DN/HP "太陽諸島" 2025年10月23日

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2025年10月23日
太陽諸島
太陽諸島
多和田葉子
「行き先も行き方も不明のまま」、揺れる船の上、甲板に集まり、ボルトで留められたテーブルで食事をしながら、それぞれの狭い船室で、途切れることなく交わされる会話、止まることのない思索。 そこで使われる言語は様々で、母語ではうまく表せないことがあり、耳慣れない使い難い言葉のなかにみつかる単語からもたしかに伝わってくるものがある。言語による壁が聳えたと思えば、そこにまた別の言語が切り込み壁を崩していく。 その時々で形成されるグループは決まったかたちも言語ももつことはなく、集合と離散、拡大と縮小を繰り返し、様々な言語がその場に、個人の中にも入り混じっていく。言語の間を、あるいは言語自体が船の下の波のようにかたちを変え揺れながら、「押し合い、ぶつかりあい、形を崩しては、また新しい形をつくり、いろいろな方向に目を向けながら、いつも揺れ」続けながら彼女、彼らの旅は、人生は、あるいは世界も、未だ終わることなく続いている。 ここでいう「言語」は「文化」と置き換えても良いかもしれないし、「国籍」や「民族」と言いうことも出来るかもしれない。 これは現実の世界の縮図、そこでの振る舞い方についての物語だ、というには母数が少ないし偏りがあるかもしれないけれど、世界には現実にここで描かれている何倍もの様々な言語(そこには一人だけが使う言葉もあるかもしれない)があり、その数だけ文化や考え方がある。 その世界のなかでは母語にこだわり続けそこに閉じこもることなく、—— そこに「ずっと閉じこもっていると、まわりの人たちがみんなお国自慢話に満足して、誰も疑いを持たないから、どんどんその雰囲気に染まっていく」のだから—— 言語(だけでなく様々なもの)の間を揺れながら行き先や行き方が不明ながらも色々な方向に目を向け試行錯誤しながら、この世界を生きていくべきなのだ。ここにはそんな理想が描かれている、そんな風に読んだ。 わたしが自由に使い考えることが出来るのは、ほとんど「母語」である日本語だけだけれど、今もわたしの隣にはそれぞれに様々な「母語」を持ちながらも日本語も使う人たちがいて。 彼女たち彼らとの会話には伝えきれないものも、伝わってこないものもあるけれど、同時にその関係性だからこそ伝えられる、伝わってくるものもある、ような気がしている。 不確かでだからこそ重要な「揺れ」があり、たしかなコミニケーションがあり、「新しい形」がつくられ「いろいろな方向に目を向け」ることができるようになる。そう思いたい。 もっと多くの言語や文化を持つ人たちと関係をもち、その間にあるはずの「揺れ」も体験するべきだ、そう思うけれど、それがなかなか難しいなら、翻訳文学と同じように、こんな小説を読むべきだ。——この小説は日本語で書かれているけれど、元は作者のもうひとつの創作言語であるドイツ語で考えられたかもしれないし、登場するそれぞれの言語のニュアンスを日本語で描き出そうとする行為は翻訳ともいえるかもしれない—— 「書物という門をくぐればどんな国にもビザなしで入国できる。もう存在しない国にも入国できる。古代ローマ帝国でもソビエト連邦でも」行くことが出来るのだから。やはりわたしたちはこんな小説も読むべきだ。 そんなことを読み終わった後に考えているけれど、この小説は読み心地もユニークで素晴らしくて楽しい。読んでいるうちに嬉しい気持ちにもなってくるから、そんな意味でもこの小説は読むべきだ。
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