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Yamada Keisuke
Yamada Keisuke
@afro108
乱読の地層。
  • 2026年4月9日
    ヒップホップ名盤100
    大阪帰省時にblackbird booksで遭遇してゲトって読んだ。このタイトルに求められる、ある種の普遍性をかなぐり捨てて、著者独自のセレクションと視点で単なるディスクガイドを超越した読み物として圧倒的にオモシロかった。  日本でもヒップホップが爆発的人気を獲得する中、「一体何から聞けばいいのか」と途方に暮れている人も多いだろう。そうした場面でディスクガイドは機能するわけだが、とりわけ月1000円で音楽が聞き放題のストリーミング時代においては、その効力がかつてより増している。なぜなら、掲載作品を即座に再生できるから。本著を読みながら、クラシックや隠れた名作を聞き返す時間は最高だった。  アメリカのヒップホップのアルバムから著者が100枚を選び、紹介している本著はディスクガイドと言える。ただし、本著がヒップホップをこれから聞くビギナー向けかといえば、正直なところ難しいかもしれない。というのも、王道は一応抑えてあるものの、玄人志向なチョイスが散見されるからだ。なぜこんなチョイスなのかといえば、定番の名盤情報は今やインターネット上に溢れており、本に頼る必要はないからだろう。それこそ生成AIに細かくプロンプトを与えて、各自のリスニング歴や環境に応じたリストを作ることなんて造作もない。  となるとディスクガイドをリリースする意義がどこにあるか。それは、アルバムのチョイスとそれに対する視点のユニークさに他ならない。同じラッパーやグループでもどのアルバムを選ぶかで、選者の個性が如実に現れるわけで、本著はその点で雄弁である。DJが「人が作った曲を選んで、かけているだけ」と揶揄されることがあるが、AI時代においては「選ぶこと」自体が大きな意味を持つ。その人固有のコンテキストが重要だからだ。「定番ではない方」を選び、それに対して情報を肉付けしている本著は独自のコンテキストを持ち、日本語圏におけるアメリカのヒップホップに対する理解の促進に大きく貢献している。  英語が堪能ではないため、リリックや各ラッパーたちの背景について、そこまで知らず、音楽としてかっこいいかどうかの次元でしか聞けていないことを痛感させられた。100枚のうち7割くらいは聞いたことのある作品だったものの、本当の意味で聞けているかと言われれば、言葉を濁さざるを得ないほど、本著に詰まっている情報の密度が高い。  日本でアメリカのヒップホップが紹介される際、アルバム概略やサウンドデザインが中心で、リリックが深堀りされるケースはそれほど多くない。しかし、本著ではリリックについてライミングまで含めたスタイル、内容が丁寧に紹介されており、各ラッパーの新たな側面を知ることができた。ヒップホップの発祥地であるアメリカには千差万別のスタイルが存在することを、改めて思い知らされた。  冒頭に「2025年に選ぶのであれば」というエクスキューズがあるが、本著は各アルバムを2025年の視点から捉え直すアーカイブとしても貴重だ。ラッパーの女性に対する視点や陰謀史観は特に顕著で、なかでもLil Kimの早過ぎたフェミニズムのくだりは笑った。 他にもリリース当時の時代背景が紹介されているケースも多い。ネット上の情報を後追いして「当時の空気を知っている」ように振る舞うスタンスが個人的に苦手なのだが、著者は筋金入りのラップ好きであり、その点でも信頼できる。年の功がなせるリアルがあった。  100枚のセレクションの合間に挟まれたコラムも読み応えがあった。特に2010年代に関するコラムで紹介されていたChief Kief「I Don’t Like」がもたらした、数文字の脚韻のみで押し切るスタイルは、近年の日本語ラップでも顕著になっており、その源流について知ることができて勉強になった。『ミックステープ文化論』を執筆した著者だからこその視点が光るコラムも興味深い。実際、ミックステープが多く選ばれていることは本著の大きな特徴と言えるだろう。2000〜2010年代にインターネット上で無料ダウンロードできたミックステープ文化はモロに世代なのだが、2000年代前半の作品は聞いたことのない作品が多かった。なおかつ最近はミックステープがストリーミングで解放されているし、去年のMetro Boominによるミクステなど、環境やタイミングが整っていることもあいまって今ミックステープを取り上げるのはベストタイミングと言えるだろう。これを機にディグってみたい。  ここまで刺激的なディスクガイドはなかなかネット上では出会えないと思うので、ヒップホップ大好きな人たちには超推奨な一冊だし、『ミックステープ文化論』も読んでみたい。
  • 2026年3月30日
    菜食主義者
    菜食主義者
    ノーベル文学賞受賞も記憶に新しいハン・ガン。以前に『すべての、白いものたちの』を読んだことはあったが、少しトリッキーな作品だったので、小説ど真ん中の作品を読むのは今回が初めて。あまりの面白さと重厚さに「そらノーベル文学賞取るか」と心底納得させられた。  本著は、中編が3つ収録されており、1つずつ独立した話ではあるものの、すべて繋がっており連作長編といった構成になっている。最初の話はタイトルどおりで、ある男性の妻ヨンヒが肉を食べなくなるところから始まる。この一つの変化からバタフライエフェクトのように壮大な物語が広がっていく点にハン・ガンの筆力が詰まっていた。  「多様性」が叫ばれる現在、菜食主義(ベジタリアン)は何も特別なことではない。しかし、本著が書かれた2000年代初頭の韓国においては、それが社会のルールから大きく外れるようなことなのだと周囲のリアクションから伺える。なおかつ、それが女性という点が話のキーとなっている。なぜなら、家父長制が色濃く残り、女性が家のことをすべて担い、性別役割分担が露骨に決まっている時代背景を「肉を食べない」というトリガーで浮き彫りにしているからだ。「妻が肉を食べなくなった→夫も肉を食べることができない(夫が自分で料理しない)」という論旨が当然になっているし、ヨンヒの父親を中心に、家族全員で無理くり肉を食べさせるシーンは読んでいて心がエグられた。社会や家族が定めた「普通」から少しでもズレた人間を矯正しようとする暴力。それが最終的には精神病院にまで到達する展開は「精神に病を抱える人を、無理くり社会に適合させる必要はあるのか?」という問いさえ突きつけてくるものだった。  近年の韓国文学では、主張が目的化しているケースもあるが、本著はそういった要素だけではなく、小説としての面白さ、凄みも伴っている。それは残り二つの中編で顕著だ。  「蒙古斑」では、アーティストであるヨンヒの義兄がアートを通じてヨンヒと関係を構築し、自身の作品へと昇華していく。といえば聞こえはいいが、結局は性欲の犠牲になっていくおぞましさ。どんどん膨張していく義兄のリビドーと、それをいい意味でも悪い意味でも森のように受け止めてしまうヨンヒの儚さ。その対比が見事で、ページをめくる手が止まらなかった。  最後の「木の花火」はヨンヒの姉が、実質精神崩壊してしまった妹であるヨンヒを救うために悪戦苦闘する。ヨンヒは肉どころか食事自体を拒絶し、命の危機に瀕している状況。なんとか生きていてほしいと懸命に手を伸ばす姉もまた、徐々にすり減っていく。その様子は、読んでいるだけなのにグッタリするレベルだった。家族だからわかりあえる、といった綺麗事がない点にリアルを感じた。 許したり、許されたりする必要さえない。私はあなたを知らないから。  この話が素晴らしいのは、終盤のポエティックな描写である。タイトルの「木の花火」はパッとタイトルだけ読んでもわからないだろう。最後の最後で著者が姉の視点を通じて隠喩と共に語るわけだが、不眠症を患い、明け方に見るその光景の儚さと美しさに人生を感じるのであった。  本著に通底するのは「人間はどこまでいっても他人の心のうちは理解できない」という、当たり前の現実である。では、他者のことがわからない前提のうえで人間はどうやって生きていくべきなのか?暴力を介在させ、自分と他者を同化させることに果たして意味があるのか?そんなことを考えさせられる一冊だった。他の作品もどんどん読んでいきたい。
  • 2026年3月27日
    創造性はどこからやってくるか
    著者の名前を知ったのは、OGRE YOU ASS HOLEのリリースタイミングのウェブ記事がきっかけだった。それからずっと読みたいと思っていたところでKindleでセールされていたので読んだ。新書とは思えない情報量とパーソナルな内容に驚きつつ、著者が繰り返し提示する「天然表現」という概念があらゆる領域に転用可能な理論で興味深かった。  新書というと一般的な概念を体系立てて解説するイメージがあるが、本著では独特の理論とその実践が記録されている一冊となっている。中身としては、最初に著者が構築した理論の解説があり、その理論を適用した作品批評、さらに実践としての創作という構成になっている。  著者はもともと学者であり、理論を考案することは自身の得意領域だ。前半では存分に、自身の持論を開陳し、その勢いのまま後半はコンフォートゾーンを飛び出し、自らの理論を実践する創作に挑んでいく。その過程がスリリングだった。理論を語るものは創作しないし、理論を語らないものは創作するというイメージを持つが、著者はその壁を乗り越えていく。大谷さながらの二刀流挑戦ドキュメンタリーとして抜群に面白い。  特に興味深いのは、通常であれば、作品が理論の適用対象となるのに対し、本著では理論が先行し、それを体現する作品を後から創作するという逆転現象が起きている点だ。理論ベースの作品は頭でっかちでクリエイティブに欠けるのではないか?とつい思ってしまう。しかし、著者は自身の作品のエッジの鋭さをもって、そんな通説に対して鮮やかにカウンターを決めている。特に実家でのインスタレーション制作は、写真付きの制作日誌とあいまって、現代アートらしい理論ベースの制作プロセスが伝わってきて、読みごたえがあった。 では、そんな理論とは何か?読み終えた今も明確には捉えきれていないものの、一番端的でわかりやすいと思えた部分を引用する。 創造とは外部を召喚することだ。相反する二つの概念を共に受け入れる肯定的矛盾と、共に脱色し否定する否定的矛盾を共立させ、トラウマ構造を開くとき、そこに二つの概念を想定し、両者をどう関係づけるかと思案していたときには思いもよらなかった、その思考の外部が召喚される。それこそが創造であり、絶えず創造するシステム、生命の構えである。  「外部が召喚されることが創造」という主張は直感に反するかもしれない。創作においては、作家の主体性がすべてのように考えがちだが、能動的なアプローチだけではなく、受動的に何かが起こるように能動的に手配しておくことも必要だということだろう。これはPUNPEE(ひいてはRHYMESTERも)がたびたび唱えているヒップホップにおける「事故」の重要性と重なる話で個人的には腑に落ちた。閉鎖系の中では要素が少なく何も起こらないが、開放系にして受け入れることで、予期せぬ何かが生まれる。こういった態度は年を重ねるほど難しくなるからこそ、自戒の意味を込めて開放系でいたいと思う。  最初に理論の話から始まるので取っ付きづらさはあるが、これほど深いアート論が実践と共に語られていることが貴重である。たくさんの金言があったのですが、作家最強論に対するカウンターとして、アナロジー含めて「こんな視点があるのか!」と驚いた。 作品が、作家の描き切ったもので、もはやそれ以上、何もそこに関与する外部がないなら、作品は、どこでも、誰が鑑賞しても、作家が意図した通りのものとなる。ビルに入るための電子入構カードを、誰が使っても同じ機能を果たすように、作品は誰が鑑賞しても同じ理解を立ち上げるものとなる。電子入構カードを誰が作ったのか気にしないように、そのような作品は、誰が制作したかの意味を失う。誰が制作しようがそれを忘れても、作品の理解に影響しない。  作家が何かを完成まで作り切るのではなく「完全な不完全体」として作品を提供した結果、多義的な解釈が生まれて、作品としての完成が初めて日の目をみる。鑑賞者の役割や視点についてここまで深い論考はなかなか読めないから貴重である。書籍や日本語ラップのレビューを書く中で、つい当事者の意図に寄せたくなることがあるわけだが、そこに寄せるばかりでは何も生まれない。鑑賞者という立場だからこそ感じるものを、改めて追い求めていきたいと思った。  『天然知能』という別書籍もある著者ならではの科学に対する視座も興味深かった。AIを中心とした科学への過度な信頼に対して疑問を投げかけつつ、安易にアンチ科学となるわけではなく「芸術ベースの科学」を提案していた。つまり試行錯誤と証拠の積み重ねを前提とする現代科学に対し、思いつきを含めてAIが到達できない「外部」へアクセスすることで、人間の当事者性や尊厳を取り戻せるのではないか?という主張が刺激的だった。  本著を読んで「ペギ夫的思考回路」が身についた気がするので、OGRE YOU ASS HOLEも影響を公言している『やってくる』を次に読みたい。興味ある方は、本著のエッセンスが理解できるOGRE YOU ASS HOLEと著者による対談をおすすめしておく。
  • 2026年3月24日
    一私小説書きの日乗 新起の章 堅忍の章 這進の章(4)
    唯一単行本化されていなかった『這進の章』が過去作の文庫化に伴って収録されたと聞いて読んだ。『這進の章』では、亡くなる1ヶ月前までの日記が掲載されており、生活のあらゆる細部が「死の予兆」なのではないかと勘ぐってしまう自分がいて、何とも言えない読書体験であった。  『堅忍の章』はコロナ初期だったのに対して、今回はコロナ禍真っ只中で著者がどのよう日々を過ごしていたのかが記録されている。もはや遠い昔のように感じるが、実際は数年前だということが信じられない。人はこうやって生きていくために忘却していくわけだが、そんな自然の摂理に抗うかのごとく細かく記録されている日記を読むと、当時の空気を思い出すのであった。  日記スタイルにはなんら変わりなく、起床時間、食事の内容、飲酒量、入浴の有無など、定点観測が続いている。その中で原稿仕事、ライフワークである藤澤清造の活動記録の編纂にいかに身を捧げているかがわかる。  基本的に出不精で、家で原稿を書き、晩酌を重ねる日々。しかし、月に一度、藤澤清造の墓のある石川県七尾市までかけていき法要を取り行っている。コロナ禍で移動制限があった中でも関係なく移動を繰り返しており、あれだけ自粛ムードで皆が抑圧されていた中、著者はその影響を受けていないことに芯の強さを感じた。そして「自粛とはなんだったのか?」と以下のラインで改めて考えさせられた。「感染拡大」という社会全体としての課題はあったわけだが、他人が自分の外出の必要性をジャッジする構図はやっぱりおかしい。 この一連の短き時間が、今の自分の生きる原動力。これが不要不急の要件であるわけがない。  一応、関係者には配慮しており、飲み屋で食事していることは記録されているものの場所から人の名前まで「某」という形で基本的には伏せてあった。その中で「ソーシャル」という言葉の使い方がオモシロく、著者の皮肉屋としての側面が発揮されていて笑った。  日記を読む限りでは、眼科や通風での通院はあるものの、死の気配は日記から漂っていないからこそ怖い。会社員だと年一回の健康診断があるので、何か病気があれば見つかりやすいが、フリーランスだとそうもいかないから、自己管理に委ねられる。著者は自分が直接感じない不調については無頓着であり、爆食爆飲道を歩み続けた結果、亡くなってしまった。そんな爆食爆飲がエンタメになっている点が、この日記の醍醐味なので、なんとも言えない気持ちである。(大食い選手権を見ているときと似たような感情を読むたびに抱く。)日記はもう更新されることはないので、残された小説たちをこれから読んでいきたい
  • 2026年3月22日
    羆嵐(新潮文庫)
    令和の熊騒動が記憶に新しい中で、かつて人々が熊とどう対峙していたのかを知りたくなり、積んであった本著を読んだ。大正時代、北海道に入植したばかりの村で実際に起きた、熊による最大規模の被害ということでかなりスリリングな内容だった。  昭和57年初版で手元にあるのは、令和6年59刷…!歴史に名を刻むクラシックだということがよくわかる。文体としてはやや硬派で、慣れるまで若干読みにくさはあるものの、事態が凄惨さを増していくにつれて、リーダビリティを上回る「先を知りたい」という欲求が勝り、いつのまにか読み終わっていた。  舞台は、農業や漁業で生計を立てる開拓期の北海道。そこに現れる羆が、住民を次々と襲い、捕食していく。「熊が人間を襲い、食べる」という事実の原初的な恐怖は、現代と何ひとつ変わらない。ただし、人間側の装備と環境は大きく異なっている。猟銃は一部の人間しか持っていないし、その銃で定期的に猟活動をしているわけではないので、宝の持ち腐れと化している。さらに電気もないので、ひたすら薪で火を炊いて、闇夜の中で羆を警戒し続けるしかない。そんな脆弱な環境を見透かすように、羆が果敢に襲いかかってくるシーンが怖かった。  本著の白眉はスプラッター描写であろう。今の時代に同じような被害が起こった場合、どこまで書けるだろうか?と思わされるほど、羆が人間を餌として食べてしまった結果の残忍さが克明に記録されていた。ひとたび襲われれば、人間はもはや「個人」ではなく「餌」へと変化してしまう。結果として、遺体を扱う側の人間もまた、同様の視点を引き受けざるを得ない。その過程で、人間の尊厳が揺らいでいく感覚が生々しく伝わってきた。読み手ですらそう感じるのだから、遺された家族の心情は想像に余りある。  襲われた村の者たちだけでは到底対処できないので、外部に助けを求めることになるのだが、対照的な助け船が登場する。かたや国家権力である警察を中心とした大量動員で羆を数で制圧するようなアプローチなのだが、いくらたくさんの銃があったとしても、それを扱う胆力や技術がなければ意味がないし、いざ羆と対峙した際の覚悟がなければ烏合の衆にすぎない。巨大な組織では機動力に欠け、フットワークの軽やかな羆の前では無力である。ここには単なる熊被害対応を超えた官僚的システムを否定する眼差しがある。  ジリ貧の状況で羆に相対するのは、銀四郎という名の1人の猟師である。酒癖は最悪だけども、狩りの腕は一級品という男の登場で事態が大きく進展していく。銀四郎と羆のやり取りの緊張感は相当なもので、ページをめくりながらヒヤヒヤしつつも、どんなエンディングが待っているのか続きが気になってしょうがなかった。  警察をふくめ集団では熊を退治することはできず、猟師個人と熊によるタイマンでしか退治できない。つまり、100年以上経過した今でも、熊との戦いが「個」の技量に依存している側面は大きく変わっていない。AIやテクノロジーの進化が叫ばれる時代にあっても、自然との関係において人間が依然として従属的な存在であることを容赦なく突きつけてくる話である。まごうことなきクラシック。
  • 2026年3月9日
    牛を食べた日
    牛を食べた日
    バックパックブックスで買って積んであったことを思い出して読んだ。「飼っていた牛を食す」という一連の流れがドキュメンタリーのように記録されつつ、私たちの食肉文化について考えさせるリーチも併せ持った興味深い本だった。  和歌山県の農村が舞台で、著者と同じ村に住む人が飼っていた牛を食べることに決めて、実際に食べるまでの過程と、その背景が書かれている。当たり前のことだが、私たちが普段食べている牛、豚、鶏といった肉は誰かが捌き、それが食べやすいサイズにカットされ、スーパーに陳列されたり、外食で提供されている。普段はそういった流れについて、意識していないが、本著を読むとその一つ一つの工程に思いを巡らさずにはいられない。  この牛は食肉目的ではなく、牛耕という使役目的で飼われていた。しかし、牛耕がうまくいかず最終的に食べることにしたという。今の日本では特殊な状況が書かれている点が貴重な記録である。(仮に寿命まで飼育したとしても、最終的には産業廃棄物として処理されてしまう現実に驚いた。)  と畜場へ出荷する一日の様子が克明に記録されているのだが、その道中があまりにもドラマティック。牛を運ぶだけでもこれほど大変なのかと、読んでいてハラハラさせられた。そこで発生する矛盾する感情について否定も肯定もせず、淡々と記録している点が印象的だった。  著者は現在の牛肉消費のあり方に懐疑的な立場だ。食用として牛を飼うことで地球環境に与えるコストについても具体的に書かれていて勉強になった。もともとあった自然が、食用牛向けの飼料用の穀物畑や飼育場へ置き換わっていくのは確かに本末転倒に思える。  愛情をもって接していた存在を食べる。この行為に矛盾を感じる人がいるかもしれないが、本著を読むと、矛盾することなく、むしろシームレスに感じる。使役動物から食用動物へ役割が転換するだけで、あくまで生活のために存在しているという認識がある。 動物をまるで家族の一員のように捉える感情移入ではなく、利害の一致で一緒にいる、ということなのかなと思う。最近で言うところの「ビジネスカップル」のような。人と牛のビジネスカップル。  「同じ地球に暮らす動物」というあまりにも粒度の粗いレイヤーで捉えてしまうと、犬や猫のような愛玩動物と混同され、動物愛護の議論へと発展していくのだろう。昨年から話題となっている熊騒動で「熊がかわいそう」と自治体にクレームを入れる人が一定数いたことからもわかる。動物愛護はポリコレと地続きの文脈にあり、昔よりも「熊を駆除することの正しくなさ」に抵抗を感じる人は増えているかもしれない。しかし、そういったクレームを入れるのであれば、食肉ほど暴力的な行為はない。その点について自覚的な人はどれほどいるのだろうか。  本著では、生き物と共生することに関して高い解像度で語られており、机上の空論で「正しいっぽい」ことを言うだけなら誰にでもできるが、実際に命をいただく行為と密接に関わる人たちの現場の声を知ることの大切さを強く感じたのであった。  動物を食べる行為について「かわいい、かわいそう、おいしい」という著者の表現が独特で頭に残っている。本来であれば、生き物をと殺して食べる行為は、これだけ相反する感情が入り混じる行為であるにも関わらず、現代の食肉産業はそこをマスキングしてしまっている現状を端的に表現しているからだ。食肉産業が工業化され、システマチックに市場へ肉が供給されることの利便性を享受するだけではなく、消費者として少しでもカウンターアクションできればなと考えさせられた。とはいえ、結局は家族で焼肉きんぐへ行き、牛タンを何度も頼んでしまう自分の姿が容易に想像できてしまい、生きることの難しさを痛感した。
  • 2026年3月5日
    書店員の怒りと悲しみと少しの愛
    書店員の怒りと悲しみと少しの愛
    ツイッターで印象的な表紙を見かけてオモシロそうだと思っていたら、行きつけの本屋に置いてあったので読んだ。ここ10年ほど比較的熱心に本を読み、書店に通う身としては、読んでいて辛い部分がありつつ、読み手に本が届くまでの実情を知ることができて勉強になった。  本屋の過去、現在、未来について、現役の書店員や店主、さらには退職した人までが語っている。本屋が社会的インフラだった時代は終わりを告げ、斜陽産業だと言われて久しい。とりわけAmazonの登場以降、本はもっとも割を食っている商材の一つだろう。実質無限に在庫があり、ワンクリックで注文可能、翌日には届く。電子書籍も拡大し、ワンクリックで購入してその場で読める。こういった利便性を持つ競合と実店舗の本屋は戦っていく必要がある。  実店舗としての本屋を残していくのであれば、書店、流通、取次、出版社といったサプライチェーンが一体となって、Amazonを中心としたネット通販に対抗するための施策を考えなければならない。しかし、そこまで進んでいない現状が詳しく語られている。当然、過去の経緯もあるのでドラスティックに何かを変えることは難しいのだろう。課題のジャンルは異なるものの、複数のプレイヤーがそれぞれの利害をめぐって揉めることは仕事につきものだなと感じた。  読んでいて辛い気持ちになるのは、単純に「本屋は大変」という批判ではなく、タイトルどおり本屋への「少しの愛」が文章の節々から伝わってくるからだ。むしろ「最悪だ!」と強めにディスってくれたほうが清々しく読めるわけだが、なんともいえない底知れぬ怒りと悲しみが文章からにじみ出ていた。本著に寄稿するくらいなので、筆力がある人が抜擢されているとはいえ、書店員の方々の文章力の高さに驚かされた。  そもそも論として、社会的に小売業に対するリスペクトが少ないように感じる。「ゼロイチで何かを産み出す人間が偉い」という価値観の過度な浸透とは無関係ではないだろう。正直、私自身もZINEを作り、イベントで自ら販売したり、本屋に卸して販売してもらうまで、モノを売ることの大変さをまったく理解できていなかった。モノは置いておくだけで売れるわけではない。小売業に従事する方たちのきめ細やかな創意工夫の積み重ねの結果だということを痛いほど思い知ったのだった。  学生時代、某チェーンのレンタルショップでバイトをしていたのだが、その頃のことも鮮明に思い出した。CDやDVDを無料で借りられるとはいえ時給は最低賃金ポップもバイトが家で作っていた。学生だった自分にとって、自分が書いたポップのCDやDVDをお客さんが借りてくれるのは何とも言えない嬉しさがあった。今振り返れば、その承認欲求を店側にうまく利用されていたのだなと気づいた。  また、BOOKS青いカバの店主である小国氏が言及していた「接客向上」の話にも似た記憶がある。当時の店長が無類のディズニー好きで、チェーン店舗間の接客評価もあったため、「ディズニーランドレベルの接客をこの店で達成する!」と意気込んでいた。丁寧な接客ができない人間はシフトを減らされることになり、「こんな下町のレンタルショップで誰がそんな接客求めんねん」と思って何もしなかった結果、案の定シフトを減らされたのは苦い思い出である。  ネットショップにない要素として「人間による細やかな接客」は確かに実店舗の強みかもしれない。しかし、そんな短絡的なことで利益率の低さをはじめとする産業構造の歪さを解決できるはずもない。接客がお店づくりにおいてコストになっているという指摘が複数の書店員から出ており、異なる現場から同様の声が上がっていることが一冊の中で確認できる点に本著の価値がある。  本屋に行く動機として「目的買い」のケースはここ数年ほとんどなくなった。なんとなくお店に行って、自分の琴線に触れる本を探して買うことが多い。その点では、独立系書店、古書店、新刊書店のどれも等価なのだが、ランダム性が高い独立系書店、古書店に足が向きがちでだ。新刊書店も、子どもの習いごとのあいだに立ち寄ることはあるのだが、どんな本が出てるのか眺めるだけで終わることが多い。そうして「遅かれ早かれ買うつもりの本」をその場で買わないことが、結果としてどれだけ書店の売上を減らしているのか。往来堂書店の店主のインタビューを読んで、そのことを痛感した。  これだけ脊髄反射なエンタメが氾濫する世界では、読書はむしろ知的行為として崇高ささえまとっている。結果として本屋はどこか非日常な場になりつつあるのかもしれない。しかし、実際の商いは泥臭い作業の連続であり、本屋がこれからも悪戦苦闘するであろう実像がわかる本として、これ以上のものはないだろう。  そして、発行者である長嶺氏の最後の言葉が印象的だった。本屋や書店員に皺寄せがきている、取次、出版社もこの状況を打破するために協力できないのか?といった声が本著にこれだけ集まった中で、こんなことはなかなか言えない。 私は、書店がどんなに苦労しているとしても、同じ業界にいるからといって、出版社がその苦労を分かち合うべきだなどとは思っていません。  一見すると極めてドライな意見に映るが、泥舟のなかで足を引っ張り合い「しんどいから一緒に苦しもう」というのは解決策ではない。「もっと未来を切り開く可能性を模索しよう」という前向きな態度の現れだと受け取った。読了前後で本屋および書店員に対する解像度が一気に変わるので、本が好きな方にとってはマストで読むべき一冊。
  • 2026年3月2日
    リック・ルービンの創作術
    リック・ルービンの創作術
    Mu-tonのMVで登場したり、ISSUGIがスタジオ紹介で言及していたり、そしてついに曲名(BABYWOODROSE「リックルービン」)やリリック(Campanella「Monarch」)にまで登場しているリック・ルービンによる書籍。タイトルどおり、彼がどのようにクリエティブを発揮して、創作に向き合っているか、それを余すことなく書いてくれている一冊で興味深かった。  リック・ルービンはヒップホップ創成期の立役者であり、Def Jam Recordingsを立ち上げた一人でもある。個人的には、Jay-ZやKanye Westのクラシックに関わっていることでその名を知った。特にJay-Zのドキュメンタリー『Fade to Black』における「99 Problems」の録音シーンが印象的だ。他にもKanye Westにとってキャリアの分岐点となった『YEEZUS』にも彼の存在が背景にある。そんな彼が音楽業界でいかにトッププロデューサーとしてやってきたか、そのノウハウや思考がたくさん詰め込まれている。  読み始めて気づくのは、スピリチュアルな語り口が強いということ。宇宙とのコネクション、運命論的な発想は、正直受け入れづらいなと思いつつも、過剰に主張されるわけではなく、むしろ創作において前のめりになりがちな意識を一歩引かせるための装置のようにも映る。能動的な姿勢も大切だが、受動的な姿勢で適切なタイミングを待つことを伝えるための比喩としての「宇宙」と解釈すれば腑に落ちた。  今回は通読したものの、本著はそれよりも自分がクリエティブなことで煮詰まった際に、リック・ルービンならどのように考えるかを教えてもらう、辞書や事典のような読み方が適切だろう。 本の構成としてもアイデアベースから始まり、アートが完成に至るまでの各工程に応じた、具体的なハウツーから抽象的な考え方まで網羅的に抑えてくれているので、読むというより「使う」に近い。なので、スタジオに置かれている理由もよくわかる。そういった用途を想定したような圧倒的な装丁の美しさは特筆すべきポイントだろう。手に持ったときの重厚感が素晴らしく、本著で語られているクリエティブを体現しているとも言える。こういった理由から必ず紙の本で買うべきと断言しておく。  自己啓発書で似たようなことを書いている本は探せば、正直見つかるかもしれない。しかし、結局のところは「どの口が何言うかが肝心」であり、リック・ルービン御大の言葉だからこそ響くのだ。彼は冒頭で「生きているだけでアートだ」と喝破する。アートを特別な領域から引き下ろし、間口を極限まで広げる。それは明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」を彷彿とさせるもので、誰もがアートにコミットできるとエンパワメントしてくれているようだ。他にも、アートのために別の仕事をこなすことは、純粋な作品を作ることができるベターな方法だとダブルワークを肯定していた。サラリーマンとして働きながら、ZINE作りを続ける身としては勇気づけられた。  オール・オア・ナッシングで、何も手につけられないことは、アテンションエコノミー時代には往々にしてあることだ。完璧を目指さなくていいから手を動かして一歩目を踏み出し、6〜8割の出来でも走り切ったときに見えてくる風景を目指せ、というアドバイスが刺さった。なので、次のZINEを作ろうと思って、今は少しずつ手を動かしている。
  • 2026年2月23日
    本と偶然
    本と偶然
    フェイバリットなSF作家であるキム・チョヨプの初エッセイ。去年読んだ『サイボーグになる』が興味深かったので楽しみにしていたが、その期待を上回る素晴らしいSFエッセイだった。SFを読むのも好きなのだが、他人の語るSF論も好きなのでドンズバな内容だった。  エッセイ集ではあるものの、生活の話というより著者の読書遍歴と作家論が中心となっている。これまでの作品を読んできた読者からすれば、作品や彼女自身の背景を知ることができる最高のビハインド・ザ・ストーリーものである。  『サイボーグになる』もノンフィクションという点では共通しているが、内容もあいまって文章が硬かった。それに比べて本著は柔らかく読みやすい。自然体で自身のことを語っており、著者の誠実さが文章からヒシヒシと伝わってくるエッセイらしいエッセイだ。  著者の小説はSFではあるが、いわゆるハードSFではなく、現代社会とどこかしら地続きなものが多い。ゆえに私を含めてコアなSFファンに限らず、広い読者層に届いているのだろう。意図的に柔らかいSFを書いているのかと思いきや、実際には結果としてそうなっているようで、本人は思いのほかSFというジャンルにこだわりを持っている。自分の作品評価や業界での相対的なポジションについて極めて自覚的で、その視点の鋭さに唸った。  前述のとおり、制作裏話がところどころに挟まれており、ファンにとってはありがたい。なかでも『サイボーグになる』は執筆における苦労に関してかなりの分量で書かれており個人的に嬉しかった。そもそも著者が「SF作家によるエッセイ」を愛読してきており、その系譜を自覚的に引き受けているのだろう。 SF作家のエッセイは作家の日常をのぞき見できるばかりか、当人のジャンルと作法に関する話までたっぷり聞けてしまう、作家仲間としてはまことにありがたい秘蔵の玉手箱なのである。  興味深いのは、著者が必ずしも熱心なSF読者として作家になったわけではないという点だ。作家になってから、どうやってキャッチアップしていったか、読書遍歴と共に語られる。とにかく科学ノンフィクションの素養がハンパない。玉石混合の割に分量が多く、本屋では取扱いも少なく単価も高い科学ノンフィクション。こういったいくつものハードルがあるにも関わらず、著者のアンテナはバリサン。タイトルだけで読みたくなる本がわんさか登場する。さらに著者の柔和で真摯な語り口も読みたくなる気にさせてくれる。  著者は、自身の創作を「内面から湧き出る想像力」だけでなく、「外部から集めた素材を積み上げていく営み」に近いと語る。その比喩は料理や建築に例えられていたが、私にはサンプリングから始まったヒップホップの方法論とも重なって見えた。ラッパーのC.O.S.A、プロデューサーのKMなど、著者の作品が局地的にヒップホップ業界で人気があるのは、こういった背景も影響しているのかもしれない。  また、大学院で研究に挫折した経験も率直に語られている。著者の言うとおり、科学的なものが好きなことと、実際の科学の現場、特に研究業務には大きなギャップがある。レベル感は違うが、私も高校で理系科目が他より得意だったから大学で専攻したものの、まったく好きになれなかった。結果的に現在の仕事が研究職ではない自分に負い目がある。そんな負い目について著者も繰り返し吐露しており、そんな葛藤を乗り越えて、作家として確固たる地位を確立しているのだからかっこいい。  書評に関するチャプターは踏み込んでいる印象を受けた。本の評価に対するアンビバレントな感情を結構な分量で書いており、小説家がここまで踏み込んで書いているものを読むのが初めてだった。書評が単純な感想に閉じずに脈絡を構築し、誰かの読書に貢献する可能性についてはまったくもって同意で、その気持ちでこのブログを延々と書いている。(著者が書評集を出そうとして、友人から「黒歴史になるからやめとめけ」と止められた話は、個人で書評ZINEを作った身としては耳が痛かった…)  本を通じた作者と読者のコミュニケーションへの言及が最も興味深かった。そもそも小説を通じてメッセージを伝え、それを読者が受け取るという手段は、効率だけを基準にすれば信じられないほど非効率である。しかも今は、作者の意図から逸脱する読解が許されにくい「考察の時代」でもある。そんな中で、著者がコミュニケーションの失敗にこそ可能性があると言っている点に、安易な逆張りではない本への愛を感じたのだった。 作家が読者に意味を伝えつくすことに失敗し、読者が作家の意図を把握しつくすことに失敗することで、本は本来より拡張した存在となる。(中略)読むことを試み、読むことに失敗し、時に誤読が拡張の可能性へと変貌する個然の瞬間を期待しつつ、誤解と理解のあいだを行きつ戻りつしながら本に無数の意味を盛り重ねていくその作業を、わたしは喜ばしい気持ちで追いかけたい。  最後に語られている現代社会における科学の立ち位置についての視座も新鮮だった。陰謀論や疑似科学はくだらないものだと科学の合理的な価値観から説明することは可能だが、結局は科学も人間の営みだからこそ、どこまでいっても非合理性からは抜け出せない。そんな悲観的な視点から、正直さ、誠実さ、明確さ、開放性といった「科学的価値」を選び取る姿勢を示しており、今の時代に必要な態度だと感じた。  巻末には本著で紹介されたブックリストがついていて、日本語への翻訳状況も含めて一覧で見れるのは本好きにとって貴重な資料である。そんな本への愛に溢れた最高の一冊だった。
  • 2026年2月16日
    2011年の棚橋弘至と中邑真輔 (文春文庫)
    いくつかKindleで積んでいる柳澤健による『〇〇年の〜』シリーズ。先月、コンビニでプロレス雑誌を見かけたのだが、そこに踊っていたのは「棚橋、引退」の文字だった。それをきっかけに本著を読んだ。著者の作品を読むのは5冊目になるが、これが一番好きだった。なぜなら、自分が子どもの頃にど真ん中で見ていた新日本プロレスの物語だったから。当時は理解できていなかった背景、新日本プロレス再生の道程を知り打ち震えた。  本著は、棚橋弘至と中邑真輔という二人のレスラーを軸に、2000年代から2010年代の新日本プロレスを描くドキュメンタリーである。当時の新日本は総合格闘技(MMA)隆盛のあおりを受け、その棲み分けの過渡期にあり、厳しい状況が続いていた。そんな中で二人の若者が文字どおり地べたを這いつくばって、自らの愛する団体を再び輝かせるために試行錯誤する。その歩みが、個別の章から徐々に交差し、やがて結実していく構成は見事というほかない。  黒いショートタイツと黒いリングシューズに象徴されるストロングスタイル。そのストイックに強さを誇示していく姿勢に惹かれ、カール・ゴッチを始祖としたストロングスタイルを継承する西村、柴田、後藤らがマイフェイバリットレスラーだった。ゆえに当時の棚橋はアウトオブ眼中で、彼が新日本の中心に来たころ、ちょうどMMAが隆盛するタイミングでプロレスから離れてしまったが、その後にこんなにアツい展開があったなんて…やはり冬の時代だとしても、自分が好きなら変わらず見続けることが大事だと痛感した。底辺から頂点までかけ上がっていくのを一緒に伴走することは、お金で買えない時間がもたらす最高の醍醐味だからだ。  太陽と月のような二人だからこそ、プロレス観の陰影がくっきりと浮かび上がり、その対照性に魅了される。そして、その中心にどう転んでも存在するのがアントニオ猪木だ。棚橋は一貫して反猪木でエンタメとしてのプロレスを追求していた。一方、中邑は猪木の掲げる「プロレスラーが最強」という思想を体現する舎弟として登場したものの、総合格闘技をマージしたスタイルでは結果を出し切れない。しかし、そこから自分のプロレスラーとしての自我をか獲得していき、最終的にエンタメプロレス最高峰であるWWEまで到達するのだから人生どうなるかわからないものである。しかも、必殺技の名前が「ボマイェ(今はキンシャサ)」という猪木へのオマージュという逆説も素晴らしい。つまり、「King of Strong style」という中邑オリジナルのスタイルで、猪木の象徴であるストロングスタイルを再定義、更新しているのだ。  棚橋パートで最も興味深かったのは、本人の卓越した言語化能力である。現役レスラーとして連載を持ち、そこで現状のプロレスを高い解像度で自ら分析、言語化していたことには驚いた。本著では、彼の思考を思う存分、堪能できる。ビジネス論であり、アート論でもあり、プロレスをあらゆる角度から検証し、「自分に何ができるか?」を考え続ける姿勢から深いプロレス愛をひしひしと感じた。引退後、新日本プロレスの代表取締役に就任したというのも、レスラーよりも天職かもしれないと思わされた。  様々な第三者の視点も二人の物語を肉付けする重要なファクターだ。不遇の世代である永田や真壁の客観的評価や、観客代表であるユリオカ超特Q、ハチミツ二郎まで取り入れる大胆さ。特に中邑のチャプターへ突入する直前のユリオカ超特Q(と著者)による刃牙オマージュが最高。  さらに当人たちのインタビューをふんだんに取り入れていることも、私がこれまで読んできた柳澤作品になかった特徴である。たとえば『1984年のUWF』では当人取材なしのアプローチが議論を呼んだわけだが、本著はプロレスファンの多くが納得するであろう圧巻の情報量と整理力で目から鱗だった。試合描写はもちろんこれまでの作品と同じく素晴らしい。前半は試合描写を抑えめにして、ここぞという場面で細かく描いていくあたりの緩急も抜群で、著者の作品を読んでいると、試合を見ていないにも関わらず、毎回見たような気持ちになるのだから不思議である。  今回は評伝的要素ももちろんあるが、新日本プロレス史でもある。特に子どもの頃に理解できていなかったプロレスにおける表向き人事の裏でうごめく政治的力学が興味深かった。橋本小川の件、猪木の横暴っぷり、坂口から藤浪への権限移行、武藤と小島の全日移籍など、すべてに意味があり、そこには泥臭い人間ドラマが背景にある。  大人になった今その背景を知ると会社人事そのものだ。プロレスは「勝ち負け決まっているヤラセでしょ?」と揶揄されるが、会社の人事も一事が万事、「根回し」という名のヤラセが事前に行われた上で決裁される。MMAが等身大の人間ドラマだとすれば、プロレスには「政治」という別ベクトルの人間ドラマがあることに今さらながら気づかされた。  ラストの西加奈子の解説も素晴らしい。プロレスファンが抱えてきたアンビバレントな感情を見事に言語化している。彼女がかつて同じタイミングでプロレスから離れていたこと、そして再び魅了された理由が、棚橋と中邑の切り拓いた「開かれた世界」にあったこと。プロレスを改めて見てみようかなと、プロレス熱に再びを火を灯してくれる最高にアツい一冊だった。
  • 2026年2月12日
    父親が子どもとがっつり遊べる時期はそう何年もない。
    大阪帰省の際、blackbird booksで見かけてタイトル買いした一冊。タイトルに掲げられた事実を踏まえ、自分はどう振る舞うべきかを考えさせられる内容だった。  著者は三児の父。関西出身で神奈川郊外の海辺に住み、都内でサラリーマンとして働いている。そんなペルソナの父親が、育児とどう関わっているかが記録されている。遊ぶ時間が短いとわかっていればこそ、日々の関わりは本来尊いもののはずだが、その瞬間にはなかなか実感できない。その前提を踏まえた著者なりの育児奮闘記であり、ノウハウ本というより「こんなことしてます」という日記的なものなのでグイグイ読めた。  自分の今の状況とは子どもの人数や就労状況などが異なるので、単純に重ね合わせることはできないけれども、著者が子どもと一緒に何かをすることに重きを置き、それに全力で応える子どもたちの元気いっぱいな姿が目微笑ましい。  本著で繰り返し唱えていることは、子どもと遊ぶときの「準備」の大切さだ。ただでさえ子どもは色んなことでまごついてしまう。だからこそ、大人サイドの準備不足による時間浪費を最小化して、いかにスムーズに導入し、楽しくできるか。時間があると、つい自分のことに時間を使ってしまいがちだが、子どものいないところで子どもを思って事前に行動しておく必要性を感じた。  読み応えが最もあったのは、子ども二人を連れての四万十川を川下りするパートだった。新宿から夜行バスで高知へ向かい、河原でキャンプをしながら数日かけて川を下る。その冒険譚はどこか椎名誠的だと思っていたら、実際に本人が帯を書いていて腑に落ちた。著者のような行動力はなく、無類のインドア派で行動に移せないことが多いので見習いたい。  本著は2016年の刊行であり、この十年で父親の育児参加を取り巻く状況は大きく変化した。育児休業の実質的な義務化もあいまってコミットする男性は確実に増えている。当時はまだ父親の育児参加が珍しかったこともあってか、「父親」であることを強調する構成は今読むと違和感を感じた。(著者が一人称を「オトン」としていることも、違和感を助長している気がした。)つまり、父と子どもの時間が中心で「家庭の育児」という全体像が見えづらいのだ。育児にコミットしていることは伝わるのだが「非日常はオトン、日常はオカン」という性別役割分担に映るのだった。  当然、男性サイドが育児に参加していなかった状況なので、それを打破するためには男性に育児に対して目を向けさせる必要がある。その認識を基にして、ウェブサイトを作ったり、そこでの連載が本著という形で本になったり、他にも巻末で紹介されているような施策を事業として企画している。そういった草の根の活動があってこそ今があるのは間違いない。  一方で男性が育児を語ることの難しさは、自分が育児のZINEを作って初めて認識したことだった。「男性」という属性が付与されるだけで、もともと女性が日常的に担ってきたことが特別視されてしまう。ある種、下駄を履かされている状態である。自分では、そのあたりのドヤ感が出ないように配慮したつもりでも、本というスタティックな情報になると、そのニュアンスが出てしまう。「育児本」と一言で圧縮してしまうと、こぼれ落ちてしまう話でバランスを取ったつもりだったが、機能しないこともあるのが現状で、結果的にイクメン文脈に回収されてしまう状況について、本著を読んで改めて考えさせられた。
  • 2026年2月10日
    なぜ書くのか
    なぜ書くのか
    タナハシ・コーツの新作でこのタイトルとなれば読まざるを得ないと思って読んだ。『世界と僕のあいだに』で好きになって、そのあと小説『ウォーターダンサー』を読んだが、アフリカ系アメリカンの立場からアメリカの過去から現在をリリカルに描き出す書き手だという印象を持っている。本著も紀行文の形式でありながら、彼自身の思考をユニークな表現で提示してくれている一冊だった。  第1章ではタイトルどおり「書くこと」に関する論考が展開されるが、それ以降はセネガル、パレスチナ、アメリカ南部を訪れ、自身の目で見て、耳で聴いて得た知見を基に、彼ならではのパースペクティブで現状を分析している。インターネットのおかげで、なんでもわかったような気にはなっていても実際に訪問して見える景色は別物だと痛感させられる。上記の訪問場所は、時間的、精神的にもコストを伴うものであり、コーツほどの筆力であれば行かずとも素晴らしい文章を書けるだろうが、きちんと取材して自分の中で腹落ちしたものがアウトプットとして出てきている書きっぷりに彼の真髄を見た。  邦題は「書くこと」に寄せているが、著者が最初に提示するのは読む必要性である。試合中の不慮の事故で四肢麻痺となったアメフトのワイドレシーバーの話や、シェイクスピアとラキムへの言及を通して、読むことの意味とナラティブの力が語られる。独自の視点でツカミはバッチリだ。  第二章は初めて訪れるアフリカの地・セネガルの旅行記であり、同時にアフリカ論でもある。ワンドロップルールの不条理さをアフリカの視点で、おもしろおかしく描いているところにウィットを感じる。さらにトニ・モリスン『青い目が欲しい』を引用しながら、外見と人種の問題へと接続していく。アフリカを訪れた経験によって西洋的価値観が相対化され、「西洋の枠組みの外側にもカルチャーがある」という主張は、自分の好きなヒップホップやR&Bの在り方を考えさせるものだった。 私たち自身の人生や文化ー音楽、ダンス、書くことーはすべてこの「文明」の壁の外側という不条理な空間で形作られてきた。これが私たちの団結した力となる。  ちょうど選挙のタイミングで読んでいたこともあり、サウス・カロライナ州を訪れて教育委員会の会議に参加する第三章が一番グッときた。著作である『世界と僕のあいだに』が禁書になりそうという話を聞きつけて、現場に自ら足を運ぶ。そこでは賛成派、反対派による派手な衝突が起こるわけではないのだが、禁書に反対する市民がその場で意思表示を行い、誤った判断が是正されていく。そんな当たり前とも言える場面が印象に残った。こういった市民活動の成功体験が政治との距離を縮め、市民の連帯が民主主義を支えているのだと感じた。今の日本に必要なことはこうした生身の横の連帯なのではないか。必要以上に個別化が進み、接触頻度の高いSNSの情報に振り回される現状が、本著を読むと空虚に映った。  そして、もっともページ数を割いているのが、パレスチナ訪問に関する4章である。今に至るまで続く紛争以前のパレスチナの日常や社会の空気といったリアルな実情を手記で読めることが貴重である。外形的な情報はネットや専門書で得ることができるかもしれないが、パーソナルな視点と論考を行き来する構成だからこそ地に足がついている印象を持った。  著者ならではの視点といえば、アメリカにおけるアフリカ系アメリカンと、イスラエルにおけるパレスチナ人の立場の比較であろう。人種差別の被害者であった歴史を持つユダヤ人が、パレスチナ人に対して加害者として振る舞っている現実に驚いた。真綿で首を締めるようなイスラエルからパレスチナ人に対する迫害の状況に読んでいて苦しい。さらにアメリカとイスラエルの複雑な関係性が、アフリカ系アメリカンである著者がパレスチナを訪れる過程のなかで徐々に立ち現れる。読者は著者に伴走するように未知の過酷な現実を知っていくことになりスリリングだった。  著者は過去と現在を接続して自分のリアルな手触りを語り下ろしていく手腕が本当に見事だなと今回も感じた。調査能力もありながら、その結果を噛み砕き、さらには自分の経験もスムーズに混ぜ込んでいく、エッセイ以上論文未満のこの塩梅が、個人的にはとても心地よい。このブログや日本語ラップのnoteも著者のようなスタイルでやっていきたい。 書くこと、書き直してゆくことは、たんに真実を伝えるだけでなく、真実がもたらす恍惚をも伝えようとする営みなのだ。私にとっては、読者に私の主張を納得させるだけでは十分ではない。私が一人で感じているあの特別な歓びをともに感じてほしいのだ。世のなかで、誰かがその歓びの一部でも共有したと聞くことは嬉しいものだ。
  • 2026年2月5日
    フェミニズム入門
    ずっと読もうと思っていた中で友人からレコメンドしてもらって、ついに読んだ。今読むと新書とは到底思えないほど専門的内容が詰まっており、フェミニズムの学問的側面を知る上で興味深い一冊だった。  フェミニズム研究者である著者によるタイトルどおりの入門書。初版は1996年で、ちょうど30年前の本になる。正直、本著を読むまでは「フェミニズム」と聞いても「女性が奪われてきた権利を奪還していくための思想体系」くらいの印象しか持っていなかった。しかし、実際にはフェミニズムと一言にいっても多様な立場が存在する。思想体系という横の広がりと、歴史という縦の深さ、両方をカバーしてくれているので、2000年直前までのフェミニズムの全体像とグラデーションを把握することが可能となっている。  冒頭、<女性に関することなら何でもフェミニズムであると誤解しているお気楽な輩>とあり、いきなり首根っこを掴まれたような気持ちになった。第一章は当時のフェミニズムの立脚点を宣言するような文章であり、未来への期待も感じさせる。  本著を読んで最初に驚いたのは、第二章で紹介されているフェミニズムの多様さである。9つもの潮流が紹介されており、これらをすべて一括りに考えてしまうから、理解が進まないのかもしれない。個人的には「精神分析派フェミニズム」における、ナンシー・チョドロウの主張が印象的だった。性的役割分業が従来から変わらず、母親のみが育児を担うという性的役割分業がジェンダー差異を生み、性別意識を再生産するという指摘は、男性の育児参加がフェミニズムと接続していることを示している。男性として育児ZINEまで作った身としては驚いたのだった。 チョドロウは、このようなプロセスで形成される心理的性差は、性別役割分業体制の産物であるから、分業の解体、特に「初期の親業を男女で分かち合う」ことが、男女間の情緒の非対称性を変えていくことになると示唆している。彼女の理論は、性別役割分業の改変が、男女の外的存在形態のみならず、心理的存在形態も変革せしめるという、実践的な問題提起を行っていて、大きな影響力をもっている。  日本におけるフェミニズムの歴史を深堀りしてくれている点も勉強になった。平塚らいてうなんて、学生の頃の教科書で見た歴史上の人物の一人でしかなかったが、本著を読むと彼女の来歴や思想を具体的に知ることができて興味深かった。母性主義を掲げているがゆえに近代天皇制の家族主義に取り込まれ、フェミニズムが弱体化していく流れは全く知らず、国ごとの社会背景によってフェミニズムの様相が大きく異なることを知った。  そのあと、戦後のフェミニズムへと流れていくのだが、日本のフェミニズムが他責ではなく自責に向かってしまったという見立ても興味深い。新左翼の影響を受け、自己否定や自己批判を基に、女性自身の内面分析へと向かっていく。外部の制度的抑圧が問題であるにもかかわらず、社会制度を批判するのではなく、自身の内部に解決を求める姿勢は、どこか日本的にも思える。  日本のフェミニズムといえば上野千鶴子が頭に思い浮かぶが、本著では彼女の功罪を冷静に分析している。フェミニズムを女性の問題から家族の問題へと転換し、性別役割分担という男女関係の問題として提示したことで大衆化に成功した一方、女性の搾取構造そのものが見えにくくなったという指摘は新鮮だった。こうした学問的対立の存在を知れたことも収穫であり、上野自身の議論も読んでみたいと思わされた。このように興味の射程を広げてくれる点で、本著は確かに入門書として機能している。  最後の章では家父長制、ジェンダー、性暴力といったテーマがフェミニズムの理論的解釈と共に紹介されている。このパートが一番興味深かった。当然、フェミニズムの実践となれば、具体的な行動がなければ現実は変わらない。それゆえ、具体的な事象について取り上げる場面を多く見るが、その事象の背景にどういった学問的理論があるか。それを知っているか、知らないかで解像度は変わるだろう。そういった意味で、本著はフェミニズム的問題を新しい切り口から理解するための視点を与えてくれる。  ただ、著者はむすびで、理論に傾倒することがフェミニズムではないと述べている。繰り返しになるが、あくまで日常的な実践を伴ってこそ現実は変化していくからだ。 フェミニズムは、人間的現実を突きつけて、何重にも錯綜した欺瞞や仮象の体系を解体しようとする、日常的、理論的実践である。解体の後に何がくるのか、それを発見していくことにこそ、尽きせぬ快楽の泉があるといえるかもしれない。  女性の首相が誕生したこと自体はジェンダーバランスの上では歓迎すべきことだが、彼女が日本の歪なジェンダーバランスの是正に積極的かといえば、そうとは言えない状況である。これだけではないけども、今回の選挙までの流れふくめて、国民は舐められまくっているわけで、選挙で自分の民意を示していきたい。みんな選挙いこ!(定期)
  • 2026年2月3日
    ふつうの人が小説家として生活していくには
    大阪帰省のタイミングで1003に立ち寄った際に友人共々購入した。買ったときは気づいてなかったが、実は感慨深い出来事だった。というのも、著者の熱烈なファンだった、その友人にレコメンドされて著者の小説を読んできたからだ。そんな運命論めいた話はさておき、対談本として無類の面白さだった。一日で読み切れるようなボリュームながらも、人生の土台になるような大事なことが詰まっており、友人全員に読んで欲しいと思う本だった。  本著は夏葉社からリリースされており、同社代表である島崎潤一郎自らが相手を務める対談本となっている。津村記久子といえば、先述の通り、2010年代の日本文学を代表する作家の一人だ。大仰な物語を振りかざすのではなく、卑近な日常や労働のリアルを淡々と描くタイプの作家だ。特に労働に関する小説群はリアリティが高く、前述のとおり当時好んで読んでいた。  そんな著者の人生を振り返りながら、タイトルどおり小説家として、どうやって生きてきたのか、ざっくばらんに対談しているのだが、このざっくばらん感がたまらない。かしこまったインタビューではなく、同世代の二人が就職氷河期という時代背景を共有しながら、脱線しつつ「ふつうの会話」を繰り広げ、その中で顔をのぞかせる本質の数々は、人生で大切にしたいと思えることばかりだ。  一番グッときたことは好きなものを見つけること、ディグ力に関する話だった。最近はレコード文化以外でも「ディグる」という言葉が一般的になっているが、若い頃に好きなものを自力で見つけた経験があるかどうかが大事で、それは知識量とは関係がない。あくまで自分が好きかどうかの琴線を作る姿勢の大切さが説かれていた。  また、その琴線を作り上げるのにギャンブルが必要という指摘も今の時代だからこそ腑に落ちた。今はレコメンド技術が発達しすぎて、失敗せずに「正解」に辿り着けてしまう。しかし、予定調和ではないもの、自分にとって「好きじゃないもの」に遭遇することには、意味と尊さがある。タイパ重視の若い世代からすれば「うぜーな、おっさん」と一言で瞬殺されるかもしれないが、「無駄な出会い」こそが血肉になる感覚は、世代的に納得感があった。インスタントでポップなものだけを消費するのと、自分の直感を信じて泥臭く好きなものを追いかけるのとでは、二者間のギャップは大きくなるなと大人になればなるほど感じることだ。こういった根源的な部分について、改めて小説家と出版人という職業の方が語っていることに意味がある。  そして、ディグ力=見つける力こそが、小説家として著者の原動力だという主張も興味深かった。小説家というのは、どちらかと言えば、多くの場合スルーされるような日常の場面でも、鋭い観察眼で新たな側面を拾い出すイメージが強い。それは掬い取る、いわば水平方向の能力だが、垂直方向の能力であるディグを重要視しているのは意外だった。  小説執筆の具体的な話が本著のハイライトであろう。テーマ設定、アプローチといった抽象的な話にとどまらず「具体的にどの時間にどうやって書いているか」を包み隠さず開陳してくれており、小説執筆に限らない広い意味での仕事におけるプロダクティビティ論になっており読んでいて楽しい。なかでもニュースサイトの「ライフハッカー」を読んでいた話や、独自のポモドーロテクニックへと至る流れが元会社員らしさを感じるエピソードだった。「ライフハッカー」を読んでいた著者らしい表現として、自らを「オープンソースで形成されている」と言っている場面は笑った。それを踏まえて放たれる「コントロールできるのは自分の人生だけ」という言葉には説得力があった。  著者が『アレグリアとは仕事はできない』という作品で、コピー機のことを書いた経緯が興味深かった。自分にしか書けない身の回りのディテールをアートに昇華させること。これは私の好きなラッパーであるSEEDAによる「けん玉理論」の小説による実践であり、ここがリンクするとは思わず興奮した。また、著者は生来のなにか、才能などに興味はなく「行動」を書きたいという主張から、なぜ著者の仕事小説が面白いのか納得した。未読の作品がまだまだあるので、これをきっかけに色々読んでいきたい。
  • 2026年1月31日
    すべての罪は血を流す
    すべての罪は血を流す
    PEPCEE&YOSHIMARLによる新しいアルバム『STONE COLD』に触発されて積んであったクライムノベルを読んだ。著者の作品を読むのは二作目だが、今回もページターナーっぷりは健在で他の追随を許さない圧倒的なレベルだった。  主人公は保安官のタイタス。アフリカ系アメリカンによる高校での銃撃事件を発端に、次々と発覚していく陰惨な事件を追っていく物語である。舞台がアメリカ南部ということもあり、宗教や人種という現代アメリカの根深い問題をメインテーマに据えつつ、銃、ドラッグ、ペドファイルといった個別の具体的な問題がその上に乗っかってくる。プロットの面白さだけではなく、南部の空気を体感できる点が、本著が並のクライムノベルと異なるところだ。  警察官を主人公に据えると、勧善懲悪の単純な構図に陥りがちだが、タイタスはFBI勤務時代の暗い過去を引きずっており、清廉潔白な正義漢ではない。グレーなニュアンスがあるからこそ、物語にスムーズに乗ることができた。一方で追いかける犯人の悪っぷりは今まで読んできたクライムノベルの中でも屈指の悪。タイトルどおり血が流れまくりだし、描かれる殺人はいずれも陰惨極まりない。情状酌量できる余地がないほどおぞましいからこそ、誰が犯人なのか、どんな結末を迎えるのかと読む手がドライブさせられた。 アクション描写も圧巻だった。特に犯人とのバトルはいずれも手に汗を握る展開で、終盤まで積み上げられてきた凄惨な犯行描写によって膨れ上がった犯人像が明らかになった挙句のバトルなので読み応えがあった。  今回は宗教が大きなテーマということもあり、以前に読んだ『黒き荒野の果て』よりも著者の筆が乗っている印象を受けた。聖書やシェイクスピアといったクラシックの引用が物語に厚みを加え、それに呼応するような著者独特の言い回しもかっこいい。たとえば、主人公の母の格言として語られる「真実がズポンを引き上げているあいだに、嘘は地球を半周する」SNS以後のポストトゥルースな状況をこんな短い言葉で的確に表現していて、ラッパーさながらである。  アフリカ系アメリカンが白人を銃殺したけれども、その白人が実はペドフィリアで…といった具合に、問題がインターセクションしていく構造も印象的だった。安易な二元論に回収されることを拒む、著者なりの工夫であろう。アフリカ系アメリカンが置かれてきた不遇な立場を大前提としながらも、それだけに閉じない人間同士による凄惨な争いが展開するゆえ、業の深さを感じさせられた。  「宗教もドラッグも依存という観点では変わらない」と考えるタイタスが、登場人物の中で一番と言っていいほど聖書に詳しい人物として描かれている点は皮肉と言える。どれほど神の存在を信じていても、母親は早くに亡くなり、子どもたちは無惨に命を奪われる。こんなひどい状況でも「すべては神の御心」という言葉で腹落ちさせる信仰に、一体どんな意味があるのか。タイタスは深く信仰していたからこそ裏切られた気持ちが強く、それゆえに秩序、忍耐という新たな信仰へと向かわせる。この姿勢は実質的に無宗教な人が多い日本人には刺さりやすいだろう。そして、犯人は別ベクトルで信仰に付随した裏切りを受けた結果の末路であることを考えれば、宗教に振り回された人生という観点で二人は似たもの同士かもしれない。次は『頬に哀しみを刻め』を読みたい。
  • 2026年1月26日
    鹽津城
    鹽津城
    SFの本を選ぶとき、国内SFが選択肢に入ることが少ない。私はヒップホップが好きなのだが、それに例えればUSのヒップホップばかり聞いて日本のヒップホップを聞いていないことになり「それはちゃうやろ」という気持ちで国内SFを少しずつ読むようになった。本著はマイフェイバリットポッドキャストであり、私にとって数少ない国内SFガイドである『美玉ラジオ』で知ったのだった。これぞ国産SF!というドメスティックな要素、展開の数々を楽しく読んだ。  本著は基本的には短編集であり、タイトル作が中篇となっている。全体の特徴としてまず挙げたいのは、登場人物や作中内の現象の名称が、見たことない漢字だらけであることだ。これだけ「読んだことがない漢字」に遭遇するのも久しぶりで小説という表現の自由さを味わった。また、複数の時間軸を並行して描き、それらの関係性を構築することに注力していることが伺える。その構築においては、わかりやすさよりも、著者本人にとっての確からしさを重視しているように伝わってきた。さらに、物語に明確なカタルシスを用意していない点も特徴的だ。なにかが始まるかもしれない期待だけが差し出され、読者には想像できる余地が残されているので余韻がある。  著者の作品を読むのは初めてだし、ポッドキャストでもタイトル作中心に話されていたので、冒頭の「羊の木」の得体の知れなさに面食らった。新海誠『君の名は。』のアダルティ版とも言える、時空を超えた交錯劇。続く「ジュブナイル」もサイエンスフィクションというよりも少し不思議な話であり、こういうトーンなのかと思いきや、「流下の日」でギアが変わって一気にSF色が濃くなっていく。  「流下の日」は、近未来の功利主義や管理社会を描いた作品で、一番好きな話だ。日本が独自のテクノロジーで唯我独尊で発展を成し遂げてきたように描写しながら、後半にかけて、実態はビッグブラザーだったという裏切り方が巧みだった。また、同性愛を含めて「家族」の範囲を拡張しつつも、家という組織単位をより強固にしていくという設定も興味深い。一見、リベラルなのだが、実のところは保守という構図から、現実ではいまだに「家族」の範囲さえ広がらないディストピアというアイロニーにも映った。  SFを読むときにもっとも楽しみにしているのは、どのような近未来テクノロジーが導入されているか、という点だ。「流下の日」では生物学的なアプローチで、身体に埋め込まれたバングルによって、あらゆる行動が制御され、また制御されてしまう。政府が個人の思想や活動に干渉する社会の中で、主人公たちはレジスタンスとして、バングルに支配されない世界を心の中に構築する。それを「中庭」と呼ぶネーミングがかっこいい。英語ではなく、漢字二文字でSF的概念を表現していくところに国産SFらしさがあるし、実在する中庭から展開していく仕掛けもオモシロかった。インターネットを通じて、私たちは心の「中庭」を他人にどんどん開放しているが、誰にも入らせない思考の「中庭」を持つことの重要さを教えてもらった気がした。  もっとも壮大な話がタイトル作の「鹽津城」である。三つの時間軸が並行し、シンクロしながら物語が進行していく。ここでテーマになるのは海と塩である。海水中の塩化ナトリウムが突如結晶化して街を破壊していく現象と、身体の中に塩分濃度の異常に高い、細い線条が形成される病気、二つの謎を中心として物語が描かれる。原発を絡めていることから、東日本大震災をモチーフにしていることはあきらかだが、あの出来事かこれほど跳躍力のある物語を紡げるのは、日本のSF作家ならではの視点だと思う。そこに『ワンピース』的な漫画の要素が合わさってくることで、こういった物語こそが本当の意味での「クールジャパン」なのではないか、と感じた。  塩化ナトリウムだけが海水から分離、凝固する科学的背景として「マックスウェルの悪魔」が引用されており、ネタ元を明示してくれる点も興味深い。さらに同じ分子挙動の不思議さについて、チューリングによる反応拡散方程式による生物の模様形成にも接続し、思考がどんどん広がっていく。それに呼応した表紙はさすがの川名潤ワークスだし、このように科学的想像力を足場にして物語が展開するSFならではの醍醐味があった。  マックスウェル、どこかで聞いた覚えがあるなと思ったら、「マクスウェル分布」のことだった。久しぶりにWikipediaでそれを眺めていると大学院入試で勉強した記憶がよみがえった。当時は本当に嫌だったし、今数式を見てもぼんやりとしか思い出せないが、こうやってSFの題材として出てくると「どういう意味なんだろう?」と興味が湧くのだから、エデュテイメントとしてのSFは偉大さである。寡作な作家のようなので、他も読んでみる。
  • 2026年1月22日
    ものごころ
    ものごころ
    毎年友人とやってる本に関する年間BESTエピソードの中で、友人が著者の作品を1位にしていて、入門編として勧められたので読んだ。いわゆるステレオタイプの小説の形式から逸脱し、話というよりも構造の妙を追求している作家に惹かれがちなので、著者がその道を極めしものであることをこの一冊で十分理解した。  本著は、各文芸誌に掲載されていた短編をまとめたもので、さまざまな設定の話があるのだが、中心にあるのは子どもとコロナ禍である。子どもは普遍的なテーマである一方で、コロナ禍は局所的なテーマ。この二つが掛け合わさることで、日常と非日常のコントラストが鮮やかに立ち上がる。特に子ども、学生たちの人生で1回しかない貴重な瞬間がコロナ禍で失われてしまったことに気付かされた。こうやって小説という時代を超えて残りやすいフォーマットで書かれているのは意義深い。  著者の小説を読むのは初めてだったのだが、圧倒的な改行の少なさに驚かされる。紙面にパツパツに満ちている文字の密度は活字中毒者からすれば眼福である。そのスタイルを可能にしているのは、すべての出来事を並列に扱う態度である。場所、人称、時間、平文と会話など、それらのスイッチングを何の予告もなく行なわれる様は、まるで一筆書きで書いたようである。  読んでいるあいだに勝手にスイッチする構造は、人によっては不親切に映るかもしれないが、予定調和の小説に飽きている人にとって、これほどスリリングな文体はないだろう。しかも、この変則的な文体だからこそ表現できる「心の機微」があることに読めば気付かされる。読む前までは著者のギミックだけが耳に入り、勝手に出オチのように扱ってしまっていたが、これほど内容と相関しているだなんて、やはり読まないと実のところは何もわからないものだ。  ギミックの観点でいえば「おおしめり」がダントツにぶっ飛んでいた。句点なしで突っ走る水をめぐる物語。大学生の平凡な日常の話が、見せ方次第でこんなに非現実的に見えることに、表現の可能性を大いに感じた。中華料理屋に行くたびにこの話を思い出しそう。最後の主語のスイッチングの大胆さにも心底驚いた。あと同世代の方ならわかってくれると思うが、昔のはごろもフーズのCMインスパイアな水の王冠描写は、タイトルよろしく「ものごころ」がついた頃の記憶をフラッシュバックした。  本著を象徴するのは、宏とエイジを主人公にした、冒頭の「心臓」と巻末の「ものごころごろ」だろう。二つは繋がっていて、少年が青年への階段を歩み始める話なのだが、躍動感と閉塞感の対比が素晴らしい。前者については、河原で犬を追いかけるという極めてプリミティブな昭和世代直撃な原風景なのだが、出来事が収束していく先に待つ大人という杓子定規な存在、つまりは閉塞感の元凶の書き方が見事。大人になれば、宏の母親の言葉はすべて「正論」で何も間違ってないのだが、そのおもんなさたるや。後者では中学受験が本格化し、そのおもんなさに拍車がかかるのだが、それを野犬が人間にとって「いい犬」に順化していくことと対比させている点が残酷に映った。  一番心に突き刺さったのは「種」だった。子どもの身体に何かトラブルが起こった際の思考、行動のフローがシームレスな文体ゆえに巧みに表現されていて唸った。トラブルが起こるたびにググって玉石混合のネット情報の海を彷徨い、自分を納得させる落とし所を探る行為は現代に生きる親たちが皆やっていることだろう。それを小説でこんなふうに落とし込むアイデアが素晴らしい。今後はAIに聞くことがデフォルトになると思うので、このように逡巡する機会はなくなっていくだろうから時代の記録としても貴重と言える。しかも、終盤に「大便手掴み」という怒涛の展開が待っていてシビれた。さらに「大便掴み」が短編同士をゆるやかに繋ぐキーとなっているギミックにニヤニヤした。(子どもの排泄周りは色々と苦労しているところなので、余計に刺さったところもある。)  「作家性」という言葉を安直に使うことは許されない、まごうことなきオリジナリティに久しぶりに打ち震えたので、著作を順々に読んでいきたい。
  • 2026年1月16日
    自然のものはただ育つ
    自然のものはただ育つ
    「イーユン・リーのエッセイ出たんや」と本屋で知り、積んでいた『水曜生まれの子』を読んでから本著を読んだ。前情報を何も知らなかったので、彼女の生活の機微を知れるのかなと軽い気持ちで読み始めたら、長男に続いて次男も自殺で亡くなったことをきっかけに書かれたエッセイと知り愕然…奈落の底にいる彼女が綴るドライな感情と思考の数々が心の奥底まで沁みてきた。  本著は次男ジェームズを亡くしたあと、彼女がどう考え、どう行動しているか、22章から構成されるエッセイ集。長男ヴィンセントを亡くした際には、彼とのやりとりをオマージュした小説『理由のない場所』を書いた著者だが、今回はフィクションではなくノンフィクションを選んだ。それは子どもたちの特性に合わせた選択だったという。  子ども二人を自死で失う。作家である彼女でさえ小説には使わないであろう、あまりに現実味のない出来事であり、その気持ちを想像することなんて到底できない。育児に正解はないと思いつつ子どもと向き合いながら、どうすればいいか試行錯誤しているわけだが、この日々の積み重ねが自死によって唐突に終わりを告げてしまうだなんて想像しただけで辛すぎる。  読み進めるにつれ、ヴィンセント、ジェームズを中心としたリー家の関係性、家族の風景が断片的に浮かび上がってくる。家族は外から見れば、どこも特異に映るのは世の常だが、リー家の子どもたちが、それぞれ異なるベクトルで社会と距離を取っていたことが伝わってきた。なかでもヴィンセントが10歳の頃に著者に伝えた言葉は、彼女の小説をずっと読んでいる身からすると、あまりにも悲しすぎて涙がボロボロとでてきた。 苦しみをわかってて、苦しみについてそんなに上手に書くのに、どうしてぼくたちを生んだの  神話や戯曲、小説を引き合いに出しながら、ジェームズの死について考えている様は作家らしい。古典ゆえだからこそ真理をついた言葉と、著者の論考が交じわり、さながら読書会の様相を呈している。また、物語が人生を救済する可能性について露骨には言及せず、引用を重ねることで、物語の存在意義そのものを示していく点に著者らしさを感じた。  なかでも象徴的なのは『シーシュポスの神話』である。「真に哲学的な問題は一つしかない。それは自殺についてである」というラインから始まる一冊であり、ジェームズは亡くなる数週間前に読んでいたという。神話に登場する「シーシュポスの岩」は日本の賽の河原に近い話で、大きな岩を何度も山頂に押して運ぶものの、運び終えると岩は転がり落ちる。一般には終わりのない徒労の象徴とされるこの岩を、著者は時間のメタファーと捉え、「時間を運ぶことの辛さ」を語っていた。つまり、育児をしていると時間があっという間に過ぎることに比べて、亡くなった後は時間が全く過ぎていかないことを示しており、さらに亡くなった子どもを「別種の新生児」と呼ぶあたりに並々ならない言語感覚を感じた。  さらに、「小石」という比喩も登場し、それはふい浮かんでくる思考のメタファーだ。この小石に逐一反応していると身が持たないから、小石を蹴飛ばしていながら生きていく。シーシュポスの岩との対比としても鮮やかだった。  先日読んだ『水曜生まれの子』でもパンチラインのつるべ打ちに圧倒されたが、エッセイゆえに切れ味はさらに鋭く、なおかつテーマがテーマなだけに心に強く響く。 直感とは、将来の可能性や起こりうることや別の選択肢をめぐる物語だ。そういう意味では、直感はフィクションだ。そして人生に裏づけられると、事実になる。 やる価値があることとやれることには隔たりがあり、その隔たりこそ若者に野心が宿り、老人に衰えが待ち構えているところなのだ。  こんな鋭い言葉を連発する彼女にとって、言葉こそがすべてなのだと読み進めるうちにわかってくる。それを裏付けるように言葉に関してさまざまな思索が展開される。世界でここでしか読めない洞察の連発に息を呑んだ。息子たちの自死という悲劇から導き出される言葉の奥行きは、他の追随を許さないものがある。そして、それは安易な救済の物語ではなく、彼女が今後の人生で考え続けていくだろうことの序章とも言える。  本著は一種の育児論としても読むことができて、子どもを失ったからこそ見えてくる、親が普段気づいていないことが言語化されている。特に育児における直感を信じるべきか、どの程度、楽観視するか、といった問いは奥深い。赤ちゃんのあいだは四六時中、見守る必要があるが、大きくなるにつれて、子どもの一挙手一投足を把握することはできない。そのとき親は、ある種の直感に従い、子どもを信じるしかなくなる。「どこまで信じるべきなのか?」と著者から問われると不安になった。目に見える行動や親にとって都合のいいことだけ信じるのではなく、子どもの内面についても思いを馳せていく必要性に気付かされた。そして、これはタイトルにも繋がり「ただ育つ」という楽観性と、一方で「自然に死んでしまう」という諦念。この相反する感情を、徹底的受容により引き受けている。  他にも「子どもが健康でいてくれるだけでいい」とよく言われるが、「存在」が当たり前になってくると「行動」ばかりに目を取られる。「存在」そのもののありがたみを理解できている親がどれだけいるのかと言われてドキッとした。「子どもは死ぬ」という強烈な言葉と、著者のドライな視点の数々は彼女以外に書きえない。  なんでこんなことが起こってしまったのか?と考えると、著者自身に自殺未遂の経験があることが、どうしても頭をよぎってしまう。そんな私の下世話な考えを見透かすように、終盤では彼女自身の自殺未遂についても言及されていた。そこまで言葉にする必要があるのかと思いつつ、彼女が公人であるがゆえとはいえ、あまりにも心ない報道や周辺の対応には言葉を失った。悪意がなくても、彼女の辛い状況に寄り添うために自分の経験を引き合いに出すことの不毛さを語っており、彼女の言葉で言われるとかなり重たかった。 私の悲哀に終わりはいらない。子どもの死は熱波でも吹雪でもなく、急いで駆け抜けて勝つべき障害物競走でも、治すべき急性や慢性の病気でもない。悲しみとは言葉であり省略化であり、その言葉よりはるかに大きなものの単純化にほかならない。  何よりも心身を大切にしてほしいが、著者は悲しむ母親として振る舞うことに否定的であり、止まることはないようだ。訳者あとがきによれば、今は大河小説を執筆中らしく、それが今から待ち遠しい。
  • 2026年1月14日
    俺の文章修行
    『私の文学史』で自分自身について語っていたことに驚いた訳だが、さらに文章の書き方にフォーカスした一冊が出たということで読んだ。2020年代に突入してから、文章に対する広い意味での「校正」が行われるようになり、生成AIの台頭で、その傾向が顕著になっている今、「文章を書くこと」へのパッションの高さにめちゃくちゃ煽られた。当ブログでも生成AIによる手直しは一部行っているわけだが「果たしてそんなことに意味があるのか?」と著者から問われているような読書体験だった。  2021〜2024年までの連載が一冊にまとまったものとなっており、どのようにして文章が上手くなるか、著者のテクニックを紹介してくれている。当然、町田康が文章の書き方をまっすぐ丁寧に教えてくれるわけもなく、彼でしかあり得ない文体の連続の中、文章を書く上で何が大切で、どうやって書くのか、具体的に教えてくれる。なお、全体の構成自体はブレイクダウンがきちんと行われており、そのブレイクダウンした各ブロックの中で縦横無尽に暴れている。そのため要素だけ抜き出すと、至極真っ当なことを説明してくれており、結果的に「町田康的文章の書き方」という話になっている。文体はフリーキーなのに、語られていることは論理的というギャップが著者らしい。  冒頭で書き方ではなく、本を読むこと、および繰り返し読むことの重要性を語っていて、これは至極もっとも。幼少期のエピソードトークと共に語られる読書遍歴は読んでいて楽しい。個人的には繰り返し読むことが苦手で、何回も読んでいる本は特にないし、世の中には無数の読みたい本があるから、何度も同じ本を読む気にはあまりなれない。しかし、「文章が上手くなる」といった具体的な目標があれば読めそうな気がするので、好きな作家でトライしてみようかと思えた。というか、なんのためにデカい本棚買って、そこに置いているかといえば、いつか読み直すためやろ?  2021年からなので、生成AIの台頭を受けて書き下ろしたわけではない点に驚いた。というのも、前半において、あたかもそれを想定していたかのような内容になっているためだ。具体的には、外付け変換装置、内蔵変換装置という話だ。外部のデータに基づいた外付け変換装置は、自分の言いたいことをきれいに整えてくれる快楽をもたらしてくれる。しかも、生成AIは手軽かつ高精度だからこそ、どうしても使ってしまいがちではある。『birnglife Radio』というポッドキャスト番組を聞いているのだが、生成AIで文章をリバイスされた結果について「こういうことが書きたかった」と人間側が勝手に思い込んでいるだけと喝破していて、言い得て妙だった。それと同じく重要視されているのは、内蔵変換装置であり、自分の読書経験による自分の文体があり、それはさまざまなパラメーターによって構築されている。それらを訓練によって上手に使えるようになることがオモシロい文章を書くステップであると著者は主張していた。以下のパラグラフを読んで付き合い方を考え直すことを決意した。 つまり。外付け変換装置は使ってもよいが、使う際はその使用範囲に限界があることを称して、それが唯一無二、「正しい日本語」と思ってたら、多くのことを見逃し、結果的に、貧しい語彙だけを信じて、綺麗事だけを言うて儲けてる層にかもられてそれにも気がつかないアホのまま老いて死にますよ  町田康の小説をインプットデータとしてすべて放り込んで、同じような文体を形成することは今の技術で可能だろう。しかし、彼はそこから抜けて出していくように、明らかなエラーを定期的に文中にボムしている点がオモシロい。さながらタギングである。「一度書いたら戻らない」を徹底しているからか、「つまり」が多用されながら、徐々に核心へ近づいていくスタイル。結論だけ知りたい、とにかくコスパよく文章を上手く書けるようになりたい、そんな志の低いクソ野郎を置いていくかのように冗長に語り倒していることが最高だし、そんなコスパ野郎に「クソ」と文中で明言していく、こんなこともAIにはできないだろう。あと文章が上手く書けない人間が野垂れ死んでいくパターンも豊富で最高だった。  著者の小説を読んでいると声出して笑ってしまうことが頻繁にあるのだが、その種明かしもされており、「他人を笑かす」という意識で書くのではなく、自分が笑えるかどうかが大事という指摘はもっともだ。文字だけで人を笑わせるには相当なスキルが必要だと思っていたが、自分が笑えることを基準にするというのはシンプルかつ盲点だった。  町田康が町田康たるゆえんがさまざま書かれているのだが、もっともクリティカルな教訓は読みながら書く「裏表理論」だろう。文章を書くとき、とりあえずざーっと書いて、あとで整えればいいというのは王道の書き方だと思うが、著者はそれを良しとしない。「もっと文章を書く一瞬にフォーカスしろや!」と鼓舞してくる。読んで、書いての裏表を無限にリピートしながら、一発で自分のグルーヴを作らんかい!と。ここで投入されるクオンタイズの例えが特に刺さった。J.DillaやBudamunkのビートが大好きなのに、生成AIで文章を校正することはクオンタイズかけて自分の文章のグルーヴを殺してしまっているからだ。別に商業出版でもなんでもない個人のブログで何を外ヅラ気にして書いとんねん、もっと好き放題やってもええやんけと思わされました。  終盤にかけては、内容の話となっていき、熱い話も増えてくる。彼が「糸くず」と呼ぶ、文章を書く際のピュアな部分をいかに大切にしているか懇々と説明してくれていた。自分が書きたいことを書くことが何よりも大切で、それは他者が価値を決めるのではないという言葉に勇気をもらった。また、文章を書くことが自己救済と思いきや、利他的行為でもあるという話や、「技法」は奪い取れても「姿勢」は奪えないといった話はまさにその通りである。彼の技法や姿勢を頭に入れた上で読むと、これまでと違った読み方で小説が読めそうなので、積読している『古事記』を近いうちに読む。
  • 2026年1月6日
    置き配的
    置き配的
    『シットとシッポ』というポッドキャストを最近聞いており、そのパーソナリティを務める著者の新刊ということで読んだ。一度、本屋で立ち読みした際、その哲学的な語り口に気後れしてしまったのだが、最近知り合った友人と飲んだ帰りに立ち寄ったジュンク堂で、背中を押してもらったのだった。実際、理解が追いつかない部分もあったものの、ものの捉え方の一つ一つが新鮮で興味深く読んだ。  もともと文芸誌『群像』での連載をまとめた一冊ということもあり、各章はエッセイ的な導入から始まり、そこから哲学的思考が折展開していく。構成面で特に印象的なのは、A面/B面という二部構成を採用している点だ。一つのキーワードやテーマについて、A面では「言葉」、B面では「物」という異なる観点から考察がなされ、議論は並行して進んでいく。  多くの書籍が章をリレーのようにつなぎ、一冊を通して一つのメッセージへと収束させる構造を取るのに対し、著者は本書を「ハンマー投げ」に喩える。つまり、各章は互いに直接接続されることなく、独立した投擲として存在する。しかし、それらは完全に孤立しているわけではなく、フィードバックとして相互に影響し合っている。さらに、その独立性と関係性を、将棋や囲碁のアナロジーを用いて説明するくだりは見事だし、タイトルにある「置き」とも結びつく。あまりにも鮮やかな見立てに読み終わったあとに唸った。  タイトルにもなっている「置き配的」とは、著者が提唱する新たな概念である。今となっては当たり前となった宅配便における「置き配」の特徴を拝借しながら、そのラディカルさ、奇妙さを抽出して論理を構築している。置き配では、従来のように宅配業者が荷受人に直接手渡すわけではなく、「置いた」という事実(=玄関前に置かれた荷物の写真、もしくはメール通知)を持って配達完了となる。つまり、実質的なやり取りは発生しないが、「置いた」という事実が完結性を担保する。こういった「置き配的」な観点で現在の言論空間、特にネット上でのコミュニケーションについて分析していく。  連載ということもあり、論述パートに入る前には導入をきちんと用意してくれているので、最初に想像していたよりは議論に振り落とされるケースは少なかったとはいえ、哲学的な基礎知識や思考能力の不足を正直感じた。それでも、この手の議論に関する本を読むための「大リーグボール養成ギプス」として捉えれば、本著はかなり機能的である。それは単純に自分の見識や論理を開陳するだけではなく、興味関心を哲学のフィルターを通じて見たときにどう見えるのか。思考を深めていく様を横目で見てOJT的に学べるからである。  「置き配的」という概念がもっともわかりやすく機能するのは、ネット上のコミュニケーション、とりわけX(旧ツイッター)をめぐる議論である。本書はツイッター論として読める側面を強く持っている。 アマゾンが置いたという事実を持ち帰るために荷物を運ぶように、人々は言ってやった・言われたという事実を持ち帰り自陣にアピールするために、ハッシュタグ、引用リツイート、スクリーンショットといった諸々の引用の技術を駆使する。その意味で「置き配的」とは、コミュニケーションを偽装した内向きのパフォーマンスである。 アテンションも欲しい、ポジションも欲しい。しかしアテンションやポジションを取りに行く身振り自体が私の表現から内実を骨抜きにしてしまうので、誰かの表現を示成的なパフォーマンスとして見なすことにおいて、私は私の表現が実のあるものであると、感じることができる。これが「注意の時代」の心性であるだろう。 数十字のチャット、ツイート、コメントから、一日数百字の日記へ。それはたんなる量的な変化ではなく、テキストボックスという閉じられた箱からテキストエディタあるいは日記帳という平面への移行である。そしてこの移行によって言葉は、言うべきことが<疎>である空間のなかで分散し、出来事はあらかじめこしらえられたパッケージから解放され、自伝には書かれようのない<私>の生(life)が、人生(life)にはカウントされない生活(life)として切り出される。  ツイッター論として、これだけ鋭いことを言える書き手はどれほどいるだろうか。こういった思考の背景にあるドゥールズを筆頭とした哲学者たちの金言も現代を象徴しているように感じることが多かった。そこに時代を超越した、抽象性の高い「哲学」という学問の価値と可能性を垣間見たのだった。つまり、具体的な内容ではなく、論旨の骨組みを抜き出した抽象的なものだからこそ、さまざまなものに転用することが可能だからだ。それはまさに著者が「置き配」という具体的な事象から概念を抽出し、別の領域に適用していく実践そのものであり、これが哲学の醍醐味なのだなと納得した。  その最たる例が「犬をバギーに乗せて歩くことは犬にとって散歩と言えるのか?」という命題である。日常の些細なことでも哲学的な眼鏡を通じて眺め直してみると、そこには膨大な思考の糸口が転がっている。「蛙化現象」に関する考察も同じく著者ならではの視点が輝いていた。特に村上春樹の小説と接続した瞬間に自分の中でイマイチ像を結ばなかった「蛙化現象」について霧が晴れていくように理解が進んでいった。  こういった文章を読むと「SNSにおいて自分がどう思われるか?」「他人が何を考えているか?」よりも、もっと愉快で楽しい思考のきっかけが目の前に転がっていることに気付かされるし、注意の払い方については、過去に読んだ「何もしない」で学んだはずなのに喉元過ぎればなんとやらである。やはり思考するためには、フローする情報よりもスタティックな情報に目を通したいものである。自戒の念をこめて。。。  個人的に特に興味深かったのは、批評圏に関する議論、なかでも批評が抱える二重の「ジャンルレスネス」という指摘である。批評の限界は嘆かれて久しいが、批評がどうして厳しいのか?これだけロジカルに語られたものを読むのが初めてで、目から鱗だった。そして、批評空間よりも感想空間の再構築が必要という主張には納得した。  というのも、私は日本語ラップのアルバムについて昨年からレビューしているのだが、そこで意識しているのは「批評」というより「感想」だからだ。それゆえ最初に始める際、「日本語ラップ日記」と題して「批評」と受け取られる可能性を回避したことは、著者が日記を重要視している点と少なからず響き合う部分があった。また、批評が内政問題に終始してしまうという指摘も、ヒップホップの現状を見れば頷ける。ゴシップや英語警察、即時的なリアクションばかりが目につく状況に辟易し、私はnoteで書いている。わかりやすい反応がなくても、同じ密度のコミュニケーションを求める誰かに届けばいいなと思いながら、毎週文章を書いている。  現在のヒップホップの書き手の多くは商業ライターであり、アーティスト本人へのインタビューが主な仕事となっている。その意味では一次情報にアクセスできるが、それは著者の言葉を借りれば「密」な言説空間でもある。そこでは「置き配的」なポジショントークが蔓延しやすい。しかし、「密」ではなく「疎」なものに批評の可能性を見出す。つまり、物や作品と遭遇したときに起こってくる言説が批評たりうるのだと。さらに、作品が作品たりうるのは、それが誕生した瞬間ではなく「あとからやってきたものがそこに表現を見出したとき」という主張は、自分が感想を書いている意味を代弁してくれていた。ネットで何かを書くことは誰でもできる今、どこで何をどうやって書くか。その指針となる一冊だった。
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