
素潜り旬
@smog_lee_shun
詩人。『パスタで巻いた靴』(港の人)
- 2025年10月7日<私>の映画史稲川方人,荒井晴彦読み終わった
- 2025年10月7日高貝弘也(Hiroya)詩集高貝弘也読み終わった
- 2025年10月7日私写真論飯沢耕太郎読み終わった
- 2025年10月7日A TASTE OF TANIKAWA 谷川俊太郎の詩を味わうウィリアム・I・エリオット,川村和夫,西原克政読み終わった
- 2025年10月7日
- 2025年10月7日
- 2025年10月7日写真の力 増補新版飯沢耕太郎読み終わった
- 2025年10月6日
- 2025年10月1日
- 2025年10月1日トロムソコラージュ谷川俊太郎今度のトークのメモ 江國香織の解説にあった、 「詩は放たれる。 物語は拾いあつめられる。」 に谷川俊太郎の詩と写真の関係がうまくあらわれていると思う。谷川俊太郎は詩を放ち、写真で物語を集めている。
- 2025年9月30日谷川俊太郎 全《詩集》を読む山田兼士読み終わった
- 2025年9月30日
- 2025年9月30日
- 2025年9月30日
- 2025年9月30日
- 2025年9月30日
- 2025年9月29日「文明」と「野蛮」のアーカイヴ飯田高誉読み終わった《『カラビニエ』中盤にも、目隠しを拒むパルチザンの女性が、マヤコフスキーの「豪華な茶番」をひたすら朗唱しながら処刑されるという印象的なシーンがあるのだが、ゴダールは後年このシーンをそのまま切り取って、イスラエル国防軍への良心的徵兵拒否者を支援する『ルフュズニックたちへの祈り 』 (2004) という7分の短篇に仕立てている。》 堀潤之「ゴダール、戦争のイコノグラフィー」(飯田高誉『「文明」と「野蛮」のアーカイヴ ゴダール『イメージの本』からリヒター《アトラス》へ』収録)
- 2025年9月29日ソングの哲学ボブ・ディラン,佐藤良明読み終わった《ファッグスのレコードを買うことは、サン・ラのレコードを買うのに似ている。一体何が入っているか予測がつかない。そのレコードが、彼らなりに、滑らかな音楽をやっていることもある――滑らかといっても、演奏を始めるのと終えるのを同時にやるようなバンドをスタジオ録音した限りでだが。別のレコードを手にすると、こちらはまるで、ホウキの柄の先にトマト缶のもしもし電話をつけて録音したみたいに聞こえる。》 ボブ・ディラン『ソングの哲学』 『タランチュラ』含め、ボブ・ディランみたく書きたいと思うことは多々あり、いまそれを実践する段階にきている。今度発表される文章がそれだ。 あの「ヴォラーレ」が「サイケデリックな幻覚ソングの第一号だったかもしれない。ジェファーソン・エアブレインの〈ホワイト・ラビット〉より十年は早い」とか面白い記述がたくさんあるのが『ソングの哲学』。ホワイト・ラビットはハンター・S・トンプソン原作『ラスベガスをやっつけろ』で爆笑シーンがあり、ベニチオ・デル・トロ演じるドクター・ゴンゾーが浴槽でビッチャビチャのバッドトリップをする。
- 2025年9月1日悪意Q47尾久守侑読み終わった尾久守侑『悪意Q47』収録の詩「日向坂の敵討」の冒頭、 《ほんとうは敵など討ちたくなかったのですが、討つことがよいとする向きもあり、仕方なく朝ごはんのパンにジャムをぬったらすっと透明にすけてしまって、でも今朝のうらないはしろ色でした。お母さんが、ダンスのまえに食べちゃいなさいと云ったままのおにぎりが、ロッカーのなかに入れっぱなしにしていたなあと、申し訳ない日もありましたが、今日はまた別のいちにち、と自分にいいきかせていると、スーツに着替えた夫の、おい弁当は、と聴こえて、はあ、夫婦生活、 ときゅうに三十歳の主婦の映像がとびこんでは、またわたしに戻ってを何回か繰り返したあと、ようやっと登校したのでした。》 この、現実に奇妙な現象が立ち現れ「映像」が流れ込んでくるかんじってマジックリアリズムだよなとおもったりする。「ようやっと登校」できるまでに起こったけれど起こっていない、「わたし」にまつわる事象は、いるかもしれないがいないかもしれないひとたちと「敵討」をしなければならないけれどしなくてもいいかもしれないことがしなくなってもよくなっていっているかもしれないまま続いていって「しんしん」とした俺は「しんしん」とした気持ちになるって言っていいかなと確認したほうがいいような気になったけれど、それは確認しないままでいいんだよなと「しんしん」としたままでいてそのまま眠ってしまえば、いまいないひとがいるような気がする、そんな気になれそう。
- 2025年8月25日蕩児の家系復刻新版大岡信読み終わった第二詩集は自分の言葉、自分のことが語られる言葉で書いたといえる(と知った)。大岡信「戦後詩概観」にこう書かれている。 《言葉に本来的に「自分の言葉」などあるわけではない。自分の語る言葉によって、自分が語られていることを自覚したとき、人は「自分の言葉」を持ったと感じるのである。人は言葉をたしかに道具として用いるが、その道具として用いた言葉によって、自己の存在全体が逆に露わにされるのを感じたとき、つまり、そのような力をもった言葉を語り得るようになったとき、人ははじめて「自分の言葉」をもったことを知るのである。》(『蕩児の家系 日本現代詩の歩み』)
読み込み中...