
noko
@nokonoko
2025年10月22日
記憶する体
伊藤亜紗
読み終わった
借りてきた
心に残る一節
・結果として起こるのは、障害がある人が、障害がある人を演じされられてしまう、という状態です。…
確かに見える人は親切だし、介助を受けているのは楽です。けれどもひとつひとつの介助は、必ずしも玲奈さんのニーズにあっているわけではありません。むしろその人のやりたい介助に自分を合わせるような「受け身のうまさ」が求められることになる。そうこうしているうちに、玲奈さんは、自分が誰だか分からなくなる、アイデンティティの危機に直面します。
・器用さというと、「効率よく成し遂げる能力」だと思われがちです。けれどもそれが必ずしも、「一般的な正解に向かって効率よく進むこと」を意味するとは限らない。「ふつうの人になるだけ近づこうというのが義足のコンセプトだと思うんですが、アートに限ってはそれをやる必要はない」と大前さんは言います。
体がオートマで動かせないなら、目指すべき目的も盲目的(オートマチック)に信じるわけにはいかない。マニュアル化の増大が、工夫や批評性の余地を作り出します。大前さんはインタビューをこうしめくくりました。「ぼくらは考えざるをえない人なわけですから。めんどくさいんだけど鍛えられている感じですね」。
・しばしば目にするのは、健常者である技術者が、自分の持っている情報や能力を、障害を持っている人にも体験させようとする姿勢です。もちろんそれは技術者の善意にもとづく発想なのですが、健常者が持っている情報や能力が唯一絶対の正解であるとは限りません。
・「ぼくは普通に生きることを途中で諦めたというか。『普通に生きるのを諦めて命をとる』のと『普通に生きようとして命を諦める』のどっちなのかというときにぼくは命をとったんです」
・「これは自分ではない」と否認する関係から、自分の体に起こることを「他人事のように面白がる」関係へ。
・「敏感すぎるからうまくいかないこともあるんだ、反対のものっていうのを作ることによって、うまくいくんじゃないかなと考え始めた」

