の切迫した状況があったことを、本書を読んで初めて実感した。 日本では少し前に松尾潔のインタビューをめぐり、菊地成孔が怪気炎をあげていたことが記憶に新しい。松尾潔が訴えている内容自体は支持できるものの、まずは自分が関わってきた近しいアーティスト(LDH周りなど)に直接働きかけるところから始めてほしいと感じたのは事実だ。一方でこういった「言わないからダメだ」という踏絵の応酬になってしまうからこそ、インタビューを問題視する菊地成孔の応答も理解できるところがあった。 第二次トランプ政権はイランとの戦争然り、世界的に大きな悪影響を与えており、対岸の火事ではなくなってしまった。先日見たNetflixのリアリティショー『Queer Eye』のファイナルシーズンもかなりシリアスムードで、今のアメリカのモードが表現されていた。本著を読んでいると、グラミー賞が内紛劇も含めて、時代の空気を表現していることが伝わってきた。今年のBad Bunnyの受賞はトランプ政権の移民政策に対するカウンターだと受け止めることが可能だろう。 何か問題が起きたとき、沈黙を選ぶことももちろん個人の自由だ。しかし、声を上げた人々の言葉は記録され、記憶され、後の時代へ受け継がれていく。今の社会もまた、そうした先人たちのストラグルの積み重ねの上に成り立っている。本著は、音楽を通してそのことを改めて思い出させてくれたし、自分がおかしいと思ったことには、一市民として声を上げ続けることの大切さを後押ししてくれる一冊だった。 - 2026年6月26日
読み終わったディアンジェロが亡くなったときの喪失感は、海外のアーティストではこれまで味わったことのない類のものだった。そんな落ち込んだ状態の中で、SNS上の雑な言説にバッティングしたことでさらに気持ちが沈んだ。その気持ちをなんとか整理したく読んだのが、『ディアンジェロ《ヴードゥー》がかけたグルーヴの呪文』だった。本著は、そんな気持ちをさらに癒してくれるかと思って読んだところ、圧倒的な内容で感動した。 ディアンジェロの来歴、関係者へのインタビュー、国内ミュージシャンのインタビューと対談、ディスクガイド、批評まで網羅的にまとめられた1冊。ここまで充実した内容でこの値段は正直破格だと思う。 本著が体現しているのは、ディアンジェロがいかに豊かなコンテキストに溢れたアーティストであるかということだ。「ブラックミュージック」と一口に言っても、さまざまな要素を含むわけだが、彼はその膨大な歴史を吸収し、自らの表現へと昇華した稀有なアーティストである。そんな歩みを時間という縦軸と、周辺人物という横軸の両面から深掘りしている。 個人的には冒頭のインタビュー2連発で心を掴まれた。まずは久保田利伸である。ディアンジェロの歌にフォーカスして語れる人間として、これ以上ない人選である。実際、久保田利伸はディアンジェロ含むソウルクエリアンズと同時代に生きて、一緒に音楽を作っていた張本人であり、その証言の数々のどれもが目から鱗だった。(ディラビートに心酔した話がアツい。)他にもディアンジェロと直接関係ないものの、アメリカでアジア人がR&Bシンガーとして活動することへの周囲の反応や、ミュージック・ソウルチャイルドに対する評価なども興味深かった。 そして、もう1人がRHYMSTERのDJ JINである。今の私の音楽の嗜好性は、彼によって構築されたと言っても過言ではない。RHYMESTERがレギュラーを務めていたTOKYO FM『WANTED!』の番組内で毎週30分弱くらいDJ JINによるミックスが放送されていた。当時、日本語ラップは聞いていたものの、海外のヒップホップをほとんど知らない私が、ディアンジェロやソウルクエリアンズと出会ったのは彼がきっかけだからである。だからこそ、DJ JINによるDJ、ビートメイカー視点で語られるディアンジェロの話は至極だった。ディアンジェロはジャンルに縛られず、古い音楽を咀嚼しながら新しい表現へと更新していたわけだが、DJ JINもbreakthroughを筆頭に音楽のクロスオーバーを率先して体現してきたキャリアがある。それゆえの共鳴具合がインタビュー全体から伝わってきた。ディアンジェロ特集で、この2名を抜擢する編集センスには脱帽するしかない。 押野素子氏による関係者インタビュー群が、本著のハイライトだ。本人が多くを語らないアーティストだったからこそ、周囲の証言から浮かび上がる人物像はどれも貴重で、ページをめくる手が止まらなかった。ネット上ではまず得られない情報が、日本語でこれほどまとまって読めること自体が奇跡のように思える。さらに、押野氏自身がディアンジェロ初来日時のアテンドを務めていたこともあり、その経験を語る本人インタビューまで収録されている。まさに歴史的証言と言っていい内容だった。 ディスクガイドも充実しており、ソウルクエリアンズ周辺作品まで幅広く網羅している。個人的にありがたかったのは、参加曲や提供曲のリストである。3枚のオリジナルアルバムはそれこそ穴が空くほど聞いてきた一方で、参加曲や提供曲は点在していて追いきれていなかった。今回まとめてくれているおかげでプレイリストにして楽しんでいる。 ディアンジェロが好きな人にとっては買って損なし、一家に一冊必携レベルの決定版なので、読んでいない人は一刻も早く読んでみてほしい。 - 2026年6月23日
レコード店の文化史ジョン・ドゥーガン,ジーナ・アーノルド,マシュー・ウォーリイ,クリスティン・フェルドマン=バレット,奥田祐士読み終わったディスクユニオンに立ち寄った際に見かけて気になったので読んだ。ストリーミングサービスのおかげで月額1000円程度で膨大なカタログにアクセスできる時代において、レコードを含めてフィジカルなものを買う場所の意味を改めて考えさせてくれる一冊だった。 本著には、学者やジャーナリストを中心に、レコード店という場所をめぐるさまざまな論考が掲載されている。対象は欧米諸国だけではなく、日本を含む世界各国に及んでおり、たとえばルーマニアやナイジェリアは、社会情勢に応じてレコード販売の形態が変化しており、政治と生活が直結している様がありありと描かれていた。 レコード店とコミュニティについて非常にたくさんの事例が載っている。それらを読んでいると、大阪に住んでいた頃、アメリカ村のレコード屋に足繁く通っていたことを思い出した。当時はSERATO登場前夜で、レコードでDJしていた。お店にはクールな大人たちがたくさんいて、そこに置いてある未知の音楽を持ち帰り、家で針を落として聞く瞬間は独特の高揚感があった。 SNSで知った音楽をストリーミングで聴く現在のスタイルも、本質的には同じようなプロセスである。しかし、両者の違いがあるとすれば、コミュニケーションの濃度だろう。こういうことを言っていると老害扱いされそうな上に、ストリーミングサービスの恩恵を受けまくっているので、今の状況を否定するつもりはない。それでも、音楽にまつわるフィジカルな体験は失われて欲しくない文化だと本著を通じて再認識した。 全体としてロックミュージックについて書かれている論考が多いものの、ニューオリンズのヒップホップレコード店やロンドンのレゲエレコード店など、ブラックミュージックに関する章は個人的な興味の範囲なので特にオモシロかった。 ニューオリンズの章では、ヒップホップのローカルなスタイル(バウンス)を下支えしているショップの役割やハリケーン・カトリーナが地域文化に与えたインパクトの大きさなどが多角的に描かれていた。一方、ロンドンのレゲエレコード店を扱った章は、移民と音楽をめぐる論考となっている。社会的に抑圧される人々にとって、レコード店や音楽がコミュニティを支える装置として機能していたことが示されており、音楽が連帯を生み出す力をあらためて感じた。 レコードの製造についても知らないことが多かった。日本やニュージーランドがそれぞれの事情で国内プレスを行っていた背景は興味深い。日本では海外アーティストの国内プレス盤はオリジナルではないから価値が低いとされてきたようだが、今や日本のレコード帯カルチャーは海外に逆輸入されていて価値の転換が起こっている。また、ニュージーランドについては過去に関税の影響から自国プレスが発展した歴史が興味深く、最近の関税をめぐる混乱を想起した。このように歴史を踏まえると現在の状況も解像度高く理解できるので、本著のような視点は貴重である。 学術的な論考が多い中でも、いくつか収録されているエッセイも興味深い。特に印象的だったのは、イランで西洋音楽を聞く方法について書かれたエッセイだった。イラン革命後の抑圧的な状況が音楽を通じて語られており、政治や社会の変化を肌感覚で理解できる。現在はある程度状況が改善しているようだが、ヒップホップだけは依然として警戒されているという。その事実は、逆説的にヒップホップの持つ影響力の大きさを示しているように思えた。 レコード店を巡る物語といえば『ハイ・フィデリティ』は外せない。映画ではレコード屋の店員が特定の音楽の趣味に応じた立ち振る舞いを繰り広げていたことが記憶に残っている。(『ブラスト公論』で知ったのも懐かしい話だ。)そんな『ハイ・フィデリティ』が2020年にドラマ版としてリメイクされており、小説、映画、ドラマと時代を通じて変遷したきた内容を考察していた。ドラマ版が現在はストリーミングで配信されていないようだが、どこかで見れたらいいな…また、『ハイ・フィデリティ』に象徴されるレコード店のボーイズクラブ的なノリに対して女性店員から提示されている視点は、男性として理解が及んでいないことだった。 最近は子どもの習い事の待ち時間にディスクユニオンでサクッと見るレベルのディグしかできていない。そんな短い時間の中でも思わぬ出会いがあり、アドレナリンが出まくるからレコード蒐集はやめられない。せっかく東京に出やすい環境にいるので、インディペンデントなレコード店にも足を運びたいと思わせられた。 - 2026年6月9日
トピーカ・スクールベン・ラーナー,川野太郎読み終わった前作『10:04』も読んだベン・ラーナーの最新作。何を読んでいるか、途中までなかなか掴めないにも関わらず、ある地点から急に視界が開け、その世界に没入させられてしまう。そんな特別な読書体験だった。 主人公アダムを中心に、家族や友人たちの人生が交錯する群像劇。舞台はアメリカ中西部の田舎町で、精神科医の両親を持つアダムがどのように大人になっていくのかが語られる。家族というものは、それぞれの年齢や立場の変化に応じて形を変えていく。本著では時間軸や視点を大胆にシャッフルすることで、その変化の過程を立体的に描き出していた。また、メタ的な視点を含むさまざまな仕掛けも特徴的で、読者を楽しませてくれる。 登場人物の多さに対して説明描写は最小限で、前半は正直読みにくい。大きな事件が起こるわけでもなく、鮮明な情景描写と何かの気配だけが漂い続ける。しかし、読み進めるにつれてテーマが徐々に浮かび上がり、気づけば夢中にさせられる構成が見事だった。作品全体は安易に要約できないよう設計されており、パズルのピースのように最後に合わさっていくカタルシスが本著の魅力と言える。 個人的には母ジェーンのパート「男たち」で一気にギアが上がった印象だった。現在から過去を振り返る語りでありながら、かつ二人称なのでインタビューを読んでいるようだった。ここで家族関係や過去の出来事が整理され、舞台背景がクリアになる。この章以降、各描写の意図が理解しやすくなったので、読みづらくて苦労している人は、何はともあれここまで読み進めてみてほしい。 巻末で白岩英樹氏が熱く、熱く、語り倒しているとおり、本著は現代の言葉、特に「話し言葉」をめぐる物語だ。他者と会話することの意味について、ディベートを通じて考えさせてくれる。ディベートでは相手を論破することを目的とするが、その技術や価値観が、私たちの生活に侵食していることを浮き彫りにしているのだ。たとえば冒頭で、アダムが両親から注意された際にディベートのスタイルで反論するくだりは象徴的だ。それはアメリカや日本の政治的リーダーが、言葉を軽視し、はったり上等で息をするように嘘を吐き出す振る舞いとも重なる。彼らのスタイルがディベートと地続きであることが、小説を通じて浮かび上がってくるのが興味深い。 また、大量の情報を一方的に投げつけ、反論がなければ同意とみなすようなコミュニケーションも登場する。ウェブ上で規約に同意する場面なんて最たるものだが、これもディベートの技法の一つらしい。本著ではディベートに限らず、今の社会に対する違和感を登場人物や設定を通じて見せていく展開が多く、著者の視点の鋭さに何度も舌を巻いた。 ヒップホップが大きくフィーチャーされている点も印象的だった。著者はもともと詩人でもあるので、親和性は高いのだろう。なんと「サイファー」という章まであり、ディベートとMCバトルをオーバーラップさせていく語り口は「話し言葉」をテーマにした本著にぴったりだ。2 Pac、Bone Thugs-N-Harmony が印象的なシーンで登場していたり、ディベートにおいて速度と内容の激しさではない韻律の重要性について表現していたり。90年代の米国中西部における白人たちのヒップホップの受け止め方という観点でも興味深い描写が多かった。 子を持つ身としては終盤の展開にも強く惹かれた。子どもが「よくないこと」をしたとき、大人はどこまで介入すべきなのか。本作は二つの対照的なシチュエーションを通じて、その難しさを描いている。大人が介入して解決すべき問題と、子どもたち自身に委ねるべき問題。その境界線の曖昧さを寓話的に表現する手腕は、まさに小説家ならではだ。 さらに、ここで鮮やかなのは「介入」というテーマを家族の問題に留めず、重層的にアメリカ社会を描いていることだ。共和党は限りなく小さい政府を掲げ、市場原理を重視する一方、外交や移民政策では必要以上の介入を行っている。「介入」の是非が、社会全体の要請や利益ではなく、各人の立場や利害によって判断されている。そんな社会の硬直性をこんなふうに描くことができるなんて脱帽した。 現代に関する直接的表現はミニマルであるにも関わらず、ここまで今の問題を鮮やかに描き出す筆力。そして、説教臭く感じさせない物語的ギミックの数々とポエジー。これらが組み合わさり、唯一無二の小説となっていた。次の作品が今から楽しみ。 - 2026年6月3日
そして誰もゆとらなくなった朝井リョウ読み終わった著者のエッセイシリーズである「ゆとり三部作」の最終作が文庫になったので読んだ。これまでの二作ともおおいに笑わせてもらったが、本著も間違いない仕上がりで何度も笑った。 直近の作品であり、過去の作品よりも自分と執筆時の著者の年齢が近く、年をとることに伴う変化について書かれているエッセイが多いので、過去作の中ではもっとも親近感をもって読むことができた。 とにかく文字で笑わせるスキルがハンパじゃない。SNSのくだらないミームは足元にも及ばない「これぞプロ!」というスキルをこれでもかと見せてくれる。テンポ、ボキャブラリー、文体など、文字で自身が経験した状況と感情を描くスキルは他の追随を許さない。世はエッセイブームであり、箸にも棒にもかからないエッセイが山ほどある中で、こんなに人の心を動かせるエッセイは他にないかもしれない。 著者の「おもしろい」に対するシンプルな考えが本著であきらかにされており、まさに著者のエッセイの真髄である。「おかしみ」を抽出するスキルが高い。 おもしろいというのは私にとって、様々な邪念が一切入ってこないくらい、素直に、そして真剣に生きているときに滲み出る〝おかしみ〟のことなのだ。そのおかしみは、隙、と表現することもできる。 「お腹がゆるい」という著者の特性に関するエピソードが今回は特に多く、その内容に勇気づけられる。自分もどちらかといえばゆるい方だが著者ほどではないので、こういった 経験談をてらいもなく開示してくれていると「自分なんてまだマシだ」というポジティブな気持ちになれるので感謝である。「腹と修羅」における「現代のシザーハンズ誕生の瞬間である。」というパンチラインは笑いすぎて死ぬかと思った。 いろんな人に『イン・ザ・メガチャーチ』をおすすめされているので、早く読みたい。 - 2026年5月12日
トーフビーツの(難聴)ダイアリー2023tofubeats読み終わった日記熱が高まったので積読していた本著を読んだ。インタビューを含め自己開示がダサいというムードは、ヒップホップのアーティスト周辺で散見されることだが、ここまで筆力をもって自分の状況や感情を書くことができるミュージシャンであれば、むしろ強力な武器になりうることを証明していた。 2023年の出来事がまるっと1年分収録されている日記ZINE。今回もZINEということもあってか、踏み込んだ内容が多く、ファンとしては嬉しい。2023年当時、まだ社会にはコロナの余波が残っていたことを日記で気付かされるなど、やはり記録しておくことに意味があることを再認識した。東京のシティライフを謳歌する様子と、それに伴うストラグルが並行して描かれており、酸いも甘いもある、人生を象徴するような日記となっていた。 2023年から現在に至るまで飛ぶ鳥落とす勢いで活躍を続けているが、2023年時点でなお、自身の音楽キャリアや築いてきたレガシーについて疑問を抱いている点に彼らしさを感じた。自分の作品を疑う視線は一見ネガティブに映るかもしれない。しかし、それは裏返せば、まだ自分ができることを模索しているとも言える。だからこそ彼は停滞することなく、常にシーンの中でプレゼンスを発揮し続けているのだろう。 tofubeatsのレガシーについて友人と話した際に印象に残っているのは「Lonely Nights」だ。もし、tofubeatsがYOUNG JUJU名義だったKEIJUにオートチューンを提案していなければ、今の彼のスタイルや立場はなかったはずである。だから、日本語ラップヘッズたちはもっとtofubeatsに感謝すべきだ、という持論を勝手に抱いている。そんな「Lonely Nights」を収録した『FANTASY CLUB』に関して言及しているラインにくらった。 手前味噌だがこのアルバムは良い悪いは別として何かを突破しようとしていてその気合いみたいなものはそれなりにきっちり込められたとは思う。せっかくHIPHOPに類する音楽を聴いているのだがら簡単に越えられないものを越えようとする気概みたいなものを感じたい。 もともと難聴をきっかけに日記がスタートしたわけだが、コロナ禍が明け、ライブやDJ活動が本格化していくタイミングで、耳が再度不調をきたしていく様子が描かれる。耳に入ってくる音の総量(ボリューム×時間)で症状が変化する。難聴がここまでデリケートな病であることを初めて知った。ミックスやマスタリング、ライブでのオペレーションなど、音の細部に強いこだわりを持つミュージシャンだからこそ、余計に辛いだろうなと感じた。 合間合間に挟まれる論考も興味深い。たとえば、HIPHOPライブにおける相互客演問題について言及していた。フェスなどでは、客演曲はゲスト込みでやること当然視されており、実際に本人が出てこないと観客は肩透かしを食らった気分になる。勝手に期待され、勝手に失望される構図は確かに不憫だと思う一方で、リスナーとしては「同日出演ならやってほしい」と思ってしまう気持ちも正直ある。 他にはアーティストの言動と楽曲の関係性についての話。言動と音楽を切り分けて「関係ない」という態度を決め込む人もいれば、逆に言動と音楽は不可分で適切な対応が取られなければならないという態度もあるだろう。直近ではKanye Westが最たる例だろう。このどちらかを選びきれない感覚について「選ぶこと」が加速度的に要求されている現代の社会状況を踏まえつつ、自身のDJ論も絡めて実直に語られていた。 SNSではこういった思考の軌跡を追うことは難しい。だからこそ本というスタティックかつ、いい意味で一方的なフォーマットの強度の必要性を感じた。2024年の日記もリリースされることを心待ちにしたい。 - 2026年5月10日
N/A年森瑛読み終わった美玉ラジオで取り上げられていたので読んだ。現代的な感覚や時代の空気をこういった形で小説へ落とし込む筆致に芥川賞候補になるのも納得のオモシロさだった。 主人公は高校生のまどかという女の子。彼女の学生生活を軸にしながら、現代社会のムードを描いていく。まどかは、生理になりたくないという理由で食事制限を始めたり、恋人とは異なる「かけがいのない他人」を追い求めて女性と交際を始めたりする。こういった一連の行動は「社会規範」から逸脱する行為に映ってしまい、そんな逸脱した主人公に対して、周囲がどのようなリアクションを取るのか、細やかに描かれている点が興味深い。 規範から外れた存在に対して、杓子定規に正しく応答することに意味があるのか?当人の気持ちを傷つけない最適なアプローチは、当人のことを本当に考えているのだろうか?「多様性」という言葉だけが先走り、実態を伴わず形骸化している状況が、繊細な年頃のティーンエイジャーの関係性の中で浮かび上がっていた。 特に、インターネットの普及により、ある種の「正解」の流布で起こったコミュニケーションの均一化が、人間関係を毀損している可能性に気付かされた。周囲のリアクションと自分の意図が乖離していることに戸惑いを感じた経験はあるが、拒食症や同姓愛といったマイノリティのテーマと接続することで、当人の気持ちをいかに置き去りにしているのか鮮明にしている。特に後者の同姓愛に関しては、2人の関係が一番大事であるにも関わらず、社会的正義、貢献という名の元で、まどかの恋人が己の承認欲求を満たす様は最近よく見る光景だ。 本著全体から伝わってくるのは、自分自身の感情に根ざしたコミュニケーションの重要さと、テクノロジーの進展によって私たちがそれをどれほど疎かにしているのかということである。一番顕著なのは終盤のLINEのやり取りだった。LINEは日本における2010年代後半以降のコミュニケーションを象徴するツールだ。そこでどういった言葉をかわしていくのか、思考過程を含めてこれだけスリリングに描いた小説を読んだのは初めてだった。チャットアプリなので、応答することが前提となっているが、それはアプリに駆動されているだけで、適切な言葉を探す意味がどこにあるのかと思わされる。 タイトルの「N/A」は、Not Available=データがないことを意味している。エクセルのVLOOK関数などで値を探しにいっても見つからないときに帰ってくるエラーだ。皆が自分の内側ではなく、さながらVLOOK関数のように外側に正解を参照しにいく態度の比喩として秀逸である。ゼロではなく「存在しない」というニュアンスが、正解探しの虚しさを端的に表現している。 心がひやっとしたのは後半の生徒と先生のやりとり。「先生が元生徒と結婚する」vs「生徒が授業中に内職する」という双方が規範から逸脱した結果として、教師から振るわれる言葉の暴力にゾッとしつつ、そこで連帯するシスターフッドにグッときた。突発的な状況の中では、誰もが検索、参照することなく、思い思いの連帯を示すからだ。ここで初めて本当の意味での多様性が立ち上がる裏腹な構成が見事だった。 多様性と言われるものの、それは理解できる範囲でのみ許容されるという暗黙の了解の上に成り立っている。朝井リョウや村田沙耶香がここ数年指摘してきた息苦しさとも響き合いながら、本著はさらに軽やかに、なおかつ現代の空気やツールをうまくパッケージした上で提示している素晴らしい小説だった。 - 2026年5月10日
すべての原付の光天沢時生読み終わったあまりにも気になりすぎるタイトルかつ早川書房から出てることに惹かれて読んだ。日本のSFを読めていない中で、脳みそがスパークしそうな圧倒的情報量とドライブしまくる物語の構成に魅了されてあっという間に読み終えた。 タイトル作を含めて合計5作の短編・中編で構成されている。似たような話は一つとしてなく、それぞれ異なる魅力を持っていた。なんといってもタイトル作が「これぞ日本のSF!」という内容で最高だった。暴走族およびヤンキーという絶滅危惧種の日本の伝統を、SFに落とし込んでこんなユニークな小説が書けるだなんて。勝手に原チャで暴走していた中坊を捕まえてタレットから空中に打ち込み異世界に吹き飛ばすという設定がぶっ飛んでるし、原付の光が明滅するシーンにおけるリテラルな表現は斬新だった。全体通してのギミックとしては、ルビ振りが特徴的。漢字に対して英訳ルビが振ってあるので、情報量が増えて世界観の構築に一役買っていた。 一番好きだったのは「ショッピング・エクスプロージョン」ドン・キホーテをオマージュした量販店が無限に増殖し、地球上を侵食していく。それを食い止めるミステリーバディものという荒唐無稽な話。『フライデー・ブラック』を想起しつつ、ワンピースやドン・キホーテというベタなものをかけあわせてフレッシュな文学に昇華してしまうスキルに脱帽した。主人公2人がジャズメンを模した名前だったり、熊谷が大麻の街だったりと、ハイコンテキストなカルチャーのマダラ模様も読んでいて楽しかった。タランティーノに映画化してほしい。 一方で「竜頭」は少し不思議系なストーリー展開に地方の鬱屈性が配合された独特の世界観だし、「ラゴス生体都市」は進撃の巨人オマージュな展開だったり。同じSFの中でも、サブジャンルを横断して自分のスタイルに落とし込む様からオールラウンダーであることが伝わってきた。 いわゆる日本的なサイバーパンクのイメージを率先して具現化している街は、渋谷、新宿といった都市部かもしれないが、そのベタ性から距離を取り、地方を舞台に想像力を爆発させて軽やかに完全オリジナルの世界観を作り上げている点にクリエイティビティを感じた。新作が最近出たばかりのようなので、そちらも読みたい。 - 2026年5月8日
ちょっと踊ったりすぐにかけだす古賀及子読み終わった日記ブームと言われて久しい中、その一翼を担う書き手である著者の作品を初めて読んだ。育児日記として面白く読んだ。 もともとウェブ上で公開されていた2018年から2022年までの日記を抜粋、再構成した一冊。著者と2人の子どもによる他愛もない日常の様子が綴られている。形式としては日記だが、日付や時間の連続性はそこまで前景化していない。むしろ各エピソードにキラーフレーズのようなタイトルが付されていることで、エッセイ的なニュアンスが強まっていた。 成熟した大人から見ると、子どもの発想や言葉づかいにハッとさせられる瞬間は多い。著者はその瞬間をキャッチするアンテナが鋭く、丁寧に記録しているからこそ面白い。印象的なのは、著者のボキャブラリーや感覚を子どもたちが吸収して育っていることだ。以下に端的に表れている。 「感性がちょろいからすぐ踊っちゃう」と息子に言われた。その「感性がちょろい」って言葉、教えたの私だ。上手に使いこなしてる。 SNSやYouTubeにおいて、子どもと大人の非対称性から生まれる出来事でインプレッション稼ぎしているコンテンツを見るとギョッとするときがある。しかし「はてなブログ」を筆頭とした、当時のウェブ日記の文体をまとった著者の文章からそういった邪な気持ちは微塵も感じることがなかった。それは、かしこまっていない自然な文体を通じて、著者の人柄や子どもに対する無償の愛が伝わってきたからだ。 「些細な日常を描く」という惹句は、日記やエッセイで山ほど使われているが、これほどまで文字通りの「些細な日常」を体現した日記はそうそうない。家族3人以外の部外者の話がほとんど登場せず、著者は仕事して、子どもは学校に行く。そんな繰り返しの日々の中でも、考えることやプレシャスな瞬間が溢れている事実に気付かされる。並の人間なら日記にならない日が、著者の手にかかればスペシャルな一日になる。この観察力と文章力が多くの人の心を鷲掴みにするのだろう。なかでも親と子どもの異なる発想の角度が交差して発生するコミュニケーションの数々は読んでいてニヤニヤしたし心が清められた。 本著の特徴としては、育児におけるネガティブな側面やしんどさがほとんど言及されていない点も挙げられるだろう。子どもと暮らしていると、かわいい、健気だと思う瞬間はたくさんある一方で、親を当惑させ、ときには怒らせるような出来事も当然ある。自分自身も4歳の子どもを育てている中で、つまづくことが山ほどある。これだけポジ出しのエピソードがたくさんあると育児で疲れることがあっても、著者の子どもに対する優しい視点に勇気をもらえた。 一方で、ここまでキレイにされていると、ジェントリフィケーションに近いニュアンスを感じないと言えば嘘になる。それは子どものディテールの細かさに対して、パートナーに関する記載の薄さも同様の感情を抱いた。そもそも何を書こうが自由だし、わざわざネガティブな瞬間を人に伝える必要はないのかもしれない。また、パートナーや子どもとしても「書かれない権利」があるのだから、時代にあった適切な配慮とも言えるだろう。 植本さんや西村賢太の日記で育ったので、「日記」というフォーマットに対して「リアル」を過剰に求め過ぎているのかもしれない。同じ「日記」と呼ばれるものでも、著者は現実を食べやすく成形した結果としての「リアル」であることについて自覚的なのだろう。それは前述したとおり、タイトルをつけて日記の要素を薄めていることや、あとがきでも「日記というよりも創作に近いものである」という自身の日記観からも伺える。まだ一冊しか読んでいないので、次は『おくれ毛で風を切れ』を読んでみる。 - 2026年4月30日
シスタ・ラップ・バイブルクローヴァー・ホープ,押野素子読み終わった最近読んだ『ヒップホップ名盤100』の中で、リル・キムが「早すぎたフェミニスト」と言及されており、積んであった本著を読んだ。ヒップホップはずっと好きで聞いてきたが、女性たちが構築してきたカルチャーについて知らないことばかりで興味深かった。 ヒップホップ黎明期から現在までシーンに登場した女性ラッパー100人を個別に取り上げた「ラッパー名鑑」的な一冊である。 基本的には時系列で構成されており、それぞれのラッパーの来歴を追いながら読むことで、誰がどのような変化をもたらしてきたのかが、歴史として立体的に浮かび上がる。オールカラーで描かれたポップなイラストも魅力的で、ページをめくるだけでも楽しい。 女性ラッパーにフォーカスして、ヒップホップ史を捉え直す試みは、男性中心で語られてきた歴史のアナザーサイドである。同じヒップホップでありながら、まるで別のカルチャーのように映るのは、女性の存在がこれまで十分に歴史として語られてこなかったことの証左と言える。 ヒップホップにおいては、女性が搾取の対象として描かれてきたケースも多い。そうした文脈の中で、女性ラッパーたちが自身の欲望、経験をリリックに落とし込んできた歴史こそが、ヒップホップがもつレベルミュージックとしての側面を体現しているように感じられた。 なかでも、リル・キムとフォクシー・ブラウンが印象的だった。彼女たちが女性のあけすけな欲望をヒップホップに持ちこんだことは革命だったわけだが、自身のセクシャリティを解放しているだけにも関わらず、下品だと言われてしまったり、男性中心の価値観の中で消費されてもきた。「b*tch」という言葉を筆頭にリリック内で女性を搾取してきたにも関わらず、当人たちが同様に表現すると男性が当惑する。このダブルスタンダードっぷりはどうなんだと思いつつ、自分も日本語ラップにおける女性のダイレクトな性表現を聞いて当惑することもあるので、人のことは言えない。 一番驚いたのはニッキー・ミナージの捉え方だった。Kanye West「Monster」での客演バースは歴史に残る最強のバースであり、そのラウドな印象に引っ張られがちだ。しかし、彼女は女性のラッパーとしての新たな土壌を2010年代に切り拓いた。セクシュアリティに依存しすぎない表現とメロディックなスタイルも取り入れた幅広い音楽性で、リル・キムやフォクシー・ブラウン以降のラッパー像を塗り替えたゲームチェンジャーだと知った。かつて『Pink Friday』を何気なく聴いていた当時の自分の理解の浅さを思い知った。 さらに、ローリン・ヒル、ミッシー・エリオットといった性的表現とは異なる軸で革新をもたらしたラッパーたちも取り上げられており、その音楽性だけではなく、キャリア全体を振り返って後進に対する影響の大きさについて丁寧に書かれている。シンギンスタイルの萌芽をローリン・ヒルに見出すのは新たな視座だったし、ミッシーがいかに才覚に優れた人間なのかもよく理解できた。 本著によれば、かつては女性ラッパー同士が競合構造の中で「一人しか生き残れない」状況に置かれることも多く、それがシーンにおける持続的な定着を妨げてきた要因のひとつとされる。しかし現在では、DEI(ダイバーシティ・エクイティ&インクルージョン)の広がりやヒップホップ自体のさらなる大衆化を背景に、多様なスタイルの女性ラッパーが同時に活躍する状況が生まれている。NETFLIXの『LADIES FIRST』というドキュメンタリーが本著の理解を大きく促進してくれたので、まずはそちらを見てから本著を読むのもいいかもしれない。 どういったサウンドなのかだけではなく、リリックの中身を知るとラッパーについてイメージしやすくなる。英語に明るくなく、USのヒップホップを聞く際にリリックを蔑ろにしてきたが、AI全盛の今はスラングも含めてわからないところは簡単に翻訳できたり、リリックの技巧的な部分を含めてレビューまで生成してくれたり、理解が深まりやすい環境だからこそ、積極的に情報を取っていきたいと感じた。 - 2026年4月22日
理系の読み方大滝瓶太読み終わった去年の友人のベスト10に入っていたので読んだ。人生において理系、文系の選択は大きなものであり、結果的に理系を選択して良かったなと思うこともあれば、別の可能性を想像してしまうこともある。本著では、そんな異教同士を接続させ、新たな小説の捉え方を提示している刺激的な1冊だった。 小説を読むこと・書くことについて、理系視点から講義のように解きほぐしていく構成になっている。一口に理系といっても幅広いが、著者の専攻は「熱力学」「統計力学」。つまり、物理化学的な思考がベースにある。その視点で小説と科学という全く異なるものを重ね合わせて、鮮やかなアナロジーで小説について語っていく。論理的な思考回路で具体的に作品を分析し、そこで得た知見をさらに「読み方」として定式化していく手つきは理系そのものだ。小説と科学を以下のような解釈で接続し、本著の語りの必然性を見出していく点にグッときた。 「わかる」を積み重ねていたはずなのに「わからない」という全体が生成されていて、そういう経験を与えてくれる本に出会うたび、小説と複雑系の自然科学はかなり近い位置にあると思わされます。 特にオモシロかったのは、ミステリーを理系的に読み解くパート。読書に対してわかりやすい答えを求めていないので、正直進んでは読まないジャンルだが、そのゲーム性の高さゆえに表現方法の進化が言語化できるオモシロさに気付かされた。同じジャンル小説のSFに対する視点も鮮やかで、SFを読んでいて苦労するのも小説体験の一部として機能していることがわかったので、これからは挫けることなく読み切れそう。 SFは「理解できない」という感覚が作品の底力となりえるのです。この感覚を使いたいとき、複雑かつ詳細にわたる説明をあえて改行なしに長く続けたりすると「読みにくさ」が「スケールの大きさ」として表れます。 一番ハッとさせられたのは、読書習慣がもたらす功罪に関する指摘だった。長い間、本を大量に読む生活を続けている中で知識や思考の幅は広がった一方で、読んだ本の内容が以前ほど記憶に残らないことに薄々気づいていた。著者も同様の状況だと書かれていた。 慣れによって文章のパターンを知っていき、長く読書をする体力がついたのと同時に、簡単に読み流せるようにもなってしまった。効率良くたくさん読むための技術を知らず知らずのうちに身につけてしまっていて、この読み方こそまさに前回に述べた「『ノイズ』を削ぎ落とす」という行為です。 ノイズを得るために本を読んでいると思っていたが、ノイズと感じるセンサーが死んでしまっているのかもしれない。ただ読書していて、頭に残る数少ない本は、どこかしらノイズがあるものだなと逆説的に気付かされた。 「小説の技巧」をエンターテイメントとして楽しめていないから本が売れていないのでは?という問題意識で本著は書かれている。最後のパートで具体的な作家を取り上げて、その技巧を分析しているのだが、それがなんと滝口悠生!日本の小説家でトップクラスに好きな作家について、理系的なアプローチで読み解かれており興味深かった。 滝口作品に関して言及する際、誰もが人称について触れることになるが、本著は他の追随を許さない圧倒的解像度を誇っている。小説を読んでいるあいだにボヤッと頭に浮かんだことが逐一言語化されており、さらに作品構造を図示して「私」のあり方を整理していく試みも興味深かった。滝口作品の技術的アプローチについて「メゾスコピックな領域で世界を捉える方法」と位置付けており、これぞ理系的な視点だなと感じた。しかも『長い一日』の一文で締め括られる構成も鮮やかだった。小説の読み方に関する示唆を得たい人には理系、文系問わずおすすめしたい。
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