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Yamada Keisuke
@afro108
乱読の地層。
  • 2025年8月23日
    さかだち日記
    さかだち日記
    ぶってえ本を連発で読んでいたので、古本屋でサルベージした本著を読んだ。『アマニタ・パンセリナ』を読んで、中島らものオモシロさに改めて気づいて古本屋で見たら買うようにしている。日記ということもあり、彼の生活の機微が伝わってきて興味深かった。  95年5月にアルコール依存症と躁うつ病で入院して、そこで断酒を決意。そこから一年後の96年5月〜98年4月までの日記となっている。(タイトルの「さかだち」は「酒断ち」を意味している。)作家、ラジオパーソナリティ、役者、バンドマンとマルチタレントとして多忙な時期を過ごしている頃の様子が伺える。バタやんというマネージャーと二人三脚で、仕事をこなす日々は退廃的なイメージとは裏腹であった。それだけに酒がいかに危ないか証明するような日記である。一度、連続飲酒が炸裂するシーンがあるのだが、そのときのタガの外れ方が尋常ではなくスリリングだった。  バブル崩壊後とはいえ、まだまだ日本は豊かだったのか、連載原稿のために海外旅行にバンバン行っているのが印象的だ。インターネット登場以前、紙媒体が持っていた情報の価値の高さに思いを馳せた。海外に行くと、やはりジャンキーの血がうずくのか、入手方法やそれをキメた感想などが書かれており、酒をやめている分、そこで発散するようにしていたのかもしれない。前述の酒のシーンに比べると、どれも穏やかなので、酒のようなハードドラッグが手軽に安く入手できるのに、大麻に対して異常に厳しい今の日本の状況は合理的には納得しづらいなと改めて感じた。そして同じことを著者も憂いていた。  冒頭とエンディングには野坂昭如との対談が掲載されている。冒頭は断酒について、エンディングはバイアグラについて。前者では、それぞれの断酒方法や酒をやめるまでの経緯などについて話しており日記の導入として機能しているのだが、問題は後者である。脈絡なく、二人がその場でバイアグラを飲む対談が載っており、丁々発止のやりとりを披露している。ただの露悪趣味の企画と思いきや、野坂がアメリカ論にリーチするあたりが油断ならない作家ならではの展開だった。小説、エッセイ、悩み相談など膨大な著作があるので、他のも少しずつ読んでいきたい。
  • 2025年8月23日
    さよなら未来
    夏の読書といえば、分厚い本を読みたい気持ちになる。そこで、ずっと置いてあった本著を読んだ。元WIRED編集長による、雑誌やウェブに掲載されていたエッセイ・評論集。五年分あるので500ページ超だが、記事の集積なので隙間時間で読み進めることができた。未来を考えるために過去や現在を見つめ直す、まさに温故知新の考えが詰まっていて興味深かった。  2012〜2017年という近過去は、2025年の現在からすると振り返られにくいタイミングであるが、だからこそ今読むと色々と気づきがある。テック雑誌の編集長として未来について語ることを要求されながらも、著者は未来を語る上での過去の必要性を問うていた。実際、未来のことを直接言及するよりも「過去にこういうことがあった」という視座から話が展開されていくことで説得力が増している。特に原発に関する論考は、十年以上が経ち歴史化しつつある今読むと改めて刺激的で、「あのとき何が起き、何を考えるべきだったのか」を突きつけられた感覚があった。  テック雑誌ということもあり、トピックは多岐にわたるなかで著者の引き出しの多さに驚かされた。編集長なので、一つのテーマについてどういうアプローチで雑誌を作るか、そのテーマの思索を深めているとはいえ、毎度フレッシュな視点を提供し続けることは並大抵のことではない。  なかでも著者が音楽好きということもあり、音楽に関する記事が豊富な点も特徴だ。ビジネスとしての音楽について論じたり、匿名ブログでブックオフの500円CDをレビューしていたりと切り口の幅に驚かされる。世代や音楽の趣味は異なるものの、読んでいて興味深いものばかりだった。たとえば、アイスランドの音楽シーンのエコシステムは、グローバル化の時代に読むと新鮮だし、K-Pop論は今日のグローバル・ポップな状況を予期したような内容となっていた。そして、近年の爆発的人気の拡大に伴い、ヒップホップ周辺で巻き起こるさまざまな事象にモヤモヤするわけだが、結局は著者のこの言葉に尽きるなと思える金言があった。 音楽好きは、音楽好きを敏感に察知する。音楽ファンが、アーティストのみならず、レコード会社なり、オンライン/オフライン問わずショップなり、新しいメディアやデジタルサーヴィスなりのなにに注視しているかと言えば、結局のところ「こいつら、ホントに音楽が好きなのかな?愛、あんのかな?」というところでしかない。  音楽に関しする内容の中でも、ソランジェとビヨンセがそれぞれ2016年にリリースしたアルバムに対するレビューに一番グッときた。特にソランジェのアルバムについて、その音像からしてエポックメイキングな内容で個人的にかなり好きなのだが、特にリリックの考察まで含めたアフリカ系アメリカンの現在地に関する考察が目から鱗だった。こういう記事を読むと、サブスクでひたすら新譜を右から左に聞きまくっているだけの音楽生活について考えさせられる。つまりは、アーティストが残した作品に対して、ちゃんと向き合うことがいかに必要で重要であるかということだ。  また、本著はクリエイティブ論としても読むことができる。テック雑誌といえば、テクノロジーの発展に対して過剰に期待して持ち上げそうなものの、そういうものとは意識的に距離を置いている。厭世感が漂う中で、クリエイティブに対してエンパワメントに溢れる言葉がふと現れる。そんなギャップがあるからこそ、読み手は著者の言葉を信頼し、活力を得られるのだろう。終盤、トランプが一回目の大統領選を制した際の「分断」をめぐる記事は、日本にもその波が訪れているからこそ、当時よりも迫るものがあった。「私たちは他山の石にできたはずなのでは?」と思ったりもするが、世界の潮流はそう簡単に変わるわけもない。未来をただ夢想するのではなく、現実や過去を直視しながら考えること。その重要性を改めて教えてくれる一冊であり、2025年の夏に読むにふさわしい読書だった。
  • 2025年8月21日
    【合本版】世界99 (集英社文芸単行本)
    夏の読書2025、第二弾。ぶってえ本を読みたいと思ってたら、Kindleのセールで合本版がポイント還元で実質半額になっていたので読んだ。村田沙耶香作品はいくつか読んできているが、集大成と思わず言いたくなるような強烈な小説だった。女性が日本で生きる困難さについて、アイロニーをこれでもかとねじ込んで煮詰めた末に出来上がった怪作とでも言えばいいのか。さらに、ジェントリフィケーションが物理的な場所だけではなく、私たちの心のうちにまで入りこんできている現状を描きだしていた。そんなことができるのは、なんでもありの最後の聖域である「小説」というフォーマットだからこそかもしれない。  主人公である空子の一生涯を軸に近未来を描く物語で、女性が経験するイベントや心情を丁寧に追いながら、男性社会の地獄と人間の差別心を徹底的に浮かび上がらせていく。前者については男性社会の最悪な部分を余すことなく列挙し、順番に詰め込んでるレベルで網羅的に取り上げられており、自分の振る舞いを改めて指摘されている気がした。感情移入しやすく、追体験ができるフィクションだからこそ描く意味がある。特に前半で空子が学生の頃に経験する性にまつわる描写の数々がきつい。中学生、高校生の女の子と付き合う大学生、社会人男性の気持ち悪さがここまで言語化されている小説はない 。「純愛」というか、そこに愛があれば成立するかのような言説があるが、権力勾配を利用した性搾取であることを突きつけていた。  後者については、特定の遺伝子を有した人間が差別される社会となっており、見た目でわからない「遺伝子」というファクターで差別が行われる怖さが存分に描かれている。外国人に対するヘイト感情が可視化された今読むと、人間の差別心が増長すると、なんでもやれてしまう怖さを感じた。また検査結果がすべてであり「根拠があれば何をやってもいい」という一種のファクト主義へのカウンターにもなっていた。  近未来要素としてはピョコルンという生き物が挙げられる。はじめは一種の愛玩動物として登場するのだが、物語が進むにつれて、その中心を担う存在となる。具体的には性別役割分担として、女性がこれまで担ってきた家事、出産、子どもの世話などを代行する都合のいい動物へと変化していくのだ。これまで担う側だった女性たちが解放されるわけだが、担う側から頼む側になったことで、自分たちの置かれていた非人道的とも言える立場を自覚すると同時に、辛さがわかるゆえに押し付けることの苦悩に苛まれる。ピョコルンは動物ということもあり、家畜に近い扱いだからこそ、人間サイドの残酷性が思いっきりぶつけられており辛い。この設定によって、日本社会において女性がいかに抑圧されているかを逆説的に強調することに成功していた。物語が進むにつれてピョコルンに女性の「負債」が移行していくことで、著者がリミッターを徐々に解除して、ドス黒い感情を広げていく様が圧巻だった。上巻の終わりのあまりに凄惨すぎるエンディングは言葉を失った。そのエンディングを受けても、人間は自分たちの都合を優先して生きていく、業が深い生き物なのだと言わんばりに厳しい仕打ちが待っており何も救いがない。  物語の軸としてペルソナに焦点を当てている。人は人間関係ごとにペルソナを使い分けている中で、本当の自分なんてどこにもいなくて、己の意志もない。誰かがいて、初めてそこで自分のペルソナが立ち上がるという描写が繰り返される。主人公は各ペルソナを「世界」と呼び、各ペルソナに番号を振っている。その一番後方にいる99番、つまり複数のペルソナを司る空っぽな人間だと自己認識しているペルソナを「世界99」と呼んでいるのだった。これは考察ブームを筆頭としたメタ視点に対するカウンターであり、いろんなものを客観視できたとしても、そこには己の残滓は何も残っていないという指摘に映る。さらに、いくらメタ視点をとっても、その外側には真の意味で客観視できる他人がいるのだから、という無限マトリョーシカ的な構造まで示唆されていた。『コンビニ人間』から一貫してアイデンティティの揺らぎに着目しているが、今回のペルソナの使い分けは、SNSでアカウントをクリック一つでスイッチする様を想起させるもので、より時代にフィットする形にアップデートしたものとなっていた。  専業主婦である自分の母親を「道具」と呼び、自分も便利な道具の連鎖の中にいることを自覚している。つまり、都合のいいように使われるだけの存在であり、そこから彼女は自由でありたいと思っているが、生きていくうえではそうも言ってられない。夫である明人との関係を評した以下ラインが象徴的だった。これらだけではなく、見た目を整えて、男に選ばれることを目指す気持ち悪さを手を替え品を替え表現していた。 明人の便利な生活と人生のための家電になること。その上で性欲処理もし、ゆくゆくは子宮を使って明人の子供を発生させること。私が捨てようと努力している未来は、母が生きてきた地獄でもあった。 自分を養うためだけに自分の奴隷になるか、家畜を飼うことで真の家畜になることはぎりぎりで免れながら、明人の人生と生活のための便利な家電になるか。私は家電を選んだ。  当たり障りがない、摩擦をなるべく起こさない人間を「クリーンな人」と呼び、自分の意見を主張することは暴言と同列で「汚い感情」として取り扱われる。クリーンな人は何も考えずに調和を乱さないように生き、面倒なことは遺伝子の異なるラロロリン人 a.k.a「恵まれた人」がやってくれる。意志がない人間がクリーンな世界を構築し、表向きは何も問題がないように取り繕っているが、その内実は面倒なことを他人に押し付けているだけという社会論が後半では展開されていた。小説だからこそできるラディカルなものだと思いつつ、投票率が50%程度なので、現実のアナロジーとも言えるだろう。  「死ねよ!」という言葉に代表されるように言葉遣いの乱暴さが目についた。しかし、これは単純に乱暴なだけではなく、その手の言葉が「己を守る一つの武器なのだ」という指摘がなされておりハッとした。自分自身もよく言っていたし、ダウンタウンの浜田が昔よく言っていた「死ねばいいのに」にも笑っていた。暴力性が社会で徐々に剥ぎ取られていく中で、その言葉自体を誰もが公に発することが難しい状況となった。しかし、世の中には「死ねよ!」という言葉でしか抗えないほど気分が悪くなることがあり、その暴力性を弱者からも取り上げて、感情の発露を封じてしまうのはどうなんですか?と問うていた。これは小説家という言葉を仕事にしている人だからこその視点だし、暴力的な言葉が世の中に蔓延ることは必ずしも賞賛すべきことではないとわかりつつも、声なきものの声まで奪っていないか?という指摘はもっともだ。  各論についてだーっと書いてしまったが、日本社会の嫌な部分をこれだけ集めてきて濃縮しながら物語として構築するスキルは圧巻である。この小説を読み終えて思い出したのは百田尚樹のクソ発言だ。発言の中身が最悪であることは当然だが、あの発言はSFひいては小説全体に対する侮辱でもあったのだと本著を読むと気付かされる。百田尚樹から仕掛けられたビーフに対するアンサーとして、これ以上のものはないだろう。そして、ラッパーのように現役の小説家でGOATをあげろといわれれば、村田沙耶香の他にいない。それくらいの超大作だった。
  • 2025年8月9日
    派遣者たち
    派遣者たち
    小説家の中で、リリースのたびに迷わず買う数少ない作家、キム・チョヨプ。本著は長編ということで楽しみにしていたが、今回も期待を裏切らないオモシロさだった。「共生」がテーマであり、今の時代に読むと、ことさら胸に沁み入るものがあった。  舞台は地球が荒廃し、人類が地下で暮らすクラシカルなポストアポカリプス的世界。地上は、菌をモチーフにした異生物「氾濫体」に支配されており、選ばれし「派遣者」が地上に出て調査や探索を行う。主人公は、自分の脳内に存在するオルターエゴのような存在と関わりながら任務を進める。当初は生成AIによるCopilotのように、こちらの利益を最大化するために相手を利用する関係だったところから、物語が進むにつれてジャンプ漫画のような熱いバディへと変化していく。(シャーマンキングとか?たとえが古すぎて終わっている…)  氾濫体に侵食されると、人間は錯乱状態に陥り、やがて死に至るため敵視されている。ゆえに氾濫体を絶対悪として描き、その異生物から世界を奪還するのだ!という勧善懲悪な構図を想像するかもしれないが、著者はそんな単純な物語にはしない。人間と氾濫体の狭間の存在について、さまざまなグラデーションで描き出し、世界の豊かさと難しさを同時に表現している。価値観どころか姿、形も全く異なる生物同士が協調して、どうすれば同じ世界で生きていけるか模索する。メッセージ性を失わず、ダイナミックな物語としてドライブさせながら描き切るその筆致がキム・チョヨプらしい。  個人的ハイライトは、スーサイドスクアッドならぬスーサイドトリオによる過酷なミッションだ。それぞれが命をかける事情を抱えつつ、協力し、ときに衝突しながら、探究心で物事を明らかにしようとする姿は、それぞれの動機があるとはいえ、サイエンスそのものだった。終盤にかけては、主人公の善悪の揺らぎと儚い恋心が重なり、怒涛のクライマックスへと向かっていく。著者がストーリーテラーとして、よりポップでエンタメ性の高いステージに突入していることがよくわかった。  物語の背景にあるのは、人間を「さまざまな生物の集合体」として捉える視点である。私たちの体内には無数の菌や微生物が共生している。つまり、自分と関係ないと思っていても、いつのまにか関係している、その象徴としての菌は「共生」というテーマで物語を紡ぐ場合、これ以上に適当なモチーフはないだろう。主人公の親代わりの存在であるジャスワンという登場人物の言葉はシンプルにそのテーマを表現していた。 大事なのはね、自分が自分だけで成り立ってるって幻想を捨てること。そしたら、可能性は無限だよ  日本でも、幻想に溺れている人々がたくさんいることが可視化されてしまった今、誰かと共に生きることを考える上では、うってつけの小説だ。
  • 2025年8月5日
    サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍 (白夜ライブラリー001)
    著者の本は見かけるたびに読んでおり、その中でもあまり見かけたことのない一冊をゆとぴやぶっくすで発見。積んであったので読んだ。著者の見識の広さはもはや言うまでもないが、そこに格闘技まで含まれていることを知ったのは『あなたの前の彼女だって、むかしはヒョードルだのミルコだの言っていた筈だ』を読んだときだった。なぜ今読んだかといえば『1984年のUWF』『2000年の桜庭和志』を読んで下地が整ったからである。そのおかげで、著者のバイブスをふんだんに味わうことができた。  副題にあるとおり、著者が神経病を患ったことも影響してか、格闘技から五年ほど離れていた中、著者の格闘技語りに目をつけた編集者が執筆を打診。そして、2004年大晦日のPRIDE観戦をきっかけに「解凍」され、格闘技語りを再開するという背景で書かれた本となっている。前半はインターネット掲示板(!)で著者が書いていた格闘批評、後半はPRIDEを含め実際に会場で観戦したライブレポート&論考という構成だ。  「成孔節」という文体が明確に存在し、こと批評において、これだけオリジナリティを出せる人が今どれだけいるのだろうかと、いつもどおり打ちのめされた。2000年代前半で、著者が比較的若いこともあいまってノリノリで今読むとオモシロい。(それゆえにキワドイ発言も多いのだが…)特に注釈量が異常で、なおかつその注釈では収まり切らないほどに言いたいことがあるようで、紙面の都合で割愛されている見立てがたくさんあった。また、まえがきのあまりの見事さに「粋な夜電波」の口上をレミニス…復活しないのだろうか。(定期n回目)  プロレス、格闘技と与太話は相性がよく、なんなら与太話がしたくて見ているところだってあるわけだが、その相性の良さが抜群に発揮されており、他のジャンルを語るときよりも好き勝手に、縦横無尽に語っている印象を持った。その中心となっているのはPRIDE語りである。ピーク期の大晦日でカードの並びがエグい。今では定番となった「大晦日に判定、駄目だよ。KOじゃなきゃ!」が五味から発せられたり、ノゲイラ vs ヒョードルがあったり。特にミルコ、シウバに対する批評的な見方が興味深かった。  『1984年のUWF』は佐山史観であったが、著者はどちらかといえば前田史観でUWFを捉えている。本著を読んだことで両方の視座を得ることができた点は収穫だった。『1984年〜』では総合格闘技の始祖としての佐山を神聖化していたが、佐山は佐山で彼なりのきな臭さがあることを知った。そして、前田の煮え切らなさを父殺しの神話でアナライズしている様が見事でうなりまくった。さらに終盤にかけてHERO'sで前田が前線復帰。HERO'sのポジションを考察しながら、その崩壊を予想しつつ、それでも前田の孤独を受け入れるというエモい文章は批評の中でも抑えきれない前田への愛に溢れていた。  上記の前田に関する言論然り、日本ではプロレスが発展していく流れで、総合格闘技が誕生してきたわけだが、その歴史を踏まえているかどうかは総合格闘技に対する見方に違いが出ることに気付かされた。たとえば、RIZINにおける皇治の色物カードはガチの人からすればノイズでしかないだろう。しかし、プロレス的な思考があれば、その戦いから導き出されるストーリーや意味を紐解こうとする。そこにロマンを感じるかどうか。今の社会情勢からすると「正しさ」を希求するあまりに「ガチ」が正義となりがちだが、そこを迂回できる余裕がほしいものだ。  文庫解説でも触れられているように、一種の文明論にまでリーチしているあたり、著者の慧眼に打ちのめされた。なかでも世界を「途中から見る連続テレビドラマ」であるとする人生論からプロレス論へ展開していく流れは最高だった。  格闘技はツイッターを中心とした言論空間がシーンの中心なので、こういうまとまった批評を読む機会はほとんどない。(強いていうなら青木のnoteか)だからこそ昔のものだとしても、こういった本を読むことで自分の目や見識を養っていきたい。
  • 2025年8月5日
    対馬の海に沈む
    対馬の海に沈む
    2024年の開高健ノンフィクション大賞受賞作。ずっと気になっていたが、Kindleでセールになっていたのを機に読んだ。導入からエンディングまで、まるで優れた推理小説を読んでいるかのようで、ページをめくる手が止まらなかった。離島で起きた事件から日本社会の歪みを浮き彫りにしていく著者の手腕は圧巻だった。  舞台は長崎県・対馬。JA対馬の従業員が不可解な死を遂げる。彼は優秀な営業マンとして知られていたが、その裏には金融商品をめぐる不正があった…そんなイントロダクションから物語は始まる。この時点で面白いことは確定しているかのようで、著者はジャーナリストとして粘り強く取材を重ね、事件の全貌を少しずつ明らかにしていく。その過程が丁寧に描かれており、読者は著者とともに謎を解き明かしていく感覚を味わえる。  驚かされたのは、「農業」という素朴なイメージとは裏腹に、JAが共済をはじめとした金融商品の販売において従業員に過大なノルマを課していることだ。そのノルマが不正の温床となり、従業員を追い詰める。JAは想像以上に複雑な組織構造で、パッと読んで理解できるような代物ではない。しかし、著者はもともとJAの媒体出身というバックグラウンドを生かし、平易な言葉で懇切丁寧に解きほぐしてくれる。そして、従来型の日本的組織がいかにして歪んだモンスターを生み出してしまったのかを明らかにしていた。  本著が圧巻なのは、わかりやすい悪党について取材で徹底的にあきらかにしたあと、その過程で読者がうっすらと思っていた疑問について、最後の最後で刺してくところである。旧態依然とした日本社会の縮図のような寓話的エンディングに、狐につままれたような気持ちになった。持ちつ持たれつの互助社会は利害関係が一致しているときだけ機能し、問題が起これば一人に責任を押し付けて「トカゲのしっぽ切り」で終わらせて、全員は知らん顔していることが怖い。しかも、それが都心部で起こるならまだしも、人口がそれほど多くない対馬のような比較的閉鎖空間で起こっていることが恐ろしい。閉鎖空間ゆえに誰も見てないし、気づかないから大丈夫でしょ的なマインドなのだろうか。そんな状況と、初期の段階から不正を告発していた人物の人生がオーバーラップして胸を締めつけられるようだった。  組織には目に見えないルールや空気があり、それにうまく馴染めるかどうかが、生き残るための重要なスキルになる。本著は、日本人が集団になるとどうしても顔を出す「村社会」の性質が、強烈な形で表れた様子を克明に描いている。読んでいると、自分自身が組織でどう立ち振る舞うべきかを考えずにはいられなかった。
  • 2025年7月27日
    今日もよく生きた
    今日もよく生きた
    先日、common houseで行われている植本一子さんの写真展を見に行った際、著者の佐久間さんがたまたまいらして、その場でサインしていただけるとのことで本著を購入した。「こんにちは未来」での若林氏との丁々発止のやりとりをいつも楽しんでいるのだが、その背景にある佐久間さんの今の考え方がより深く伝わってくる内容で興味深く読んだ。  副題どおりNY在住の佐久間さんが自分の愛で方=セルフケア、セルフラブについて、あますところなく綴っている。日本では「ご自愛」という言葉が普及し、自分に対するケアを大切にするムードが醸成されつつあるが、欧米ではさらに進んでいて、セラピーにかかることが日常的だ。佐久間さんがセラピーで自己分析した内容に基づいて、セルフケアへとつなげていく過程をみると、セラピーを通じて自分を客体化していくことで楽になる部分があることに気付かされる。自分自身で客体化できているつもりでも、自然とブレーキを踏んでしまっている部分が少なからずあり、言語化を通じて内なる感情を引き出し、クリアにしていくことの有用性を感じた。  特に印象に残ったのは、NYでサバイブするために「強い存在」として自分を位置づけてきた佐久間さんが、年齢を重ねるにつれて弱い部分も含めて自己開示できるようになっていく過程だ。アクティビストとしての精力的な活動の裏側で、文章だからこそ開示できる深く繊細な部分がある。終盤にかけてはセクシャリティ、子どもを産むこと、父の死といったパーソナルなテーマが次々と語られ、数々のストラグルに対して「今日もよく生きた!」とタイトルそのままの言葉を送りたくなった。  「How are you?」 カルチャーに関する論考も興味深い。日本では「調子どう?」から会話が始まるケースは少ないわけだが、英会話教室に行くと、毎回のように必ず「How are you?」と聞かれる。そのときに「調子よくないと言うのもアレか…」と思って、なんとなく「I’m good」と毎回答えていた。実際の自分の感情と乖離した表現を口にすることのモヤモヤがあったのだが、このやり取りは相手を慮ったケアの一種だから、素直に表現すればいいのだと思えた。  また、日本の「バチ」の概念が自責の念を強める遠因となり、呪いのように心に忍び寄るという指摘も鋭い。なんでもかんでも「自己責任」で結論づけてしまう社会的な圧力に抗うためのセルフケアという文脈は、今を生きる多くの人にとって必要なことだろう。  内容としては自己啓発に近い部分があるが、単なる方法論ではなく、その背景にある状況や考えがセットで書かれているため、ケーススタディとして読むことができる。人生の先輩による指南とでもいうべきか「ここに石があるから気をつけな」と先回りして教えてくれるようだ。たとえば、先日の選挙結果をふまえると、コロナ禍における誤情報による「別れ」が辛かったという話は、これから日本でも現実味を帯びてくるのかもしれない。  極度の天邪鬼体質なので、自己啓発的なものを敬遠しがちなところがある。それは押し付けがましく、資本主義社会において、とにかく利口に生きていくためのライフハック的な要素が強いからだ。しかし、本著では佐久間さんが色々な情報を見聞きしながら、自分の中で生まれた考え方について、人生をご機嫌に過ごすための「人生の道具箱」として整備しているから参考になった。一次情報を確認して自分ごとにしていく作業は、真偽不明な情報が飛び交う中では今後ますます必要かつ重要な能力になってくるだろう。何かに触れたとき、自分がどう思うか、そしてどんな人生を生きていくのか、主体性を取り戻すためには格好の一冊だ。
  • 2025年7月27日
    生きる力が湧いてくる
    おすすめしていただいたので読んだ。前情報を全く入れないまま読んだ結果、一人の女性の壮大な人生に巻き込まれていくような読書体験で驚いた。「世の中には色んな人がいる」と口で言うのは簡単だが、壮絶な環境において、それでも人生を続けていく覚悟が本著にはたっぷり詰まっていた。  著者は編集者を生業としているようで、文芸誌も自身で発行するようなバイタリティのある肩書きとは裏腹に、母を自死で亡くし、その後に父が病で他界、さらに兄を自死で亡くすという壮絶すぎる半生を過ごしたらしく、自分の過去から現在まで、あまりにも赤裸々なエッセイ、私小説の数々に読む手は止まらなかった。  フィクションではよく描かれる「天涯孤独な人」が、実際に存在し、ただ悲しみに沈むのではなく、「生きる」ことに向き合っている様子が生活の機微を含め、丁寧に描かれている。冒頭、実家のガーデニングにまつわるほっこりしたエッセイから始まり、装丁やタイトルからして、日常系のエッセイ集なのかと思いきや、いきなり母親の自死の話が始まり、そのギャップにも驚かされた。  これまでの人生で辛いことがたくさんあったことは経歴からして容易に想像つくわけだが、そんな御涙頂戴な展開の話は入っていない。むしろ、その逆境をどうやってタイトルどおり「生きる」ためのエネルギー源としていくか、肉親が不在の中でとにかく自己を肯定し、自分をブチ上げていく。無条件で愛してくれる存在がいないから、自分のことを愛する。まさにご自愛。そんなエピソードがたくさん入っているので、セルフケアの文脈に位置付けることが可能で、文字どおり「生きる力が湧いてくる」人もいるだろう。  ただ一つ、個人的にしんどく感じたのは、兄の自死をモチーフに、兄の視点から語られる小説があったことだ。他人の家族の話であり、どう書くかは著者の自由だ。ただ、自死に至るまで、相当な葛藤があっただろうと想像がつく中で、あまりにも自死を単純化しすぎている気がした。それは繰り返し述べられるように著者にとって「死」があまりにも日常的に存在することも影響しているのかもしれない。しかし、だとすれば、より自死に対して慎重な取り扱いが必要なように思う。  とはいえ、家族偏重主義に対するカウンターとしてはこれ以上機能するエッセイはないだろう。家族を大切にすること自体は否定されるべきではないが、他人に対して「家族を大切にする」価値観を一種のテンプレートとして押し付けることに違和感がある。先日見たバチェラー・ジャパンの最新シーズンで、やたらと「家族が〜」と連呼されていて、それが無条件に受け入れるべき価値観として提示されていることにモヤモヤしていたので、本著における家族観には溜飲が下がった。  歳を重ねれば重ねるほど、死との距離は自然と縮まっていく。しかし、死は順番どおりには訪れない。それは突然で、理不尽なものだ。そんな死と、私たちはどう向き合えばいいのか。壮絶な人生を生き抜いてきた人が書いた言葉だからこそ、本著はそのヒントをくれる一冊だった。
  • 2025年7月27日
    死なないための暴力論
    随分前に二木氏のツイートで知って読んだ。直前に産獄複合体を題材にした小説『チェーンギャング・オールスターズ』を読んでいたこともあり、必要な「暴力」に関する論考はどれも興味深かった。  間違いが許容され辛い潔癖な世界の中で、暴力は忌避される方向にある。理不尽に他人の権利を侵害するような暴力は悪であることは当然として、本著では「暴力を十把一絡げに悪とみなしていいのか?」という議論が終始展開している。つまり、のほほんと「非暴力」を掲げていても、国家の暴力的振る舞いには太刀打ちできないのだから、カウンターとしての暴力が必要なのではないか?ということだ。本著における暴力はただの殴り合いや戦争のことではない。税の徴収や家父長制といった制度がもたらす抑圧も含まれる。そう考えると「自分には関係ない」なんて言える人はいないだろう。  人間は潜在的に暴力を内包し、それがいつ、どのような形で顕在化するかに焦点が当たっている。今の世の中で暴力と無関係に生きることは不可避である。そんな前提のもとで古今東西の暴力議論と実例を紹介してくれている。  例えば、イギリスの女性参政権を獲得するまでの市民運動、メキシコでのEZLNによる自治のエピソード、クルド人によるロジャヴァ革命などが紹介されている。その背景にある考え方や、暴力性があったからこそ社会が変革したのではないか?というアナキストらしい意見が展開されており興味深かった。いずれもあくまでカウンターとしての暴力であり、暴力が先攻行使されていないことがくり返し主張されており、これは本著における重要なポイントである。  新自由主義は今や世界中に広がった思想であり、その暴力性は世界で火を吹いているわけだが、その黎明期における広め方について解説されており、知らないことばかりで驚いた。すべてに市場の原理を導入して淘汰した挙句、上流だけがお金を儲けて、その結果もたらされた荒廃を引き取るのは、下流にいる民衆という話は何回読んでも腹が立つし「勝ち馬に乗れないと負け」という思想は本当に貧乏ったらしくて嫌になる。そんなブルシットに対しては、やはりカウンターをかまさないとやりきれない気持ちになる。  抑止力的な意味合いでも暴力の必要性が議論されている。暴力をふるわれるのは、こちらが非暴力で無抵抗だからであり「やられたら出るとこ出るぞ」というマインドが大切だということは、ここ十数年の国の無策っぷりで痛感している。国民が舐められているのは明らかだ。  個人に対して暴力的な気持ちを抱くことは加齢と共に減ってきてはいるものの、対国家、権力という視点で考えれば、いつだってそんな気持ちである。選挙だけがカウンターできる手段だと思い込まされているが、間接的抗議であるデモの価値について分析がなされていた。短期的成果ではなく、中長期的な社会変革を見据えた視点は、日本のデモ観に対する有用な意見だったと思う。デヴィッド・グローバーがかなり引用されており、改めて彼の論考の鋭さは本当に貴重なものだったのだなと痛感した。そして亡くなっていることに途方に暮れるのであった…  自分の中に国家を内在化し、結果的に排外的な振る舞いをする人が増えている中で、国家と同じヒエラルキー構造ではなく、非国家の形で民衆が起点となり反操行を繰り広げる必要性を痛感した。本著でも取り上げられている大麻の問題もその一つと言える。国家の枠組みを盲目的に信じているだけで本当にいいのか?国とは別の枠組みで権利を考えてみることをあまりにも忌避しすぎてないか?そんなことを考えさせれられた。  終盤では、暴力が起こる手前における民衆同士の相互扶助の議論が展開されており、グローバーの提唱する「基盤的コミュニズム」の議論が刺激的だった。というのも子育てをしていると「基盤的コミュニズム」の欠如を著しく感じるからだ。特に首都圏はひどく、目も当てられない場面に幾度も遭遇している。しかし、先日関西に久しぶりに帰ったときに感じた子どもに対する「コミュニズム」的な視点やアプローチには逆に驚かされたことを記しておく。  そして最後に引用しておきたいのは、前述したメキシコのEZLNマルコス副司令官による例え話。 警察に不満があるからといって、自分が警官になることで解決しようとする市民はいないだろう。もし警察がうまく機能しないのなら、市民は警官になろうとするのではなく、より良い警官を配置するよう要求するのだ。このことはEZLNの提起に通ずるところがある。われわれは権力を批判する。しかし、だからといってわれわれは権力を排除しようとしているのではなく、適正に機能し、社会の役に立つ権力を求めているのだ。  国家、権力に対して批判すると、すぐに「てめえがやれや」「代替案は?」という言葉が飛び交う今こそ、この言葉は有用だと思う。暴力のない世界が理想だけども「なめんなマインド」は常に忘れないでいたいと思わされた一冊だった。
  • 2025年7月27日
    チェーンギャング・オールスターズ
    チェーンギャング・オールスターズ
    前作『フライデー・ブラック』が滅法オモシロかった著者による二作目。今回は短編集から長編にフォーマットが変わったものの、オモシロさはあいかわらずぶっちぎり…!いわゆる日本の少年漫画的な世界観が全編にわたって展開されつつ、彼のシグネチャーといえる、アメリカにおけるマイノリティへの差別構造が見え隠れするレイヤードスタイルは健在。これぞエデュテイメント!  アメリカでは刑務所に収監される人数が膨大になる中で、囚人たちを安価な労働力として搾取する「産獄複合体」が社会問題となっている。以下リンクやNETFLIXのドキュメンタリー映画『13階段』に詳しい。 現代の「奴隷制」アメリカの監獄ビジネス 黒人「搾取」する産獄複合体の実態 本著は、その刑務所産業をSF的発想で拡張し、刑務所ごとに受刑者たちをチーム編成させ、対抗形式で殺し合いをさせる、そんな格闘イベントとして殺し合いをエンタメ化してしまうという、ある種の残酷ショーが舞台。物語は殺し合いの参加者や周辺人物の群像劇として描かれている。キャラクターの魅力が本当に素晴らしく、さながら少年漫画。各キャラには複雑な背景と武器が設定され、ゲームのようなランク制度まで存在する。世界観の作り込みの強度は本当に高く、友情・軋轢・強大なヴィランの登場など、子どもの頃から慣れ親しんできた格闘漫画フォーマットが踏襲されている。ページをめくる手が止まらなかった。  なかでもメインで描かれるのは、No.1とNo.2の実力を誇る女性ふたり。彼女たちは愛し合う存在でもあり、最強同士の百合的関係性が本作の大きな魅力となっている。少年漫画的世界観との差別化ポイントであり、マスキュリニティに満ちた刑務所産業へのカウンターとしても機能しているのが印象的だった。  表面だけ見ていれば楽しいバトルエンタメ小説に見えるが、そうは問屋が卸さない。なぜなら参加者たちは全員受刑者であり、なおかつその戦いで敗れることは、そのまま死を意味するからだ。つまりこれは、新たな形の死刑制度にほかならない。バイデン政権下では死刑制度の見直しが進んでいたが、再びトランプが就任したことで死刑執行が活発に行われる可能性が高い。著者はそんな状況を憂慮していたのだろう。これは死刑制度に代表される懲罰願望が拡大する機運がアメリカにあるとも言えるだろう。  現在問題になっている深刻な現実をエンタメにレイヤードしているわけだが、そのスタイルが斬新だ。例えば、大量のTMマークは、いかに民間企業が刑務所産業に食い込んでいるかを示す象徴的な表現である。また、受刑者が参加にあたってサインする契約書の描写から、このバトルプログラムのルールを知ることになわけだが、これは完全にシステムと化している現在の刑務所産業を暗に示唆しているようにも受け取れる。  印象的だったのは、バトルを含めて受刑者が小説内で亡くなるたびに注釈で著者が弔いの言葉を書いている点だ。バトルフィクションかつ展開が早いので、命が軽く取り扱われてしまうところを意図的にブレーキを踏み、人間としての尊厳を取り戻そうとしており、そこに著者の真摯さを感じた。  刑務所産業への批判にとどまらず、刑務所そのものが孕む暴力性にも意識的である。特に独房における拷問シーンが強烈だ。インフルエンサー(!)と呼ばれる棒を使うことで、通常の何倍もの痛みを引き出して囚人たちを追い込んでいく様は読んでいて辛かった。このように囚人を過剰に抑圧した結果生まれてしまう悲しきモンスターの誕生はマジで漫画!と感じた。  痛みを増幅する方向ではなく、収監されているあいだ一言も話すことができない刑務所もあり、そちらは窒息しそうになる息苦しさが表現されていた。どれもがエクストリームな設定ではあるが、刑務所で行われている拷問に近い暴力を念頭においたものであることは「謝辞」で展開される情報ソースの多さから明らかだろう。  好みはわかれる作品かもしれないが、ここまで振り切ったスタイルはこれで良しと思える。次はもう少し内省的な物語を読みたい。
  • 2025年7月27日
    2000年の桜庭和志 (文春文庫)
  • 2025年7月27日
    心臓を貫かれて
    心臓を貫かれて
  • 2025年7月27日
    独り居の日記
    独り居の日記
  • 2025年7月27日
    START IT AGAIN
  • 2025年7月27日
    たのしい保育園
    滝口さんが保育園を題材にした小説。文芸誌で連載されていことは知っていたが、単行本になる日を待とうと思い、情報をシャットアウトして待った結果、ついにその日がやってきた。以前にポッドキャストで育児、保育に関する話を伺っており、その時点で相当オモシロかったわけだが、それが今回小説という語り口になることで新たな魅力がふんだんに詰まった最高の小説だった。  主人公は、ももちゃんという子どもと、そのお父さん。各話が短編として独立しているものの、登場人物は同じなので、連作としても読めるようになっている。植本一子さんとの往復書簡『さびしさについて』でその片鱗を見せていた子どもに対する解像度の高さが本著では存分に発揮されている。テクノロジーの進歩で、簡単に写真や動画で子どもの姿を記録することは可能になったが、改めて文字で目の前で起こっている子どもの様子を言語化されると、そのダイナミックさ、ひいては生命の尊さまでリーチするような厳かな気持ちが湧いてくる。  子育てをする身からすれば「子どもあるある」がふんだんに詰め込まれているとも言えるわけだが、その「あるある」の解像度は、よくある子育てエッセイとレベルが一段違っている。それは子どもを日々育てる中でなんとなく考えているが、言語化できていなかった思考の残滓を滝口さんが拾い集めて、言葉にしてくれている、そんな印象だ。特に「保育園」を題材として取り上げていることはその象徴のようだ。  保育園は預けている立場からすると、育児においてかなりの割合を占有するわけだが、自分が育児主体ではないので、保育園での育児について深く考える機会が少ない。そもそも成長速度を含めて日々が怒涛すぎることもある。そこを丁寧にすくいとり、保育園と共に育児を行う様子とその意味をここまで深く描いたものはないだろう。そして、保育園に子どもを預けたことのある人がもれなく感じたことのある、保育園という場所、保育士という職業に対する圧倒的な尊敬と感謝の気持ち、全面的肯定が小説に落とし込まれているのだから、たまらないものがあった。  〇〇ちゃんのお父さん/お母さんという呼び方に対して、アイデンティティを尊重する観点でネガティブに捉えられるケースもあるが、本著では子どもを持つ登場人物は皆、(子どもの名前+お父さん、お母さん)という形で表現されている。それは保守的ということではなく、あくまでここは子どもの社会なのだ、という宣言のように感じた。そして、それは物語上、区別するための便宜上のものでしかない。本著内で言及されているとおり、保育園に通っていると、子どもが誰に帰属するかは本質的には関係なく「保育園」という共同体に集まった大人たち全員で子どもを育てているのだという認識があるからだ。核家族化、人間関係の希薄化などにより地域ぐるみの子育ては減少していると嘆かれて久しいが、本当にそうだろうか。家族の在り方も20世紀から変化している中で「保育園」が、一種の育児の共同体を担保している可能性について改めて認識することができた。  最後にある「連絡」という話は、これまでの滝口さんのスタイルが最も色濃く映る。そこへ子どもに対する高い解像度の視点が入り込んでくることで、これまでの作品とは違った印象を持った。たとえば、ガザ虐殺について言及されているが、それが子どもたちが公園で遊んでいる最中に挟まれることでまったく他人事ではなくなる。また、ギスギスした現代社会において、誰が何をしてもいても気にしない一種のユートピア的存在としての公園という空間の多様性が、滝口さんの得意とする視点遷移と共に描かれており、その相性が素晴らしかった。保育園や公園といった場所の存在を言祝ぐような小説だった。
  • 2025年7月27日
    アンビバレント・ヒップホップ
    荘子itとの対談本『最後の音楽:|| ヒップホップ対話篇』も興味深かったので読んだ。ゲンロンでの連載に加筆したものらしく、ヒップホップに馴染みのない読者にも配慮された構成ながら、読み進めるうちにその深度に驚かされる設計になっている。アメリカのヒップホップを主たる対象とする批評が多い中、国内のアーティストにフォーカスされており、なおかつ日本語ラップの立脚点がどこにあるのか、これからの日本語ラップの批評の方向性を示しているとも言えて、本著はその金字塔として今後読み継がれてほしい一冊だった。  タイトルにある「アンビバレント」は本著における最大のキーワードであり、数々の議論がこのワードへと収束していく。代表的なアンビバレンスとしては、「資本主義とリアル」「アメリカと日本」の二つが挙げられるだろう。前者に含まれる「リアル」が第一章のタイトルという時点で、本著がいかにヒップホップを真摯に捉えようとしているか伝わってくる。日本では、ヒップホップの隆盛に伴い、資本主義の流入は日に日に加速しており、その状況と古参ヒップホップ好きが大切にしていた価値観である「リアル」は相剋する。その緊張関係は、まさに自分が抱えている「アンビバレント」な気持ちそのものである。本著では先んじて、その相剋を乗り越えたであろうアメリカの状況を解説してくれている。特定のアーティストに焦点を当てつつ、通史的な視点も持ち合わせた解説は、ヒップホップ初心者から批評を求める読者まで幅広く楽しめる内容となっている。  本著の大きな魅力のひとつは、その眼差しのフレッシュさにある。たとえば、ヤン冨田とDJ KRUSHを並べて、ヒップホップにおけるオーセンティシティを論じたり、いとうせいこう、SEEDA、KOHHという異なる世代のラッパーを通じてラップ表現の変遷を定量的に分析するなど、枚挙にいとまがない。なかでも、KOHHに対する考察は白眉だった。彼がトラップをいち早く取り入れ、三連フローなど、トラップと日本語の可能性を拡張したことは周知の事実であるが、これだけ定量的なアプローチで解析した例はおそらくないだろう。意味を壊し、音を優先する中で、ボキャブラリーの貧しさが逆に功を奏したというのは、価値を反転させるヒップホップそのもので、KOHH(および千葉雄喜)がいかにヒップホップを愛し、ヒップホップに愛されるラッパーなのか、そんな証にも映った。  著者の語り口が理論的であることも特徴的だ。ヒップホップはアートであり、抽象的な議論が多くなりがちだが、引用する文献を明確にして議論を積み上げて行く姿勢は批評としての強度を支えている。さらに、著者がビートメイカーであることを活かした独自のグリッド表記を使った各種解説がエポックメイキングだった。言葉と音の両方を可能な範囲で分解して、読者と共に眺めていく作業を行うことで、説得力を増すことに成功している。ヒップホップに限らず、音楽評論としても新しい境地が切り開かれていると言えるだろう。  ビートの章でいえば、現在のヒップホップにおけるサウンドの基準であるTR-808に対する考察に驚いた。実機の音が、ウェブ上でまるで融解していく様をめぐる周辺環境の解説は、著者自身がビートメイカーだからこその深度があった。また、トラップ以外の多くのヒップホップの楽曲において808サウンドが使われていること、その使用とラップにおけるメッセージの相関性の考察は目から鱗だった。  アメリカ発祥のカルチャーであるヒップホップを日本で実践するという営みには、アンビバレンスがつきまとう。もともとヒップホップは、アフリカ系アメリカンを中心とした「サヴァイヴァル・ツール」としての側面を持ち、それを背景を参照せずに形式のみをなぞることは、文化盗用(カルチャー・アプロプリエーション)の危険をはらむ。かといって、アメリカのスタイルを絶対視し、それを基準に日本のヒップホップを評価するような態度も、どこか屈折した文化的劣等感の表れに映る。アメリカ、日本のヒップホップの両方とも好きであればあるほど、この「アンビバレンス」に苦しめられる。それはアーティストもリスナーも同様のことだろう。しかし、著者はその苦しみこそが「日本語ラップ」なのではないか?と提示しており興味深かった。白黒はっきりつけてしまう快楽に抗い、宙ぶらりん=アンビバレントな状態に置いておくことで、日本のヒップホップがアメリカを参照しつつも、独自のスタイルを構築していくのではないか。そんな見立てにおおいに首を振った。  終盤は、2020年代に入り豊穣さを増す日本語ラップの現状が具体的に取り上げられている。Tohjiや舐達麻といった代表的アーティストも、単に紹介されるだけでなく、音楽理論やサウンドとの関係性を通じて分析されている点がユニークだった。たとえば『KUUGA』は多くの批評にさらされた作品であるが、本著ではTohjiの「内なるJ」を音楽理論から示している点が新しいし、舐達麻についても、ビートのエモさとラップの温度の対比からエモラップの日本スタイルともいうべき在り方について分析されており興味深かった。その中でも印象に残ったのは、KRUSHとJinmenusagiの「破魔矢」に対する考察だ。それは「ダサい」とされていた「お経スタイル」の価値が反転し、かっこいいものになるという最もヒップホップ的な価値観が反映されているからだ。しかも、これは本著前半の議論と呼応しており、このような形で伏線回収するような展開がいくつか用意されている。こういった仕掛けは批評にありがちな単調さを避け、読者を飽きさせないスパイスとして機能していた。長々と色々書いてきたが、本当にたくさんの気づきがある一冊だったので、全ヒップホップ好きに読んでほしい。
  • 2025年7月27日
    死なれちゃったあとで
    積んであったので読んだ。タイトルからして、今読みたかった本だった。JJJ逝去について、安易に言語化できない気持ちがあるのだが、そんな灰色の気持ちを少し和らげてくれる、死への向き合い方を考えさせてくれる稀有な一冊だった。  編集者・ライターである著者の周りで起こった死にまつわるエッセイ集。もともと文フリで売っていたZINEが商業出版されたもので、最近のZINEブームの先駆けともいえる。死といえば、どうしても「悲しい」「辛い」というイメージばかり浮かびがちだが、実際には喜怒哀楽が存在することに気づかされる。また、死自体にもさまざまな種類が存在し、それに伴って変動する、残された側の感情のあり方について、ここまで具体的に踏み込んで描いているエッセイは読んだことがなかったので興味深かった。特に「父の死、フィーチャリング金」はあまりにもすべてが生々しく綺麗事は一切見当たらない。死とお金は切っても切り離せないことを眼前に叩きつけられたようだった。  このように死の周りに転がっている現実について、お金、事故、病気とその治療など普段聞くことが少ない数々の事例について知ることができたのは、人生の予習をしているようだった。病気のように近い未来に亡くなる可能性を知っている場合と、自死、事故死のように唐突に死の暴力性が剥き出しになる場合の両方が描かれているので、死を立体的に捉えることができる構成となっている。そんな中でもコロナ禍は特異点といえるが、コロナ禍で亡くなった場合の葬儀がどんなものだったのか、これは歴史に残る重要な記録とも言えるだろう。  著者の後輩であるD氏は自殺で亡くなっており、彼の死が本著で最もフォーカスされている。数ある死の中でもタイトルの言葉が最も響くのは自死であることは間違いない。自分の意思で急に世の中を去ってしまい、その後に残された側の放り出された感情はいろんな形で存在し、表現される。そこに当然優劣はなく、著者はその感情の置き場について向き合った過程を本著に書き残してくれている。忙しい日常の中で、人の死はどうしても見ないように蓋をしてしまいがちだが、少しでも思い出して、何か具体的に行動することで見える景色を身をもって見せてくれていた。  友人のラッパーである黒衣の曲「バカとハサミ」にある「ログインしてなきゃ死人扱いか?」というリリックが好きなのだが、それを地でいくエピソードがあり、ネット時代の生死に関する考察が興味深かった。今では死後に家族がログインして代理報告する場面を見かけるが、家族に公開していないアカウントであれば、更新が止まったブログやSNSアカウントの残留思念は、死後そのままインターネットを放流し続ける。それは生きているとも言えるし、死んでいるとも言える。そんな生と死の境界があいまいになる現代だからこそ、葬式が持つ「区切り」としての意味が改めて浮かび上がっていた。  本著では身近な人の死が数多く取り上げられているが、物理的な距離はあるものの、身近な存在であるアーティストの死との感情の折り合いに困るときがある。とりわけヒップホップというジャンルではアーティストが若くして亡くなるケースがあまりにも多く、そのたびに心が痛む。そのたびに「YOLO(You Only Live Once)」 が毎回頭によぎり、行けるときにライブは行っておいたほうがいいし、やりたいことがあれば、just do it だなと毎回思わされるのであった。
  • 2025年7月27日
    彼女は頭が悪いから (文春文庫)
  • 2025年7月27日
    死ぬまで生きる日記
    キャッチーなタイトルをいろんなところで見聞きしていて、ずっと気になっていたのだが、ようやく読んだ。どのように希死念慮と折り合いをつけて生きていくか、カウンセリングでストラグルする様がまっすぐ描かれており興味深かった。  著者は幼い頃から定期的に「死にたい」という衝動に苛まれている中で、オンラインカウンセリングという通常のカウンセリングよりもさらに匿名性の高いサービスを利用して、自分の希死念慮をどう取り扱うかを追ったドキュメンタリーである。タイトルに「日記」とあるが、具体的な日付の記載はなく、著者とカウンセラーとの対話、それを受けた著者の内省が十二章にわたって展開されている。  本著を読みながら、こないだ読んだ『なぜ人は自分を責めてしまうのか』を思い出した。両者には共通する視座があり、どちらの本にも熊谷晋一郎による「自立とは依存先を増やすこと」という言葉が引用されているのが印象的だった。特に本著において著者が母との関係性に悩む姿は「自責」の感情そのものだ。その様子は『なぜ人は〜』のケーススタディのようにも感じられ、理解を深める助けにもなった。以下のラインはまさに。 あらゆる不満や苦悩を他者のせいにすると。他者が変わってくれることを期待するしかない。 そんなことは私にはできなかった。これまで何度もその期待は裏切られてきたし、その度に傷ついた。期待すること自体が間違っていて、自分が変わるしかないのだと思う方が、よほど建設的だった。  本著ではカウンセリングの様子が、会話形式で細かく描かれているので、まるで診察の場面に立ち会っているかのような気持ちになる。「どうして死にたいと思うのか?」という哲学的とも言える問いについて言語化していくことで、原因を探っていく過程がスリリングだった。特に地球と火星のアナロジーによる「死にたい」気持ちの細分化は驚きの連続であった。カウンセラーが、著者の提示するアナロジーに乗っかりながら、共に言葉を探っていく過程は、暗闇の中で一筋の光を見出していくような思考の旅だ。そして、その先に待っていたのは生業でもある「書くこと」という結論までの流れは鮮やかだった。こうやって書くと簡単にたどり着いてるように思われるかもしれないが、本著がスペシャルである点は、少しずつ変わっていくプロセスを、すべて開示していることだろう。  個人的に参考になったのは第七章で議論されている、過去、現在、未来の捉え方だ。ないものを追い求める未来。あるものを捉え直す過去。その両方で成り立つ現在。この三つのバランスの取り方が大事で、未来志向が美徳とされがちな中で、過去への再解釈にも目を向け、現在を丁寧に捉えるという視点は、今をどう生きるかに対するヒントになるように思った。  終盤、著者にとっては思いも寄らない展開が待ち受けているのだが、著者の切実さが滲み出る、そのドラマティックな描き方は小説のようだった。しかし、その唐突な事態に対して、本著で繰り返されてきたカウンセリングの成果を発揮することで、まさにタイトル通り「死ぬまで生きる」を自らの思考で実現していく過程に多くの読者が勇気づけられるはずだ。なぜなら、著者はカウンセリングを始める前と全く別人であることがわかるから。その変化は、直線的な成長とは異なる。むしろ、少しずつ何かを繰り返しながら「螺旋階段」を登るように、ゆるやかに上昇していく。線型的な成長がもはや現実的でないと痛感する三十代後半の自分にとって「螺旋階段」という例えはかなりしっくりきた。  歳を取るにつれて死の存在が身近になりつつある今、それでもなお生きていくとはどういうことか、色々と考えさせられる読書体験だった。
  • 2025年7月27日
    Black Box
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