都麦 "アイヌがまなざす 痛みの声を..." 2025年10月30日

都麦
都麦
@tsumugiterao
2025年10月30日
アイヌがまなざす 痛みの声を聴くとき
「ふむふむアイヌ」にて、4月から半年間をかけて、みなさんと共に完走。読み終えたのは先々週だけれど、今日開催された「『アイヌがまなざす』総集編」を経てまたこの本が自分の体の一部となってくれた感覚があるので、今日を読み終えた日としよう。 まずこの本を読み終えて最も大きかった変化は、自身の揺らぎの芽生え。それは石原さんの厳しさ(これは毅然とした態度というべきかな)と、村上さんの慎重な言葉選びを浴びて、ある種これまでの自分の矜持の喪失とも言える、目線の破壊でもある、とにかく何らかの変化/揺らぎを引き出してもらった感覚。そのとき、ずっと当たり前のように誰か/何かをまなざしてきた自分の存在が浮かび上がる。これを遠くから眺めたときに、これこそが“まなざし”の変化か!と腑に落ちた。 しかしそれと同時に、やはりこの本に綴られた5名+1名の“遺書”を、いつでも忘れられる環境から、やっぱり“まなざして”いる自分の存在の色濃さも拭えない。これこそがまさに自分の特権性だし、まなざす側としての乱暴な態度であり、思想的消費を意味するのだろうなと反省する。 では思想的消費をしないために、どうしたら良いのだろうか?というのは、考えれば考えるほど非常に難しい。「回復に向けたコミットメント」と「知識的遊戯」は全く異なるもののように思えて、しかし和人の自分の立場ではその線引きが意外とシビアな気がする。 さらには、「思想的消費をしないぞ」という意志と、「100%責任を持てる人しか学んではならない”ということについては否定したい」という個人的な願望を、どのようにして両立して自分と他人に向き合っていくかという視点は、知ることを増やすたびに立ち返るべき課題として記憶したい。 そうして、ずっとこの本から教えてもらったこと/この本を経て疑問に思ったこと/この本から課せられた課題と共に生きていきたい。そう思うほどに、本当に読んでよかった。
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