
CandidE
@araxia
2025年10月3日

饗宴
プラトン,
中澤務
読み終わった
素晴らしいなあ。以下、長い感想。悪しからず。
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本書を読み始めて、まず心を掴まれるのは場の雰囲気である。前夜の深酒がまだ抜けぬゆえに、今日は酩酊を避け、嗜む程度に留めよう。そうした合意のもとに始まる静かな会合は、粗野でありながら豪奢でもあり、ほどよい緊張と弛緩を湛えている。この寛ぎのある知的共同体の空気には、現代ではなかなか見られない、自然体で上品な魅力がある。端的に優雅である。
そして彼らが語る愛、そして「エロス」とは、単なる恋愛感情ではなく、より遍く我々が「生きたい」「もっと知りたい」と感じて湧き上がる、根源的なエネルギーそのものである。そのエロスの力は、純粋な高みや理想へ向かう上昇よりも、さらに複雑な運動として捉えられる。
本稿では、このギリシャ的な概念を指して、文脈に応じて「愛」と「エロス」という言葉を使い分けていきたい。
そのなかで、まず印象に残ったのは、アリストファネスの語る半身の神話だ。
「愛する人と一緒になって一つに溶け合い、二つではなく一つの存在になるということだ。なぜなら、これこそが俺たち人間の太古の姿であり、俺たち人間は一つの全体であったのだから。そして、この全体性への欲求と追求をあらわす言葉こそ〈エロス〉なのだ。すでに述べたとおり、俺たち人間は、かつては一つの存在だった。しかし現在は、罪を犯したために、神によって二つに引き裂かれている。」(第五章 アリストファネスの話)
だから今でも、人は失われた自分の片割れを必死に探し求めている、と語るこの愛の起源には、愛の根源的な哀しみや切なさ、誰かを求める切実な気持ちが喚起され、素朴に、強く心を揺さぶられる。
さらにプラトンは、この肉体的な欠落の情を、深い次元へと導いていく。
「さまざまな美しいものから出発し、かの美を目指して、たゆまぬ上昇をしていくということなのだ。その姿は、さながら梯子を使って登る者のようだ。すなわち、一つの美しい体から二つの美しい体へ、二つの美しい体からすべての美しい体へと進んでいき、次いで美しい体から美しいふるまいへ、そしてふるまいからさまざまな美しい知へ、そしてついには、さまざまな知からかの知へと到達するのだ。それはまさにかの美そのものの知であり、彼はついに美それ自体を知るに至るのである」(第八章 ソクラテスの語り)
このディオティマの「美の梯子」は、エロスの道の究極の奥義であり、プラトンのイデア論の表明でもある。ここで重要なことは、このエロスが、欲望の抑圧ではなく、知を生み出す推進力であるということ。そして上記の「もっと知りたい」「より善きものを生み出したい」という、たゆまぬ精神の上昇指向は、肉体の否定を意味しない。むしろエロスは、肉体と精神の両極を保持したまま、そのあいだの緊張を生きる力である。
そのようなディオティマのエロスの奥義を、まさに体現している人物(アイコン)としてソクラテスが描かれる。彼の内にあるエロスの情熱は決して暴走せず、知性によって完璧にコントロールされ、その理性は氷のように冷たいのではなく、マグマのような情熱を持続させるための知恵の結晶である。
そのソクラテスに、若く美しいアルキビアデスは熱烈に惹かれる。もちろん彼が求めたのは、ソクラテスの肉体というより、「熱を保ちながら燃え尽きない火」のような知性への憧れであろう。ここには、「手に入れたいけれど、手に入らないものにこそ惹かれる」という人間の矛盾した渇きの悦楽が垣間見える。
『饗宴』が面白いのは、このようにプラトンの理想的な愛の思想が語られたかと思うと、アルキビアデスが登場することで、物語が一気に嫉妬や憧れといった泥臭い感情の人間世界に引き戻される点にある。このように愛とは、理想へ向かう上昇と、現実の情念に戻る下降を、静止することなく往復する運動である。この昇華と混沌の永久運動の中途にこそ、エロスの真の価値があると私は考える。
エロスは、知性が人間的な弱さや懶惰を恐れず、また肉体的な欲望が知性を拒まない、そのようなバランス、微妙な熱の均衡に支えられている。ここでいう「懶惰」や、さらに言えば「腐敗」とは、単にだらしなく弛緩するとか、朽ちていくといったネガティブな意味だけではない。それは、肉体の甘美な腐敗の匂いを帯びた感覚で、古代ギリシアではそれこそがエロスの香りにふさわしい、人間が肉体をもち、いずれ死ぬ存在であることの厳かな認証である。
ゆえに理性は、この朽ちゆく肉体や精神の腐敗から目をそらすのではなく、それと共に生きることを選ぶ。なぜなら、ディオティマが語るエロスが目指す「美しいものの中で、生み、子をなすこと」(第八章 ソクラテスの語り)とは、まさに、滅びゆく肉体を通して、子孫や知恵といった不死なるものを後世に残していく運動に他ならないからである。
「エロスが子を生むことを求めるのはなぜか。それは、死をまぬがれぬ人間にとって、生むという営みは、永遠と不死にあずかる手段だからだ。そして、エロスはよいものだけでなく、不死をも欲しているはずだ。この点は、これまでの同意から明らかだ。なぜなら、エロスは、よいものを永遠に自分のものにすることを求めていたのだからな。この理由により、エロスは不死をも求めていると考えなければならぬわけだ」(第八章 ソクラテスの語り)
かくして『饗宴』は、愛について深く語りながら、同時に「思考や哲学にとってちょうどいい塩梅」について考察している書でもある。理念へと向かおうとする上昇の動きと、生々しい肉体の混沌へと引き戻される動き。その終わりなきエロスの往復運動の中で、人間の知性は、冷たすぎず熱すぎず、「穏やかな熱」を保つことで発酵し、ゆるやかに成熟していく。
その穏やかな熱、すなわち朽ちゆく肉体と永遠を希求する精神との緊張が美しく釣り合う一点。その均衡点に宿る核の熱こそが、プラトンが我々に提示する「エロス」の姿のように思われる。

