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Yamada Keisuke
Yamada Keisuke
@afro108
育児ZINE『ikuzine』販売中。滝口悠生さんゲスト参加。
  • 2026年1月6日
    置き配的
    置き配的
    『シットとシッポ』というポッドキャストを最近聞いており、そのパーソナリティを務める著者の新刊ということで読んだ。一度、本屋で立ち読みした際、その哲学的な語り口に気後れしてしまったのだが、最近知り合った友人と飲んだ帰りに立ち寄ったジュンク堂で、背中を押してもらったのだった。実際、理解が追いつかない部分もあったものの、ものの捉え方の一つ一つが新鮮で興味深く読んだ。  もともと文芸誌『群像』での連載をまとめた一冊ということもあり、各章はエッセイ的な導入から始まり、そこから哲学的思考が折展開していく。構成面で特に印象的なのは、A面/B面という二部構成を採用している点だ。一つのキーワードやテーマについて、A面では「言葉」、B面では「物」という異なる観点から考察がなされ、議論は並行して進んでいく。  多くの書籍が章をリレーのようにつなぎ、一冊を通して一つのメッセージへと収束させる構造を取るのに対し、著者は本書を「ハンマー投げ」に喩える。つまり、各章は互いに直接接続されることなく、独立した投擲として存在する。しかし、それらは完全に孤立しているわけではなく、フィードバックとして相互に影響し合っている。さらに、その独立性と関係性を、将棋や囲碁のアナロジーを用いて説明するくだりは見事だし、タイトルにある「置き」とも結びつく。あまりにも鮮やかな見立てに読み終わったあとに唸った。  タイトルにもなっている「置き配的」とは、著者が提唱する新たな概念である。今となっては当たり前となった宅配便における「置き配」の特徴を拝借しながら、そのラディカルさ、奇妙さを抽出して論理を構築している。置き配では、従来のように宅配業者が荷受人に直接手渡すわけではなく、「置いた」という事実(=玄関前に置かれた荷物の写真、もしくはメール通知)を持って配達完了となる。つまり、実質的なやり取りは発生しないが、「置いた」という事実が完結性を担保する。こういった「置き配的」な観点で現在の言論空間、特にネット上でのコミュニケーションについて分析していく。  連載ということもあり、論述パートに入る前には導入をきちんと用意してくれているので、最初に想像していたよりは議論に振り落とされるケースは少なかったとはいえ、哲学的な基礎知識や思考能力の不足を正直感じた。それでも、この手の議論に関する本を読むための「大リーグボール養成ギプス」として捉えれば、本著はかなり機能的である。それは単純に自分の見識や論理を開陳するだけではなく、興味関心を哲学のフィルターを通じて見たときにどう見えるのか。思考を深めていく様を横目で見てOJT的に学べるからである。  「置き配的」という概念がもっともわかりやすく機能するのは、ネット上のコミュニケーション、とりわけX(旧ツイッター)をめぐる議論である。本書はツイッター論として読める側面を強く持っている。 アマゾンが置いたという事実を持ち帰るために荷物を運ぶように、人々は言ってやった・言われたという事実を持ち帰り自陣にアピールするために、ハッシュタグ、引用リツイート、スクリーンショットといった諸々の引用の技術を駆使する。その意味で「置き配的」とは、コミュニケーションを偽装した内向きのパフォーマンスである。 アテンションも欲しい、ポジションも欲しい。しかしアテンションやポジションを取りに行く身振り自体が私の表現から内実を骨抜きにしてしまうので、誰かの表現を示成的なパフォーマンスとして見なすことにおいて、私は私の表現が実のあるものであると、感じることができる。これが「注意の時代」の心性であるだろう。 数十字のチャット、ツイート、コメントから、一日数百字の日記へ。それはたんなる量的な変化ではなく、テキストボックスという閉じられた箱からテキストエディタあるいは日記帳という平面への移行である。そしてこの移行によって言葉は、言うべきことが<疎>である空間のなかで分散し、出来事はあらかじめこしらえられたパッケージから解放され、自伝には書かれようのない<私>の生(life)が、人生(life)にはカウントされない生活(life)として切り出される。  ツイッター論として、これだけ鋭いことを言える書き手はどれほどいるだろうか。こういった思考の背景にあるドゥールズを筆頭とした哲学者たちの金言も現代を象徴しているように感じることが多かった。そこに時代を超越した、抽象性の高い「哲学」という学問の価値と可能性を垣間見たのだった。つまり、具体的な内容ではなく、論旨の骨組みを抜き出した抽象的なものだからこそ、さまざまなものに転用することが可能だからだ。それはまさに著者が「置き配」という具体的な事象から概念を抽出し、別の領域に適用していく実践そのものであり、これが哲学の醍醐味なのだなと納得した。  その最たる例が「犬をバギーに乗せて歩くことは犬にとって散歩と言えるのか?」という命題である。日常の些細なことでも哲学的な眼鏡を通じて眺め直してみると、そこには膨大な思考の糸口が転がっている。「蛙化現象」に関する考察も同じく著者ならではの視点が輝いていた。特に村上春樹の小説と接続した瞬間に自分の中でイマイチ像を結ばなかった「蛙化現象」について霧が晴れていくように理解が進んでいった。  こういった文章を読むと「SNSにおいて自分がどう思われるか?」「他人が何を考えているか?」よりも、もっと愉快で楽しい思考のきっかけが目の前に転がっていることに気付かされるし、注意の払い方については、過去に読んだ「何もしない」で学んだはずなのに喉元過ぎればなんとやらである。やはり思考するためには、フローする情報よりもスタティックな情報に目を通したいものである。自戒の念をこめて。。。  個人的に特に興味深かったのは、批評圏に関する議論、なかでも批評が抱える二重の「ジャンルレスネス」という指摘である。批評の限界は嘆かれて久しいが、批評がどうして厳しいのか?これだけロジカルに語られたものを読むのが初めてで、目から鱗だった。そして、批評空間よりも感想空間の再構築が必要という主張には納得した。  というのも、私は日本語ラップのアルバムについて昨年からレビューしているのだが、そこで意識しているのは「批評」というより「感想」だからだ。それゆえ最初に始める際、「日本語ラップ日記」と題して「批評」と受け取られる可能性を回避したことは、著者が日記を重要視している点と少なからず響き合う部分があった。また、批評が内政問題に終始してしまうという指摘も、ヒップホップの現状を見れば頷ける。ゴシップや英語警察、即時的なリアクションばかりが目につく状況に辟易し、私はnoteで書いている。わかりやすい反応がなくても、同じ密度のコミュニケーションを求める誰かに届けばいいなと思いながら、毎週文章を書いている。  現在のヒップホップの書き手の多くは商業ライターであり、アーティスト本人へのインタビューが主な仕事となっている。その意味では一次情報にアクセスできるが、それは著者の言葉を借りれば「密」な言説空間でもある。そこでは「置き配的」なポジショントークが蔓延しやすい。しかし、「密」ではなく「疎」なものに批評の可能性を見出す。つまり、物や作品と遭遇したときに起こってくる言説が批評たりうるのだと。さらに、作品が作品たりうるのは、それが誕生した瞬間ではなく「あとからやってきたものがそこに表現を見出したとき」という主張は、自分が感想を書いている意味を代弁してくれていた。ネットで何かを書くことは誰でもできる今、どこで何をどうやって書くか。その指針となる一冊だった。
  • 2025年12月28日
    調査する人生
    社会学者である著者と、同じく社会学を専門とする研究者たちとの対談集ということで読んだ。データから傾向を見出し、圧縮、抽出することが価値とされがちな現代において、著者が「再現不能な、一回性の科学」と呼ぶ社会学の一側面の奥深さを知るには、まさにうってつけの一冊だった。  本著は著者と六人の社会学者との対談集。著者が聞き手となり、各人のこれまでの調査や活動をたどりながら、その中で社会学のあり方そのものが語られている。社会学がここまで広く認知されるようになった背景には、間違いなく著者の功績がある。そのフロントランナーが、他の社会学者たちと向き合い、彼らの調査対象やスタンスを当人の言葉で引き出していくため、議論は自然と頭に入ってくる。すでに読んだことのある研究者については理解が深まり、未読の著作については今すぐ手に取りたくなる。特に石岡氏の『ローカルボクサーと貧困世界』は格闘技好きとして絶対に読みたい一冊だ。  議論の中心となるのは、社会学における質的調査である。量的調査がデータから確からしさを抽出するアプローチだとすれば、それはデータ社会である現代の価値観と親和性が高い。一方で、数を稼げない質的調査をどのように行い、その結果をどう解釈するのか。本書では、沖縄の若者、部落差別、女性ホームレス、フィリピンのボクサー、在日韓国人など、対象は千差万別でありながら、それぞれが自分なりのスタイルで対象との距離を模索している様子が浮かび上がる。  質的調査と一口にいっても、著者のようにワンショットサーベイで強い関係性を結ばないスタイルに対して、参与観察で特定の対象と距離を縮めながら、話を聞いていくスタイルでは考え方が異なる。その差分が繰り返し言語化されることで理解が深まっていく。なかでも、著者が沖縄で出会ったおじいさんのエピソードを通じて語られる「他者の合理性」は、人の一側面だけを見て安易に判断してしまいがちな現代において、強く考えさせられるテーマだった。  タイトルにもある「人生」というのは、本著を貫く重要なテーマである。インタビューにおいて、研究に必要な情報だけを切り取るのではなく、より広い領域で話を聞くことで、想定外の枝葉から多層的で豊かな語りが立ち上がる。この感覚は、自分で『IN OUR LIFE』と名づけたポッドキャスト番組を運営していることもあり、実感を伴って理解できた。7年前にポッドキャストを始めたのは、SNSの窮屈さが最大の理由だったが、大事にしていたのは特定のテーマになるべく収束させず、話者同士の関心に委ねて会話を広げていくことだった。非圧縮でだらだらと話す中で話題は発散していくが、それこそが「人生」なのだと思っている。本著の言葉を借りれば、我々は「重層的な生」を営んでいるのだ。  事実関係とディテールの違いについての議論も印象的だった。事実偏重の態度では、その場のやり取りだけがすべてだと誤解されがちだが、語りを文字に起こし、理論を重ねることで、出来事はより立体的に、伝わる形になる。理論だけでは手詰まりになり、現場だけでは一過性の話にとどまる。そのバランスを取ることで真理に近づこうとする営みこそが学問だ。  打越氏、上間氏、朴氏の著作は読んでいたため、その前提を踏まえて読むことで各人の社会学に対するスタンスや対象との距離感を知ることができた。とくに沖縄を調査対象とする著者、打越氏、上間氏の議論では、沖縄特有の空気や風習が深く掘り下げられ、それぞれの著作の「ビハインド・ザ・ストーリー」を覗くような感覚があった。単なる読み物ではなく、学問なのだという当たり前の事実にここでも気付かされた。  一方で朴氏とは他のメンバーとくらべて議論が平行線を辿る場面があり、興味深かった。「わかる」ということへの認識の違い、エモーショナルになることへの慎重な姿勢。感情に流されてしまいがちな自分にとって、ここまで整然とした態度は簡単に真似できるものではないと感じた。本著を読むと『ヘルシンキ 生活の練習』シリーズで著者が淡々とした描写に徹している理由もよくわかった。  普遍的にいえば「人に話を聞くこと」が本著のテーマであり、その行為について対話するという構成はメタ的と言える。相手の話を受けて、自分の見解を足して返していくスタイルで、これだけ議論をスイングさせられるのは著者の力量に他ならない。十年ほど前、サイン会でほんの一瞬言葉を交わしたことがある。短い時間にもかかわらず、緊張するこちらの話を引き出し、そこから会話を膨らませてくれた。そんな記憶が、本書を読みながら蘇ったのであった。
  • 2025年12月26日
    ブロッコリー・レボリューション
    Palmbooksの作品で著者のことを知り、他の小説も読んでみようと文庫で手に入りやすい本著を読んだ。既存の小説の形式を脱構築していくようなスタイルが印象的だった。  著者はもともと劇作家であり、小説も書いている。本著はタイトル作を含む短編、中編を交えた作品集となっている。どの作品もテーマ自体は他愛のないことであり、物語的な大きな起伏は用意されていないものの、語り口のユニークさにぐいぐい引き込まれた。  オープニングを飾る「楽観的な方のケース」は最初こそ女性の一人称で進んでいくのだが、急にカメラが彼女から離れる瞬間が訪れる。しかし、語り口は女性のままで、彼女の視点から見たパン屋の様子、彼氏の視点が語られていく。ぼーっと読んでいると見落としそうなほどシームレスに話が進んでいくのだが、ここで明らかになるのは、著者が「小説の語り手」についてかなり自覚的であるということだ。カップルが同棲を始める話にも関わらず、一般的な会話体が一切なく、それぞれの視点から見た彼、彼女に対する内面の感情が細かく描かれている。それは小説だからこそ書けることであり「演劇」という会話の塊のようなフォーマットでは描けない領域を小説で模索している様が伝わってきた。  ヒップホップ好きとしては「ショッピングモールで過ごせなかった日」を興味深く読んだ。一つのモチーフとしてラップを取り上げているのだが、「ストリート」と「ショッピングモール」を対比させつつ、どちらも同じくらいにお飾りなものでしかなく、存在自体に必然性がないことを描いている。Tohjiが提示したMall boyzの世界観を小説にしたら、こうなるかもしれないと思わされた。ただそれにしては「ストリート」に対する視点が冷めすぎており、それに呼応させるようにストリート側をダサすぎるラップ描写でラベリングしている点には抵抗があった。  「黄金期」は終わらない都市開発を舞台にした、頭のいかれた人間の話で読んでいてワクワクした。作中では横浜だが、最近渋谷に行くたびに感じる「一体何がしたいのか?」という気持ちが端的に表現されていて膝を打った。 *利便性を高めたい一心でアイデアが労力が資金が、よかれと思って投入された結果が裏目に出たということなのか、無視できない副作用が出てしまったということなのか、ずいぶんとやさぐれた場所、剝き出しになる寸前の殺気がしれっと色濃く漂う場所へと、ここをすっかり変貌させた。* そして、渋谷駅を通るたびに感じるのは、殺気だったのかと気づいた。 *各々の目的の優先を妨害してくる他の人間どもの意志を斥け合う。その意志の存在を互いにそもそも認知しないという仕方による、意志の排斥合戦によって、絶えずそこかしこで小さな火花が生じ、こうしてこの場は常時一定以上の濃度の殺気を保つ。*  三島由紀夫賞を受賞した表題作は、ここまで紹介した語り口のユニークさと暴力性が「文学」という形で結晶化した作品となっていた。話の筋としては、妻が家を出ていってしまい、タイでバカンスを一人過ごしているというもの。このとき、妻の一人称でバカンスの様子が語られるのではなく、残された夫が、妻のバカンスでの様子を二人称で語っている。残された側が「こんなバカンスを過ごしているに違いない」という妄想の羅列ともいえるのだが、小説の本質、つまり、小説とは誰かの頭の中で行われる想像の一種なのだということを、人称によって改めて明示している。それは冒頭を飾り、文中で執拗に繰り返される「ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども」というセリフに象徴されているのだった。  巻末に多和田葉子との対談が収録されており、そこでも人称の話題になっていた。著者がタイで印象に残った風景や出来事を小説に落とし込むにあたり、一人称だと自分との距離が近すぎるから、このスタイルになったと語っており納得した。二人とも王道というより革新派ゆえのメタ視点の数々が興味深い。特に二人称の「あなた」から「彼方」に派生させて、近しさと距離の話に変換していく多和田葉子はラッパーだなと改めて感じた。  タイでのバカンス描写は村上春樹を彷彿とさせる洒落たものが多い。それは食事、音楽、プールというテーマに引っ張られているからそう見えるのだろう。なかでも文中で紹介される[タイのインディーポップバンド](https://music.apple.com/jp/album/lucid-dream/1191823166)が甘酸っぱいサウンドでピッタリだった。一方で、このバカンスの妄想を繰り広げてる語り手の男が暴力的というのが新鮮だ。この結果、バカンスシーンが冗長になりすぎず、物語がキュッと締まっていた。  『わたしたちに許された特別な時間の終わり』も読みたいが絶版してるようで、Kindleでリリースして欲しい。
  • 2025年12月25日
    水曜生まれの子
    水曜生まれの子
    近年、イーユン・リーの翻訳版がコンスタントにリリースされている。小説を手にする機会が減った今も、彼女だけは例外として追い続けている。久しぶりの短編集は、短いからこその切れ味が冴え渡り、一編読み終えるたびに思わず遠い目をしてしまう、そんな余韻の深い一冊であった。  本著は2009〜2023年の14年のあいだに発表された短編をまとめた作品である。その歳月を感じさせないほど、まとまりのある短編集という印象だ。それは壮年もしくは中年の女性が主人公であり、子どもの不在を中心に思い悩む姿が繰り返し描かれるからだ。最近の長編においては、自身の出自と距離のある登場人物の小説に挑戦しているが、今回は「中国からの移民女性」という主人公が多く、著者の気配が色濃く漂っていた。  訳者あとがきにもある通り、著者の人物描写は最小限に抑えられているゆえに切れ味鋭いフレーズが際立つ。長編でも同様なのだが、短編で話の密度が大きくなることに比例するかのようにフレーズの威力も増しており、これほど付箋だらけになる小説もそうそうない。エンパワメントされる言葉もあれば、心の隙間に入り込んでくる言葉もある。 科学では妥当と考えた仮説だけを追究する。人生は、それではすまない。 人生は、死への控えの間だ。 家というのはどれほど照明がついていても、どれも同じであることを思い出させる。すべての家が、無関心な暗闇の中にある。 あたしが人間のどこが嫌いか知ってる?"これはあなたの学びになる"ってすぐ言いたがるところ。だって、学んで何の意味があるの。人生で何かに失敗しても追試は受けられないんだよ  『理由のない場所』から続く、自死によって子を失った母親の物語がやはり重く響く。先日読んだ『Θの散歩』でも書かれていたが、私自身、親となって以来、我が子か否かに関わらず、幼い命や若い命が失われることへの恐怖は増すばかりだ。そんな中で取り残された親側の心情の繊細な描写の数々は、著者の実体験と筆力がかけ合わさった結果、唯一無二のなんともいえない味わいがある。書くことでしか消化も昇華もできない感情の澱があるのだろう。子育てめぐる以下のアナロジーは、彼女の重たい心境を端的に表している。 子育てとは裁きだ。運のいい者は慎重な、あるいはやみくもな楽観主義のまま、自らの正しさを主張し続けている。 子育てはギャンブルなので、はったりをきかすしか手がないのだ。  なかでも「幸せだった頃、私たちには別の名前があった」は子どもを失って直後の短編ということもあり、感情の生々しさが他の作品よりも強烈だ。主人公はエクセルシートに記憶にある限り、自身周辺の死者を書き出して、それぞれの死を回想しながら、我が子の死を相対化しようと試みる。アプローチ自体はドライなんだけども、奥にあるウェットな感情が夫との会話のラリーで表現されていて胸が詰まった。積読していた本著をこのタイミングで読んだのはエッセイがリリースされていることを本屋で知ったから。早々にそちらも読みたい。
  • 2025年12月14日
    とある都市生活者のいちにち
    日記ブームが続く中、そのフロントランナーである植本さんの久しぶりの日記。近作はエッセイ集が続いていたこともあり、原点回帰を感じさせる内容で興味深かった。  もともとnoteに掲載されていた日記がベースであり、読むだけなら無料で読める。それでも一冊の本としてまとめられたことで、416ページ、約13万字という特大ボリュームとなっておりファンとしては嬉しい仕様だ。そんな重さを感じさせない軽やかで読みやすい文体は健在だ。出版用に書いた日記ではなく、ウェブで不特定多数に向けて書かれたことによる「コミュニケーションとしての文章」という性質が、この軽やかさの理由なのだろう。  ウェブでは味わえない本が持つモノとしての魅力が素晴らしい。基本、車で移動しない都市生活者は荷物が少なければ少ないほどいいわけで、ポケットや鞄に入れてさっと読める文庫サイズは理にかなっている。今回最も驚いたのはフォントだ。日付、数字、引用、アルファベットなどなど多様なフォントが入り乱れており、これだけ派手な紙面は新鮮だった。表紙のタイトルはその象徴であり、特にクネクネした文字が最高。自費出版ゆえの自由さが存分に発揮されている。装丁については、植本さんの作品に頻出している高橋さんの解説に詳しい。(上記商品リンクの中で読めます。)  そして、肝心の内容だが、正直に言えば、今回の最大のトピックは自分が登場していることだ。一介のファンボーイに過ぎない自分が、日記に名前が載る日が来るとは夢にも思わなかった。文学フリマに誘っていただいたこと、図々しくも「ZINEFESTに出ましょう」と自分から提案したこと、さらに自分のZINEのタイトルまで印字されているなんて…これは一生の宝物になった。  日記ブームと比例するように、「書くことの暴力性」が語られる機会も増えた。実際、他者を書く際に求められる配慮は十年前とは比べ物にならないほど高まっている。だが、その暴力性は書かれる喜びと表裏一体でもある。書いた側が忘れていたような瞬間が丁寧に掬われ、記録される。その尊さを、自分自身が書かれたことであらためて実感した。  この日記には約160人以上もの人物が登場し、都市で生き生きと暮らす人々の日常が植本さんの視点を通じて記録されている。前述した文体の軽やかさは、フットワークの軽さ、どんな人でも受けとめる懐の深さを体現していると言えるだろう。象徴的なのは自転車による移動である。縦横無尽に街を駆け、次々と人に会い、その都度日常が更新されていく姿はイメージする都市生活者そのものだった。  また、印象的だったのは、植本さんがこれまでの著作で訴えていた「さびしさ」に自分を重ね合わせる読者たちの存在だ。しかし植本さんは安易には寄り添わない。その距離感にこそ、ほんとうの優しさが宿っているように思えた。 さびしく思う読者の人もいるのだろうか?確かにいるかもしれないけれど、どうだろう。だからといって変わらないわけにはいかない。変わったようで変わっていないところもある。そうじゃない?  個人的に一番グッときたのは、ナルゲンのボトルの巡り合わせだった。ECD氏が使っていたボトルがなくなり、なんとなく覗いたガレージセールで再び同じようなボトルと遭遇する。日々の生活で、こういった運命的な瞬間はいくらでもあり、正直それは特段意味のない偶然でもあるわけだが、それが日記として記録されることで、夜空に輝く星から星座を紡ぎ出すように意味を見出すことができる。(日付がジャスト1ヶ月後…!)ここに日記の醍醐味が詰まっていた。  自費出版の流れが2作品分、掲載されており、どのように制作、営業、販売しているかを知ることができる点もこれまでの日記にない特徴である。自ら本を作る人が増えた今、多くの作り手にとって貴重なリファレンスになるだろう。その手つきは極めて丁寧かつ自分を追い込むプロフェッショナルでもある。作家は締切に追われて書く人が多いイメージを抱きがちだが、植本さんの場合、締切を意識しつつも、それ以前に「書くこと」が大事で好きなんだろうなと伝わってくる。だからこそ、ここ二作のエッセイの完成度に納得できたし、それが実現している背景は、書かされているのではなく、書いている「発注なき書き手」だからなのかもしれない。さらに日記内でも言及されている通り、場当たり的にどんどんコネクトしていって、いつのまにか何かができあがり、そこに人が集まり、ものを売っていく。そんな巻き込み力にも圧倒された。  私が作ったZINEについて、ありがたいことに植本さんからたくさんご意見をいただいた。そこでプロの洗礼を味わったことも書いておきたい。苦くもいい経験だったから。自分は内容さえ良ければ読んでもらえると思い込んでおり「どうすれば確実に読まれ、届くのか」という視点をまったく持っていなかったのだ。確かに売上だけ見れば、一度買ってもらえれば数字上はそれで終わりである。しかし、実際に読まれ、人の心を動かすことがさまざまな可能性を生み出す。本が連れて行ってくれる未来は、読まれて初めて開けるからだ。  今回の日記を読むと、植本さんは、そうして多くの人に読まれた結果、そこから生まれる人間関係に支えられながら都市で暮らしている姿が克明に刻まれている。家族という閉じた枠組みではなくとも、互助のネットワークを自ら築くことで、家族観を拡張していく実践の記録でもある。限定特典のエッセイも、まさに既存の家族観を越境していく内容で、この日記集にふさわしいものと言えるだろう。今後は日記というよりエッセイにシフトしていくようなので、日記をまとまった形で読める機会は少なくなるかもしれない。それでも植本さんの日記だからこそ味わえる日記の面白さは間違いなくあるので、またいつか出して欲しい。
  • 2025年12月8日
    Θの散歩
    Θの散歩
    帯にある「本を読むことが子育てに与える影響について」という言葉にひかれて読んだ。まさに今の自分のすべてといっても過言ではないトピックなので、それはもう楽しく読み、このまま終わらないで欲しいと願うほどだった。本を読むことと、子どもを育てることが有機的に結びつき、それぞれが深い論考として展開される、唯一無二な小説だった。  主人公は著者と同名で、妻Qと子どもΘの三人家族。主人公が一年間の育休を取得し、妻が働いているという状況の中で、主人公が0歳の子どもと東京を中心に街を徘徊しながら、子どもが寝る隙間の時間で本を読んでいる。それだけの小説なのだが、これが滅法オモシロい。  古今東西の小説やエッセイをひたすら読み、その断片を思考の足場にしながら、自身の育児へとフィードバックしていく。エッセイは実体験に根ざしているからまだ理解できるとしても、小説の一節を切り取り、貼り付け、自らの解釈を上書きし、さらに自身の物語を構築していく様は、まさしくサンプリングであり、ヒップホップ的手法と言えるだろう。  サンプリング元になる本のチョイスも2025年とは思えないラインナップで興味深い。大江健三郎、田中小実昌、カフカ、井戸川斜子など、主人公は縦横無尽に読みまくっている。なかでも中心を担うのは大江健三郎である。正直「大江と育児」なんて想像もしていなかったが、大江には知的障害をもつ息子がいて、その子どもをモチーフにした小説がある。そういった小説の視点を借りて、育児を考察していく点が新鮮だった。こうした引用スタイルそのものが大江の特徴でもあるらしく、引用するスタイルをさらに引用する、まるでマトリョーシカのようだ。  さまざまな論考が展開される中でも興味深いのは、人が生まれてから「人間」になるまでの過程に関するものである。「人間になったなぁ」と思う瞬間が0〜2歳くらいまで毎日のように訪れる。それは身体、言語能力、心といった具体的な成長であるが、著者が考察しているのはもっと抽象的なものだ。  赤ちゃんの段階では「考える」ことはない。それは、主人公親子が頻繁に訪れる上野動物園にいる盲目のポニーのようで、赤ちゃんには空洞があるだけ。しかし、成長していく中で、空洞が何かで満たされていくことを「人間化」と称し、その意味を主人公はずっと考えている。この抽象的な感覚およびその思考過程をこんなに言葉にできるなんて、著者の言語感覚がいかに鋭いか。そして、「育児は見ることなのではないか?」という主張は、今年読んだ一連の育児に関する本に通ずるものがあった。 Θの中身、つまり私たちが「考える」という行為を取得してしまったことにより「考える」にとって代わられてしまったもので、幼いΘの内面がまだそれで満ちているものというのは、実はΘの外身にこそ孕まれているのではないか?だったら私がすべきことは、Θが何を考えているんだろうと無理やり私たちの側に引きつけて想像するよりも、ただΘのことをじっと、よく見ていなければならないんじゃないか?  また、男性である主人公が当たり前のように育児全般を担っている描写が画期的だ。実際に著者が育児に主体的に関わっていないと書けないだろう、ディテールの細かさに驚く。なかでも「ベビーカーだから重い本でも平気である」というのは、著者の明確な経験がそこには宿っていた。  一日中、赤子を相手にすることは確かに大変ではある。しかし、そのわずかな間隙をありがたがるように、ひたすら読書を続けていく。実質、読書日記の様相を呈しているので、ここまで述べてきた育児の話は、本著の両輪のうちの一つでしかなく、本が好きな人にとっては至福の瞬間の連続である。つまり、本を読んでいるときに時代や立場を超越し、自分の思考に何か違う視座をもたらす、あの瞬間がたくさん描かれているのだ。今や多くの人の余暇がSNSやゲームを中心としたスマホを眺める時間に捧げられているのだろうが、本著はそういった人たちに本を再び手に取らせる可能性さえ含んだ「本の小説」である。  育児に献身したことを子ども本人は覚えていない事実に主人公は戸惑いを覚えている。しかし、大江の小説を読み続けた先に待っていた「ご褒美」のような、そのことに関する解釈が飛び出す瞬間が描かれ、思わず膝を打った。自身の子どもの協調性について色々思うことが増える中で、その視座は大きな示唆となった。いい意味で諦念を抱きながら、子どもの姿を眺めることができるようになった。(大江の小説を読まずに獲得していることについて、この小説の主人公はいい気持ちはしないだろうが。)子どもの言動に思いをめぐらせて、もうすぐ4年。こうして自分の言葉で考えることこそが育児の喜びであり、苦悩でもあるということを改めて気づかせてくれる小説だった。
  • 2025年12月2日
    湖まで
    湖まで
    著者の名前をいろんな場面で拝見するものの、馴染みのない詩ということもあり実際の作品を読んだことがなかった中で、palm booksから小説がリリースされたということで読んだ。連作小説集で、つながりは緩やかにありつつ、それぞれ後味が異なっていて楽しく読んだ。  最初の短編は少し不思議なトーンで、目の前で起こる具体的な出来事と心象風景の重なりが独特の世界として立ち上がる。その意外性に驚かされたが、続く短編は一転して地に足のついたリアリティがあり、詩人である著者の「つかみ」としての配置なのかもしれない。  「別れと自立」が一つのテーマとして映った。誰かと生きていても、ふとしたきっかけで一人になる可能性はいつも身近にある。しかし、ただちに孤独が訪れるわけではなく、ゆるりとした連帯、それは既存の「家族」ではない、もっと広い概念で誰かと生きることについて書かれている。  私が特に好きだった短編は「次の足を出すところ」。五月の自然を捉えた冒頭の描写に心を掴まれた。状況説明ではなく、余白に満ちた情景描写こそ小説の醍醐味であり、久々に小説を読むことも相まって癒やされた。悲劇的な出来事を扱いつつも、それ以上に「足を踏み出す」という動作のアナロジーが強く胸を打った。でこぼこの地面を歩くとき、転ばずに前へ進むための一歩。車を運転するときにアクセルを踏み出す行為。それらが物語の冒頭と終わりで響き合い、美しい円環構造となっていた。  また、自立することは移動することを意味し、どの短編でも歩いている場面が多い。等高線が印象的なブックカバーは「移動」が本著の象徴であることを端的に表現した素晴らしいブックデザインだ。本著では詩歌、日記という著者の武器が小説の中へフィードバックされていて、著者の見本市のようでもあった。  「眼鏡のバレリーナのために」を読んだとき、どこかで見覚えがあると感じたが、既刊『palmstories あなた』に収録されていた短編の再録だった。前回はアンソロジーの一編として縦の比較ができる読み方だったが、今回は同じ主人公の周辺に焦点を当てた横展開で、小説の自由さとタイムレス性を楽しめた。  感触を大切にしている描写が印象的だった。陶器やギターといった曲線に人間がフィットする、何ともいえない運命的な瞬間が表現されている。確かに陶器やギターは見た目も大事だが、日々使うものだからこそ、手触りこそが大事で、「人生の手触り」がテーマの一つだとも感じられ、文字通りしっくりきた。AIなど実態のない価値がもてはやされる今、物体として存在することの意味を柔らかく表現してくれていた。次は日記を読んでみたい。
  • 2025年11月28日
    世の人 (暮らし, 02)
    DJ PATSAT『平凡な生活』を読んで、ずっと積んであった本著を読んだ。著者はDJ PATSATこと土井さんが経営するタマウマラで共に働いていた方で、日記に何度も登場する重要人物だ。自転車屋で二人とも文筆業を行っていること自体驚きだが、あまりにもブロークンな著者のスタイルが衝撃的な読書体験だった。  本著は、著者が大阪で過ごしていた日々を中心に書かれたエッセイ集。冒頭「ダルク体験記」から始まり、あまりにカジュアルなドラッグ描写に度肝を抜かれる。その描写は単にドラッグを嗜んでいるというだけではなく、どういった人がダルクにきているのか、薬物遍歴からその人たちの日常まで、細かく描かれており、こんな人が世の中にいるのかと何度も驚いた。(猫フーさんのエスタック中毒…!)  一方で友人や彼女といった周辺人物のバックグラウンドはほとんど紹介されないまま、過去と現在を行き来するような散文スタイルで自身の思いが朴訥なスタイルで綴られていく。文章に起承転結はなく、時間軸もバラバラで、何度も場面をスイッチしていく。著者はラッパーでもあるので、リリックのように書いているとも言えるが、正直読みにくかった。しかし、そんな中でも急に具体的なシーンが脳内に突如想起され、心にパーンと入ってくるラインがやってくる。そして、その何かを追い求めるように読み進めてしまう。まさにドラッグのような文章と言える。部分的に抜き出しても伝わらないかもしれないが、コンテキストの中に埋め込まれた瞬間に輝く、著者独自の筆力がなせる技だ。 仕事をして、お金がある程度あって、大事な人が笑っていて、これは当たり前というか、その暮らしの中でもほんの一瞬だけの、幸せなこと、気持ちのいいこと、目を見開くこと、息をのむこと、感動して涙が出ることなど、これらは本当に一瞬で、一瞬でなければ良いのにといつも思うけど絶対に一瞬だから、毎日を丁寧にそっと生きなくてはいけないと思う。 一緒なことは安心だった。暮らしの中で、そうやって定規を他に頼ってやっていると、時々どうしようもなく自分に立ち返ってしまう瞬間に、さてそれを引き剥がさないといけない。 自分の好きや嫌いが反射して、その返ってくる速度で自分というものを計って、その上で、その世界の中で、してもおかしくないことを決めていくような感じ。  私は大阪出身で著者とほぼ同世代、なおかつ出入りしていた場所が似通っており、あの頃、身近なところでこんなに破天荒な出来事が起こっていただなんて信じられなかった。ラッパーゆえのヒップホップ的なエピソードがいくつかあって、そこにもアガった。ダルクにK-MOONことGradice Niceのビート集があった話、MOBB DEEPの音が流れる中、部屋の壁に頭をぶつける姉、釜ヶ崎の夏祭りでの出番の話など。SHINGO★西成がいうところの「ズルムケ」のヒップホップ的な人生がそこにあり、著者が世で生きていくためにヒップホップや文学があるように映った。  表題作は宗教二世に関する話で、安倍晋三を殺害した山上被告の裁判が始まった今、タイムリーな話だ。統一教会ではないが、おなじく宗教にのめりこんだ親から子どもがどういった影響を受けるのか、なかなか知り得ない現実ばかりだった。自分たちと異なる信仰を持つ人を「世の人」と呼び、蔑んでいるエホバの思想と、著者が「世の人」に向ける眼差しのかけ算によってマジックが起こっていた。小説みたいな現実の話がたくさん読めたので、次は著者による小説を読んでみたい。
  • 2025年11月17日
    平凡な生活 / DJ PATSATの日記
    ずいぶん前に、Riverside Reading Clubの投稿で『DJ PATSATの日記』の存在を知り、買いたいと思ったときには既に入手できなくなっていたvol.1 & vol.2が文庫サイズで一冊にまとまり、書き下ろしも加わってリイシューということで読んだ。『PATSATSHIT』『ほんまのきもち』も楽しく読んだので期待していたが、本著はまさに原点にして頂点と言える。日記ブームの中、さまざまなスタイルの日記があるものの、この唯一無二性は他の追随を許さない。本著の言葉を借りるならば、「読む前と読んだ後では確実に見える景色が違う」、そういう類の本だった。  本著は、2020年の vol.1、2022年の vol.2、そして日付のない日記の三部構成。まず、装丁のかっこよさに目を奪われる。モノクロの版画のような写真(?)が外カバーとして巻かれた角ばった文庫。外で本を読むときは大抵ブックカバーしているが、装丁がかっこいいし、持ち歩きには最高のサイズなので、かばんにそのままポンと入れて、移動の合間に読むことが多かった。それは著者が一貫して伝え、実践し、語っている「街で生きる」というテーゼと響き合う行為であり、装丁によって行動が駆動される。そんな本という物体の魅力を改めて感じた。  vol.1 はコロナ禍真っ只中の日記。当時、人々がどう過ごしているのか知りたくて多くの日記を読んだが、今読むとまるでSFの世界であり、改めてあの頃の特異さを再認識した。著者は大阪・淡路で自転車屋を経営し、人と接して初めて成り立つ仕事をしている。そんな状況の中で、家族、同僚、街の人たちとどのように日々生きていたのかが描かれている。お店をやっていることで、いろんな人が訪ねてくるシーンが特に興味深い。自転車という誰もが使う交通手段、さらには土地柄もあいまって、個性豊かな人たちが続々とお店にやってくる。『PATSATSHIT』を読んだときも感じたが、鋭い観察眼と描写力に基づいた独特の文体は、まるで小説を読んでいるかのようだ。また、変わった客や悪意のある客のことを単に「わるい人」として一面的に描くのではなく、多面的に描いていることから、著者の優しさが伝わってきた。  本著は店舗日誌、読書日記、さまざまな日記的側面を持ち合わせているのだが、なかでも一番心に残ったのは、育児日記としての側面だった。著者には二人の子どもがおり、小学校・保育園で起こる悲喜交々に何度も感情を揺さぶられた。子どもたちが成長し、自分たちのコミュニティ、関係性を作っていく様をこんなに豊かに書けるのかと何度も唸らされた。特に長男のエピソードは、何気ない話なのだが、著者の筆力もあいまって忘れられないものばかりだ。友人とのけん玉バトルの顛末や、学校に行きたがらない場面で友人たちが登場する場面は涙してしまった。また、長男が周囲と協調しない姿を目にして、自身の「空気を読んできた」過去と照らし合わせ、自分を超えたと認識する場面は、なかなかできない思考の展開だ。  次男をめぐっては、保育園との関係性の構築が印象的だった。私自身も毎日の送り迎えの中で、保育園、幼稚園という場所の尊さを痛感する日々なわけだが、著者は自分とは別ベクトルで保育園をとらえている点が興味深かった。やはりここでも、お店に来るお客さんに対する眼差しと同様に圧倒的な鋭さと優しさが発揮されていた。先日読んだ『それがやさしさじゃ困る』にも通ずるが、大人は子どもを甘く見るのではなく、しっかり観察した結果に基づいてフィードバックする必要があると思うし、著者は自分の子どもだけではなく、子どもたち全体を本当の意味で「見ている」のだなと読んでいて何度も感じた。その眼差しを前に、自分が一体どれだけ見れているのだろうかと考えさせられた。  日々の出来事を記録するだけでも日記は面白いが、本著では、各出来事を起点に思想が展開していく点が、並の日記と一線を画している。読んでいるあいだ、インディペンデントであることの意義について何度も考えさせられた。本の引用も含め、これだけ自分の考えを言語化できて、さらには実践できる人間がどれだけいるだろうか。「ストリートナレッジ」とは本著のような作品のために用意された言葉だろう。このラインにハッとした人は全員読むべきクラシックだ。 *誰であれ、どのような行為であれ、人が人に手を差し伸べるということには、ある確実な物質的基盤があり、秩序があり、意味がある。その懸命な営みには、素直に美しいと思わせるものがある。瞬間的に芽生えた愛にはそれ自体としての目的はない。しかし思いやりの気持ちを積み重ねることによって、社会という本当に捉えどころのないものに対する観察と考えが深まってゆく。*
  • 2025年11月7日
    ディアンジェロ《ヴードゥー》がかけたグルーヴの呪文
    ディアンジェロの訃報はかなり応えた。彼自身の音楽が好きだったのはもちろんだが、彼のサウンドに影響を受けた音楽が、自分の嗜好の幹を形づくっているからだ。天才が早逝するのは宿命といえど、彼もその枠に入ってしまったことが本当に悲しい。亡くなってから色んな言説を目にし、耳にしたが、自分が好きだったアーティストに対して、安い言葉や見識でRIPされることが、こんなに辛いのかと初めて知った。そんな汚れた気持ちの中、救いを求めて読んだのが本著だった。繰り返し聞いてきた『Voodoo』がさらに輝き、深みを増す、そのリスニング体験を豊かにしてくれる最高の読書体験だった。  『Voodoo』を中心にディアンジェロの来歴、音楽を紐解いており、著者が女性であることが本著を特別なものにしている。あとがきで木津氏が書いているとおり、収録曲の「Untitled」をジェンダー視点で読み解いている点が新鮮だ。日本において『Voodoo』について語るとき「Untitled」のMVのセクシュアリティについて話すことは皆無だろう。著者自身の個人的な当時のエピソードを交えながら、新たな切り口で『Voodoo』を捉えている本著の象徴的なパートである。そして、このビデオが生み出したパブリックイメージと自身の本来の姿とのギャップに苦しみ、自暴自棄な行動を繰り返すようになってしまったディアンジェロの姿は、ポピュラリティとアートの狭間でもがいていた彼の人間味が最も現れているとも言える。  ジェンダーの観点でいえば、アンジー・ストーンとの関係も印象的だった。彼女も今年亡くなってしまっているわけだが、私生活および音楽制作を縁の下でディアンジェロを支えていた話は、著者が指摘する通り、もっと知られるべきだろう。マーケティングの観点で、アンジーの見た目が「ディアンジェロにふさわしくない」とされ、イベントの同伴が断られた話は2025年の今読むと信じられない。一方で、彼女との間に子どもが産まれたことが『Voodoo』の制作において大きな影響を与えていたこと、「Send It On」「Africa」は、子どもありきの曲だと知っると、また聞こえ方が変わってくる。  制作秘話については枚挙にいとまがない。『Chiken greece』はもともと『Like Water For Chocolate』でコモンが使う予定だったとか、「Devil’s Pie」はプレミアがキャニバス向けに作ったビートだったとか。「Booty」のドラムはギターアンプ、プロセッサーを通した音だったことなど。(「コモンはあのビートで何したらいいか、わかっていない」という言い草に笑った。)そして、『Voodoo』でのディアンジェロの多重ボーカルは、彼のボーカリストとしての力量が並ではないことを示すものだという指摘は、初めて気づかされた魅力だった。  なかでも、エレクトリック・レイディ・スタジオに集結したソウルエクリアンズ周りのアーティストたちは私が最も影響を受けた存在であり、ドラマーを務めたクエストラブを中心とした各メンバーとディアンジェロの当時のエピソードはどれも至極。皆がスタジオに入り浸り、革新的なことを志した結果、そこでケミストリーが起こっていたことがわかるし、本著を読んでから当時のアルバム群を聞くと、より一層豊かな音楽体験をもたらすこと請け合いだ。以下のラインはそのことを端的に表現している。 一部の人々には散漫で規律がないと考えられていた作品は、今という瞬間を大切にし、ディアンジェロと仲間たちをインスパイアしたR&B、ジャズ、ヒップホップのパイオニアのスピリットを受け入れるという、意図的な試みだった。  また、エンジニアがこれだけフォーカスされる作品もなかなかないだろう。ボブ・パワーが下地を作り、エレヴァド・ラッセルが『Voodoo』で花開いたアナログに対する徹底したこだわり。2025年の今でも、すべてアナログで制作することは驚異的だと感じるが、当時もちょうどアナログからデジタルへの過渡期。そのタイミングでも、「DとE」はアナログを貫き、唯一無二のサウンドプロダクションを実現したことは奇跡としか言いようがない。終盤で言及されているとおり、DAWの普及で、誰もが音楽を作ることができるようになったことは歓迎すべきことだ。しかし、熟練の演奏者がスタジオで何年もジャムし続けてアルバムを作るという予算をかけた制作法は、ハイパー資本主義の社会において選択肢にも上がらないだろう。テクノロジーの発展が音楽の発展に寄与していることは間違いないのだが、それと同時に切り捨ててしまっているものがある。『Voodoo』はそんな文明論まで感じさせてくれるアルバムなのだ。  95年の来日同行記を加筆修正した訳者あとがきも貴重だ。「ディアンジェロと日本」という観点であり、翻訳版ならではの内容となっている。来日時の日本での彼の立ち振る舞いで印象的だったのは、自分が出演したコンベンションで遭遇するミュージシャンに対して、知り合いかどうか問わず見かけるたびに挨拶していたというエピソード。しかも、それは日本人のミュージシャンに対しても同様に挨拶していたというのは驚きつつも、彼の音楽に対する真摯な姿勢からすれば納得できる話だ。  今まで幾度となく聞いてきたアルバムが、背景を知ることでさらに豊かに響く。ビハインド・ザ・ストーリーの重要性は、ストリーミングサービス普及の結果、光速で新譜が消費されていく今こそ顧みられるべきだ。私も新譜チェックは大好きだが、ときには立ち止まって、この音楽が何を意味し、自分にどんな感情を抱かせるのか考えたい。そんなときに、こういった書籍の存在はなにものにも変え難い。ネットでいくらでも情報は取れるが、体系的に整理されていることの価値を改めて痛感した。  やりきれない気持ちの中でも、最終的に救ってくれたのはやはりディアンジェロの音楽、そして彼にインスパイアされた音楽だった。Soulectionのトリビュートミックスはディアンジェロのレガシーを多角的に表現した、本当にリスペクトに溢れた内容だったので、ぜひ聞いてみてほしい。また、長い間沈黙を貫いていたクエストラブによる追悼文も日本語版で出ているので、そちらもマストチェック。改めてディアンジェロの冥福を祈ります。合掌。
  • 2025年11月1日
    それがやさしさじゃ困る
    それがやさしさじゃ困る
    植本さんが写真を担当されていると知って読んだ。子どもがあくびをしている表紙からは、朴訥で柔らかい内容を想像していたが、実際にはどこでも読んだことのない刺激的な教育論が詰まっており、そのギャップに驚いた。子どもと接することについて、これだけ言語化された書籍は、後にも先にも登場しないかもしれないと思わされるほどの傑作だった。  まず印象的だったことは、本著を手に取ったときの感触である。普段読む本ではおよそ感じない独特のツルツルとした質感からして、ただものではない気配が漂っている。内容は、鳥羽氏の各種媒体での連載と書き下ろしをテーマ別にまとめたもので、その合間に植本さんの写真が挟まれている。さらにページ下部には鳥羽氏による日記が添えられており、圧倒的な情報量だ。論考も日記もそれぞれ一冊の本にできるほどの分量があり、読後の満足感を考えると、この値段は破格に感じる。  メインでは、子どもとの関わりや教育に関する論考が中心に展開される。ときに重たく感じる箇所もあるが、実際の子どもとの触れ合いに裏打ちされた思索であることが、写真や日記によって可視化されており、構成として興味深い。特に写真の扱いが印象的だった。よくあるモノクロの挿絵的な扱いではなく、カラーで大胆に差し込まれ、裏面にはフィルム写真のような仕様が施されている芸の細かさ。写真を一つの独立した芸術として取り扱う意図が伝わってきて、その心意気に胸を打たれた。そして、植本さんの写真はもちろんバッチリな仕上がり。つい考え込んでしまいそうな瞬間に、子どもたちのなんでもない日常の姿、表情が、現実へ引き戻してくれる。  モノとしての完成度は当然ながら、中身も圧巻だった。鳥羽氏は塾、単位制高校、オルタナティブスクールを運営しており、日々子どもと向き合う中での思索があますことなく書かれている。タイトルのとおり、品行方正であることが当然の社会で、「やさしさ」があらゆる場面で子どもに対して発揮される現在、本当にそれは子どものためになっているのか?大人が思考を停止し、責任を放棄するための仮初の「やさしさ」ではないか?ということが一冊を通じて問われている。  現役の中高生と接する機会のない者にとって、若者たちの価値観や、そこに呼応する親の状況をこれほど丁寧に描いてくれることは貴重だ。その背景にあるのは子どもに対する愛である。ページ下部の日記は、SNSのつぶやきほどの短さながら、そこで垣間見える子どもたちに対する実直な視線が、本著の説得力を強固なものにしている。評論家が、机上で構築した教育論ではなく、日々の実践と観察から導き出された言葉であることが、本書が唯一無二の存在たらしめている。  私自身は三歳の子どもを育てており、本著の主な対象である小・中・高校生とは距離がある。それでも広い意味での教育論として、心にグサグサ刺さることが山ほどあった。たとえば、教育水準の高い学区に引っ越し、そこに安住する大人の心理を鋭く突いた箇所では、自分の考えを見透かされたようでぐうの音も出なかった。  一方で、「子どもの自由な選択」にも鋭いメスをいれていく。自由という言葉の裏に、子どもに責任を丸ごと押しつける残酷さが潜んでいることを指摘しており、これも耳が痛かった。言われてみれば、子どもは深く考えずに選ぶことも多いのに、その結果の責任だけ大人並みに負わせるのは酷な話である。とはいえ、実際には「やらせてみないと分からない」という因果応報的な態度は、大なり、小なりやってしまいがちな自分がおり、強く考えさせられた。  父親の育児参加が必ずしもプラスに働くわけではない懸念についても納得した。子どもにとって、親は小言ばかりのウザったい存在であるのに、それが二人になってしまえば、子どもは逃げ場がなくなるという指摘にハッとした。なんとなく妻が怒っているときに自分は怒る側にならないようにしているし、逆も然りなのだが、内容によっては二人で怒ってしまう可能性がゼロではないので胸に留めておきたい。  一貫して、鳥羽氏は大人が「こんなもんだろう」と思い込んでいる前提条件に対して懐疑的な視線を投げ続ける。そこには大人が子どもを未熟な存在と見くびっていること、またn=1という極めて少ない母数である「自分」と子どもを比較して、子どものことを安直に捉えてしまう危うさへの問題意識がある。  なかでも考えさせられたのは「学校に行きたくない」と言われた場合の対処である。右に倣え的な日本の教育制度自体に懐疑的ではあるものの、どうしても横一線から脱落するというイメージが自分を苛んでくる。自分自身がどうしても行きたくないほど、学校に嫌気が差した経験もないので、もし自分の子どもがそう言ったとき、どう対処できるのだろうか?と繰り返し自問自答していた。  日記パートでは、自分が中高生の親ではないこともあり、自分の過去を振り返ることが多かった。特に受験期のことは、自分で能動的に選択したというよりも、自分が育った環境に流されるように進んできたこともあり、どうすれば自分が主体的な学びができたのだろうかと考えさせられた。短く、遠慮のない、芯をくっている言葉に何度もハッとさせられた。 他人の期待に応えるような人生は自分の人生ではないから。自分に何かを期待してくる人を遠ざけて生きていくということは、大人にとっても大事な知恵。  巻末で「反省する必要はない」と書かれていたものの、本著を読んだ多くの人が、自分の子どもに対する解像度の甘さにどうしても疑いの目を持たざるを得ないのは事実だろう。しかし、鳥羽氏は自分の「正しさ」を主張しているわけではなく、あくまで自分の視点から見た子どもの話と、それに基づいた自分の考えに終始している。日記にあった以下のラインが端的に本著のポリシーを表しているように感じられた。 賛否両論白熱しているときにどちらが正しいというより、両論あることが波打ち際の防波堤になって現実や倫理を支えていることが度々ある。だから、必ずしも二者のどちらかを選ばなければならないわけではないし、明確な解決法や結論が必要とは限らない。  日々、心も体も変化していく子どもという動的な存在と向き合うにあたり、大人は硬直した「正しさ」に頼るのではなく、臨機応変に、懐深く寄り添うことの重要性を思い知った一冊だった。
  • 2025年10月22日
    中川ひろたかグラフィティ: 歌・子ども・絵本の25年
    例によって、子どもが図書館で本を探したり読んだりしているあいだ、大人向けの絵本関連書を眺めていたら、本著が目に留まり読んでみた。なぜなら、村上康成&中川ひろたかのタッグ作品は、子どものお気に入りの絵本だからだ。そして、保育園の卒園式で歌った「みんなともだち」の作者でもある。そんな著者がどういった経緯で子ども向けの歌や絵本を生業にすることになったのか。その経緯を知ることができて、興味深かった。  本著はタイトルどおり自叙伝であり、著者のキャリアを振り返る一冊となっている。文中には、ささめやゆきという版画家の絵も随所に登場、改行も多く、ページ下部に余白を多く取った独特のレイアウトが軽やかさを感じさせる。読む前は絵本作家がメインの仕事かと思っていたが、もともと作曲、歌手活動が本業で、絵本は後年手がけるようになったらしい。「世界中の子どもたちが」を手がけたのも著者らしく、自分の知っている歌の中に彼がいることに驚いた。  大学を中退して、保育園で働き始めるところから社会人としてのキャリアがスタート。1970年代前半までは「保育できるのは女性のみ」と児童福祉法で決まっていたなんて信じられなかった。そのため、実際には保育に携わっているものの、書面上は「用務員」として雇われていたというエピソードは時代を感じる。  朴訥な文体もあいまって、行き当たりばったりで人生を進めているように見えるが、その自由さこそが魅力である。ネットのない時代においては人の繋がりが大事で、人脈が彼に新しい仕事を次々ともたらしていく。とはいえ、人脈だけでなんとかなるわけではなく、著者が驚異的なペースで音楽を作り続けていることが最大の要因だ。とにかくいろんな人を巻き込んで、録音、ライブに奔走する姿はバイタリティの塊である。そこに打算はなく、自分の表現で子どもを楽しませたいという純粋な気持ちが伝わってきた。  登場人物もさまざまで、一番驚いたのはケロポンズのメンバーと著者が同じバンドのメンバーだったということである。問答無用のクラシック「エビカニクス」(YouTubeの再生回数、1.7億回…!)の生みの親であるわけだが、そんな彼女たちのバックグラウンドを知れたことは思わぬ収穫であった。そもそも大人と子どもが一緒に見にいけるバンドがあったこと自体、驚きである。自分の知る限り、コンサートといえば、「おかあさんといっしょ」や「しなプシュ」くらいで、それらはあくまでショーであり、音楽ライブという雰囲気でもない。バンドサウンドを子どもと一緒に楽しめる機会があるのであれば行きたい。  一番読みたかった村上康成との出会いと関係についても書かれていた。村上が絵本作家としては先輩であり、著者が教えを乞うような形で関係が始まり「さつまのおいも」の大ヒットによって、この黄金コンビが確立していったようだ。村上の柔らかいタッチの絵と、著者のリズム感のある文体、このコンビネーションが子どもの心を掴んで離さないのだろう。その背景には、著者の保育現場での経験が生きている。抽象的に「子ども向け」を考えるのではなく、具体的に当時の子どもたちを思い浮かべ、彼らに語りかけるように物語を作る。そんな創作姿勢を知ることができたのは大きな発見だった。  また、今年亡くなってしまった谷川俊太郎とのエピソードも印象的だった。著者が、彼の言葉に心酔し、「同じ空の下に住みたい」と思って阿佐ヶ谷に住んでいたことを後年伝えると、谷川が「それは同じ空じゃなく、同じ雲の下だよ」と返したという話は、あまりに谷川俊太郎すぎる。  子どもの絵本をきっかけに、自分の知らなかった世界が広がっていくのは楽しい。これからどんな本を好きになっていくのか、引き続きその様子を見守っていきたい。
  • 2025年10月20日
    ライムスター宇多丸の「ラップ史」入門
    ライムスター宇多丸の「ラップ史」入門
    宇多丸史観の日本語ラップについて読んだので、当人が自ら語るヒップホップ史の本を読んだ。初版は2018年、私がブックオフでサルベージしたのは2024年の5刷。ヒップホップブームの中で、多くの人がまず最初にこれを手に取り、理解を深めようとしていることがうかがえる。読みやすさ、まとまり具合でいえば、入門書としてこれ以上のものはない。ヒップホップに興味を持ち始めた人にはおすすめだし、私のように長年聞いてきたヘッズでも新たな発見がたくさんあり興味深かった。  本著は2018年にNHK-FMで放送された10時間にわたるヒップホップ特番の書き起こしである。司会はRHYMSTER 宇多丸、サポートに音楽ライターの高橋芳朗&渡辺志保、音出しなどでDJ YANATAKEというメンバー編成。構成としては、アメリカのヒップホップの歴史を年代順に辿りながら、その時代の日本語ラップシーンゲストを交えつつ、歴史を振り返っていく。つまり、「アメリカで何が起きていたか」と「日本ではどう受け止め、どう応答していたか」をパラレルに描いている点が本書の大きな特徴である。  こういった構成になっているのは、日本語ラップが常にアメリカのヒップホップをリファレンスし、自分たちのスタイルを模索してきたからに他ならない。その第一人者である宇多丸、BOSE、Zeebraが語っている内容は、「どうすれば日本語がラップとしてかっこよく聞こえるか」というラップの聞こえ方の話が中心で、そこに至るまでの試行錯誤が伝わってきた。番組の締めには、当時1stアルバムを出したばかりのBAD HOPが登場し、スタジオライブで幕を閉じる。アメリカの文脈を踏まえつつ日本語で表現する、その継承と更新を象徴する構成だ。日本語ラップの現状の盛り上がりは、国内アーティストを中心としたドメスティックなものにとどまっているように最近感じる。その中で、YZERRが自らメディアを立ち上げ、超弩級のアメリカのラッパーたちと日本のラッパーというラインナップでヒップホップ特化のフェスを開催したことは、本著の意図の延長線にあると言えるだろう。本著でも語られているように、ヒップホップは時代ごとにアップデートされる共通ルールのもとで、世界規模の競争が行われるゲーム的な音楽なのだ。だからこそ、アメリカを中心としたグローバルなトレンドを常に参照し、その文脈の中で日本語ラップを位置づける視点は欠かせない。  日本語ラップのパートでスリリングだったのは、MC漢が登場する場面だ。この二人がNHK-FMで当時のことを振り返るなんて企画を立案、実行した担当者の方々にリスペクト。前述の二者は同世代かつ交流もあるわけだが、世代も信条も異なる中で、宇多丸がMC漢のオリジナリティの高いスタイルの起源を紐解いていくあたりは知らないことだらけで驚いた。今でこそYouTubeで共演するレベルの関係性だが、2018年段階では貴重な邂逅であり、文字だけども緊張感がちゃんと伝わってきた。  アメリカサイドは、基本的なヒップホップ史を改めて俯瞰できる構成になっており、自分の中のタイムラインが整理できた。特に東海岸、西海岸以外のヒップホップに理解が浅い自分にとっては、南部の歴史を流れで知ることができて勉強になった。合間に各人が持っているヒップホップ小ネタが挟まれるのがオモシロく、宇多丸はライター時代のインタビューエピソード、高橋氏はヒップホップ以外の音楽とヒップホップの関係性、渡辺氏はスラング、ゴシップなど鮮度の高い情報、DJ YANATAKEはレコ屋店員時代の経験といった形で、それぞれの得意分野が相補的に機能し、情報に厚みが増していた。  歴史の授業あるあるだが、黎明期〜2000年代までの説明が丁寧になった結果、近年の動向が相対的に弱くなってはいる。特にヒップホップは50年の歴史の中で目まぐるしくスタイルが変遷してきており、最近のトレンドについて知りたいと思って読んだ人は肩透かしをくらうかもしれない。しかし、ヒップホップのオモシロいところは、過去をサンプリングという形で何度でも再評価、再構築するところだ。ゆえにクラシックを知っていることで、新しい曲のコンテキストを深く味わうことができる。だからこそ、こういった形で体系的に歴史を網羅した一冊は定番として読み継がれていくだろう。
  • 2025年10月19日
    ヘルシンキ 生活の練習はつづく
    一作目がオモシロかったので、続編である本著も読んだ。毎年、友人とポッドキャストでその年読んだ本について話しているが、2024年の友人の4位だった。前作でも、よく見かける「フィンランド万歳本」とは異なるシャープな視点が印象的だったが、本著はさらに先鋭化、フィンランドの考え方、歴史的背景により迫った内容になっていた。  著者は子どもを二人を育てながら、ヘルシンキ大学で働いている。日本とフィンランドを往復する生活を送っている。仕事と家事をこなす中で著者が感じたことがエッセイ以上、論文未満くらいの温度感で書かれており、読みやすさと読みごたえのバランスが絶妙である。  第一章は前作の延長線上とも言える内容だったが、第二章、第三章の「戦争と平和」で一気にギアが変わる。戦争は突然起こる、そのリアリティを体現するかのように唐突に始まるので、面食らった。ここでは、ウクライナとロシアの戦争がフィンランドでどのように受け止められ、何が起こったのか、さらに「フィンランドと戦争」というテーマのもとで、歴史的背景を含めて掘り下げられていた。  「フィンランドって徴兵制があったような…」という程度の知識しかなかった私にとって、2023年のフィンランドのNATOへの加入についてリアルタイムで追いかける描写は刺激的だった。地政学的なバランスの上で、ロシアと西洋諸国のあいだに立つ「中立国家」としての立場から、ウクライナ侵攻によりバランスが変化、フィンランドはNATOへ加入した。地政学としての戦争、実際に生活の中でみる戦争。マクロとミクロの視点を使い分けながら、大陸として地続きの近隣で戦争が起こるとどうなるのか?日本では体験し得ない現実の数々が興味深かった。  本著を通底するテーマとしては「権利」が挙げられる。近年では、排外主義とセットで語られることも多い「特権」や、「人権」とは何か?など、フィンランドで移民の立場になったからこそ見えてくる、権利のあり方に関する論考は読み応えがある。前作が制度をベースにした話だったとすれば、本著ではその背景にあるフィンランドの根本的な思想にまで踏み込んでいる。その議論にあたっては、著者が在日韓国人として日本で生きてきた経験がオーバーラップしていく。客観的にフィンランドの事情を知るだけではない、主観のレイヤーが入ってくることで唯一無二な一冊となっていた。  また、成長した二人の子どもの視点が多く取り入れられているのも特徴的だ。その率直な発言が、しばしば硬くなりがちな議論をほどよくほぐしている。前作から引き続きバリバリの関西弁なのだが、そこも先鋭化して明確に京都弁になっているところもオモシロい。子どもの芯をくった発言は、SNSでは格好のバズ案件であり、本著でもある種の混ぜ返し役として繰り返し登場するわけだが、それでも著者はこれを良しとはしない。なぜなら「子どもの無垢な発言は社会規範、知識不足を子どもの理屈で補っているから」と書かれており、その精緻な分析に膝を打った。  「普通」に関する議論も目から鱗だった。もう長いあいだ、「多様性」「みんなちがってみんないい」といった言葉が使われてきた一方で、今やそれらが形骸化していることは否めない。それは発信している側のインクルージョン的なアプローチ、特定の規範(つまり普通)からはみ出した人間を受け入れる、この権力勾配に皆がうっすら気づいているからだろう。フィンランドでは、普通は存在せず、それぞれは異なっており、全員が特殊なのだという。これは「右に倣え」の日本に住んでいると感じづらい。当然、その精神が役立つ場面があることは理解しつつも、今の政治や社会状況を鑑みると、その「倣え」があまりに押し付けがましい場面を散見し辟易とするのだった。SIMI LABよろしく「普通って何?常識って何?んなもんガソリンぶっかけ火つけちまえ」というラインを信条として生きてきたが、ガソリンぶっかけて火をつけなくても「その普通も特殊である」という一歩引いた大人の視野を本著のおかげで手に入れることができた。  政治との距離感に関しても考えさせらることが多く、自分の意見を伝えること、またその伝え方を、子どもたちは大人の振る舞いから学ぶことを痛感した。つまり、大人たちが自分の意見や不平不満をきちんと伝える姿を見せることは大切なのだ。そして、フィンランドでは、声をあげることは自分のためではなく、みんなのためだという認識があるという話は驚くしかなかった。また、意見と人間をしっかり分離する必要性も著者は唱えていた。正直、今の時代、「レッテル貼り」という言葉のとおり、その態度は難しい場面も多いが、対話しなければ、社会は前進していかないことは間違いないので、肝に命じたい。(私はとても不得意…)  終盤、一人で完結せず、他者と集団をつくって実現していくことの重要性が語られていた。現代社会では個人主義が進み、何でも自己完結しがちだが、だからこそ「集団で何かを成す」練習が必要だという。フィンランドと日本を単純に比較できるわけではないが、フィンランドという鏡を通して日本の価値観の歪みを照らし出す本著は、読み終えたあとも長く考えさせられる一冊だった。
  • 2025年10月9日
    本が生まれるいちばん側で
    空前のZINEブームの中、私もその流れに乗るようにこれまで二冊を制作してきた。本にそこまで関心がない人にとっては、なぜZINEがこれほどまでに盛り上がっているのか不思議に思うかもしれない。本著は、そんな「本を作ることの醍醐味」を印刷業の視点から解きほぐしてくれており、自分の欲求が言語化されているようだった。  長野県松本市にある藤原印刷で働く藤原兄弟。二人とも東京出身で、東京で印刷とは異なる職に就いたのち、祖母が創業し母が継いだ藤原印刷で働き始める。出版業界の斜陽化が叫ばれて久しいが、印刷業もまた同様に厳しい。既存の堅実な仕事だけでは先行きが見えない中、彼らは個人出版の印刷を新たに受注し始めた。そんな挑戦の歩みと、実際に手がけた作品の背景が丁寧に綴られている。  現在、ZINEの印刷において主流となっているのは、ネットプリントであろう。私自身も小ロットかつ安価に制作できるその利便性から活用している。本著ではその利便性を認めつつも、「本が生まれる」過程そのものをもっと楽しんで欲しいと語られており、装丁を考え、制作することの面白さが、具体例と共に説かれていてワクワクした。  これまで私は「本は中身がすべて」と思っていたが、実際に作ってみて気づかされたのは、「モノとしての佇まい」が手に取られるかどうかを大きく左右するということだった。本著には、そんな「見た目」をいかに工夫できるか、その知恵と情熱がこれでもかと詰まっている。兄弟がともにベンチャー企業で働いていた経験も影響してか、本作りに対する前のめりなエネルギーを感じる。営利企業である以上、利益は当然大切であるものの、クライアントに最適な答えを導き出そうとする社内全体の活気が伝わってきた。  装丁がユニークな本の事例がたくさん紹介されている、その本自体の作りがユニークというメタ構成も見事である。一番わかりやすい例として、本文に五種類もの紙が使われている点が挙げられる。さらに、文字をあえて薄く印刷する技術なども実物で提示されており、説得力がある。  情報の中心は今やインターネットにあることは間違いない。しかし、その情報は流動的であり、いつまで残っているかもわからない不安定なものだ。そんな状況で、ZINEがブームになっているのは、本著でいうところの「閉じる」行為によって、情報や感情を固定したい欲望が背景にあるのだろう。私自身もブログで書いていた書評やポッドキャストの書き起こしをもとにZINEを制作した。ネット上で読んだり聞いたりできるにもかかわらず、多くの人に手に取っていただいたのれは、発散していた情報を「閉じる」という行為によって文脈を与えられたからだと感じる。本著にある「自分が編み上げた世界」という表現は、まさにその感覚を言い当てている。 紙の本は印刷された瞬間に情報が「固定」される。つくり手にとっては「伝えたいことをノイズなく齟齬なく伝えられる」ということだ。自分が編みあげた世界に読み手をぐるぐる巻き込むことができる。  終盤の「出版と権威」に関する話も示唆的だ。藤原印刷やネットプリントのように個人の印刷を請け負うサービスや、電子書籍が登場する以前、本を作る行為は特権的なものであった。つまり、本を発行するには、誰かに認められる必要があったわけだ。しかし、今は誰もが自分の意思で本を作ることができる。その自由を謳歌するように、多様な立場の人が本を作ることで、世界が少しずつ前進していく。本著の高らかな宣言には多くの作り手が勇気づけられるだろう。  奥付のクレジットも通常よりも詳しくなっており、本づくりの工程に、どれだけたくさんの人が携わっていることが明示されていた。「クラフトプレス」ならではの心意気と言える。自分の今のスケールだと藤原印刷で依頼するほどではないのかと正直思ってしまうが、いつかお願いできる日が来ればと思わずにはいられない。
  • 2025年10月2日
    日本語ラップ 繰り返し首を縦に振ること
    日本語ラップに関する批評の本ということで読んだ。日本語ラップを批評的に扱う作品は、先日読んだ『アンビバレント・ヒップホップ』などがあるが、依然として数は少ない。そうした状況において、本書は批評という切り口から本格派の登場を告げる一冊であり、日本語ラップを聴く楽しさを論理的に理解できる醍醐味がふんだんに詰まっていた。  三部から構成されており、第一部が日本語ラップ概論、第二部が批評論、第三部が具体的な作品批評としてSEEDAのアルバム『花と雨』を取り上げている。第一部は著者の日本語ラップ観を提示する宣言のような章で、テーマは「一人称」である。ヒップホップが他の音楽と決定的に異なるのは、極端にパーソナル性を要求する点だと説かれる。  その「一人称」を起点に展開される「宇多丸史観」は本著の白眉である。現在では映画批評などを通じ、日本カルチャーにおける批評的眼差しの第一人者といえる宇多丸だが、彼が日本語ラップにおいて打ち立てた「一人称」こそが重要であり、すべての始まりだったという見立ては興味深い。当初は空洞だった「一人称」に、さまざまな出自のラッパーが登場することで、日本語ラップが本来のヒップホップのあり方に近づいていく流れに、まさしく首を縦に振った。宇多丸の批評的立場を真正面から評価する言説がほとんどなかった中で、本書は歴史的な一冊といえる。長年ヒップホップを聴き続けてきたリスナーだからこそ得られる視座と言えるだろう。  また、いとうせいこうが「日本語ラップの創始者」とされることへの違和感が見事に言語化されていた点も印象深い。ヒップホップを「盗み、差異化する概念」として捉えるか、それともオーセンティックな音楽として「ヒップホップ」に忠実であるか。この二つをわけて論じることで、日本語ラップにおけるアティチュードの重要性が浮かび上がる。これは現行シーンのラッパーにも当てはまる課題だろう。海外で流行するスタイルをそのまま日本語で行うのか、それとも異化させて日本語の表現としてのヒップホップを模索するのか。そのアティチュードはいつの時代も問われるからこそ、本著で改めて整理されたことの意味は大きい。  第二部は批評そのものについて議論が展開される。正直にいえば難解で、日本語ラップが好きで読み始めた人はここで挫折してしまうかもしれない。私自身も、著者の主張の半分も理解できているか、怪しいところである。議論が抽象的かつ、さまざまな言説が引用され、それこそサンプリングミュージックよろしく、チョップ&フリップしているようだからだ。元ネタにあたる哲学的な議論の難解さに加えて、さまざまな論点を接続していくので、この手の言説に明るくないと厳しいものがある。しかし、この手法こそが日本語ラップ的な批評の実践であり、以下のラインはそれが端的に表現されていた。 言葉を名で呼び、連関から破壊的に抜き取り、それを新たなテクストのうえで韻を踏ませて。根源へ引き戻す過程を経て、引用された言葉に新たな「死語の生」を生きさせること。  わかりやすいのはタイトルにある「繰り返し首を縦に振ること」と批評の関係性である。この動作は、BPMが85〜100ほどのヒップホップの曲に対してリアクションする動作である。ここから「反復」「肯定」という要素を抽出して、本人の宣言どおり日本語ラップ的に「反復」「肯定」を論じていく。「なるほど」という言葉を多用することで、「反復」「肯定」をリテラルに表現することで、離脱しそうな読者を置いていかないような工夫がなされていた。  第二部は第三部で楽曲批評を進めるための準備段階と位置づけられるが、著者がここまで徹底的に理論武装している背景には、日本語ラップ批評に向けられる、ラッパーやリスナーからの否定的な眼差しを意識してのことだろう。「お前が頑張れ 似非評論家」というSALUのパンチラインに象徴されるように「一人称」の音楽であるからこそ、本人の意向が他の音楽よりも重視される。その中で第三者が日本語ラップを批評する意義をどう担保するのか?著者はその問いに向き合うため、これだけ理論武装しているとも言える。冒頭で宣言しているとおり、批評は中立であったり、対象の意向に沿っている必要はない。著者の言い方を借りれば「より偏向した、より差異的」な視座だからこそ、日本語ラップの本質に迫っていくことができる。  難解な議論の中でも、具体的に日本語ラップが参照されることで理解が進む場面もあった。PUNPEEのサンプリングセンスとベンヤミンの自然史概念を接続した議論や、RUMI「あさがえり」に対するアナロジー的批評には強く心を動かされた。必ずしも有名でない曲でも、批評によって光が当たり再び輝き出す。このマジックこそ批評の醍醐味だろう。  第三部ではいよいよ『花と雨』の研究・批評が展開される。日本語ラップを代表するクラシックであり、特に30代〜40代のヘッズにとって特別な一枚だが、ここでは「日本語ラップを語る」という行為そのものを一段引き上げる試みがなされていた。押韻を軸とした批評の眼差しを日本語ラップに向けることで、思いもよらない解釈へと導かれていく。  画期的だと感じたのは、バースを意訳している点である。意訳してしまうとラップの行間に宿るポエジーを削ぎ落とすため、野暮ったい印象は否めない。しかし、この作業を通じて浮かび上がる解釈の豊かさは他にない体験だった。理論を背景に押韻を軸とした批評が深度を増し「一人称」の音楽としてのSEEDAの圧倒的な描写力が浮かび上がる。そこにBESやNORIKIYOといった仲間が関連し、複数の「一人称」が連帯を生む様が痛快に描かれる。「花と雨」と「水と油」の対比、SEEDAと雨のモチーフの関係性など、聴き込んできた曲にも新鮮な視点が与えられる。さらに「Sai-Bai-Man」のホモフォビア的リリックを大麻というメイントピックと接続し反転させる批評も見事であった。ラストで提示される「遠く韻を踏んでいる」という押韻の新たな視座は、『花と雨』の最深部に到達したかのような感覚さえあった。  現在の日本語ラップは人気拡大に伴い、爆発的なプレイヤー数が増加し、リリース量が過去に比べて膨大になっている。したがって、一曲ごと、もしくはアルバム単位で、これだけ真剣に向き合うことは難しい。しかし、本著を読むと、向き合えば向き合うほど、音楽の体験が豊かになることがわかる。実際、この本を読んでから『花と雨』を聞くと、今まで幾度となく聞いているにも関わらず、リスニング体験に「新たな生」が付与されたようだった。  本著で論じられている日本語ラップは、現在のメインストリームとはやや距離がある。今の日本語ラップにおいて、首を縦に振ってリアクションする曲は多数派とは言えないからだ。トラップ登場以降の日本語ラップのリアクションは、首というより全身を揺らす、より身体性の高い音楽となっている。さらに本書で批判的に扱われたJ性も、Jポップ的なメロディーを特徴としたハイパーポップを筆頭に若い世代では人気を博している。ストリーミング時代のグローバルな音楽市場では「内なるJ」が自身の個性、オリジナリティとして考える新世代のラッパーも登場しているからだ。もし次作があるのであれば、より現行シーンの日本語ラップについて、第三章のような形で研究されたものが読みたい。
  • 2025年9月29日
    ブラック・カルチャー
    このタイトルで岩波新書となれば、読まざるを得ないと思って手に取った。ヒップホップをはじめ、アメリカ、イギリスのブラック・ミュージックが好きな人間であればあるほど、「ブラック」という呼称について考えをめぐらせることになる。本著では、大西洋を軸に据えることで、宗主国の視点だけでなく、オリジンであるアフリカに焦点を当てている点が新鮮だった。  タイトルどおり、ブラック、つまりアフリカの人々が奴隷として北米や南米(著者はアメリカスと呼んでいる)へ連行された結果、誕生したカルチャーの変遷を追った一冊となっている。ドラマ『ザ・ルーツ』、映画『それでも世は明ける』、小説『地下鉄道』など、アメリカにおける奴隷制度を題材にした作品は色々と見たり、読んだりしてきたが、それでも抜け落ちている視点がまだまだあることを痛感させられる。近視眼的ではなく、もっと俯瞰した形で、北米に閉じないアメリカスとアフリカの関係性を捉えることで、文化の豊かさをさらに噛み締められるのだ。  ここ日本でもヒップホップが爆発的人気を獲得している今、ヒップホップのルーツとどう向き合うべきか?という問いは、しばしば問われがちだ。つまり、それが借り物の文化であることに自覚的かどうか。しかし「貸し借り」という窮屈な図式に陥るよりも、本著を読むと、アフリカの人々が連綿と伝承してきた音楽スタイルの延長線上に、日本のヒップホップが存在していることに気づかされ、歴史の壮大さに対して自然と敬意が芽生える。それを可能にしているのは、著者が「環大西洋」という広い領域を対象に、現行のブラック・ミュージックを位置付けているからだ。また、ブラック・カルチャーはアフリカ系アメリカンが占有するものではないことを丁寧に示しており、後ろめたい気持ちがいくばくか和らげられる人もいるだろう。(決して盗用の肯定ではないことは補足しておく。) 「自分は〜である」とその反対の「他者は〜である」というアイデンティティ画定の呪縛を解除し、絶えず混交状態を生きている私たちの生の実態をむしろ見つめましょう。そのことを教えてくれるのもブラック・カルチャーです。ブラック・カルチャーが植民者の文化を受容し、何世代もの創意と工夫によって自文化をつくりあげてきたように、私たち一人ひとりもまた、日本語をはじめとする文化を共有しながらも、世界のさまざまな文化にかかわり、ときに他者の文化を自己の属性に変えながら、生きています。  「ブラック・カルチャー」とはなっているが、音楽が一番フォーカスされているテーマである。奴隷制によりアフリカの各民族が分断され、奴隷としてアメリカスで過酷な労働に従事する中で、なんとか伝承されてきたのは、口頭伝承だからこそ。文字に残されなかったがゆえのニュアンスがメロディやリズムに息づき、その揺らぎがブラック・ミュージックのグルーヴを生んでいる。今ではポップミュージックにも大きく浸透し、多くの人々を惹きつけてやまない。文字の記録こそ進んだ文明の証とされがちだが、必ずしもそうではないことを示している点も興味深い。 西洋音楽が楽譜に書いた理論を再現するという抽象的世界から出発するのに対し、アメリカスの奴隷制社会から生まれた音楽は、奏でられる音を聴き、真似て覚えるという個別・具体的世界から生まれてきた現実と無関係ではないはずです。  世の中では「新しさ」が重視され、斬新であることが称揚されがちだが、本当にそうだろうか。著者はブラック・ミュージックの性質を思想家のアミリ・バラカンの概念を用いつつ「変わりゆく同じもの」だと主張している。単純に「新しい」というだけではなく、その未来は過去から生み出されている。ヒップホップのサンプリングはまさに最たるものだろう。偶然なのか、この「変わりゆく同じもの」をテーマにした日本語ラップの曲を思い出した。  新書とは思えないほど広範な議論が展開、紹介されており、ここで紹介したのはほんの一部だ。「ブラック・ミュージック」好きの方は、ぜひ読んでほしい一冊。
  • 2025年9月18日
    ディック・ブルーナ ぼくのこと、ミッフィーのこと
    子どもがいつからかミッフィーのことを好きになった。二歳ごろから好きな気持ちが顕著になり、絵本を読んだり、アニメを見たり、フィギュアでごっこ遊びをしている。図書館に絵本をよく借りにいくのだが、最近は自分で探してきてしばらく眺めていることも多く、こちらが手持ち無沙汰になる。そんなとき、子ども本のフロアにある「絵本・児童書研究」といった大人向けの棚を見ることが習慣になり、そこで本著を見つけてオモシロそうと思い読んだ。ちょうどZINEの仕上げを進める中で、クリエティビティに煮詰まっていたのだが、光明が差すようなクリエイティブ論に救われた。また、ミッフィーに関する知らなかった情報がたくさん載っていて、そちらも興味深かった。  日本に来日したブルーナ氏にインタビューした内容がまとまった一冊となっている。一問一答形式で、彼自身の人生を振り返りつつ、ミッフィー制作の裏話が数多く明かされている。 冒頭で家族との関係性について問われ、パートナーに真っ先に作品を見せると話していた。その理由は「作品がひとりよがりになっていないだろうか?」という不安からだという。終盤にも同じようなクリエイティブ論があり、特に次の言葉に心を打たれた。 どれだけ描いても、慣れた仕事であっても、その出来ばえに謙虚になることは、創作活動に必要です。 作品のスタイルは自然に生まれてくるものではなく、探し求めるものです。(中略)スタイルの探求というのは、絶えず発展していくプロセスなのです。今もそのプロセスの途中にいると思っています。 自分は自分を客観的に見ることはできません。だから、ぼくには作品を正直に評価してくれる、信頼できる批評家が必要なのです。  第二次大戦の戦火はオランダにも及んでおり、その経験から「やりたいことで生きていく」と決意した話は、平和な時代を生きる私たちには想像もつかない。彼のキャリアも順風満帆とは言い難く、はじめはアーティストとして生きていくことを親に反対され、父親の会社である出版社でデザイナーとしてキャリアをスタート。膨大な仕事量をこなしながら、絵本をサイドビジネスとしてコツコツ続けていた。このあたりは、自分が会社員しながらZINEを制作していることにも重なった。結局、父親の会社を退職して自立したのは48歳らしく、相当遅咲きであるが、会社員として鍛えられた結果、自分のスタイルを見つけることができたらしい。  ミッフィのビハインド・ザ・ストーリーについて、本人の口から聞けた点では貴重なインタビューである。普段読んでいる絵本の裏側を知る機会はなかなかなく、特に日本で出版された本書に収録されているエピソードとして、『ボリスとあおいかさ』が東京のホテル滞在中に、傘をさして風に煽られている人々を見て思いついた話は印象的だ。他にも『うさこちゃんのにゅういん』『うさこちゃん ひこうきにのる』の誕生エピソードが具体的に語られており興味深かった。  また、茶色のうさぎであるメラニーの誕生秘話も興味深かった。読み聞かせのために小学校に訪れると、肌の色が異なるさまざまな子どもがいることがきっかけだったらしく、そのアクチュアルな感性に驚きつつ、私自身は子どもが色で区別してしまう難しさに直面している。子どもに色で区別するこの是非について逐次説明しているのだが、果たしてどこまで伝わっているのか。  デザインの観点でいえば、シンプル・イズ・ベストだと信じてやまないスタンス。いかに削ぎ落として本質だけ抽出できるかに尽力していたか、インタビューから伝わってきた。他にもデザイン論についてはたくさん話していて、たとえば、ミッフィーの絵本が正方形なのは、子どもが持ちやすいようにしているとのこと。実際にうちにある絵本で、子どもが手に持って自ら読んでいるのはミッフィーの本が多いので、まさしくデザインの勝利だ。  使う色についてもブルーナ氏が厳密に決めていたことがよくわかる。しかし、日本で展開されるミッフィー関連商品の中には、その色味を無視したものも多く見受けられる。「権利を購入したのだから自由でいい」という発想は、ブルーナ氏、ひいてはミッフィーそのものへのリスペクトに欠けるのではないかと思ってしまった。  ミッフィーたちは体が横を向いていても、顔は正面を向いている。これは、子どもたちのまっすぐな目に応えようとブルーナ氏が思ったからとのことで、とにかく絵本を読む子どものことを何よりも大切に考えていることがわかるエピソードだ。絵本の世界の奥深さを堪能できる一冊だった。 子どもにとって絵本は世界を広げてくれるもの。絵を見たり読んだりして心に響くものがあるから、自由にイマジネーションをふくらませることができるし、その先にある何かに気づいたり、自分もやってみたい気分になったりするのです。子どものための絵本は、そういうことが大事なんです。
  • 2025年9月17日
    砂漠の教室
    砂漠の教室
    先日読んだ『音盤の来歴』で、著者の別作品に関する言及があり、積んであった本著を読んだ。これまで何作か著者の本を読んできたが、その中でも骨太な一冊だった。紀行エッセイとしてオモシロいのはさることながら、イスラエル、ユダヤ人に対する価値観が克明に書かれていて興味深かった。  タイトルの「砂漠の教室」とは、ヘブライ語を学習するために訪れたイスラエルの語学学校のことであり、著者がイスラエルで過ごした期間に書かれたエッセイが中心となって構成されている。過去作同様に著者の観察眼は冴え渡り、教室にいる生徒や先生たちのユニークな雰囲気がふんだんに伝わってくる。時代は70年代であり、第二次世界大戦の余波がまだまだある中で、ユダヤ人たちの立場の脆さや、イスラエルという国をなんとか理解しようとストラグルしている。検索、さらにはAIに尋ねたりと、知らないことを学ぶ上で、現代ではたくさんのアプローチがある。しかし、当時、生きた情報を得ようと思えば、現場に直接訪ねることがもっとも確実だったのだろう。だからといって、夫婦二人でいきなりイスラエル行ってヘブライ語を学ぶなんて、相当トリッキーではある。  特に心をつかまれたのは「イスラエル・スケッチ」と呼ばれる章だ。銀行員との会話、兵士のヒッチハイク(花と銃の対比!)、ベドウィン、イスラエルの料理など、イスラエルで暮らす人たちの生活がまさにスケッチされるかのように微に入り細に入り描かれていた。特に今回は料理にフォーカスしていて、なかでも「悪夢のシュニツェル」では、イメージする中東料理が裏切られていき、イスラエルと欧州の関係性のねじれを料理をアナロジーにしてズバッと表現していて見事だった。  エッセイにとどまらない思索が載っている点も本著の特徴だろう。具体的には、最後にある「なぜヘブライ語だったのか」「おぼえがきのようなもの」という章だ。ここではイスラエル、ユダヤ人を著者がどのように捉えているか、言葉を尽くして書かれている。イスラエル、パレスチナの問題は日本から距離もあり、直接関係するわけでもないため、どうしても他人事に映ってしまうのが現状だろう。しかし、著者はユダヤ人と朝鮮人をディアスポラとしてオーバーラップさせ、イスラエル・パレスチナ問題がについて、私たちが他人事でいれるわけがないのだと喝破していた。  当時のイスラエルと2025年の今のイスラエルでは状況が異なり、ユダヤ人の不遇に思いを寄せることは今は難しい状況ではある。ただ、そんな中でも突き刺さる言葉はいくつもあった。 わたしは人間が人間に対してこれまでに行ってきた残虐行為の詳細な内容を知ることでは、もはやわたしたちの思想を力強いものにすることはできないと感じた。(中略)残虐、血、殺戮、死は茶の間でも日常茶飯事となり、わたしたちの感覚はしびれきって、持続しない、もろい「一般的な怒りの気持」としてあるだけで、結晶しない。正義の言葉のように思える言葉の一つ一つは、歴史に汚され、いやしめられ、萎えている。言語の貧困は思想の貧困を丸出しにしている、と思った。  今日もガザ侵攻のニュースが流れてきて、一体どうすればいいのか、もはやよくわからなくなってきているが、こうやって本を読んで理解を深めることは必要だと感じている。最近、イスラエル擁護の視点を日常生活の中で目撃して、そこで違和感を感じたのは、間違いなく自分で能動的に情報を取得しているからだ。自分の違和感を少しでも伝えていくしかないのかなと思う。
  • 2025年9月11日
    音盤の来歴
    『それで君の声はどこにあるんだ?』の著者による音楽を主題としたエッセイ集。前作はかなり好きな一冊だったが、本著も自分にとって特別な一冊になった。レコードを買うこと、聞くこと、さらには音楽を聞くこと全体を通じて、これだけの話を書ける著者の筆力に改めて感服した。そして、月並みながら「やっぱりレコードっていいなぁ」という思いを新たにした。  レコードさながらSide A、Side Bという形で構成されており、Side Aではレコードをめぐるエッセイ、Side Bではより広く音楽と人生に関するエッセイとなっている。著者はアメリカに移住してから本格的にレコード蒐集を趣味として始めたようで、買ったレコードに関するエピソードがSide Aでは展開されていた。レコードに関する読み物は色々あるが、一枚のレコードに付随して、これだけパーソナルな出来事が言語化されている文章に巡り合うことはなかなかない。さらに、レコードを買ったミュージシャンのライブレポも興味深く、栄枯盛衰な音楽の世界で、それぞれのアーティストがキャリアを重ねながら、自分なりの表現を貫いている様に「アメリカ」を感じたのであった。レコードとライブを通じて、アーティストの今昔を貫いていくような構成はまさに「音盤の来歴」というタイトルがふさわしい。  著者が若い頃からレコード好きというわけではなく、比較的最近好きになったからこそ、レコードに対するみずみずしい感情が表現されていて、レコード愛を取り戻させてくれる。レコードで音楽を聞く行為は、日常においてスペシャルな瞬間なのである。また、レコード蒐集家であれば、皆が抱いたことのある、中古レコードがもっている強烈な磁場のようなものが、著者の言葉で見事に言語化されていた。誰かがレコードという塩化ビニルの円盤に音を記録して、誰かがそれを聞く。そして、様々な人のもとを経て、自分の家のレコード棚にある奇跡を本著は感じさせてくれる。  ストリーミング時代においては、言及されている音楽をすぐに聞くことが可能であり、聞きながら読むと臨場感が増して、より一層楽しむことができる。本著で取り上げられる70年代のロック、ソウル、ジャズといった音楽の数々は、読まないと出会うことがなかっただろう作品ばか。特に最初のエピソードに登場するアラン・トゥーサンとの出会いは大きな収穫であった。  Side Bにかけては「音楽と人生」とでもいうべきエッセイとなっている。自分の人生において重要な存在だったものの、今わざわざ連絡して会おうとは思わない。誰しもそんな人がいると思うが、そこに音楽というファクターが加わるだけで、どうしてこんなにスペシャルでノスタルジックなものになるのだろうか。タイムレスな魅力を持つ音楽が、記憶と結びつくことで輝きがさらに増す、つまり、その音楽がその人固有のものになるからなのか、と考えさせられた。  著者のオリジナリティがもっとも発揮されているのは「レコードにまつわる抜き書きのアーカイヴ、あるいは百年目のボールドウィンへ」という章だろう。アフリカ系アメリカンの作家たちを縦横無尽に引用しながら、レコードを絡めつつ思考が広がっていく様は圧巻。特にボールドウィンの引用は前作にも増して行われており、いつか読みたいなと思っていた気持ちを強く後押しされた。ボールドウィンのレコード棚にあった音楽が、ストリーミングのプレイリストで聴けることの味気なさの話も興味深かった。何を聞いていたかも大事ではあるが、それよりもボールドウィンと音楽のあいだにあった「痕跡」こそを私たちは求めているのだという指摘は、データ至上主義の今、新鮮に映った。  終盤にはイスラエルとパレスチナの戦争に対して胸を痛めている話があった。ちょうどこの戦争の受け止め方でモヤモヤしていたタイミングだったので、著者のまっすぐな懸念に溜飲を下げた。この言葉を胸に刻んでおきたい。藤本和子の『砂漠の教室』をちょうど家に積んでいたので、次はそれを読む。 遠くの地の虐殺を止めろと叫ぶことと、子どもたちが走り回る部屋でレコードを聴くこと(もちろんそれはレコードじゃなくたって、音楽じゃなくたっていいのだけど)、これらは二者択一ではなくて、どちらも生きるという営為の大切な一部であり、しかもきっとどこかで繋がっている。
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