russnaction "新潮 2025年 11月号" 2025年10月8日

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@russnaction
2025年10月8日
新潮 2025年 11月号
有賀未来『あなたが走ったことないような坂道』読了 香港で生まれ、中国籍を持ち、日本語しか喋れない若者を語り手に、先天的に不在なアイデンティティや青春を、絶妙な距離感で描いた作品。 多用される読点と、周囲に対する感受性や温度感の書き方が、まさに宙ぶらりんという語り手の立ち位置をうまく表現していた。当事者ではない書き手がきっと書きたかったであろう自己の揺らぎというテーマを、香港や紛い物の家族という物語に託した感性。 幻想文学でないという意味のリアリズムの中に、例えば地球の自転が3秒だけ止まるとかいうような幻想も大胆に書かれていて、後述する小説世界の説得力をむしろ高めていた。 育ての親へのインタビュー(録音音声)、謎の語り手が昔話のような語り口で本当の母親の半生を振り返る短い章(時に一文のときもある)が所々インサートされ、その断片的だが事実として迫るもののある場面の移り変わりと、階段に伸びる影や学校の廊下で受ける眩しい光などの、印象だけ残して簡単に消え去る光景の書き方が、まさに青春の空虚さの残像として、瞼の裏に張り付いて消えない。そういう文章や場面がたくさんあった。 そんな世界観を支えるのは、距離感の取り方の上手さ。語り手も世界に対して絶妙な距離を取りつつ、読み手も語り手に対してずっと距離を置かれている感覚がある。だからこそ、文章そのものが、手は届かないがすぐそこでピカッと光って、印象だけ残し、実体はなくなるものとして、小説世界を立ち上げる。そう考えれば、タイトルがいくつか出てきた象徴的なモノや観念としてのコトバや単語ではなく、「あなたが走ったことないような坂道」という、語り手とあなたと坂道とのそれぞれの遠くも近くもない距離を婉曲的に示すものとしてあるのも、納得できる。 物語の長さもしつこくなくて良かったが、(作者でなく語り手の)若い感性が、出来上がったプロットに沿って、都合良く自らが影響を受けるものを取捨選択している感も否めず、その(もちろん語り手の)若さゆえの青さをどう読むかで、評価が分かれるところだと思った。そういう文脈では、香港の歴史的背景やデモの扱われ方にも疑いが生じるが、それを言い出したらキリがない上に、本作ではそれに向き合っているし、何よりそもそも疑いを生じさせない演出としての力があるから、気にならなかった。
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