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Yamada Keisuke
Yamada Keisuke
@afro108
乱読の地層。
  • 2026年10月9日
    戦争犯罪と闘う 国際刑事裁判所は屈しない
    新書は滅多に読まないのだが、最近は駐車場代を浮かせるために本を買う必要があり、SNSで見かけたことをきっかけに読んでみた。国際刑事裁判所(ICC)について詳しく知ることができる新書的な役割だけではなく、大義のもとに仕事を完遂しようとする著者の高い志がひしひしと伝わってくる1冊だった。  著者はハーグにあるICCの所長を務めており、彼女の来歴を交えながら、その仕事内容や意義について書かれている。近年はロシアによるウクライナ侵攻や、イスラエルとパレスチナをめぐる紛争に代表されるように、戦争や武力衝突が絶えない。そんな状況で国際的な法秩序のもと、第三者機関であるICCが彼らの戦争における重大犯罪を捜査、裁判するケースが報道されている。著者はそのトップとして、日々汗をかいて仕事をしている様子が伝わってきた。  本著を読むまでは、ICCについて「たしか教科書で見たような気がする…」くらいの認識だった。しかし、その役割や成り立ち、実際の業務について、著者が柔らかな語り口で丁寧に説明してくれるので、法律に明るくなくても理解を深めることができた。  本著が刊行された時点で、ロシアに指名手配されていたわけだが、今年の9月にはアメリカからも制裁対象とされてしまった。本著内でも繰り返し取り上げられているアメリカ(というかトランプ)の横暴っぷりは目に余るものがあるのだが、まさに著者が危惧していた事態が現実になろうとしている。  そもそもICCが発足した背景には、戦争犯罪を戦勝国が一方的に裁くのではなく、第三者機関が司法の場で裁くことで、公平性と法の支配を担保するという理念がある。しかし、近年のアメリカ、ロシアに代表される大国は、ICCに加盟していないこともあり、国際的な法秩序よりも自国の力を優先する姿勢を強めている。そうした大国によるICCの無効化ともいえる動きに対して、著者が精一杯踏ん張っていることが、ひしひしと伝わってくる。  ICCの歴史や存在意義ももちろん興味深いのだが、本著の最大の魅力は著者の仕事の話や来歴にある。前者については、実際にどのように仕事を進めているのかがかなり具体的に描かれており、まるでICCの仕事場を訪問したインターンになったような気分で読んだ。自分とはまったく異なる業界で、しかも国際的な舞台で働く人の仕事の進め方を知ることができるのは単純に面白い。  一方、後半で語られる著者自身の来歴からは、とにかく恐ろしく優秀な人なのだということがわかる。それほどの能力と実績を持つ人でさえ、日本社会のジェンダーギャップに苦しんできたという話には胸が痛んだ。実際に自身が経験してきたことだからこそ、単なる机上の空論ではない説得力がある。特に80年代から2000年代あたりまでの女性差別の実状には、改めて驚かされた。そうした幾多の困難を乗り越えながら、社会のために自分の仕事をまっとうしようとする著者の姿勢には、ぼーっと仕事をしている自分としては身が引き締まる思い。  ICCに対する拠出金額は日本が一番大きいらしい。だからというわけではないが、平和国家として法の支配をリードするような役割を国際社会から期待されていることが伺えた。日本がトランプの「力による支配」の理論に同調することなく、国際的な法秩序を守る側として毅然とした態度を取ってくれることを切に祈りたい。(今の政権にはまったく期待できないけど。)
  • 2026年10月6日
    あらゆることは今起こる
     買って積んだままだったのだが、読書日記に登場して、買ったことを思い出し、ようやく読んだ。日本語ラップでもADHDという言葉を耳にする機会が増える中で、当事者のダイレクトな感覚を知ることができて勉強になった。  小説家である著者が、ADHDの診断を受けたのちに考えたことを綴ったエッセイ集であり論考集であり、医学書院の「ケアをひらく」シリーズの一冊だ。前半ではADHDと自身の特性や経験を照らし合わせながら、実生活でどういったことが起こってきたか、具体的に描写しつつ、後半にかけてはテーマが発散していき、ADHDに限らない思索へと展開していく。もともと著者の小説が好きなので、どういった人となりなのか、知ることができて興味深かった。  著者が繰り返し述べているとおり、本著はADHDの専門書ではなく、あくまで一個人の体感を説明したものである。言葉の専門家といえる小説家が言語化を試みてくれたおかげで、ADHDの大まかな輪郭を掴むことができたような気がする。  ただ、著者は「わかった気になる」危険性について自覚的だ。本著で語られる内容をADHDの代表例として受け取らないでほしいと何度も注意喚起している。そこから、世の中の短絡的思考を憂いている点が印象的だった。複雑なものを複雑なまま、圧縮も簡略化もせずに、受け取ることは今後必要なアティチュードでもあり、技量にもなってくるだろうなと感じた。ADHDの話題に限らない、著者の思考の断片が次々と繰り出され、思考の渦に巻き込まれたような読書体験だった。  日常で困っていることの列挙、その対処法、過去の失敗談まで、かなり踏み込んで書かれており、ADHDがぐっと身近になった。私はADHDに「多動」のイメージを持っていたが、実際にはさまざまなタイプがあり、著者の場合は頭の中が「多動」状態になって、動けなくなってしまうのだという。外から見れば何の問題もなさそうに見えてしまう辛さも綴られていて、ADHDの現れ方が人によって大きく異なることを思い知らされた。  身近に感じられたのは、「病との向き合い方」という、きわめてパーソナルなことが書かれているからだろう。動画や音声ではなく、本で読むという体験も、親密さを増す要因だと思う。また、文体が比較的カジュアルで、関西出身の私には、ごく自然に差し込まれる関西弁に親近感を覚えた。  一方で、ADHDの特性として紹介される事例の数々は、自認非ADHDの自分からしても日常でよくある失敗の延長線にあるように映った。なので、ADHDだから質的に特別に異なる、というよりも、頻度や程度といった量的な違いなのかもしれないと感じた。  さらに、ADHDについて語ることは、それを取り巻く日本社会の現状への考察にまで波及していく。率直な意見の数々は納得するものが多かった。特に過度な同調圧力の存在は、ADHDを浮き彫りにするための踏絵のようになっているという指摘にハッとした。その象徴として挙げられるのが「迷惑」という言葉だ。「他人に迷惑をかけることは悪」という考えは、自己責任論と共に社会に浸透しているが、「迷惑をかける」と「助けを求める」は紙一重であり、それについて「迷惑」を英訳しようとする試みの中で可視化していた。英訳の観点でいえば、incentiveの語源から始まる脳の報酬系に繋がるアナロジーのくだりは読んでいて笑った。「励ましの歌を歌うコーラス隊」という表現が素敵。  冒頭で並行世界に関する話が登場するとおり、過去、現在、未来がパラレルに今起こっている感覚について、南米のマジックリアリズムを代表するガブリエル・ガルシア=マルケスの作品を語りながら、著者の小説のスタイルへと接続していく流れが鮮やかだった。ADHDならではの時間感覚が、複数の登場人物たちが交錯する小説のダイナミクスに寄与しているのだろう。  さらに興味深かったのは「日常」という言葉に対する考察である。著者の小説の多くは大きな事件が起こるわけではなく、何気ない場面の連続と思えるわけだが、このラインからは著者の世界を捉えるレイヤーの違いを感じた。 そうやって日々を生きていて、なんか変でおもしろい、なんやろうこれは、と思っていたことを小説に書いたら、「何気ない日常」「なにも起こらない日常」とよく言われた。何気ないことも。なにも起こらないことも、私にとっては「日常」とはちょっと違う層にあるものなので、そうではないんやけどな、と思っていた。  そんな「日常」を考察した1冊として『わたしがいなかった街で』が挙げられていたので、次はこれを読んでみようと思う。
  • 2026年9月30日
    歯ごたえと喉ごし
  • 2026年9月28日
    子どもかんさつ帖
     『ikuzine』きっかけで本屋B&Bの選書企画に呼んでいただいた。先日、滝口悠生さんと前田エマさんのトークイベントに足を運んだ際、その選書企画の一環として置かれていた「誰でも書けるノート」を読むと、そこには、男性として育児をすることについての著者の長文コメントが載っていて興味深く読んだ。それをきっかけに購入したのだった。タイトルどおり「かんさつ」を通じた、子どもへのやさしい眼差しが感じられる一冊だった。  本著は、著者の子どもが0歳11ヶ月から3歳7ヶ月になるまでの様子を観察した記録と、その記録をもとにしたエッセイで構成されている。観察記録=発育記録となるわけだが、冒頭に発育に関するエクスキューズがちゃんと付いていた。  「何歳で何ができるのか?」は子どもによって千差万別である。3歳くらいまでは横並びの感覚が強く、他の子ができて我が子にできないことが気にかかっていた。ただ、3歳を過ぎたあたりから、保育園や習い事の同級生の間で明確な個体差があることを感じるようになり「発育速度は個人によって異なる」ということを認識できるようになった。本著で紹介されている内容も、その個体差のバリエーションの一つであり、同じ年齢だった頃の我が子を思い出し、比べながら読んでいた。  改めて感じたのは、子どもは世界を学んでいる最中だということだ。4歳でもうすぐ5歳になろうとする我が子は、基本的なことは自分でできるし、言葉も達者になった。それゆえ、大人ができる当たり前のことでグズついている様子をみると、ストレスを感じてしまう。しかし、冷静に考えてみると、まだ4年しか生きていのだから、できないことが当然ある。大人はそこを観察し、汲み取りながら成長を見守っていく必要がある。本著を読んで、こういったアプローチが必要なのだと気づかされた。著者が育てながら少しずつ理解を深めていく流れとして記録されているからこそ、追体験として腑に落ちやすかった。  なかでも一番グッときたのは、「目に見えないものを理解していく」というエッセイ。著者の子どもが愛情を水に例えて、自身の感情の微妙な揺らぎを両親に伝えるエピソードで、子どもとは到底思えないほど、的確で繊細な表現に驚かされた。抽象的な内容を具体物に変化させて、親と子で相互理解していく過程自体が楽しいということは育児でよくあることだ。ただ、こうやって言葉にしてくれるからこそ、日常で流れていく、ささやかな気づきについて振り返る機会をもらえるので、他者が育児する様子は定期的に読んでいきたいなと思う。
  • 2026年9月26日
    言葉と出来事
    言葉と出来事
     『Forget it not』、『now loading』がオモシロかったので、最新作も読んだ。『now loading』の続編的な位置付けの育児日記としての側面が色濃く出ていて楽しく読んだ。  2023年〜2025年までの日記に加え、あとがきでは日記論、附録では哲学者の古田徹也との対談が収録されている。日記のスタイルは『nowloading』と同様、タイトルはなく末尾に日付だけ記されてあり、余白をたっぷりとった、改行も含めて見栄えを重視した構成に、著者の美意識が改めて感じられる。基本は見開き2ページだが、たまに1ページのみで片側が完全な空白になっている箇所があり、平板になりがちな日記に構成上の抑揚を生み出していた。文章が冗長になりがちな自分からすると、これほど端的に表現できることが羨ましいし、その切れ味のよさは、著者の泰然自若さを象徴しているとも言える。  前作から引き続き、育児に対する著者のフレッシュな視点は目から鱗である。ほぼ同年齢の子どもを育てているのでリアルタイム性が高く、自分ごととして読めた。『now loading』では、子どもにフォーカスされていたが、本著ではレンジが広がり、パートナーも含めた家族3人の生活が丁寧に描かれている。日記が進むにつれて情報が少しずつ明らかになり、家族像が立体的に浮かび上がってくる構成もオモシロかった。絵に描いたようなシティライフの中に、育児がロウな形で放り込まれてくるところがリアルだった。言葉についての本でもあり、哲学を中心に難解な内容が引用される一方で、息子がポケモンに熱中していく様がかっこつけることなくそのまま書かれている。このバランス感覚は日記だからこそだろう。  そんな「言葉」の観点で興味深かったのは、2024/2/13の日記「ありふれた表現について」。もはや言葉は手垢まみれであり、独自性を持ちうるのは組み合わせだけだという指摘は、日常的に日本語ラップを聴いている身として深く頷けるものだった。AとBの組み合わせで新鮮さを模索すると、その過程でA、Bそれぞれの言葉自体が陳腐化していく可能性については考えたことがなく、新鮮な視点だった。そしてこの陳腐化から逃れる術は「中身のある文章を書くこと」だと結ばれていて、ラップのリリックも同じで、結局後世に残るのは中身のあるものなのではないか、と考えさせられた。  友人からの「保守的になった」という指摘に対する著者の答えも印象的。昔に比べると、自分自身も守りに入っていることは否めないが、著者の言うように「深さ」を追い求めていると思う。 たしかに子供ができて行動半径は狭くなったかもしれないけれど、つまらない言い方をすればその代わりに深い穴を掘るようになったし、でもその深さは見えないのだと言われて、それはそうかもしれないと思った  附録の対談でピックアップされていたこのラインもまさに!と思わされた。最近、園まではたどり着くのだが、毎日のように下駄箱前で行き渋っている。そうなってくると「そもそもなんで預けているのか?」という考えが頭をよぎり、自分の仕事の価値と子どもの存在を、頭の中で天秤にかけることがしばしばあり、そんな感情がずばり表現されていてハッとした。 私の身体は楽だし仕事も進むので良いのだが、子と親と祖母で遊ぶこと以上に意味のある仕事なんてあるのだろうかという気持ちもある。  さまざまな人物が登場する点も読みどころだ。翻訳つながりで斎藤真理子、精神科医つながりで宮地尚子など、本で読んだことある人物たちが急に登場して驚かされる。なかでも意外だったのは、ダイアン津田である。その粋な登場はまるでドラマのワンシーンのようだった。前作で登場した総合格闘家の阿部大治然り、意外な人が日記の中に突如登場すると謎か妙にテンションがアガってしまう。  あとがきでは思いもよらない今後の展開が明かされていて驚いたが、ぜひこれからも著者の日記を読ませてほしい。
  • 2026年9月25日
    BUTTER
    BUTTER
    毎週のように雨が降り、子どもの習い事へ車で行ってばかりなのだが、少しでも駐車場代を浮かせるために本屋で本を買うようになった。欲しい本を楽天ブックスや独立系書店で狙って買うケースが多い中、いわゆる「街の本屋」で買うことでセレンディピティが生まれている。本著もそんな感じで買って積んであったのだが、著者が責任編集を務めたエトセトラ vol.2を読んだところで積読から引っ張り出して読んだ。読後、内容と連動した、この文庫版を巡る著者の一貫した姿勢にビガップを送りたい気持ちでいっぱいになった。  もともと新潮社から文庫でリリースされていたが、著者の意向で版元を河出書房へ移行する処置が取られた。文庫版から出版社が変わるケースはよく見かけるが、もともと販売している文庫をわざわざ版元変更するのは異例のことだ。詳しい経緯は著者のインスタポストやニュースを見て欲しいが、自分自身ではなく「仲間が傷ついたから」という理由も含めて、こんなアクションを取れること自体に著者の真摯さが滲み出ている。  主人公は週刊誌記者の女性。彼女が追いかける事件を軸に、現在の日本における女性の立場を浮かび上がらせる社会派サスペンスだ。実際に起こった木嶋佳苗死刑囚による首都圏連続不審死事件を下敷きにしており、主人公と木嶋を彷彿とさせる被告との拘置所でのやり取りから事件の核心に迫りながら、主人公自身の人生の悲喜交々も描いていく。  まず、エンタメとして無類に面白い。主人公が被告へ接見を繰り返し、食事、料理そのものに夢中になっていくプロセスはトリッキーながらも説得力をもって迫ってくる。それを支えているのは、著者による料理の「シズル描写」の精度に他ならない。グルメ小説(?)をそこまで読んだことがないので比較はできないのだが「シズル感をここまで言語化できるのか!」という驚きの連続だった。そして、この圧倒的なシズル描写があるからこそ「食べること」で主体性を取り戻していく過程にも納得感が生まれていた。  私は一人暮らしの頃から自炊の頻度が他人に比べて高い。それはある程度、時間に余裕のある労働環境という背景もあるが、そもそも自らの手で料理することは、人間としての尊厳を担保する行為だと捉えていたからだ。(名著『人間は料理をする』の影響が大きい。)「出されたものをただ食べるのなら、家畜と大して変わらない」というのは最もラディカルな主張だが、主人公が料理に目覚めていくプロセスが、そのまま主体性の獲得の象徴になっていることに納得した。  男性被害者たちを中心に、男性が自身を料理する(ひいてはセルフケアする)ことを考えず、女性にケアしてもらう前提の歪さをこんな形で小説で表現していることが画期的だ。「おふくろの味」に代表されるように手料理に対して過剰な意味をもたせる一方で、自分で自分のために作る手料理は虚しいものとして扱われる。このダブルスタンダードに以前から違和感を抱いてきたが、それに対する一つのアンサーにもなっていた。  本著はベースとなった事件を単純になぞっただけではなく、著者なりの解釈がふんだんに込められている。この事件は当時から好奇の目に晒されていた記憶があるが、そうした表面的な理解にとどまらず、日本社会における男女間の置かれた立場の違いを浮き彫りにするための足がかりとしているのだ。たとえば、被告による女神論は、男女差別の妥当性を経済合理性で納得させようとする姿勢と繋がって見える。つまり、労働賃金をはじめとした男性優位社会を前提として「女性は主体性をもつことなく、労働で疲れ切った男性をケアすればいいじゃない?」と。他にも性加害者との歪な共犯関係をめぐるアクロバティックな論理展開もシビれるものがあった。  帯にもなっているとおり、被告の発言で最も印象的なのは「どうしても許せないものが、二つだけある。マーガリンとフェミニストです」だ。フェミニストが登場して、女性に対する性差別を糾弾するような単純な構造ではなく、各登場人物のシチュエーションから少しずつ日本社会における性差別をあぶり出し、フェミニズムへと接続していく手腕が鮮やかである。フェミニズムを直接取り扱った本も読むのだが、私は男性なので居心地が悪くなる瞬間は正直たくさんある。しかし、本著は小説かつエンタメとして仕立てているからこそ、スッと心に入ってくる。しかも描かれているのは、日常生活のなかでも遭遇しうる状況だ。だからこそ、自分自身を振り返るためのケーススタディにもなる。  特に主人公の彼氏の無自覚に発揮するルッキズムは響いた。他人の体重の増減について、ことさら厳しい社会において、こうした言動は日常茶飯事だと容易に想像できる。まt、体重ではない別角度でのルッキズムを無自覚に発揮してしまう可能性は誰しも携えている。この点について自覚していくことは皆が生きやすい社会への第一歩になるはずなので意識していきたい。  「バター」を駆使したアナロジー的描写の数々も見事。もっとも象徴的なのは「ちびくろさんぼ」だろう。差別的作品だとして一斉に絶版された過去をもつ作品を引っ張り出してきて、作品に対する新たな解釈を与え、現代に甦らせるアプローチがかっこいい。それは他人の見方にただ同調するのではなく、己の目線で捉え直すこと。すなわち、本著の大きなテーマの一つである「主体性の獲得」にも直結している。全体がミステリータッチで進むため、絵本についての考察ながら、まるで「ちびくろサンボ」に隠されたミステリーを解いているように映ってオモシロかった。  ダラダラと書いてきたが、これでも本著の魅力の10分の1くらいしか伝わっていない。図書館で借りて読むのも、古本で買って読むのももちろんいい。ただ、これほど「買うこと」によって連帯を示せる本も、そう多くはないと思う。最高の装丁も含めて、未読の方はぜひ読んでみてほしい。
  • 2026年9月20日
    エトセトラ VOL.2
    エトセトラ VOL.2
     マーガレット・アトウッド作品を読んでいて、フェミニズム系の本を読みたくなって、積んであった本著を読んだ。世間的なイメージとは異なる視座から田嶋陽子を捉え直す切り口はどれも興味深く、読了後には、それまで抱いていた田嶋陽子像がすっかり一変していた。  表紙にあるとおり、小説家の山内マリコと柚木麻子が責任編集を務めた『エトセトラ』の第2号。現在までに15号が刊行されている、日本のフェミニズムを代表する雑誌である。2019年刊行の第2号で田嶋陽子を取り上げるというアプローチは、今振り返っても新鮮だ。  座談会、書評、インタビュー、漫画、エッセイなど、雑誌らしくさまざまな角度から田嶋陽子という存在を徹底的に見つめ直している。これもひとえに責任編集の2人の田嶋陽子に対する、並並ならぬ愛ゆえであることは読んでいてビシバシ伝わってきた。  どれも読み応えはあったのだが、山内マリコ、柚木麻子が『そこまでいって委員会』にわざわざ大阪を訪れ、観覧してたことにジャーナリズム魂と本著にかける思いを感じた。また、雑誌の中に載っている漫画は個人的に苦手なのだけども、本著の田嶋陽子の生涯をダイジェストで振り返る漫画はオモシロかった。知らなかった出来事が次から次へと出てきて、そのどれもが強烈。彼女の遍歴が一気に頭に入ったことで、その後のインタビューやエッセイも読みやすくなっていた。  大阪で育ったアラフォー世代の自分にとって、田嶋陽子といえば『TVタックル』もさることながら、やはり『そこまで言って委員会』の印象が強い。右曲がりのダンディたちが雁首を揃えるなか、一人の女性として、そしてリベラルな価値観を持つ論客として、懸命に異論を提示し続けていた。  たかじんが存命だった頃は、まだ田嶋陽子の面白いキャラクターを引き出すことで、ギリギリいじめのような構造を回避していたように思う。ところが、たかじんが不在となった後は、露骨に「一人だけおかしなことを主張している人」というフレーミングが施されるようになった。自分自身、幸いにも右曲がりのダンディたちより田嶋陽子のほうがまともなのではないかと思っていたものの、周囲の空気に流され、彼女の発言を笑ったことがないと言えば嘘になる。  そこから大人になる過程で、フェミニズムに関する書籍を読み、多少なりとも理解のある状態で本著を読むと、いかに私が田嶋陽子の表面的なところしか見ていなかったのか気付かされる。なかでも本著冒頭で柚木麻子が語る田嶋陽子との出会いに関するエッセイで紹介される言葉は、今こそ皆に知ってほしい。 家の鍵が空いていても、家に入ったら、それは泥棒だ。  未だに性加害を受けた女性側に非があるような意見が跋扈しているが、このラインのシンプルさには、ぐうの音も出ないはずだ。本著のインタビュー内でも「私のための、私が生きるためのフェミニズムであって、フェミニズムが先ではないからね」という金言まで飛び出していた。  他にも家父長制を明確に奴隷制度と紐づける視座は初めて遭遇するものだった。 日本はまだ奴隷制の部分が残ってる。女は家庭で、男は社会で、って性的役割分業やってたら、女は絶対に自由になれない。自由っていうのが、その人の顔だから。そして、自由と自分で稼ぐってことは人生に直結してる。 結婚とか子育てとか大事だけど、まずそこがキチンとしてないね。  田嶋陽子という人を、テレビで見ていた「面白いフェミニスト」というキャラクターから、一人の思想家として捉え直す入口として刺激的な一冊だった。『愛という名の支配』も必ず読んでみたい。
  • 2026年9月19日
    誓願
    誓願
     『侍女の物語』に続編があると知って読んだ。数十年後の続編ということもあってか、社会状況や著者自身のスタイルの変化もあいまって、前作とはまったく異なる味わいのエデュテイメントだった。  1作目の舞台となったギレアデ王国のその後を、前作でも主要人物だったリディア小母による手記、2人の若い女性によるインタビューの3つの視点から物語は展開していく。ここでポイントになるのが、2人の若い女性だ。1人はギレアデに生まれ、その思想に染まり切っている。一方、もう1人はカナダからレジスタンスの一員としてギレアデに潜入していく。  1作目では、侍女が閉塞した、どうにもならない状況を淡々と語る形式だったため、読みづらさや中だるみを感じたことは否めない。それに比べると、本著は格段に抜けがあり、物語のテンポもいい。それは複数の視点が入れ替わりながら、さまざまな角度から物語を転がしている構成の影響が多い聞い。また、ラストにかけて、三者の物語がしっかりと交錯していくことで、物語のカタルシスも生まれている。前半は『侍女の物語』の世界を改めて噛み締めていくディストピアSFの側面が強いが、後半にかけては怒涛の展開で、エンタメ小説として抜群の面白さを発揮しており、ページターナーだった。  手記とインタビューという構成も興味深い。手記だからこそ過去から現在に至るまでのギレアデの全貌を体系的に理解できる。一方、インタビューでは、回答者それぞれのトーンの違いがオモシロい。おしとやか少女とおてんば少女の対比なのだが、終盤にかけて2人の距離が徐々に接近していく仕掛け方が見事だった。  やはり本著で一番好きなパートはリディア小母の手記である。彼女が小母になるまで払った犠牲や、国家の中で権力を握るために繰り広げる情報戦はスリリングだった。自分が追い込まれたときに、自らを偽ってでも従順になり生き延びていくのか。それとも、死を賭してまで自らの思想を優先するのか。そんな究極の問いを乗り越えた人間だからこそできる、割り切った処世術は見どころ盛りだくさん。この手記自体が人間としての業を精算していくような側面があり、長い時間をかけて積み重ねてきたものを振り返るなかで、結局、人は収まるところに収まるのかもしれないと思わされた。  本著は2019年に原著がリリースされたようで、欧米ではBREXITやトランプ就任など、政治的に分断が進んだ季節である。現実が厳しい状況だからこそ、物語内では排他的思想を打破していく理想主義が描かれていると感じた。  なので、終盤の鮮やかな展開は、ギレアデの悪魔の所業を読んだ後だとやや出来過ぎのように感じなくもない。とはいえ、ここまで救いのない物語を読んだ後だからこそ、これくらいのカタルシスが必要だったのだろうとも思う。  『侍女の物語』を読んでから手に取ったほうが、その世界の奥行きをより味わえる。ディストピアSFでありながら、後半はぐいぐい読ませるエンタメ性をもった素晴らしいファック家父長制小説だった。
  • 2026年9月11日
    傷のあわい
    傷のあわい
     『傷を愛せるか』がオモシロかったので積んでおいたのだが、『侍女の物語』で物語疲れしたのでリフレッシュしたくなって読んでみた。社会学のエスノグラフィー的な手法で描かれた多様な人生のあり方が興味深かった。  著者がアメリカへ留学した際、研究の一環でインタビューした在米日本人たちのエピソードと、自身の周辺にいる人々との交友関係をめぐるエピソードの二軸で構成されている。社会学のエスノグラフィーの手法を駆使しつつ、1990年代後半の在米日本人たちの一概にオモシロいとはいえない人生の断片の数々や、著者の周辺にいる人々の人生を読んでいるうちに、さまざまな思いが去来した。  冒頭で、研究対象となった人々のプライベートを守るため、細部にかなりの変更、脚色を加え、複数の人間像を合成していると宣言されている。これは当然必要な配慮であり、著者の真摯な姿勢の表れとも言えるのだけども、複雑な気持ちになった。著者が抱いた感情はリアルだとは思いながらも、ある主張や感情を描くために用意された登場人物なのではないか、いわば「マッチポンプ」なのでは無いかという疑念が頭をかすめる瞬間もゼロではない。エッセイ以上小説未満的な、それこそ「あわい」のような創作物なのかもしれない。とはいえ読んでいるあいだは、フィクションというよりエッセイとして受け止めていた。  「在米日本人」と一言で括っても、自らの意思でアメリカへ渡った人もいれば、周囲の環境の変化によって、望むと望まざるとにかかわらずアメリカで暮らすことになった人もいる。そのグラデーションのなかにある、趣深い人生のエピソードがどれも興味深い。  特に日本社会に息苦しさを感じ、アメリカという異なる環境に身を置き、自らを変えようとする人々の話は苦しい気持ちになった。それは自分自身、日本の就活で求められる独特のノリに辟易して、ヨーロッパで博士課程を取得することを模索していた経験があるから。今振り返れば、目の前の現実から逃げようとしていただけのように思う。けれど、当時の自分は社会人として生きていく欺瞞に耐えられなかった。結局、ビビって就職したのだけども、逃避するように渡米した若者の話である「二〇歳の人生落伍者」を読むと、そうやって一時的に寄り道する人生も悪くなかったのかもしれないと思ったり。無いものねだりではあるのだが…  当時はまだインターネットが今ほど身近ではなかったため、アメリカで感じる孤独にまつわるエピソードの数々は時代性を感じるものだった。特にパートナーの都合でアメリカで暮らすことになり、英語もろくに話せない中で孤独を深めていくエピソードは、その閉塞感を想像すると辛い。SNSはインプレッション重視になった結果、その負の側面が語られる場面が増えている。しかし、何かに悩んでいるときに「一人じゃない」という連帯感を得て、救われる可能性を提供している側面もあるはずだと改めて感じた。  本著を読んだ誰もが強烈な印象を抱くのは、2つの章にわたって描かれる「PTSD」だろう。今ではPTSDという言葉は一般的だが、当時は精神科医による専門用語の域を出なかった。そんな時代にPTSDを発症した患者として描かれるのが、アメリカでショットガンに撃たれた男性である。自己責任論が跋扈する現在にも通じるものがあるが、今ほどではなかったにせよ、撃たれた側の男性が罪の意識に苦しんでいるという話は、読んでいて辛かった。  また「パレスチナ」の話も印象的だった。差別意識にまつわるエッセイで、これほど優れたものはなかなか読めない。日常生活のなかで起こる些細なエピソードから、自身の意識、さらには実際の現場へと描写を広げながら、いつの間にか読み手自身の差別意識まであぶり出していく。その筆致が見事だった。  藤本和子の一連の作品と並べて読みと、アメリカで生きる人たちのリアリティがより立体的に浮かび上がってくると思うので、未読の『塩を食う女たち』を読みたくなった。
  • 2026年9月9日
    侍女の物語
    侍女の物語
     随分前に早川のセールで積んでおいたのだが、あまりにもクラシックすぎてなかなか読む気が起こらなかった。先日読んだ『未来』のあとがきで、ナオミ・オルダーマンの師匠として名前が挙げられていたので、これは読むしかないと意を決して読んだ。80年代にリリースされた作品ではあるものの、今の時代にも十分通ずる普遍性を持っていて興味深かった。  本著は、オブフレッドという女性が主人公。出生率が低下した社会で「産む機械」として抑圧されながらも、過去を反芻しながら自分の人生を生きようとするディストピアSF。随分前にHuluでドラマ版をS2くらいまで見ていたこともあり、その記憶を補完しながら読むことができた。  映像版は比較的整理されていた一方で、原作である本著は過去と現在を何度も行き来するため、読みづらさがある。しかも、それは明確な意図があって構成されているというより、うつろう意識をそのままなぞっているようで、人の頭の中を直接読んでいるような感覚がある。そして、最後まで読むと、この構成そのもにギミックがあることが明らかになり納得した。  上級国民の家に侍女として仕え、出産することだけを求められる。こう書くだけでも十分グロテスクだが、設定のディテールが細かいぶん、そのエグさはマシマシ。特に性行為と出産における侍女と妻のポジション配置がきつかった…「そういうテイ」という、見た目だけ取り繕って中身は空っぽという状況は、日本社会でもよく見かけるからこそ余計に刺さるものがあった。 「あの頃は良かったな、戻りたいな」と回想するシーンが何度も訪れる。その一方で物語が進むに連れて、彼女や家族の身に何が起こったのか、そしてこのディストピアがどのように形成されたのか明らかになっていく。そうした背景がクリフハンガーとなり、辛い状況が続くにも関わらず、ページをめくる手が止まらないようになっていた。断片的な情報をパズルのように組み合わせて、その世界について想像を巡らせる。そんな小説を読む醍醐味が詰まっている作品だと思う。  男女の非対称性がこれでもかと描かれているが、オブフレッドの財産が没収されてしまった際の、夫ルークの反応が最も印象的だった。男尊女卑丸出しのディストピアに突入する寸前の出来事なのだが、そこで見せるルークの非当事者的な態度には、身に覚えがないといえば嘘になる。ディストピアの中で男尊女卑がわかりやすく展開されること以上に、味方である夫でさえ妻の気持ちを理解できていない状況の方がはるかに辛いように思えた。  前半はオブフレッドの回想も比較的多く、体制に対する不満や怒りが多く見られるのだが、後半にかけては徐々に諦念が支配的となり、自暴自棄な態度が目につくようになる。ここにもリアルさがあり、社会運動を続けていても明確なゴールが見えず、いつしか大志を失ってしまう。権力者たちは支配される側に無力感を抱かせたいわけでそれが機能していると言える。そんな葛藤が以下のようなラインに表れていた。 どんな状態でもいいから生きつづけたい。肉体なら気前良く他人に使わせよう。彼らに好きなようにさせていい。わたしは情けない女だ。わたしは初めて彼らの本当の権力を感じる。 わたしは恥知らずな女になりたい。不謹慎な女になりたい。無知になりたい。そうすれば、自分がいかに無知であるかに対しても無知でいられるだろうから。  2020年にリリースされた「誓願」が続編らしいので、早々に読みたい。
  • 2026年9月4日
    ディラ・タイム あたらしいリズムを創ったヒップホップ・プロデューサー
     夏はぶっとい本を読む。そんなSummer Readingにとっておきの一冊ということで楽しみにしていたのが本著だった。原著がリリースされた当時、美しい装丁に惹かれて「原著で読むか…?」と思ったことを記憶しているが、このたび翻訳されてリリースされた。本当に訳してくれて感謝!と大声で言いたいほどのオモシロさで、これまで読んだヒップホップ関連書籍の中でも特別な一冊になった。  デトロイト出身のヒップホッププロデューサーであるJ・ディラについて、彼のサウンドの背景を丹念な取材によって描き出した一冊。タイトルや帯にあるとおり、彼が果たしたリズム面での革新を深掘りしながら、プロデューサーとして歩んできた足跡をほぼすべて記録しているような、J・ディラ本の決定版といって過言ではない。それを可能にしているのが、評伝としての側面と、彼のサウンドの楽理的に解説する側面、この2つを兼ね備えているからである。  まずは前者だが、これが無類にオモシロい。彼がデトロイトで生まれ育ち、いかにしてヒップホッププロデューサーとして頭角を現していったのか。音楽的背景だけではなく、人間としての成長も含めて描かれているので、評伝としての仕上がりが抜群である。90年代〜00年代のUSヒップホップにおける逸話の数々は、いつ聞いても楽しいものだが、本著はそれらの詰め合わせ。読み進めているあいだ、宝石箱をずっとディグしているような感覚だった。  それは単純にディスコグラフィーを追いかけるだけでは見えてこない、J・ディラ周辺の交友関係が浮き彫りになっているからだ。スラム・ヴィレッジ、ジ・ウマー、ソウルエクリアンズ、ジェイリブといった彼の所属したユニットの数々に加え、地元デトロイトのプルーフ、エミネムや、近しい存在だったアンプ・フィドラー、カリーム・レギンス、ドゥウェレなども登場する。壮大な大河ドラマを見ているような読書体験は唯一無二だった。本著に登場するほぼすべてのアーティストに夢中だった自分にとって「このタイミングで、この人物と、こんなことがあったのか〜」という展開の連続でとにかく最高だった。  また、プロデューサーとしてではなく、J・ディラという人間そのものにフォーカスしている点も印象的だ。亡くなったことでスーパープロデューサーとして神格化されてきたが、改めてハードなリリックや実際の奔放な生活について知ると、あの天才的プロダクションの背景には、こんなにも人間臭い出来事が山積みだったのかと驚かされる。彼自身だけではなく、家族についても相当なページ数を割いており、妻とマ・デュークスこと母親の間の冷え切った関係から、彼の遺産をめぐる泥沼ともいえる争いまで書き切っている。美談に仕立て上げることなく描く、ジャーナリスティックな筆致に唸った。  亡くなったあとにリリースされる作品を聞くたびに「J・ディラはこのリリースを望んでいたのだろうか…」と毎回遠い目になってしまうのだが、本著を読むとその距離感の取り方がわかるようになる。「ディラ・インダストリアル・コンプレクス」とは言い得て妙だ。モヤモヤしている人こそ、実際に何があったのか知ると腹落ちしやすくなるだろう。個人的にはストーンズ・スロウのイーゴンが最も損得勘定なしで動いていて感動した。  そして、後者のサウンド面に関する解説も、当然興味深い話の連続である。彼が生み出した、クオンタイズされていない、つんのめったようなリズムは、今や日本のポップスにもみられるようなごくごく普遍的なアプローチとなっている。しかし、それがいかに音楽史に残るような大発明だったのかを、体系的に理解できるようになっている。  特にクオンタイズ機能を使わずに手打ちにしたことでグルーヴを生み出したという誤解はこれだけ広まっているからこそ本著で正されていることには大きな意味がある。彼はミュージシャンでありながら、プログラマーであったということを著者は強調しており、表面的になぞってもわからないサウンドの奥行きや、時間に対す流彼の感覚について独自の図も駆使しながら、楽理的な内容をわかりやすく解説してくれているので、これまで聞いてきた音の解像度が一段上がった。  著者のアナロジー的描写の数々にもうならされる。特に冒頭でのデトロイトの街の構造や、映画『マトリックス』まで及ぶ「グリッド」に関する描写は見事だし、7インチシングルやドーナツの前振りが終盤で伏線回収していくように、文章の構成も巧み。だからこそ、これだけのページ数にも関わらず、飽きずに読むことができた。評伝と音楽的解説をまだらに配置している点も、彼の来歴とサウンド、機材の進化に焦点を合わせやすい親切設計になっていて助かった。  J・ディラが残したレガシーが、どのように現在に引き継がれているかについても丁寧に描かれており、単純な懐古にとどまっていない。ロバート・グラスパー、テラス・マーティン、フライング・ロータスなど直系で影響を受けていた面々はもちろんのこと、ハイエイタス・カイヨーテを取り上げている点がフレッシュだった。それはブラックミュージックとしてのレガシーにとどまらず、J・ディラが成し遂げたことが場所も時代も超越していった事実を、彼らの音楽的な背景を紹介することで端的に示しているのだった。  これだけJ・ディラについての情報をインプットされると、自分とJ・ディラの関係がどうだったか、それを振り返る機会にもなった。私が聞き始めたきっかけは、Rhymesterのラジオ番組『WANTED』のDJ JINのミックスによる影響である。毎週、20分ほどのミックスが披露されていた中で、当時WajeedによるPPPや、Sa-Ra Creative Partnersがヘビロテされており、これらに夢中になったのだった。そして、彼らのサウンドの背景にいるのはJ・ディラだと知るまでそう時間はかからなかった。  番組放送時期にJ・ディラは亡くなっており、そのタイミングで流れたDJ JINによるトリビュートミックスがデータで残っていた。久しぶりに聞いてみると、当時のDJ JINによるコンテキストを踏まえた選曲にグッときた。プレイリストはこんな感じ。 Welcome 2 Detroit - Jay Dee Runnin' - The Pharcyde Let’s Ride - Q Tip Waltz of a Ghetto Fly - Amp Fiddler Dollar - Steve Spacek The Look of Love - Slum Village Get This Money - Slum Village Shotgun (Featuring Jay Dee) - PPP Heat - Common  Amp Filddlerを入れているあたりにシビれるし、本著でも比較的フォーカスされているSteve Spacek「Dollar」は、この番組で幾度となく流れた、私も大好きなディラワークスの一つである。  当時は大阪に住んでいて、スーパークロイ、ROOTDOWNという二大ヒップホップパーティーに足繁く通っていた。前者はヒップホップとしてのドープな側面を探求していて、スラム・ヴィレッジの来日公演を開催していた。後者では、DJ JINに通ずるデトロイトにおける音楽のクロスオーバー性にフォーカスしていた。同名のレコードショップは、DJ Dezとレコードもリリースしている。Wajeedがソロで来阪していたこともあり、大阪にこれだけデトロイトの音楽が馴染んでいたことに思いを馳せた。(タイガースの本拠地という共通点!)  CDやレコードはかなり処分してきたのだが、J・ディラ周りの音楽は自分のベースになっているので、どうしても処分できず、今も手元に残っている。それらをCDやレコードで聞いていると、本著を読んだおかげか、以前とは異なる解像度で音が鳴り響き、とても新鮮なリスニング体験となっている。  J・ディラの音楽に一度でもやられた人なら、間違いなく楽しめる。評伝としても、音楽書としても、そして一人の人間についての記録としても、これほど濃密な本はなかなかない。まさに一家に一冊の必読本!
  • 2026年8月25日
    プロレス少女伝説 (文春文庫)
    『1985年のクラッシュギャルズ』の副読本として推奨されていたので読んだ。熱狂を巻き起こした女子プロレスの世界を、アウトサイダーの視点から描いていて興味深かった。  大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したことからもわかるように、本著の魅力はプロレスという熱狂の渦に対して、冷静な視点を保ちながら、その渦中を描いているところにある。序盤では、そもそも女子プロレスが古来の女子相撲を背景としたビジネスとして成立してきたことを紐解いていく。その歴史的背景はまったく知らなかったので勉強になったし、そうした成り立ちの違いゆえに、同じプロレスでも男子と女子では根本的に異なることも、本著を読んで改めて理解できた。  先日読んだ『1985年のクラッシュギャルズ』では長与千種に関して、どちらかといえば客観的に描かれていたのに対し、著者自身が雑誌で彼女の対談相手を務めていたこともあり、よりインサイドワークに踏み込んでいる。長与千種のプロレスに対する鋭い感度、そして全体を見渡す俯瞰的な視点があったからこそ、観客を巻き込むテクニックに長けていたことが伝わってきた。マス受けを狙ったことをこんなふうに言えるのがかっこいい。  私は、女子プロレスにふりがなを振った人間やと思う。それまでの女子プロレスは、いわば、漢字ばっかりで、古臭くて、読みにくいプロレスだった。読める人にしか、読めなかった。それに、私はふりがなを振ったのよ。だから、どんな人でも、女子プロレスを読めるようになった。私がやったことは、そういうことだと思う  本著が白眉なのは、実質的な中国残留孤児二世である天田麗文、アメリカからやってきたレスラーのメデューサ・ミシェリー、元柔道家の神取忍といったアウトサイダーから日本の女子プロレスの実像に迫っていく点だ。前述のとおり、相撲の流れを汲むからこそ、村社会的な同調圧力や強烈な徒弟制度など、日本の悪しき伝統が濃縮還元されている環境となっていた。そのおかしな状況を外部からやってきた人々の目を通して浮き彫りにしていく。2026年の今読むと、移民に対する容赦ない対応は息が詰まるようなことばかりだが、今でもこういった気配は社会に存在し、同質性の高い(とされている)日本社会が持つ一種の特徴なのだろうなと思う。  一番衝撃だったのは、神取忍のパートだった。私が彼女の存在を知ったころにはすでにバラエティ番組の人で、本著を読むまで単に横暴なイメージしかなかった。しかし、その実像はまったく違った。プロレスラーとしての能力の高さはもちろん、プロレスに対する理解度、そしてそれを言語化する能力が圧倒的なのだ。個人的にずっと女子プロレスに乗り切れない気持ちを抱えているのだが、その辺りを神取忍がずばり言語化していた。まさか彼女の論理的な言葉に納得させられるだなんて想像もしなかった。 女子プロレスは、同じ感情を持てる人にはわかるけど、そうじゃない人には、いまひとつ、理解できない部分が多いじゃん。 女子プロレスというのはさ、だから、やる方にとっても、見る方にとっても、けっこう複雑で難しくて……だからこそ、やっぱ、やりがいがあるっての? そういうものなんじゃん  また、当時は団体に所属するのが当たり前だった中で、フリーとして試合ごとに契約しようとするインディペンデント精神もかっこいい。それは前身の柔道時代から一貫しており、講道館や柔道連盟と距離を置きながら、自らの強さを示して代表に選ばれていったというエピソードもかっこよすぎる。とにかく徹頭徹尾、話がオモシロい。「心を折る」という言葉は今や誰もが使う表現だが、その起源が神取忍だと知ったのも驚きだった。こんなラッパーみたいな格闘家は、もう二度と現れないかもしれない。 ただ、この人は、今まで、一度も、心が折れた音を聞いたことがないなって思ったんだよ。だから、こんな危なっかしい、嫌なことをするんだなって。だからさ、心を折ってやろうと思ったんですよ。その音を聞かせてやろうと思ったのよ  肉体のぶつかり合いという圧倒的にフィジカルなスポーツであるにも関わらず、「活字プロレス」という言葉があるように、プロレスは言葉や物語との親和性が高い。人は単純に殴り合う様子を見ることが楽しいわけではなく、通底する因果関係や物語があってこそ楽しめる。そして、それらは言葉によって紡がれる。  そのことについて、天田麗文がプロレス業界で活躍できず悪戦苦闘する姿を通じて描き出すのが鮮やかだ。本人は「言葉を使わない女子プロレス」だと思って入門したのに、長与千種から「プロレスにも言葉が必要だ」と教えられる。このエピソードは本著全体を貫くテーマでもある。 わたしは、言葉ができませんから、言葉を使わない女子プロレスに入ろうと思いましたんですね。でも、プロレスにも、やはり言葉が必要だって、チコさんは言います。わたしは、びっくりした。プロレスには、言葉なんかいらないと思ったから、プロレスラーになろうと思ったのにね。やはり、プロレスにも言葉がいるのだそうです。  わたしは、どうしましょう、と思いました  今はRIZIN、UFCなど総合格闘技にどうしても惹かれてしまうが、プロレスに関して書かれた本は何を読んでも面白いから、プロレスも少しでも見ていきたいなと思えた。
  • 2026年8月21日
    名前のないカフェ (新潮クレスト・ブックス)
    名前のないカフェ (新潮クレスト・ブックス)
    すっかり新潮クレストでお馴染みの作家となったローベルト・ゼータラーの最新作ということで読んだ。過去作と同様、市井の人々を見つめた素朴な作品で「いい本を読んだな」というしみじみとした余韻が残った。  主人公は天涯孤独な男性で、日雇い労働からカフェ経営へジョブチェンジ。物語は、カフェ店主となった主人公を中心に、周辺の人物たちを三人称で描いていく。これまでの作品でも、なんでもない人生にフォーカスし、その情緒を細やかに描き出していくというスタイルが印象的だったが、本著でもその持ち味は健在だ。1960年代のオーストリアで営まれる人々の生活がみずみずしく伝わってきて、場所と時間の両方を超えて、その世界にトリップさせられる。  松浦弥太郎が背表紙にコメントを寄せていることから「丁寧な暮らし」的な作品を想起する人もいるかもしれない。確かにそういった側面はありつつも、人生に影を差すような出来事が何度か差し込まれる。しかも、その内容が「カフェにおける群像劇」という主題からするとハードな内容で驚いた。戦後まもないという時代設定が影響しているのだろうが、こうしたところに日本の作家と異なり、海外文学を読む醍醐味があると言えるだろう。  前作『野原』に近いアプローチで、カフェを訪れるさまざまな人物を描きながら、そのカフェがある市場全体へと視野を広げていく筆致が見事。プロレスラー、飲んだくれ、カフェのバイト、向かいの肉屋さんなど、本当にいろんな人がいて、それぞれの人生を生きている。当たり前の事実なのだが、それを物語として立体的に見せてくれるからこそ読んでて楽しい。  ギミックとして興味深かったのは、音楽のアルバムにおけるインタールードよろしく合間に挟まれるマダム同士の井戸端会議だ。、未改行ベタうち、鉤括弧もなく、2人の会話がつらつらと書かれているのだが、これが物語に対していいスパイスとなっている。ともすれば平坦になりがちな「カフェでの日常」の描写に対して、文体のユニークさで起伏をつけている。  さらにそんな何気ない日常から著者は人生の本質と思えることを抽出し、鋭くクリティカルな言葉として小説にねじ込んでいる。特に人生を俯瞰したような格言めいた言葉の数々にくらった。ビジネス書の格言等は忌避しているが、こうして小説の中で生きている登場人物、つまり親近感を抱ける存在の口から語られるからこそ響くものがある。主人公がアラフォーであり、自分のビジネスにストラグルしている姿に自分を重ねたことも大きいのだが。部分的に読んでも刺さらないかもしれないが、いくつか引用しておく。 父がいつも言ってたのを憶えてる。振り返るな、人生はお前の前にあるんだって。でもいまとなっては未来より過去のほうがずっと長いじゃない。もうなんにもないのに、前を見てどうするのよ? ときどき遅くまでベッドから出ずにほかの部屋からの物音を聞いていると、気づかないうちに人生は自分の脇を通り過ぎてしまったのではないかという疑念に囚われた。自分に残されたものはこの世にもうなにひとつないのでは、と。
  • 2026年8月8日
    THE CROWD──ele-king presents HIP HOP JAPAN
    エレキングによる日本のヒップホップ特集号が久しぶりにリリース。ヒップホップ専門誌がない中で、各雑誌が定期的に特集を組んでくれるわけだが、今回も充実した内容で読み応えがあった。  巻頭インタビューは舐達麻のBADSAIKUSH。別のヒップホップ雑誌『BLUEPRINT』でも彼が表紙を飾っており、近年リリースのない中でも、注目されていることが伺える。久しぶりに彼自身の言葉で現状を知ることができて興味深かった。特に印象的だったのが、家族、とりわけ子どもとの時間を大切にしているという話。彼のようなストリート上がりのラッパーが、それを率直に語れる状況そのものに社会の変化を感じた。その理由も至極納得できるもので、日々育児をする中では、どうしても煮詰まって面倒だと感じてしまう瞬間があるわけだが、この時間も永遠に続くものではないという現実を踏まえると、しっかり向き合っていきたいと思わされた。  さらにBADSAIKUSHがInstagramのストーリーに投稿した内容を起点にインタビューが展開されていた点にも時代を感じた。ラッパーたちがもっとも気軽にポストしているだろうSNSのフォーマットだからこそ、そこから彼の興味の本質に迫ろうとするジャーナリズムを感じた。5lack『花里舞』を聞いていたというエピソードは今のシーンのあり方に対する重要な示唆に映る。  全体的な特徴として、論考は抑えめで、現状のシーンについて対談形式で語るパートがその分増えている。紙媒体や活字離れが進み、ポッドキャストを含めて対談形式が隆盛している状況を踏まえての構成なのだろう。実際、対談はヒップホップと相性の良い語り口だと思う。論考になると客観的な視点や文体が求められるが、一人称の音楽であるヒップホップと必ずしも相性は良くない。一方、対談であれば、語り手のパーソナルな視点、意見が入り込むからこそ、言葉にアクチュアリティが生まれる。  今の日本のヒップホップは細分化が著しく進み、もはや一人ですべてを把握することは困難だ。だからこそ、ラッパーであれ、ライターであれ、リスナーであれ、自分が何に価値を置いているのかを明確にしなければ、語りに説得力を持たせることは難しい。それぞれの対談を読んでいくと、個々の視点を通して現在の細分化したシーンの流れを包括的に捉えられる内容になっている。  インタビューもそれぞれ興味深かった。つやちゃんによるReichiのインタビューは、『LIFE HISTORY MIXTAPE』以降を感じさせる社会学的なアプローチが垣間見えた。Reichiの「RAPSTAR CYPHER 2025」のバースは何回聞いても涙ぐんでしまうのだが、その背景を知ることができてよかった。また、目下最注目のプロデューサーであるYamieZimmerのインタビューは、自身もビートメイキングを手掛ける吉田雅史氏ならではの解像度で、彼のサウンドの奥深さの一端を知ることができた。あのサウンドの背景にDr.Dreがいることは、聞かないとわからないことだろう。(表紙のスペル、mが1つ多いので、もし二刷があれば修正して欲しい。)  そして、SpiderWebのインタビューは『DAWN』におけるYOKO SQUADのインタビューと同様に、彼らを現在のシーンにマッピングする意味でも重要な機会と言える。実態をなかなか掴みづらい彼らのスタイルの片鱗を知ることができた。他にもOMG、凸凹。へのインタビューでは、若い世代がいかにキャリアを形成しているか、具体的に語られていて興味深かった。インターネットがデフォルトの世代であり、その利点を生かしながらも、ネットに閉じない現場主義がコロナ禍を経て花開いている。  このとおり、いわゆるウェブで見かける定型的なインタビューではなく、ヒップホップの文脈を踏まえたハイコンテキストな内容が紙媒体として残っていくことは貴重である。  エレキングらしさを感じたのは、VOLOJZA、AIWABEATZ、没、CHIYORIによる座談会だった。ヒップホップはナラティブの音楽である一方、さまざまなジャンルを取り込み、新しい音を鳴らし続ける音楽でもある。クラブミュージックからのアプローチで、どういう音の上でラップをしていくのか。その過程についてプレイヤーたちがここまで言語化してくれていることがありがたい。今のKid Fresinoがオルタナという話題が出ていたが、その文脈でTohjiをどう見ているのかは聞いてみたいところである。  また、ラッパー自身による原稿が掲載されているのも新しい試みだ。しかも、valkneeと仙人掌という人選よ。インタビューを基に構成されることも多いラッパーによる原稿だが、2人の場合は自分自身の言葉で書いていることが伝わってきた。「ラッパーは何か言いたいなら曲で言え」という風潮はわからなくもないが、ラップで表現できないことも当然あるわけで、両者ともそれを踏まえた内容になっていた。  日本のヒップホップはバブルと言われているものの、各自が点として存在するだけではカルチャーとして残っていかない。だからこそ、本著のような雑誌やYouTubeなど、点と点を繋ぎ、線として捉えようとする試みに意味がある。その時代の空気が抽出され、後世に残していくことができるからだ。  そんなことを考えながら、自分でもZINEを作った。私がやっていることもまた、今の日本のヒップホップを点ではなく線として残していくための小さな試みである。弊ZINEを読んだ方は、ぜひ本著も合わせて読んでみてほしい。二つを行き来することで、現在の日本のヒップホップをより立体的に捉えられるはず…という宣伝で終わらせていただきます。
  • 2026年8月7日
    菊地成孔の粋な夜電波 シーズン13-16 ラストランと♂ティアラ通信篇
    著者が旧Twitterと意識的に距離を取ってきた中で、とうとう現Xに飲み込まれ、暴れまくっている様子を見て、ずっと取っておいた最終巻を手に取った。同じ内容だとしても、X上の言葉と、ラジオで話す言葉はまったく異なる印象を受けるのだな、という当たり前の事実に気づいたのだった。  過去作はすべてKindleで買ってきたのだが、いつのまにか販売休止となっている。手元にあるKindleでは読むことができて安心したものの、いつ引き上げられるかわからないなとも思う。本著だけ出版社が変更になり、Kindleになるのをずーっと待っていたのだが、一向にリリースされないので観念して紙で購入したのだった。  それはさておき、本著ではシーズン13〜16ということで、私がリアルタイムで聞いていたエピソードがいくつも収録されていた。毎シーズンごとに番組冒頭の口上用にBGMが選ばれ、それを毎週聞いていたこともあり、その曲をストリーミングサービスで再生した瞬間に当時の記憶がフラッシュバックした。音楽を聞きながら読むことでセルフラジオ状態になり、読書体験として興味深かった。  10年弱前の放送が収録されているにも関わらず、タイムリーな内容が多く驚く。(帯のコメント!!!)トランプがアメリカ大統領であること、東浩紀との初邂逅、AIの台頭、音楽におけるラティーノの活躍など、今とシンクロする内容や、先見の明は鋭さはあいかわらずである。なかでも平野歩選手が好きなラッパーが誰なのか?という話題に言及していて、流石の嗅覚すぎる。  構成作家を置かず、セルフプロデュースで、毎週のように特集を企画し、選曲する。ときにはコント台本まで書いたりする、そのバイタリティに感服する。当時50代だったことにも驚きつつ、10年経った今、そのエネルギーがSNS上での不毛と言えるレスバに、吸い取られている現実がとにかく悲しい。おそらく多くのファンは「やっぱそうなっちゃったか…」と遠い目になるしかない。一方で、たいして知りもしないのに「菊地成孔はどうのこうの」としたり顔で綴っているポストを見るだけでムカついてしまう。そんなXのアルゴリズムの勝利とも言える状況にも辟易する。  タイトルに掲げられているとおり、最終シーズンに突如として盛り上がったKing & Princeを取り上げたエピソードが多く採用されている。これはKing & Princeのファン(総称ティアラ)による売上を狙ったものらしいのだが、巻末で著者も触れているとおり、その分だけ落としてしまったエピソードがあると思うと悔やまれる。たとえば、韓流最高会議は歴史的にみて重要な資料であることは間違いないからだ。  しかも、King & Princeのうち、本著で言及されていたメンバーは旧ジャニーズを抜けて、Number_i としてのびのびと活動している。キンプリに対する高評価を歴史に残す意味がないとは言い切れないものの、さすがにちょっと多い。ただ、今のNumber_iに対する音楽的、ひいては批評的な見立てはぜひ聞いてみたいところであり、番組が終わってしまったことが改めて残念に思える。  最終シーズンの終盤は、番組が終わるのが悲しすぎて聞いていなかったので、今回初めてどんな内容だったのか知ったのだが、想像以上にエモーショナルだった。ニヒリスティックな著者ではあるが、8年間毎週エネルギーを注いできた番組が唐突に失われることを受け止めている様子から、間接的に痛みや悲しみが伝わってきた。  ネットの影響力がここまで大きくなく、まだまだラジオの力が健在だった頃、そこで果たした役割についても振り返る機会になった。期せずして今回、熊本地震の発生に伴って、著者が「快涙と快眠を導くため」ということでYouTubeでプレイリストを提供しており、音楽の力を信じている著者ならではのアプローチだなと感じた。(レスバとトレードオフと考えると代償がデカすぎる気もするが。。。)  その1つ目のプレイリストの最後にセレクトされている宮沢昭『野百合』からセレクトされた「Beyond the Flames」があまりにも凄すぎて。。。日本の音楽でこんな美しい曲、久しぶりに聞いたし、著者のアーカイブの懐の深さに恐れ慄いた。  これに象徴されるように著者の選曲する力は並大抵のものではなく、この番組で知った音楽の数々は自分の中で大きな財産となっている。音楽に貴賎を設けず、かっこいいかどうかの審美眼を常に携えて選んでいることが改めてわかった。ストリーミングサービスとYouTubeを駆使すれば、ほぼすべての音源を聞くことが可能であり、それだけで楽しい。  特に旧譜が中心のジャズアティチュード、ソウルBAR<菊>で紹介されていた音楽の数々は古びないエバーグリーンな作品の数々を著者が紹介してくれているから貴重な財産。巻末についている番組プレイリストを基に色々聞いていきたい。そして、今回聞いてぶち上がった曲たちを紹介して終わりにしたいと思います。はー、復活しないかな。(m年ぶりn回目)
  • 2026年7月31日
    未来
    未来
    美玉ラジオで紹介されていて、それを聞きながらブックオフをぶらついていたら、偶然にも目の前に本著があった。そんな巡り合わせで購入したまま積んでいたのだが、ここ数年は「Summer Reading」に乗っかり、夏に鈍器本を読むのが恒例になっており、満を持して500ページ超の本著に挑んだ。現代的なテーマをこれでもかと盛り込みながら、それらをエンターテインメントとして見事に昇華した一冊だった。  著者は前作『パワー』が世界的なベストセラーとなり、そちらで知っている人も多いだろう。訳者あとがきによると、マーガレット・アトウッドの弟子筋にあたるらしい。本著は終末SFという王道の枠組みを用いながら、「世界を支配するビッグテック企業のCEOたちが急に姿を消したら社会はどうなるのか」という思考実験を起点にしている。この設定が非常に新鮮だった。しかも舞台は限りなく近未来であるため、SFでありながら現実の延長線上として読めるリアリティがある。テックに関心のある人なら、とりわけ引き込まれるだろう。  主人公はサバイバル系YouTuberとビッグテック企業の秘書という二人。冒頭で謎めいた激しいアクションが描かれ、その出来事を起点に、終末世界をどう生き延びるのかが多角的な視点から語られていく。  印象的だったのは、終末論を思想的に支えるソドムとアブラハムをめぐるモチーフだ。旧約聖書を下敷きにしているのだが、神話は毎回読んでもなかなか頭に入ってこないのだが、比較的理解しやすかった。それは複数のテーマに重ねながら繰り返し描かれるため、寓話として自然に読み解くことができたからだろう。  なかでも表紙に描かれた「キツネ」と「ウサギ」は、本著を象徴する重要なモチーフである。狩りをしながら移動していたキツネだった人類が、一か所(都市)に定住するウサギへと変化してしまった。そんな比喩を通じて現代社会を読み解いていく。その停滞こそが世界を滅ぼす根源だとするラディカルな視点に、環境問題や資本主義への批判が接続されていく構成が見事だった。それは現在の加速度的な資本主義の浸透に対するカウンターでもあり同時代性があった。  物語全体にインターネット、SNS、AIを中心としたテクノロジーに対する懐疑的な視線が投げかけられており、フィールする内容が多かった。ネット上で机上の空論を交わし、何かを成し遂げた気になっていても、現実は何一つ変わっていないことはよくあることだ。そこから抜け出すには身体を伴った行動が必要であり、その先には現実世界そのものの尊さがある。そんなメッセージが胸に響いた。  物語のギミックが豊富で、500ページを超える長さにもかかわらず最後まで飽きさせない。掲示板形式の書き込みが随所に挟まれる構成が効果的だし、終盤にはどんでん返しが何度も繰り広げられ、読んでいてハラハラした。複雑な人間関係のなかで、それぞれの思惑が絡み合いながら社会が変化していく様子は読み応え十分だった。その展開は計算されているというよりも、未来の予見不可能性を物語に組み込んでいるようだ。さまざまな出来事や個人の選択が少しずつかみ合って社会は変化していく。つまり「一人一人の行動変容こそが未来を変えていくのである」というメッセージだと受け取った。まさにONE PERSON ONE POWER。  未来という言葉には期待と不安が常に同居している。本著はその両極を振り子のように行き来しながら、私たちは何を拠り所にこれから生きていけばいいのか問うてくる。目先の利益を利己的に目指していくような現代だからこそ、誰のために、何のために生きていくのかについて、考えさせてくれる小説だった。
  • 2026年7月26日
    世界一おもしろい現代ヒップホップ入門
    日本で出版されるヒップホップ関連本は可能な限り読んでいるので、本著も読んだ。YouTuberが書籍を出版することに時代を感じるし、著者のヒップホップに対する考えも伝わってきて興味深かった。  著者はYouTuberとして、ヒップホップに関する解説動画を中心に、インタビューなども含めて幅広く活動している。本書はヒップホップ入門書として、アメリカにおけるヒップホップの誕生から現在の流行までを、時系列に沿ってこのカルチャーが発展してきた歴史を解説している。  世間全体の空気として、YouTuberをナメてかかる風潮があるし、タイトルもボケてきているので、正直なところ内容には不安があったが、それは杞憂だった。想像以上に骨太な内容で、自分の穿った見方を反省した。  正直ヒップホップの歴史を知るだけなら、インターネット、生成AIなどを駆使していくらでも勉学べる。そんな時代に、本という限られたページ数の媒体でヒップホップについて書く意味があるとすれば、それは切り口に他ならない。ヒップホップの歴史は約50年にわたり、背景まで含めれば膨大な出来事が積み重なっている。著者はそれらを独自の視点で整理しており、これまで読んだヒップホップの歴史本とは一味違うフレッシュな視座を感じた。  たとえば、ファッションとの接続が挙げられる。ヒップホップとファッションが切っても切れない関係にあることは本書でも繰り返し語られるが、歴史を語る際には意外と見落とされがちな論点でもある。YouTuberという間口の広い仕事だからこそ拾えた視点なのだろう。なかでもFUBUには懐かしさを覚えた。略称の意味を今回初めて知ったし、当時まわりにいた大阪のヤンキーたちがこぞってFUBUを着ていたこともレミニス。インターネット以前から、ファッションを通じてヒップホップがグローバルに影響を与えていたのだと、あらためて考えさせられた。  また、時間軸だけでなく場所の軸で整理している点も優れている。アメリカのヒップホップを聞くとき、ざっくり東西南といったイメージで捉えてはいるだけだったが、本著では具体的な地名だけでなく、その相対的な位置関係や規模、街の歴史や空気感まで説明されており理解が深まった。ヒップホップの音楽的な側面だけでなく、社会背景まで噛み砕いてくれるので、本を通じてヒップホップを知りたい、という知的好奇心の強い読者にとっては、入門編として十分に機能するはずだ。  創世記から2020年代までを一気にたどることで、ヒップホップという音楽がいかに豊かな表現形式であるかを、あらためて思い知らされる。既に歴史を知っている古参リスナーにとっても今読むことの醍醐味はここにある。リアルとフェイクをめぐる価値観の変遷や、「何がヒップホップなのか」という定義の揺れも、「歴史」という軸があるからこそ、よりいっそう興味深く映った。  ヒップホップのオーセンティシティを巡る議論の健全さを主張している点は納得した。常に何がリアルなのかを問い続けることで、その真価が進化してきた歴史を知ることができたし、伝統と革新がせめぎ合い、これほど音楽性と思想性が更新されていく音楽ジャンルは他にない。だからこそ、自分がいまもなおヒップホップに惹かれ続けているのだと気づかされた。  本著の中で、もっとも読み応えがあったのは、ヒップホップのアンビバレントな側面に関する著者の考え方だった。YouTuberとして活動している以上、いかに間口を広くするかは重要であり、その必要性を著者はよく理解している。一方で、ヒップホップへの深い愛情も伝わってきて、その狭間でストラグルしていることがうかがえる。終盤の日本語ラップの解説や、みのミュージックとの対談は、アメリカ編の情報量や洞察の深さと比べるとやや見劣りするのは否めない。だが、それもより広い層にリーチし、ヒップホップを理解する入口に立ってほしいという思いがあるからこそのアプローチなのだろう。  若い頃なら「これはセルアウトだ!」と大きな声で言っていたかもしれない。しかし、日本においてヒップホップの人気が実際に広がり、その結果としてメジャーからアングラまで、恩恵を受ける状況がある今、進んで「ゲートドラッグ」になろうとする著者の勇気と姿勢を、素直に応援したい気持ちになった。  次は2010年代のトラップ以降の細分化されていくアメリカのヒップホップを体系的にまとめた、著者の得意分野かつ専門性の高い内容の本を読んでみたい。(YouTubeチャンネル見ろやって話かもしれないけれども。)
  • 2026年7月21日
    翻訳する私
    翻訳する私
    新刊が出るたびに必ず買う作家の一人であるジュンパ・ラヒリの最新作。今回はエッセイの枠を超え、翻訳という営みを多角的に掘り下げた、骨太な論考集だった。  近年の著者はイタリア語の習得をライフワークとし、エッセイや小説をイタリア語で執筆してきた。本著では、そうした経験を踏まえながら英語にも立ち返り、複数の言語の間で生きることを深く考察している。移民二世である著者は、幼い頃からベンガル語で考えたことを英語へ変換するプロセスを自然に経験してきたという。複数の言語を身につけた人だからこそ見える、それぞれの言語でしか表現できないニュアンスについての考察は、どれも刺激的だった。  『変身物語』におけるナルキッソスとエコーの話と翻訳のアナロジーは著者の翻訳論の肝である。ギリシャ神話を抽象化して、自身の論理を築き上げていく様は学者さながらだ。神話に詳しくない読者にも伝わるよう丁寧に説明され、さらに繰り返し参照されることで、その比喩の説得力が増していた。  イタリア語への深い愛情が随所から伝わる一方で、イタリア社会ではなお「外様」として見られることへの戸惑いも率直に綴られている。多様なバックグラウンドを持つ人々が英語を共通言語として生きるアメリカとは対照的に、イタリアは画一性が高いからこそ、著者に対して「なぜイタリア語なのか?」と繰り返し問われることに疲れているようだった。  翻訳は生成AIの普及によって真っ先に代替される仕事として語られがちだ。しかし、実際の翻訳プロセスや思考過程について読んでいると、AIによる翻訳でどこまでフォロー可能なのかと思わされるほど、プロフェッショナルな仕事だった。コンテキストだけではなく、言葉のリズム、語同士の響き合い、一冊全体の構造まで見渡しながら訳文を組み立てていく。その徹底した仕事ぶりには圧倒された。AIが翻訳を大きく変えることは間違いないとしても、仕事のディテールを知らないまま「AIで代替できる」と決めつけることの危うさも感じさせられた。  また、「翻訳は二次創作であり、創作より下位に位置する」という価値観に著者が強い怒りを示している点も印象深い。「作家としてアイデアが枯渇したから翻訳をしているのだろう」という偏見に対し、創作と翻訳を序列化する発想そのものを問い直していく。具体例を交えながら翻訳の創造性を論じ、「すべては模倣から始まる」というクリエイティブ論へと展開していく流れは、著者の創作哲学そのものを映し出しているようだった。  著者がイタリア語で執筆を始めたのは45歳の頃らしく、物事に遅いことなんてないなと思えた。他の言語能力を取得するモチベーションはAIの台頭に伴い減退する一方だったが、著者の言語に対するピュアな興味の抱き方を読んでいると、何かを学ぶことの醍醐味を思い出させてくれた。コスパ、タイパで物事を測っていては、人生は少しずつ味気がないものになっていくからこそ、学習意欲は大切にしたいと思えたし、英語をもう1度頑張るか、韓国語を新たに勉強しようかな。
  • 2026年7月10日
    イン・ザ・メガチャーチ
    色んな人からおすすめされていて、やっと読んだ。最近読んだ著者のエッセイで、アイドルオーディション番組に初期から関心を持ち、熱心に追いかけてきたことを知り、解像度の高い作品なのだろうと期待していたが、その想像を何倍も上回る怪作だった。  オーディション番組から誕生したアイドルを軸に、ある父親とその娘、彼らとは無関係な独身女性の三人を主軸に物語は展開していく。得意の群像劇によって、それぞれの立場からアイドルとの関わり方を描きながら、推しカルチャーについて立体的に批評するような小説となっている。  アイドルオーディションを題材にした作品と聞いていたので、アイドル本人やファンを中心とした物語だと勝手に想像していた。しかし、実際には、オーディションを仕掛ける側である中年男性の視点が大きな比重を占めている。しかも、敏腕アイドルプロデューサーではなく、ミドルエイジクライシスに苦しむ元コンテンツ担当の経理職のおじさんなのだ。この人物設定は、おそらく日経新聞夕刊での連載を前提としていたからこそ生まれたのだろうが、ここに朝井イズムがこれでもかと詰め込まれている。  著者の群像劇は、登場人物のペルソナの描き込みが作品の深みにダイレクトに寄与してきたわけだが、おじさんパートでは特に筆が乗っている印象だ。「独りで啜るインスタントの味噌汁」というパワーワード一発で、おじさんの孤独を表現している。さらには「脳みそを溶かす」「味噌玉」など、「みそ」を起点に物語のキーとなる展開を描いていくあたりは、さながらラッパーである。  自分自身がモロに中年男性なので、身に覚えのあるシーンが次々に現れて心苦しかった。意地悪に感じるほどのディテールの細かさは圧倒的だ。数年の社会人経験があるとはいえ、ここまでの解像度で中年サラリーマンの悲哀を書けるだなんて。人生が宙ぶらりんだった主人公が、水を得た魚のように仕事へ没頭し、若者たちと交流する中で失われた時間を取り戻すように主体性を回復していく姿は実に健気だ。そんな健気な気持ちが最後は裏目に出てしまうのだから切ない。その姿を見ていると、自分の将来について考えずにはいられないし、娘と過ごしている時間がいかに尊いものなのか、逆説的に気付かされた。  やりがいを超えた「生きがい」が本著のテーマの一つである。大量のコンテンツに囲まれて、可処分時間が足りないというエピソードは今や珍しくない。しかし、本著がフォーカスするのは可処分時間が余ってしまうことの恐怖である。その空白を埋めようと、仕事や趣味に生きがいを求める中年男女の姿は読んでいて苦しくなる。とりわけ、アイドルカルチャーで育まれた「信じる力」が陰謀論へと滑らかに接続され、全力でのめり込んでいく女性の描写は、近年の社会状況を思い起こさせるものがあった。  「メタからベタへ」も本著を貫く大きなテーマであろう。「視野」という言葉が繰り返し登場し、どのような距離感で物事と向き合うのかを問いかけてくる。ズームインして視野を狭めれば、夢中になれる一方で、他人からは痛々しく映ることもある。逆にズームアウトして俯瞰すれば、冷静ではいられるが、そこに熱量は生まれにくい。著者はどちらか一方を肯定するのではなく、両方を丁寧に描くことで、人生はそのバランスの上に成り立つことを示しているように思えた。  ただ、自分自身は今の社会状況だからこそ、冷笑へと流れがちな俯瞰的な態度よりも、視野を狭めてでも何かに熱中する姿勢を選びたい。「メタ視点を取り続け、考えているだけでは何も積み重ならない」という登場人物の言葉は、この作品の中でも特に胸に刺さった。  人を夢中にさせるためのマーケティング手法としての「物語」も本著の大きなテーマである。タイトルは、その手法を宗教勧誘に応用するチャーチマーケティングからインスパイアされている。マーケティングを学ぶために留学する同級生と、そのマーケティングの餌食になっている主人公の女子大学生を終盤で対比させる構成は強烈だった。なぜならマーケティングの手法と、その実践を対比させているからだ。しかし、自分が渦中にいるとしてもなお、自分が幸せであればそれでいいという主体性を取り戻した女子学生の姿を見ていると、周囲に流されて生きることと、自ら選んで何かに夢中になることのどちらが人間らしいのかを考えさせられる。その一方で、主体性のないまま別の「物語」に巻き込まれていく中年女性の存在が鮮やかな対比となり、このテーマをより際立たせていた。  本著がチャーチマーケティングを駆使した推しカルチャーの裏側をメタ的に描いた小説である。それが推しカルチャーサイドに受け止められているからこそ、本屋大賞を受賞し、ヒットしているのだろう。(実際、BMSG推しのパートナーも珍しく読みたいと言っていた。)主人公のように推しカルチャーにどっぷり浸っている人や、それを仕掛ける音楽事務所の人が本著を読んでどんな感想を抱くのか聞いてみたい。
  • 2026年7月6日
    ミルク・ブラッド・ヒート
    ミルク・ブラッド・ヒート
    リリース当時に見た表紙が印象的でいつか読もうと思っていたら、気づけば時が経ち、ブックオフで見かけてサルベージした。アメリカで暮らす女性の観点を中心にした短編の数々に魅了された。  フロリダ出身の作家によるデビュー作の短編集となる。11編を収録しており、それぞれ独立しているので、どこから読んでも楽しめる仕様となっている。  とにかくストーリーテリングが見事だ。短編ながらも「この先どうなるの?」とグイグイ引き込まれつつ、その背景にあるテーマについても描かれている。エンターテイメント性とメッセージが高いレベルで両立しているので、新世代として期待される理由がよくわかる。  表題作をはじめ、シスターフッドを扱った短編が印象的だった。ただ連帯を描くのではなく、その中にある複雑な関係性や感情の機微まで余すことなく描いているからこそリアリティがある。その背景には、黒人であり、女性であり、フロリダで育った著者自身の経験が色濃く反映された登場人物の存在があるのだろう。  個別の話をすれば、表題作では色を通じた語り口が素晴らしかった。冒頭で乳と血に関する強烈な展開があるのだが、単に物語の起伏を作るためのショッキングな演出ではなく、終盤でしっかりと物語に帰結していく構成力の巧みさに唸らされた。  中年男性として最も刺さったのは「天国を失って」だ。妻の癌が再発し、拠り所を失った男が、バーテンダーの女性や若い男性客との関係を通じて自分の立場を保とうとする。加齢に伴ってメタ認知が鈍っていく様子を、ここまで容赦なく描かれると精神的に堪えた。最近話題の俳優間によるパワハラ問題を彷彿としたし、自分も「おじさん」と呼ばれる年齢なので、その危うさを自覚していかなければならないと感じた。  「欠かせない体」は妊娠初期に出産を逡巡する女性が主人公。ネット、SNSの発展に伴い、妊娠、出産、育児に関して情報が溢れる時代だからこそ、必要以上の不安に苛まれる姿が現代的だった。情報過多で身動きが取れなくなる状況は出産に限らず、あらゆる場面に通じる普遍性がある。そして、主人公の妹のセリフは何かと重たくなる足取りを軽くしてくれる効果があった。 うん、そうしてみなよ?自分のやってること、みんながみんな、きちんと分かってると思う?  「骨の暦」では、放浪する母親と専業主婦という対極的存在を配置し、女性の主体性を問う挑戦的な内容だった。子どもを祖母に預け、世界を旅する母親が、専業主婦に対して「家で飼いならされるのは動物だけだよ。動物だって本当は嫌なはず。」と言い放つのは極論すぎる。しかし、その極端さゆえに、バランスが大事であることが伝わってきた。また、周囲と異なることで向けられる視線について、子ども目線の瑞々しい感性で描いており、自分の子どもの頃を思い出した。最後の話でも乳、血、熱というタイトルに挙がっているワードを回収する語り口が鮮やかだった。
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