russnaction
@russnaction
訓練。
感想はできるだけ自分の中で温めるようにする。
- 2026年4月18日
沓乃よう『ドロップ』 生物教師の語り手の内面を辿る。としか言えない。悪い意味ではなく本当に。 動詞がおもしろい。言葉が空気を滑って飛び散ったり、身体が塩素で長持ちしたりする。生物教師である語り手特有の言語感覚(≒身体感覚)が地の文にも発揮されている。だから何だというわけではないが、それが文章の体幹になっているというか、安定感をもたらしている。 とにかく細部が光っている。想像の少女との対話の終わらせ方が、「少女の髪を梳いていた手が何かに引っかかり、その拍子に小さな顔が天井を向く。」という文章なのが本当に良い。夢と現実の狭間での出来事なのに、主語が語り手の「手」と明記しているのが良い。静(の中の会話)→動(顔が天井を向く)→無(空行)という流れも気持ち良過ぎる。小説で言及された語り手の身体感覚にも重なる。みたいな表現が多々ある。 が、こうした細部の積み重ねと、いくつかの想像(戦争と生徒、そしてその中にある入れ子構造的想像)という構造からは、何も浮かび上がって来ない。語り手が捉える(いや、捉えてすらおらず、なんとなく想像させられる)想像力についての小説。語り手の想像力は周囲へも遠くへも及ぶし、目に触れる悲劇を自分事として考える共感力はあるが、じゃあ、教えるべき生徒らが「女子会」で議論を白熱させたとき、どうして語り手はドロップを舐めるのか。 要は、もう「想像すること」についての想像力の時代なんだろう。「想像すること」への理解と共感はあるが、その重みに耐えられなくなったとき、語り手は飴を舐めるんじゃないか。いつの時代にもあるはずの想像されるべきもの(語られるべきもの、撮られるべきもの、描かれるべきもの)を、いま、正確に捉えようとしたとき、試みることそのものの価値と、掬いきれないものへの罪悪感、それでも書く、ということ。実際に、僕は書かれたものを読んだ。それ以上でも以下でもなく。 どうやら選考でも賛否あったようで、僕はどちらかというと否。想像力(物語)は想像することそれ自体のためじゃなくて、想像されるべき何かのためにあるはずだと思うから。でもこの小説の感覚はまさに時代の声だとも思う。近くにあるのに遠くにあるのに近くにあるのに.....の連鎖とそれに伴う葛藤、みたいな。 長くなった。飴舐めたい。嘘、煙草吸いたい。 - 2026年4月9日
村司侑『ソリティアおじさんがいた頃』読了 数年前に味噌製作会社を定年退職した、「ソリティアおじさん」こと黒野田さん、彼の訃報に接した語り手の心情を、丁寧に描く。 語り手にとって「ソリティアおじさん」は数年前に退職したおじさん以上でも以下でもなく、それ以上踏み込まない姿勢が徹底される。それでも流れで参加してしまったお通夜で出会う娘さんや、今は無職の恋人との距離感も、近づいているようでどこか遠く、その温度感が、語りそのものに侵食する心情吐露(セルフツッコミ)の多さ、視線(つまり、書かれるもの)の繊細さ(例えば、レジカウンターの中でお辞儀をすると客から頭は見えなくなるだろうことに言及するとか)も相まって、文章への引力を高めている。とにかく読み易い。 語りで言えば、語り手の発言には鉤括弧がなく、地の文で語られる。だから、発話されたのか心の声なのかわからず、そのうえ関西弁(京言葉?)特有のセルフツッコミが多い(知らんけど、など)ので、会話が成立しているか怪しい場面が多々ある。それだけで不必要に説明することなく、対話の不可能性や現代社会での"大人"みたいなものへの批評になっていることに加え、何より、「死者を思う」という通底する主題を考えると、小説そのものが、どこか追悼文めいて迫ってくる。 不在を語る在の、在るべき姿。不可能性と必要性に挟まれてそれでも馳せてしまう思いの機微を丹念に捉える様に真摯さを感じる反面、その思いを馳せる対象が「ソリティアおじさん」というテキトーさ(当然、小説的な丁寧さ)に思わずニヤリとした。文体を通した実験と捉えることもできて、面白く読んだ。 - 2025年10月14日
坂本湾『BOXBOXBOXBOX』読了 いわゆる三人称神視点で、霧の立ち込める宅配所での、四人の人物の労働、そこから生じる焦燥や閉塞感を描く。 映画でショットが切り替わるように、語り手が次々と入れ替わっていく。最近は中々目にすることない三人称神視点の語り口で語られるのは、それぞれに背景を持つ四人の単純労働と、その当然の帰結として生じる錯乱(その当然の帰結を当然の帰結のように書かないのが文学と思うのだが、ちょっと当然の帰結として書き過ぎている気がした)、その錯乱(登場人物それぞれの次元の錯乱と、語りそのものの錯乱)をそれこそ霧のように曖昧に拡散させて、強調されてきた箱というモチーフの閉塞性を逆説的に拡大し、最後には我々もその閉塞の中にある、という展開。 共感や感情移入を呼び起こす出来事というより、それらを許さない固い文体や言葉遣いと、過剰なまでに練られたプロットが小説世界を成り立たせている。これを言ったら元も子もないが、登場人物がその雰囲気や設定に従事させられている印象。しかし、人物が労働に従事するという展開も照らし合わせた場合、それさえも狙いなのかもしれない。 特に、社員の神代の錯乱を、「労働」や「荷物」や「胃腸薬」といった言葉の不自然な使い方を通して表現する場面は圧巻。身体、荷物、職場、社会...その全てが箱という記号のイメージに収斂されていく様を鮮烈に描いている。 語りそのものを疑い、今書くべきことを箱というモチーフに預けるという批評性、何よりこの完成度を仕上げる技術と胆力は圧巻。 - 2025年10月10日
内田ミチル『赤いベスト』読了 認知症で迷子になった(失踪した)母の不在と喪失に思いを馳せながら、地域コミュニティでの人間関係を描く。 新しさというより、完成度での選出だと感じた。前年の新潮も同じような選ばれ方だったと感じていたので。 町内のウォーキングコミュニティを通して数多い人間とその関係性を簡潔に示した後、虫の知らせでも幽霊でもない不穏な何かとしてご近所に広まる赤いベストの女の噂。具材を詰め込まれた弁当箱のような圧迫や閉塞がある高齢者の地域社会で話題になるソレが、抵抗感を伴いつつも受け入れられるのは、語り手である私の母の不在との絶妙なバランスを保ちながら、不必要にも思える人間関係の周縁や、私の日常に対する感覚というものが、あまりにも丁寧に書かれるからだろう。母の不在に対して、日常生活の中で特に意味もなく「ただそこに在るもの」を見落とさず徹底的に書くという、在と不在の差異のようなものが、そのどちらでもない「赤いベスト」の怪奇を際立たせる。 自らも高齢者に属する「私」の、包括支援センターの担当の女に対して平気で嘘を吐く様や、作中に通底する怪奇のような感覚は、今村夏子を想起させるが、日常の描写に根差すリアリティやベタベタの広島弁が、幻想世界への安易な接触をさせない。その代わり、私は頭の中で突拍子もない想像を繰り広げる。強いて言うなら、死んだ弟の家で見つかった母の本物の赤いベストを着て、母が失踪した方向と思われる山へ出かける場面が現実と想像の境目を思わせるが、ご近所さんたちの証言で現実と裏付けられる。何より、山というなんとなく死を連想させる場所への、あらゆる文脈を背負った赤いベストを着用しての旅という、観念的な物語的の格好の餌食となりそうな場面を、怪我をして帰ってくるだけで終わらせるのは、あくまでも日常や人間関係の現実を書こうとする意思を強く感じた。 最後の場面では、語り手がろくな印象を与えていなかった包括支援センターの女(辞職済み)と、半ば勝手に忍び込んで働いている憧れの職場で出会い、希望のような印象を残して、物語は終わる。高齢者の地域社会で不在の母を思い続ける語り手にとって、嘘で塗り固めた自分しか知らず、実際の社会的人間関係とは無縁の彼女だからこそ、あれほど清々しい印象を受けるのだろう。そもそも語り手は地の文で、他の登場人物と同様に誰かの会話を通して明かされていた彼女の名前を用いず、「女」としか表現していないのだ。 - 2025年10月8日
有賀未来『あなたが走ったことないような坂道』読了 香港で生まれ、中国籍を持ち、日本語しか喋れない若者を語り手に、先天的に不在なアイデンティティや青春を、絶妙な距離感で描いた作品。 多用される読点と、周囲に対する感受性や温度感の書き方が、まさに宙ぶらりんという語り手の立ち位置をうまく表現していた。当事者ではない書き手がきっと書きたかったであろう自己の揺らぎというテーマを、香港や紛い物の家族という物語に託した感性。 幻想文学でないという意味のリアリズムの中に、例えば地球の自転が3秒だけ止まるとかいうような幻想も大胆に書かれていて、後述する小説世界の説得力をむしろ高めていた。 育ての親へのインタビュー(録音音声)、謎の語り手が昔話のような語り口で本当の母親の半生を振り返る短い章(時に一文のときもある)が所々インサートされ、その断片的だが事実として迫るもののある場面の移り変わりと、階段に伸びる影や学校の廊下で受ける眩しい光などの、印象だけ残して簡単に消え去る光景の書き方が、まさに青春の空虚さの残像として、瞼の裏に張り付いて消えない。そういう文章や場面がたくさんあった。 そんな世界観を支えるのは、距離感の取り方の上手さ。語り手も世界に対して絶妙な距離を取りつつ、読み手も語り手に対してずっと距離を置かれている感覚がある。だからこそ、文章そのものが、手は届かないがすぐそこでピカッと光って、印象だけ残し、実体はなくなるものとして、小説世界を立ち上げる。そう考えれば、タイトルがいくつか出てきた象徴的なモノや観念としてのコトバや単語ではなく、「あなたが走ったことないような坂道」という、語り手とあなたと坂道とのそれぞれの遠くも近くもない距離を婉曲的に示すものとしてあるのも、納得できる。 物語の長さもしつこくなくて良かったが、(作者でなく語り手の)若い感性が、出来上がったプロットに沿って、都合良く自らが影響を受けるものを取捨選択している感も否めず、その(もちろん語り手の)若さゆえの青さをどう読むかで、評価が分かれるところだと思った。そういう文脈では、香港の歴史的背景やデモの扱われ方にも疑いが生じるが、それを言い出したらキリがない上に、本作ではそれに向き合っているし、何よりそもそも疑いを生じさせない演出としての力があるから、気にならなかった。
読み込み中...