
素潜り旬
@smog_lee_shun
2025年10月17日

フィールド映像術
分藤大翼
読み終わった
《しかしこのラリベロッチの路上のパフォーマンスの映像記録を行うなかで、私は壁にぶち当たる。 撮影をはじめた当初は、路上に繰り広げられる人びとのやりとりをただ淡々と客観的に”記録し、映像として抽出できる、とナイーブに考えていた。しかしながら、私の意図とは裏腹に、撮影中の私 に対して、被写体の人びとが盛んに話しかけたり、ジョークを言うようになった。それどころか、こ ちらがあらかじめ撮影対象の歌い手たちに、私やカメラの存在を無視して振る舞うことをお願いした にもかかわらず、撮影中の私の存在をおもしろおかしく歌詞に取り入れる始末である。このラリベロッ チの撮影の経験を経てはじめて、フィールドワークのなかで撮影者である私の存在や主観を排除した 映像記録が不可能であることに気づかされた。》川瀬慈「音楽・芸能を対象とした民族誌映画制作と公開をめぐって エチオピアの音楽職能集団の事例より」
《川瀬:私は撮影者である自らの存在を前景化する映画的な話法を探求してきました。映像をはじめ るまえはずっと音楽をやっていました。そのためなのでしょうか、民族誌や映画よりも、音 楽から映画的なインスピレーションを受けます。とくに、複数の奏者によって奏でられる improvisation(完全な free improvisation ではなく、ある程度の予定調和をもった、たとえば jazz などの)を参考にします。自らが奏者である、と同時に他の奏者の音を注意深く引き出す 行為は、映像が対象とする文化の脈絡のなかで、自らの立ち居振る舞いを展開させていく、私 の撮影手法と呼応します。》「映像が切り拓くフィールドワークの未来」