DN/HP "手話の学校と難聴のディレクタ..." 2025年10月24日

DN/HP
DN/HP
@DN_HP
2025年10月24日
手話の学校と難聴のディレクター
「校内にいると、私たちNHKロケスタッフは手話がわからない“マイノリティ”だった。しかし、子どもたちは言葉が通じなくても、私たちに物怖じすることはなく、バンバン手話で話しかけてきた。『次は、教科書の暗記テストをやります!』と、授業の予定を教えてくれたり、『あの子、頭がいいのよ!」「あなたでしょ』『私じゃないよ!』『あの子は算数で一〇〇点とったけど、私は〇点よ』と、私たちに友達自慢を始める。そして先生に授業が始まったことを注意され、慌てて席につくのだった。」 「しかし校門から外に出ると、立場は変わる。手話の子どもたちは”マイノリティ”になり、日本語音声で話す私たちが“マジョリティ”になる。今の社会は、マイノリティを受け入れる懐の深さはあるだろうか?子どもたちのようなおおらかさはないような気がした。」 「生徒の一人があるときこんなことを言っていた。『本当は、世界は一つなんだけど、学校を一歩出ると世界が分かれて見える。ちょっと不思議な感じ』」 ここで書かれているある社会、コミニティにおいて「マイノリティ」と「マジョリティ」が逆転する様はジョン・ヴァーリイの短編「残像」でも描かれていた。何度か読むうちに「社会モデル」という言葉を知って、それを強く意識することになるのだけれど、「残像」の世界の盲ろう者のコミニティでも、ここで書かれている子どもたちと同じようにその社会との間に「障がい」のある「マイノリティ」をおおらかに受け入れていた。 より大きなコミニティ、「今の社会」ではたしかに「マイノリティを受け入れる懐の深さ」や「おおらかさ」は「ある」とはいえない。そこにある差はなんなのだろうか。そのコミニティ、社会の成り立ち、立ち位置を自覚しているからか、あるいは「今の社会」からの扱いを経験しているからだろうか、などと考えている。
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved